牧師コラム 『神に叫ぶイスラエル人』 2022年1月23日

牧師 高橋勝義

王子として育てられたモーセでしたが、苦役に苦しむ同胞への正義感から怒りにまかせて、エジプト人を殺してしまいます。しかしファラオに知られ、遠くミディアンの地に逃れます。そしてミディアンの井戸の傍らに座るモーセの前で、祭司の娘たちが羊の群れに水を飲ませようとしていると、やってきた羊飼いたちが彼女たちを追い払ったのです。それを見たモーセは、娘たちを助け、羊の群れにも水を飲ませます。娘たちの父である祭司レウエルは、いつもより早く帰宅した娘たちから事の次第を聞き、彼を食事に招きます。そしてモーセはこの祭司レウエルの所に住むこと心を決め、レウエルも娘ツィポラを妻として与えました。

それから何年もたち、エジプトの王は死にました。しかしイスラエル人の生活は変わらず、民はその重い労働にうめき、ついに神に泣き叫びます。重い労働による彼らの叫びは神に届き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされたのです。そのアブラハムに語られた約束とは「あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。(創世記15:13~14)」でした。

神はイスラエルの長い苦しみを知らなかったわけではありません。しかし民がご自分に叫び訴えるこの時を待っておられたのです。神の語られた約束とみことばは永遠に変わることがありません。あなたの心に、解決し難い苦しみが沈んではいないでしょうか…。

私たちも主に叫び訴えましょう。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。(詩篇121:1,2)」

牧師コラム 『気負いすぎた使命感』 2022年1月16日

牧師 高橋勝義

エジプトの地でイスラエルの民は存亡危機にさらされていました。神を恐れる助産婦らによって男児の命は守られたものの、さらに「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込め」との命令が出されます。そのような中、あるレビの家族に男の子が産まれ、可愛さゆえ三か月間内密に育てられますが、隠しきれなくなり、ついにその子はかごに入れられ、ナイル川の葦の茂みの中に置かれたのです。すると、水浴びにきたファラオの娘に助けられ、なんと大きくなるまでは実母に育てられます。やがて名をモーセとつけられ、王女の子として、宮殿で大きくなりました。大人になったモーセはある日、ひとりのヘブル人が苦役の中でエジプト人に打たれる姿を見たのです。彼はだれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めました。次の日、また外に出てみると、二人のヘブル人が争っており、モーセが悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言うと、「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」と言われてしまいます。彼は恐れ、またファラオが命を狙っているため、ミディアンの地に逃れます。

モーセの失敗は、他人事ではありません。私たちは、自分の正義を盾に行動を起こしやすいものですが、その正義には怒りやさばきのフィルターが掛かっていることが多いのです。 ですから、モーセも「神よ、なぜ同胞の苦しみをそのままにされるのですか。私はあのエジプト人への怒りが抑えられません。私はどうすれば良いのですか…。」と主の名を呼び祈るべきでした。

聖書は「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。(イザヤ30:15)」と語っています。

牧師コラム 『人に従うより神に従うべきです』 2022年1月9日

牧師 高橋勝義

ヨセフの時代から時が過ぎ、イスラエルの民は神がアブラハムに約束したとおり増え広がり、それはエジプトの脅威となっていました。さらに過酷な労働によって生活が苦しめられても、なお民は増え広がったのです。すると、エジプト王はヘブル人の助産婦シフラとプアに「ヘブル人の女の出産を助けるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、殺さなければならない。女の子なら、生かしておけ。」と命じます。しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王の命には従わず、男の子を生かしておいたのです。さらに、命令を出したにもかかわらず男児出産が続くことを王が問いただすと、助産婦たちは「ヘブル人の女はエジプト人の女とは違い、元気で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」と答えるのでした。 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせました。

今から約3500年も昔のヘブル人助産婦シフラとプアの名前がこのようにはっきりと聖書に記され残されているのは、神御自身を恐れて歩むことを、神が何よりも喜ばれるからです。そして王は、「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」と命令を変えたのです。(出エジプト1:15~22)

私たちの日常生活に目を向けるならば、「長い物には巻かれろ」の諺のように、権力には逆らわない生き方が得策であり、この世を生き抜く処世術とされがちです。

聖書は「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」(箴言29:25)と私たちに語ります。まさにこの助産婦たちのように、すべてをご支配しておられる創造主なる神を信じ、従う歩みこそが、人の歩みを確かなものにするのです。

