牧師コラム 『嘲弄の限りを受けて』 3月12日

牧師 栗原延元

イエスの教えと行為を書き録す四福音書とも、詳しく記しているのがイエスの受けた苦難についてです。

その姿は実に誰しもが顔をそむけたくなるものです。

 今回、学びますマルコの福音書の個所では、ローマの兵士たちがイエスの頭にいばらの冠を編んでかぶらせ、葦の棒で頭をたたいたり、顔につばきをかけたり、「ユダヤ人の王さま、ばんざい」と叫んで、ひざまずいて拝んだり、あざけりの限りを尽くしてから、十字架につけるために、ゴルゴダ(されこうべ)の丘に連れ出します。

 救い主(キリスト)が来られたとき、人々は、彼にどのような事をするかは、キリスト降誕七百年も前に、預言者イザヤによって詳述されていました。

 〈彼(キリスト)は、さげすまれ、人々からのけものにされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった〉(イザヤ53:3)

 キリストが何故に苦しまなければならないか、その理由を知っていた者は、イエスと同時代の者は誰もいなかったのです。

 イエスが苦しまれたのは、人を罪と死から救う神の知恵なのです。

 この救いの知恵は、イエスを信じる者に開示されるのです。

牧師コラム 『神の訓練』 2017年3月5日

 高橋勝義

 「獅子の子落とし」。わが子に厳しい訓練を与え、その器量を試すことで一人前に育てることが出来るというたとえです。実際には、母ライオンは非常に子煩悩、父ライオンは見た目によらず、意気地がないためこのような事はないようです。
 神の子であるイエス・キリストは、神から訓練を受けました。
 イエス・キリストが受けたこの訓練は、私たちが直面する個々の問題に対して、何を選択すればよいのか、その基準を私たちに教えてくれます。
 聖書は、『人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる(申命記8:3)』と語ります。「病は気から」とあるように、人は、心が健全でなければ、体を健康に保つことが出来ません。
 神の御言葉に信頼して歩む時、心は健全になるのです。
 また、『あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。(申命記6:13)』と語ります。人は、「権力と富」を追い求めますが、逆に、「権力と富」の虜になっているのではないでしょうか?
 本当にお仕えできるお方は、私たちを造られた神だけです。
 更に、『あなたがたの神、主を試みてはならない(申命記6:16)』と語ります。
 私たちは、解決できないことが起こると、神々と取引するような願掛けをします。
 聖書の神は、創造主の神であり、主権は、すべてこの神にあります。
 この神の御手にすべて任せて歩む時、希望を持って歩めるのです。

牧師コラム 『いのちの系図』 2017年2月26日

 高橋勝義

 「どこの馬の骨とも分からない」者は、信用できない。 「馬の骨」とは、素性の分からない人のことです。つまり、素性の分からない者をあざけって言う言葉ですが、言われた方は、不愉快な気分になり、悲しくなってしまいます。
 ここは、その人自身の人柄を見て、判断して欲しいところです。
 ところで、聖書は、イエス・キリストの系図を記しています。
 この系図は、私たちを『いのち』に導きます。そのいのちとは、『永遠のいのち』のことです。
 イエス・キリストの父ヨセフから系図をさかのぼっていった初めの人アダムとエバは、神と共に歩む幸いな道を捨てて、自分の力で生きる道を選びました。この時から、人は、人との信頼関係を築けなくなり、更に、女は、生みの苦しみを負い、男は、額に汗して糧を得なければならなくなりました。そこで、神は、昔から、永遠の昔から救いの道を備えられたのです。
 その救いの道とは、私たちの罪の身代わりとなられるイエス・キリストをこの世に遣わすことでした。なぜ、神は、ここまでされるのか?それは、私たちを愛しているからです。
 この事を受け取り、信じる時、私たちは、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)』とある約束を頂けるのです。
 ですから、イエス・キリストの系図は、私たちを『いのち』に導くのです。

牧師コラム 『わたしの愛する子』 2017年2月19日

高橋 勝義 牧師


2月14日は、「バレンタインデー」でした。
「女性から男性に、愛を込めてチョコレートを贈る」という
「日本型バレンタインデー」は、40年位前から広まったようです。
今は、愛の告白チョコ、義理チョコ、仲の良い友達に贈る友チョコ、
自分へのご褒美チョコなどがあるようです。

ところで、神も私たちに素晴らしいプレゼントを用意してくださいました。
神は、イエス・キリストが、バプテスマを受けた時、
『あなたは(イエス・キリスト)、わたし(神)の愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』
(ルカ3:22)
と語られましたが、私たちがまだ罪人であった時、その愛するひとり子
イエス・キリストをこの世に送られたのです。

それは、私たち人間のすべての罪の肩代わりをさせるためでした。
そして、罪のないキリストは、十字架で死なれ、三日目によみがえられました。
すべては、私たちを罪から救うため、私たちを心から愛しているからでした。
これが、神からの素晴らしい「愛のプレゼント」なのです。
ですから、十字架には、私たちに対する〔神の愛〕がいっぱい詰まっています。
あなたも神の愛を受け取り、この素晴らしい救いの恵みをいただいて、
神の愛の中に日々生きる道を選びませんか?

