牧師コラム 『イエス・キリストとの出会い』 2017年1月29日

髙橋 勝義 牧師

私は、福島県喜多方市の生まれです。山と川を駆け回る子どもでした。
父の転勤により、小学六年生の時、埼玉県の大宮市(現在のさいたま市)に引っ越しました。
高校三年生の時、友人から教会に来ないかと誘われ、地図を渡され、その地図を頼りに
一時間ほど教会を捜したのですが見つかりませんでした。
やっと、見つけ、中に入ってみると、高校生の集会は、ほとんど終わっていました。
それでも、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」のことわざがありますが、
人生の目的を求めていた私は、毎週土曜日の高校生の集会に通い聖書を学びました。
私は、小さい頃から、親に頼ることが出来なかったので、何事も自分で決めなければならず、
両親を尊敬できませんでした。

聖書の『あなたの父と母を敬え』(出エジプト20:13)

のことば(まさか、これが【罪】だとは思いもよらなかったのですが…)に心刺され、
自分が罪人であることが分かりました。

当時私は、体育委員長をしており、体育祭の準備をしていたのですが、
委員会が相次いで流会になるという現状を見て、無関心な委員たちに怒りを覚え、
人間不信に陥りました。体育祭を中止しようと決めたその夜、神様は、
夢の中で『日本には多くの罪人がいる』と語られ、〔人々が炎の輪の中で苦しんでいるさま〕を
見せられたのです。

その時、私も炎の輪の中にいる罪人であること、キリストの十字架以外に
救いはないことがはっきり分かりました。
夢から覚めた後、この私の罪のために神のひとり子イエス・キリストが十字架で死んで
下さった事を受け取り、「信じます」と祈りました。
そして、主の導きにより、今、この石巻の地に救い主イエス・キリストをお知らせする為に
来させて頂きました。

牧師コラム 『神と人とに愛された』 2017年1月22日

高橋 勝義 伝道師

愛される人間になるための条件として

1.与える人になる。
2.自分の事を好きになる。
3.コミニュケーションが取れる。
4.人を大切にする。
5..悪口・陰口は言わない。
6..感謝の気持ちを大切にする。

などが挙げられていました。
では、この条件をすべて満たせば、本当に愛される人になれるのでしょうか?
イエス・キリストは、

『あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』(ヨハネ13:34)

と語りました。
この命令の核心は、『わたしがあなたがたを愛したように』にあります。
私たちを愛された愛とは、どんな愛なのでしょうか?

神のひとり子イエス・キリストは今から約2000年前、人となってこの世に来られました。
それは、私たちに真の希望を与えるため、私たちが新しいいのちに生きるためでした。
キリストは、私たちのすべての罪を身代わりに負い、十字架で死ぬために来られたのです。
その動機は、『私たちを愛しているから』です。

人は、自分が愛されてこそ、人を愛することが出来るのです。
十字架は、ありのままのあなたを受け入れて下さる神の愛に満ち溢れています。

この愛を信じ、受け取る時、あなたは、人を愛することができる者に変えられ、
愛される人になるのです。

 

牧師コラム 『万民の救い主』 2017年1月15日

高橋 勝義 伝道師

私たちは、物事がうまく運ばない時、周りの人や環境に責任転嫁して、
恨みや妬み、果ては憎しみまで抱いてしまいます。
実は、この自己中心が、私たちを不幸にしているのです。
聖書は、この自己中心こそ「」であると語っています。
今から約2000年前、シメオンという人が、イエス・キリストについて

『御救いはあなた(神様)が万民の前に備えられたもので、
異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光です。』
と語りました。(ルカ2:31-32)

私たちを創られた神様が、私たちに「救い」を備えられたというのです。
その「救い」とは、神の子イエス・キリストに私たちのすべての罪を負わせ、
十字架で処罰することでした。
この「救い」を信じる時、私たちはすべての罪から解放されるのです。
そして、十字架を通して、イエス・キリストの愛に触れ、本物の希望を見出すのです。
聖書は、
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、
救いを受ける私たちには、神の力です。
』(Ⅰコリント1:18)

と語っています。
たとえ、多くの人々が、十字架に背を向けようとも、イエス・キリストは、
万民の救い主、この愛と恵みは、永遠に変わりません。

 

 

牧師コラム 『鶏の鳴く声を聞いて』 2017年1月8日

栗原 延元 牧師

 

インドネシアのバツーという町に「グレジャ・ヂャゴ-鶏の教会-」があります。
キリスト教会堂の尖塔に鶏の形をした避雷針があるからです。
これは、又「イエス・キリストの到来に対して常に注意深く目覚めている象徴であり、
悔い改めた罪人を象徴するものだともいわれています」(奥村修武)

