今日のメッセージ 『耐え忍ばれた主』 2024年12月15日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ書50章4~9節〕

 イエス・キリストは、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15:13)」と語られたとおり、私たちのすべての罪の身代わりとなって十字架の上で死なれました。このことを、聖書は「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」と語っています。

 また、メシヤ(救い主)について「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった(イザヤ50:6)」と預言されているとおり、弟子のペテロもイエス様の歩みについて「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった(Ⅰペテロ2:23)」と証言しています。

 罪を犯したこともなく、その口には欺きもなかったイエス様。また、イエス様は、通りすがりの人たちからも、「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(マタイ27:40)」と侮辱されました。このような辱めを耐え忍ばれてまで、なぜ、イエス様は十字架の上で私たちの罪をその身に負い、死んでくださったのでしょうか。

 天の父の御思いは、私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つことです。さらに、私たちを罪から離れさせ、たましいの牧者であり監督者である方のもとに帰らせるためです。そのために、イエス様はご自分のいのちを私たちのために献げられたのです。

 私たちの救いのために、ここまで耐え忍ばれた主の愛を仰ぎ見、神を信じ、信頼し、神が用意しておられる御国を目指し、忍耐をもって走り続けて行きましょう。

今日のメッセージ 『心の痛みを知る主』 2024年12月8日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ書42章1~4節〕

 モーセは私たちの地上の歩みについて「そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。(詩篇90:10)」と語り、イエス様も「世にあっては苦難があります(ヨハネ16:33)」と語っておられます。この労苦と苦難の人生に、私たちの心が傷つき、疲れ果て、病んでしまうのはしかたがないことと言えるでしょう。

 神は、このような心の痛みを抱える私たちのもとに、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行うお方」イエス・キリストを救い主として遣わしてくださいました。このお方について、聖書は「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです(ヘブル2:18)」と証言しています。つまり、イエス様は、私たちが人生の荒波にもまれ、苦しみ、傷つき、疲れ果てていることを理解してくださっているのです。

 ですから「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」と私たちを招いておられます。更に、イエス様は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:31,32)」と語られました。この健康な人とは、神を必要とせず、自分は正しい、大丈夫だと思っている人のことであり、病人とは、自分勝手に歩んできたことが罪であると認めた人のことです。

 私たちの心を知り、招いておられるイエス・キリストは、「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」(ヨハネ6:37)と語られます。

今日のメッセージ 『道を備えられる主』 2024年12月1日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ書40章3~5節〕アドベント第一週

 高層ビルを建設するときには必ず土地の地盤調査を行い、岩盤まで杭を打ち込み、建物の安全を確保します。一般住宅でも状況によっては地盤調査を行い、対策をしてから建物を建てます。このように、建物の安全を確保するためには、事前調査による備えが重要です。

 神様はご自身の民であるイスラエルが、約束のメシヤ(救い主)が来た時に、そのお方を受け入れ、信じられるように霊的な備えをされました。それがバプテスマのヨハネの使命でした。彼は人々に、悔い改めて神に立ち返るように勧め、多くの人々が心動かされ罪を悔い改め、ヨルダン川でバプテスマを受けたのです。このように、人々の心は備えられていったのですが、メシヤとして来られたイエス様を受け入れなかったのです。それは、彼らの願うメシヤ像からイエス様はあまりにもかけ離れていたからでした。

 私たちの目にはまっすぐに見える道も、その終わりが死となる道があるのです。(箴言14:12) 預言者イザヤが「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを、あなたの耳は聞く。(イザヤ30:21)」と語っているように、神は私たちがそのような道に進んで行かないようにと常に私たちを見守っておられるのです。ところが、私たちは自分の願いばかりを追い求めているため、神の御声が心に届かないのです。そのような私たちの歩みを確かなものにする事の出来るのは、神様だけです(箴言3:6)。

 ですから「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」(詩篇143:8)と、神様に向きを方向転換して、その御声を聞く心備えをしましょう。