牧師コラム 『神の約束を待ち望む信仰』 2022年1月2日

牧師 高橋勝義

時は流れ、ヨセフもその兄弟たちも、その時代の人々はみな死にました。しかしイスラエルの子らは増えて非常に強くなり、エジプトは彼らで満ちていったのです。やがて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こり、エジプト人は「見よ。イスラエルの民はわれわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くことがないように。」と彼らを重い労役で苦しめますが、イスラエルの民は、苦しめれば苦しめるほどますます増え広がり、人々はこの民を恐れました。そして漆喰やれんが作りの激しい労働、畑のあらゆる労働など、過酷な労働で、彼らの生活をさらに苦しめたのです。(出エジプト1:1~14)

ヨセフが生きていた時代の穏やかな日々は失われ、彼らは苦しみの毎日を送っていました。 これは神がアブラハムに「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。」と語られたとおりであり、「しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。」(創世記15:13,14)との神の約束の始まりでもありました。神はご自分の民、すなわちキリストによって救われ、神の子となった私たちに、意味もなく苦しみを与えるお方ではありません。その苦しみには神の深い意図があるのです。大切なことはどのような時も、神の約束に堅く立ち、主を信じる信仰なのです。

「主はご自分の契約をとこしえに覚えておられる。命じられたみことばを千代までも。(詩篇105:8)」神の約束は決して変わることがありません。

牧師コラム 『まことの神こそが本当の希望』 2022年1月1日

牧師 高橋勝義

本日の聖書箇所「哀歌」の著者とされているエレミヤは、今から約2650年前に預言者として神の召命を受け、イスラエルの民がバビロンの捕囚となり、国が崩壊する時代に涙をもって神に立ち返る信仰を説いた預言者です。当時ユダ王国は、大帝国バビロンから攻撃を受けていました。そのさなか、エレミヤは「バビロンの王ネブカドネツァルに降伏して、彼に仕えよ」という神のことばを語ったのです。この神のことばは、王や首長たちに歓迎されるはずがなく、彼らの怒りを買い、エレミヤは様々な迫害を受けたのです。神の民と自負するユダ王国の人々にとって、敗戦はありえないこと、「降伏」することは屈辱の何物でもないからでした。同胞からの迫害や、死の危険にさらされる中で、エレミヤは滅びゆく国と民を思い、民に向かって、神に背を向けた罪を悔い改め、神に立ち返るように説き、祈ったのです。

しかし預言通り、ユダはバビロンに滅ぼされ、民は捕囚となってバビロンに引いて行かれました。「降伏せよ」との神のことばは、神がイスラエルの民を思うゆえでした。事実、神は「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。(エレミヤ29:10)」との約束をくださっています。さらに「主は、いつまでも見放してはおられない。主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:31~33)」と明日への希望を示しています。

神のご計画こそが、私たちの本当の希望なのです。「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)」

牧師コラム 『神の計らい』 2021年12月12日

牧師 高橋勝義

父ヤコブの葬儀をカナンの地で終えたヨセフたちは、エジプトに戻ってきましたが、ヨセフに対して罪責感と恐れを抱く兄弟たちは「あなたの父は『ヨセフにこう言いなさい。おまえの兄弟たちは、実に、おまえに悪いことをしたが、兄弟たちの背きと罪を赦してやりなさい』と語っていた、どうか自分たちを赦してください」と許しを請うのでした。(創世記50:16,17)

彼らのことばを聞いたヨセフは泣き、「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」と優しく語ったのです。
そしてヨセフの一族はエジプトに住みました。
百十歳の生涯を生き、自分の死が近いことを察したヨセフは、イスラエルの子らに「神は必ずあなたがたを顧みてくださいます。そのとき、あなたがたは私の遺骸をこの地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ携え上ってください」と誓わせました。そして彼らは、ヨセフをエジプトでミイラにし、棺に納めたのです。(創世記50:15~26)

すべての出来事の背後には、全能の神がおられ、すべてをご支配しておられます。神は私たちに、日々の歩みの中で起きる様々な出来事すべての中に、神がおられることを信じる信仰を求められておられ、ここに信仰の戦いがあるのです。

聖書は「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」と約束しています。神は私たちと一緒に歩み続けてくださるインマヌエルのお方です。

牧師コラム 『神の愛の贈り物』 2021年12月19日

牧師 高橋勝義

神の最大の関心事は、一度死ぬことと死後さばきを受けることが定まっている私たち人間を救うことです。それゆえ、神は預言者イザヤに「今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれ(救い)を成し遂げる。(イザヤ9:7)」と語らせました。この希望の約束は、イザヤが預言した700年後にナザレの村のマリアの上に成就します。

結婚を前にしたヨセフは、婚約者マリヤが身ごもったことを知り、苦悩しますが、神は夢の中で主の使いを通して「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリヤをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリヤは男の子を生みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:20,21)と励まします。そして預言通りに男の子が生まれ、ヨセフはイエスと名付けます。
聖書はさらに「『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(マタイ1:23) 」と語ります。ここに預言者イザヤを通して語られたことが、成就したのです。