今日、学びます、マルコの福音書には、イエスの弟子ペテロが本来ならば
隠して置きたい、失敗談が書かれています。
つい数時間前には、イエス様のためなら、たとえ火の中、水の中であろうと
従って行きます。
このいのちさえ捨てる覚悟が出来ていますと、大見栄を切ったペテロですが、
イエスの裁判が開かれている大祭司の中庭で、役人たちといっしょにすわって
火にあたっている間、大祭司の女中のひとりに「あなたは、イエスの仲間ね」と言われ、
「おれは、そんな者(イエス)を知らない」と三度も、イエスを否認したのです。

イエスの弟子として失格してしまった事に気づかせたのが鶏の鳴き声でした。
主イエスは振り向いてペテロを見つめられました。
そのイエスの愛の目差しに接し、ペテロは激しく泣いて罪を悔い改めたのです。

 

牧師コラム 『真の自由に生きる』 2017年1月1日

高橋 勝義 伝道師

 

鳥は、大空を自由に飛び回っています。
魚は、水の中をスイスイと泳いでいます。
モグラは、土の中を自由に動きます。
しかし、鳥は空、魚は水の中、モグラは土の中でしか生きられません。
彼らにとっては、この制約こそが、自由を楽しめる秘訣です。

私たちは、誰からも強制されず、縛られず、妨害を受けずに、
自分の思うままに生きることが自由であると思っています。

私たちの心の中は、どうでしょうか?
私たちは、恨み・妬み・嫉妬・嘘・悪口・意地悪などに振り回され、
悩み苦しみ、葛藤しています。
人は、心を自分でコントロールしているつもりでも、
実は、そのような思いに支配されているのです。

イエス・キリストは、
もしあなたがたがわたしのことばにとどまるなら
あなたがたはほんとうにわたしの弟子です
そしてあなたがたは真理を知り真理はあなたがたを自由にします。』
と語りました。(ヨハネ8:31,32)

イエス様のことばが、心に光となって入ると、恨み・妬み・嫉妬・嘘・悪口・意地悪などが
」であると知らされます。
そして、イエス様が私の罪のために、身代わりとなって十字架で
死なれたことが分かるのです。
この真理を知り、イエス様を罪からの救い主と信じて歩み始める時、
新しいいのちの力が与えられるのです。

 

2016年12月24日、12月25日 クリスマス集会

石巻教会の建物が完成し、礼拝が始まってから、
2回目のクリスマス。
昨年は、宮田四朗氏を迎えてのクリスマスホルンコンサートを
開いてクリスマスのお祝いをしました。
今年は、高橋勝義師、明美姉が石巻教会に常駐していますので、
2年目にして、初キャンドル・ライト・サービスを開きました。

イエス様のお生まれになった夜に、キャンドルを灯して
お誕生をお祝いするのが定番ですが、教会に集ってくださる
皆さんは、年配の方が多いので、暗くなる前にと15時から始めること
にしました。
(近隣の水産加工所で働いている研修生が仕事が終了したら来るとの
ことで、15時と17時の2回に分けて開催することにしました)

12月に入ってからは、全国の福音自由教会から送っていただいた
プレゼントを1軒、1軒配りながら、クリスマス集会のお誘いをしてくれた
高橋勝義師と明美姉。

何人の方が来てくださるのか、見当もつかない中で、
『20人くらいでも来てくれたら良いな。」と祈りつつ準備を
整えていました。

25日のクリスマス礼拝に備えて、24日は、仙台からのお手伝いは
誰も来ず、高橋師、明美姉、私の3人だけ。
昼前に、明美姉から「水産加工場の研修生たちが、15時の集会に来る
ことになったから、早めに石巻に来て!」と連絡が入りました。

集会1時間前に、毎週礼拝に集っているHさんが現たのを皮切りに、
1人、3人、5人と続々と会堂に集まってきました。

予想していた20人を優に超えて30人。(この時点でまだ研修生は来て
いません)
「今日の集会に行きたいから迎えに来て」との連絡も入ってきて、
2つの仮設にお迎えに行くことにもなりました。
座席の埋まり具合を見て、帰りにお渡しするお土産が足りないことに
気づき、急きょ追加で用意。

キャロルを歌い、クリスマスのスライドやメッセージを聞いた後は、
美味しいフルーツケーキを頂き、最終的に、45人で
キャンドルサービスを捧げることができました。

翌日は、仙台教会の土川姉とご主人によるピアノとクラリネットの
ミニコンサートと栗原師のメッセージ。
クリスマスケーキの差し入れもあって、昨日とは違う雰囲気で、
クリスマスのお祝いをすることができました。(伊東綾)

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
(第1ヨハネ1:5)

 

 