牧師コラム 『悔い改めの実』 2017年2月12日

高橋 勝義 牧師


収穫を迎えた時、苦労して育て来た農家や漁業の人たちには、
言葉に表せない喜びがこみ上げてくるのではないでしょうか…。
農業や漁業に限らず、人は、何かを成し遂げるために、日々努力を重ねます。
そして、その実を見る時、喜びと共に充実感・満足感・達成感に満たされ、
生きていて本当に良かったと思うことでしょう。

バプテスマのヨハネという人は、創造主を神と信じているイスラエル人に向かって、
『悔い改めにふさわしい実を結びなさい』(ルカ3:8)と命じました。
なぜ、このように命じたのか。
それは、人々が、「自分たちの祖先であるアブラハムの立派な信仰」にあぐらを
かいていたからです。
アブラハムの信仰で、自分も救われると考え、
神の教えを無視して歩んでいたのです。
そこで、バプテスマのヨハネは、人々に罪の悔い改めを迫ったのです。
罪の悔い改めとは、自分が神から離れた歩みをしていることを認めて、
神の教えに聞き従う決心をすることです。神の教えとは、聖書の言葉です。

この悔い改めの歩みをする者は、「御子のかたち」(ローマ8:29)、
すなわち、イエス・キリストに似る者に変えられていくのです。
イエス・キリストが、人々を愛されたように、キリストの愛を届ける人に
変えられるのです。これが、悔い改めの実です。

牧師コラム 『イエス・キリストとの出会い』 2017年2月5日

高橋 明美姉

 

私の兄には脊髄損傷障害があり、母はおしめの洗濯が日課でした。
兄さえいなければ…と考える私。それをごまかすために良い子を装う偽善者の私。
両親がいなくなった後、誰を頼ればよいのだろうか、誰が私を守ってくれるだろうか
と将来への不安を抱えていた26歳の冬、教会の英会話教室に通い始めました。

そんなある日、家に帰ろうとする私に宣教師の先生が笑顔で「道ありき」という
一冊の本を貸して下さったのです。それは、作家三浦綾子の信仰のあかし書でした。

それまでの私は、キリスト教の神イエス・キリストも八百万の神の一つと
思っていましたが、そこには「真の神は唯一でイエス・キリストである」と記されてありました。

ほどなく、イエス・キリストの十字架の話を聞き、兄の存在を消した罪が
赦されるのなら信じてみようと祈りました。
更に帰宅後、満天の星空を仰ぎ思いました。

「神様は『いる』か『いない』かのどちらか一つだ、よし!」

清水の舞台から飛び降りる覚悟で
「神様、もし本当におられるのでしたら私の心を変えて下さい。
私はあなたが『いる』と信じます。」と祈りました。

あの夜からイエス様が私の頼れるお方、守って下さるお方になって下さったのです。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
─主の御告げ─それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』(エレミヤ29:11)

 

牧師コラム 『イエス・キリストとの出会い』 2017年1月29日

髙橋 勝義 牧師

私は、福島県喜多方市の生まれです。山と川を駆け回る子どもでした。
父の転勤により、小学六年生の時、埼玉県の大宮市(現在のさいたま市)に引っ越しました。
高校三年生の時、友人から教会に来ないかと誘われ、地図を渡され、その地図を頼りに
一時間ほど教会を捜したのですが見つかりませんでした。
やっと、見つけ、中に入ってみると、高校生の集会は、ほとんど終わっていました。
それでも、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」のことわざがありますが、
人生の目的を求めていた私は、毎週土曜日の高校生の集会に通い聖書を学びました。
私は、小さい頃から、親に頼ることが出来なかったので、何事も自分で決めなければならず、
両親を尊敬できませんでした。

聖書の『あなたの父と母を敬え』(出エジプト20:13)