コラム 『十字架を仰ぐ』 2024年11月24日

 牧師 高橋勝義

 11月初旬のある日の昼食時、私と家内の目は窓越しの、赤とんぼの大群(まさに大群)にくぎ付けになっていました。秋に赤とんぼが飛んでいるのは、当たり前の光景なのですが、この時は、かつて見たこともない大群で、「えー!」「なに、これ!」「どこからきたんだ~」「どこに飛んでいくの~、まるで出エジプトのいなごみたい~」と大興奮してしまいました。そして家内が、震災後の秋、仮設支援活動で「赤とんぼ」を仮設の皆さんと歌ったときに聞いたエピソードを話してくれました。

 作詞の三木露風は幼い頃、ご両親が離婚され、祖父母に育てられ、経済的には豊な中でも、寂しい幼少期をすごしたのだそうです。そして大学卒業後、函館トラピスト修道院の講師となり、そこで洗礼をうけた彼は、修道院の庭に飛ぶ赤とんぼの群れを見てこの歌を作りました。特に四番の歌詞「夕焼小焼の 赤とんぼ とまっているよ 竿の先」は竿と、その先にとまった赤とんぼがイエス・キリストの十字架を表している、との説明を聞き、家内は感動した、と言っていました。その話を聞いた私は、たとえ、私たちの心が「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。(エレミヤ17:9)」心であっても、イエス様が十字架の上で流された血潮によって、その邪悪な良心はきよめられるのだ、と思わされました。イエス様が「わたしの心だ。きよくなれ」と語られたように、日々、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩んでいきたいものです。

 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)」

今日のメッセージ 『互いに仕え合いなさい』 2024年11月17日

 牧師 高橋勝義

〔民数記1章47~54節〕

 神は、レビ人を除いて戦に出ることができるイスラエルの20歳以上の男子の登録を命じられ、その総数は603,550人でした。では、神はなぜレビ人だけを登録されなかったのでしょうか。それは、レビ人に神の幕屋とそのすべての用具を管理させるためでした。彼らには、幕屋とそのすべての用具を運び、これに仕え、幕屋の周りに宿営して、これらを守る使命があるからでした。この務めは、レビ人にのみ与えられたものであり、レビ人以外の者でこの働きに近づく者は殺されなければならないとまで神は厳しく戒めています。

 パウロは、「この方(イエス・キリスト)によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。(ローマ1:5)」と語りました。パウロは、自分はイスラエル人だけではなく、世界中の人々がキリストを信じて救われるために召された者であると自覚していたからです。それは、神がアナニアを通して「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。(使徒9:15)」と語っていたからです。

 この使命は、特別にパウロに与えられたものではありますが、私たち一人ひとりにもキリストのからだの一部分(Ⅰコリント12:27)として、キリストのからだなる教会を建て上げるために、賜物を分け与えてくださっています(Ⅰコリント12:11)。ですから、宣教の働きに用いていただくために、自分に与えている賜物を知ることはとても重要です。

 神は「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい(Ⅰペテロ4:10)」と勧めています。

今日のメッセージ 『神のすべて武具を身につけよ』 2024年11月10日

 牧師 高橋勝義

〔民数記1章1~46節〕

 イスラエルはエジプトでの過酷な奴隷生活から、神の恵みとあわれみによってモーセに導かれ救い出されました。そしてシナイ山の麓で、神の幕屋を完成させ、神の民としての掟と定めを与えられたのです。この時、エジプトを出てからすでに2年の月日が流れていました。

 エジプトを出る時のイスラエルは、女、子どもを除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人でした(出エジプト12:37)が、この時、神がモーセに二十歳以上の戦に出られる人数を調べさせると、六十万三千五百五十人でした。このようにして約束の地に向かう民を整えられたのです。

 さて、聖書は私たちが戦う相手について「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(Ⅰペテロ5:8)」と語り、警告しています。では、私たちは戦うための武器を何も持たずに「悪魔」と戦うのでしょうか。そんなことはありません。神は悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けることを命じています(エペソ6:11)。

 それは、腰に真理の帯を締め、胸には神の承認という胸当てを着け、足には平和の福音を伝えに行くための靴をはき、手にはサタンの誘惑の火矢を防ぐ信仰の盾を、頭には主の十字架による救いのかぶとを、そして御霊の剣である神のことば(聖書)を握るのです。