聖書は「神はそのひとり子(イエス・キリスト)を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくだいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。(Ⅰヨハネ4:9)」と語っています。キリストは、滅びに向かう私たちの身代わりになるために、この世に人となってお生まれになられました。

まことにイエス・キリストの誕生は、“神の愛の贈り物”なのです。

あなたもキリストを罪からの救い主と信じて、この神の愛のプレゼントを受け取り、永遠のいのちをいただいて、神のこどもになろうではありませんか。

牧師コラム 『万軍の主の熱心』 2021年12月12日

牧師 高橋勝義

今から約2700年前、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、民は捕囚となり連れ去られ、ガリラヤの地には異国の民が移り住んでいました。このような状況の中、残された人々や南ユダ王国の民は希望の見えない暗黒の日々を送っていました。

しかし、このような暗い状況の中で、神は預言者イザヤを通して「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ9:6,7)」と、希望を与える約束を語られました。神は希望を失っている人々、弱さに喘ぐ人々に目を留められるお方です。
イザヤを通して「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」と語られた約束は、それから約700年後に神のひとり子イエス・キリストがこの世に生まれたことで実現しました。

キリストが来られたのは、私たちを罪の支配から解放し、永遠のいのちを与え、新しいいのちに生かすためであり、十字架の上で死なれ、よみがえられたことにより成し遂げられたのです。神から離れ、背を向け、自己中心の歩みをしている自分を顧みる時、神がこれほどまでに熱心に私たちを覚え、価値がある、といってくださるその愛に驚くばかりです。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」

牧師コラム 『約束の地、御国へ』 2021年12月5日

牧師 高橋勝義

ヨセフは死を迎えた父ヤコブの顔の上に、泣き崩れ、別れの口づけをしました。それは、エジプトで十七年の時間をともに過ごした父への深い愛の現れでした。ヨセフは父をミイラにするように命じ、エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しみました。喪が明けると、ヨセフは「もし私の願いを聞いてもらえるなら、どうかファラオにこう伝えてください。父は私に誓わせて、こう申しました。『私は間もなく死ぬ。私がカナンの地に掘った私の墓の中に、そこに、私を葬らなければならない。』どうか今、父を葬りに上って行かせてください。私はまた帰って参ります。」と願います。ファラオはヨセフの願いを聞き入れ、ヨセフは父を葬るために家族全員、兄弟たちとその一族、さらにエジプトの国のすべての長老たち、また戦車と騎兵も一緒に非常に大きな一団で上って行きました。ただし、彼らの子どもたちと羊と牛はゴシェンの地に残しました。ヨセフは父のため七日間、たいへん立派で荘厳な哀悼の葬儀を行った後、一緒に上って来たすべての者たちと共に、エジプトに戻りました。

神は十七年前、エジプトに向かうヤコブに「このわたしが、あなたとともにエジプトに下り、また、このわたしが必ずあなたを再び連れ上る(創世記46:4)」と語られた通り、埋葬という形で、約束の地にヤコブを連れ上りました。これは、神が彼の子孫を約束の地に必ず連れ上ることを指し示す“メッセージ”でした。同様にイエス・キリストを信じ、神のこどもにされた私たちも、神は約束の地、天の御国へ必ず連れ上ってくださるのです。

「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。(Ⅱテモ 4:7,8a)」

牧師コラム 『神への揺るぎない信仰』 2021年11月28日

牧師 高橋勝義

父ヤコブは神に導かれ、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ゼブルン、ダン、ガド、アシェル、ナフタリ、ヨセフ、ベニヤミンの順に祝福しました。そして彼は息子たちに、自分をエジプトの地ではなく、父祖アブラハムが私有の墓地として買い取った洞穴に葬るように命じます。そこはアブラハムと妻サラ、イサクと妻リベカが葬られ、彼も妻レアを葬った場所でした。ヤコブは命じ終えると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられたのです(創世記49:29~33)。百四十七年の生涯でした。

ヤコブが息子たちを祝福し語った内容は、彼らには耳の痛い、厳しいものでした。しかし、それは子を思う父の愛ゆえであり、聖書は「それぞれにふさわしい祝福を与えた」と語ります(創世記49:28)。彼は自分のこれまでの歩みを振り返り、「今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神」(創世記48:15)と告白しています。ヤコブは自分が神の愛と恵みにずっと支えられて来たことを思うと、何の迷いもなく、今まで自分を導いて来られた全能の神に息子たちと子孫を託したのです。

それは、その時々において自分を励まし導いてくださった神への感謝と同時に、息子たちがこのお方に信頼し、神を待ち望む信仰に堅く立つことを願ってのことでした。
神はアブラハムの信仰の子孫たちが自分の弱さや罪を認め、神とともに生きることを願っておられるのです。神は私たちにこのように約束しておられます。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)