のことば(まさか、これが【罪】だとは思いもよらなかったのですが…)に心刺され、
自分が罪人であることが分かりました。

当時私は、体育委員長をしており、体育祭の準備をしていたのですが、
委員会が相次いで流会になるという現状を見て、無関心な委員たちに怒りを覚え、
人間不信に陥りました。体育祭を中止しようと決めたその夜、神様は、
夢の中で『日本には多くの罪人がいる』と語られ、〔人々が炎の輪の中で苦しんでいるさま〕を
見せられたのです。

その時、私も炎の輪の中にいる罪人であること、キリストの十字架以外に
救いはないことがはっきり分かりました。
夢から覚めた後、この私の罪のために神のひとり子イエス・キリストが十字架で死んで
下さった事を受け取り、「信じます」と祈りました。
そして、主の導きにより、今、この石巻の地に救い主イエス・キリストをお知らせする為に
来させて頂きました。

牧師コラム 『神と人とに愛された』 2017年1月22日

高橋 勝義 伝道師

愛される人間になるための条件として

1.与える人になる。
2.自分の事を好きになる。
3.コミニュケーションが取れる。
4.人を大切にする。
5..悪口・陰口は言わない。
6..感謝の気持ちを大切にする。

などが挙げられていました。
では、この条件をすべて満たせば、本当に愛される人になれるのでしょうか?
イエス・キリストは、

『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』(ヨハネ13:34)

と語りました。
この命令の核心は、『わたしがあなたがたを愛したように』にあります。
私たちを愛された愛とは、どんな愛なのでしょうか?

神のひとり子イエス・キリストは今から約2000年前、人となってこの世に来られました。
それは、私たちに真の希望を与えるため、私たちが新しいいのちに生きるためでした。
キリストは、私たちのすべての罪を身代わりに負い、十字架で死ぬために来られたのです。
その動機は、『私たちを愛しているから』です。

人は、自分が愛されてこそ、人を愛することが出来るのです。
十字架は、ありのままのあなたを受け入れて下さる神の愛に満ち溢れています。

この愛を信じ、受け取る時、あなたは、人を愛することができる者に変えられ、
愛される人になるのです。

 

牧師コラム 『万民の救い主』 2017年1月15日

高橋 勝義 伝道師

私たちは、物事がうまく運ばない時、周りの人や環境に責任転嫁して、
恨みや妬み、果ては憎しみまで抱いてしまいます。
実は、この自己中心が、私たちを不幸にしているのです。
聖書は、この自己中心こそ「」であると語っています。
今から約2000年前、シメオンという人が、イエス・キリストについて

『御救いはあなた(神様)が万民の前に備えられたもので、
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光です。』
と語りました。(ルカ2:31-32)

私たちを創られた神様が、私たちに「救い」を備えられたというのです。
その「救い」とは、神の子イエス・キリストに私たちのすべての罪を負わせ、
十字架で処罰することでした。
この「救い」を信じる時、私たちはすべての罪から解放されるのです。
そして、十字架を通して、イエス・キリストの愛に触れ、本物の希望を見出すのです。
聖書は、
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。
』(Ⅰコリント1:18)

と語っています。
たとえ、多くの人々が、十字架に背を向けようとも、イエス・キリストは、
万民の救い主、この愛と恵みは、永遠に変わりません。

 

 

牧師コラム 『鶏の鳴く声を聞いて』 2017年1月8日

栗原 延元 牧師

 

インドネシアのバツーという町に「グレジャ・ヂャゴ-鶏の教会-」があります。
キリスト教会堂の尖塔に鶏の形をした避雷針があるからです。
これは、又「イエス・キリストの到来に対して常に注意深く目覚めている象徴であり、
悔い改めた罪人を象徴するものだともいわれています」(奥村修武)

今日、学びます、マルコの福音書には、イエスの弟子ペテロが本来ならば
隠して置きたい、失敗談が書かれています。
つい数時間前には、イエス様のためなら、たとえ火の中、水の中であろうと
従って行きます。
このいのちさえ捨てる覚悟が出来ていますと、大見栄を切ったペテロですが、
イエスの裁判が開かれている大祭司の中庭で、役人たちといっしょにすわって
火にあたっている間、大祭司の女中のひとりに「あなたは、イエスの仲間ね」と言われ、
「おれは、そんな者(イエス)を知らない」と三度も、イエスを否認したのです。

イエスの弟子として失格してしまった事に気づかせたのが鶏の鳴き声でした。
主イエスは振り向いてペテロを見つめられました。
そのイエスの愛の目差しに接し、ペテロは激しく泣いて罪を悔い改めたのです。