 自分の力に頼らず取り、どんなときにも御霊によって、すべての聖徒のために、ひたすら祈り、信仰の戦いを戦うのです(エペソ6:14~18)。

 同時に、この時、主があなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合う愛を身に着けることを忘れてはなりません。愛は結びの帯として完全だからです。(コロサイ3:12~14)

今日のメッセージ 『神のものは神に』 2024年11月3日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記27章30~34節〕

 神は「地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。」と告げられました。私たちの意識の中には、このような思いが果たしてあるでしょうか。そして、神は「あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。(マラキ3:8,9)」と語っています。それゆえ「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。─万軍の主は言われる─わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。(マラキ3:10)」と問いかけています。

 さて、パリサイ人は、イエス様を試して「カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と尋ねました。イエス様は彼らの欺瞞を見抜き、デリカ金貨を持ってこさせ「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と答えたのです (マルコ12:13~17)。その意味するところは、税金は国民の義務として納める、そして神が創造された地の恵みを頂いて生かされていることに感謝し、収入の十分の一を神に献げなさいと語られたのです。生きていくだけでも大変なのに、さらに神に献げる…戸惑うばかりです。

 ところが、神は「わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。わたしを試してみよ。」と私たちにチャレンジを促しておられるのです。あなたは、このチャレンジにどのように応答しますか。

今日のメッセージ 『常に初心を忘れずに』

 牧師 高橋勝義

〔レビ記27章1~29節〕

 神はこれまで、いけにえ(ささげ物)について、細かく規定を定めイスラエルの子らにそれらを守るように命じました。それは、彼らが神の民として歩むためであり、同時に神のきよさを汚さないようにするためでした。神は民が自らの意志で自発的に主のために献げようとする心を尊重し、その思いを表せるように、献げるものの評価額を定められたのです。また、自発的に特別な誓願を立てる思いが与えられた場合には、それぞれ相応しい評価額に従って聖所のシェケルで納めるようにとされました。

 しかしいつしか、神の定められた規定を守ることが重要になり、また、自分たちは神の選ばれた民であると、その使命を忘れ、傲慢になっていったのです。それゆえに、神は「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集─わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。(イザヤ1:13)」と言わなければならなかったのです。心の伴わない形式的なささげ物ほど、空しいものはないからです。彼らの心は、神を信じ、信頼して歩む信仰からずれていったのです。

 さて、私たちも主のためにという思いが与えられ、自分にできることを始めるのですが、気が付くと、イエス様への感謝や喜びが薄れ、重荷になり形式的なものになってしまってはいないでしょうか。人の心はいとも簡単に、傲慢に陥ってしまうのです。

 ですから、神は「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)」とあなたに語りかけています。

今日のメッセージ 『主はあなたを招いておられる』 2024年10月20日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記26章34~46節〕

 神は、主の掟とすべての命令を行わないなら、様々な疫病が起こり、種を蒔いても収穫できない、それでも尚、わたしのこの懲らしめを受け入れず、逆らって歩むなら、あなたがたの地は荒れ果て、町々は廃墟となると警告されたのです。神の懲らしめとは、国を失い、捕囚の身となる非常に厳しいものです。しかし、神は、強情で頑なな心、うなじの怖い民を、この懲らしめによって、罪を自覚させ、真の悔い改めへと導こうとされたのです。

 この時、神は「わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こす。またイサクとのわたしの契約を、さらにはアブラハムとのわたしの契約をも思い起こす。わたしはその地を思い起こす。」さらに「わたしは彼らを退けず、彼らを嫌って絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしが彼らの神、主だからである。」と語られたのです。

 イエス様は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:31,32)」と語りました。それは、私たちの将来を案じてのことであり、『人間は一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27) 』ことを知っておられたからでした。

 罪とは、神の教え(律法)に聞き従わないことです。(Ⅰヨハネ3:4)イエス様は、私たちを救い出すために、私たちの罪のために十字架の上で死なれ、罪の贖いをされたのです。それは、私たちが罪を告白し、悔い改め、神に立ち返るためです。イエス様は、今日も「わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ。」(イザヤ44:2)とあなたを招いておられます。