 

牧師コラム 『すばらしい喜びの知らせ』 2016年12月25日

栗原 延元 牧師

 

今日、12月25日は、神の御子イエス・キリストのご降誕を祝う日です。
このすばらしい喜びは、ベツレヘムの郊外で野宿をしながら羊の夜番を
していた羊飼いたちに、天使から知らされました。
このうえなく美しいことばですので、そのまま引用します。
長い文章ですが是非お読みください。

今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
この方こそ主キリストです。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
これがあなたがたのためのしるしです。(ルカ2:10~12)

羊飼いたちは、ダビデの町(ベツレヘム)に急いで出かけ、
マリヤとヨセフと飼い葉おけに寝ておられるみどりごを捜し当て、
この夜、彼らが見聞きしたことが、全部、御使いの話のとおりだったので、
神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのです。

神の御子イエスの誕生から、十字架上での死、そして復活まで、すべてイエスに
関する出来事は事実で真実なのです。
この事がすべての人々への喜びの知らせなのです。

 

牧師コラム 『ほめたたえよ』 2016年12月18日

高橋 勝義 伝道師

私たちの歩みは、過去があって、今現在があり、そして、将来へと繋がっていきます。
将来は、過去を現在にどう生かすかによって決まります。
ザカリヤという人は、自分のルーツ、即ち、イスラエル民族の歴史に思いを巡らしました。
すると、過去・現在・将来に至るまで、神様の恵みと深いあわれみに守られてきたことが
分かったのです。
ザカリヤは、今までの神様の恵みと深いあわれみに心から感謝し、
これから先も神様の恵みと深いあわれみに守られることを確信しました。
だから、この神様を「ほめたたえよ」と命じました。

同様に、この神様は、あなたの過去・現在・未来を顧みて下さるお方です。
あなたを滅びから救い出し、永遠のいのちを与え、罪の支配から解放し、
新しいいのちによって、生きる力を下さいました。
神様は、これらを「あなたに」与えるために、愛する一人子イエス・キリストを
この世に遣わされました。
それ故、イエス・キリストの誕生を心からお祝いするのです。
これが、クリスマスです。
また、イエス・キリストをこの世に送って下さった神様をほめたたえる時なのです。
神様からの贈り物を心から受け取って、新しい歩みへと一歩踏み出しましょう。

 

牧師コラム 『みこころを思いめぐらす』 2016年12月11日

高橋 勝義 伝道師


私たちは、楽しく生きるために様々な計画を立てます。
しかし、計画が挫折し、困難に出会い、思うように事が進まなくなると、
冷静ではいられません。
不安や恐れにさいなまれ、自分を責め、自暴自棄になります。
それでも、何とか自分の力で頑張ろうとします。

ザカリヤという人は、肝心な時に信仰が働かなかったので、10ケ月間、
全く口がきけなくなりました。
誰とも会話が出来ない状態は、かえって、神様のみこころを思いめぐらし、
自分は神様に愛されている」ことを確認し、
また「神様の恵みの中で生かされている」ことに気づかされたのです。

ローマ人への手紙8章28節には、
神を愛する人々すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」
との約束があります。

災いに思えることも、神様を信じる者には、神様がすべてのことを働かせて益にされると
言って下さっているのです。
この神様の愛と恵みの中に生かされていることを受け取る時、信仰の目が開かれ、
困難に立ち向かう新たな力が与えられるのです。

 

牧師コラム 『偽証うずまく中で~イエスの裁判~』 2016年12月4日

栗原 延元 牧師

前回は、イエスが捕えられた様子を学びました。
今日は、そのイエスが裁判にかけられた場面に入ります。
場所は大祭司の邸宅です。
そこには祭司長、長老、律法学者たちが集まって来たとあります。
すでに彼らは〈イエスを死刑にする〉(マルコ14:55)ことを決め、
イエスを訴える証拠を懸命につかもうとしていました。
イエスに対する偽証をした者は多かったが、一致しなかったのです。
旧約聖書には〈ふたりの証人また三人の証人の証言によって死刑に処さなければならない、
ひとりの証言で死刑にしてはならない〉(申命記17:6)とあるのです。
不利な証言に対して、イエスは黙ったままで何も答えません。

とうとう大祭司みずから、イエスに尋ねます。
〈あなたは、ほむべき方の子、キリストですか〉(マルコ14:61)。
「ほむべき方の子」とは、神の子という意味です。

そこでイエスは言われた。〈わたしは、それです〉と。

ここに至って、イエスみずからが「神の子、キリスト」であることを明らかにします。
神の子イエス・キリストの福音のはじめと題して書き始めたこの書がゴールに到着します。
福音が、いよいよ輝きを増すのです。不思議なことです。