今日のメッセージ 『神を信じる信仰』 2026年1月18日

 牧師 高橋勝義

〔民数記32章1~42節

 イスラエルがいよいよヨルダン川を渡り、約束の地に入ろうとしていたときのこと、ガド族とルベン族モーセと祭司エルアザル、族長たちに「しもべどもがこの地を所有地として賜りますように」と願ったのです。それは彼らが多くの家畜を持っており、ヨルダン川の東の土地は家畜に適した場所であったからでした。しかし、これを聞いたモーセは怒り、「どうして、これから戦いに向かうイスラエルの子らの意気をくじいて、主が与えてくださった地へ渡らせないようにするのか」と問い詰めます。40年前、彼らの父たちが約束の地の探索で、イスラエルの民の意気をくじいた同じ過ちを繰り返すことになるからでした。すると、彼らはモーセに私たちはここに、家畜の囲い場を作り、妻子のために町々を建てます。しかし私たちは、イスラエルの子らを彼らの場所に導き入れるまで、武装して先頭に立って急ぎ進みそれぞれその相続地を受け継ぐまで、自分の家に帰りません。」と誓ったのです。

 このことばには、彼らの覚悟と同時に、残す妻子と家畜を神が守ってくださるという信仰がなければ、簡単に口にできることではありません。周りの国々は、戦士がいないとなれば、すぐに攻めてきます。彼らは、このような危険があることを十分承知し、すべてを神にゆだねる信仰に堅く立ったのです。聖書に「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6)」とある通りです。

 詩篇の作者も「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よあなたを求める者をあなたはお見捨てになりませんでした。(詩篇9:10)」と告白しています。

今日のメッセージ 『あなたの行く道すべてに主を仰ぐ』 2026年1月11日

 牧師 高橋勝義

〔民数記31章21~54節

 イスラエルは神の命令に従い、ミディアン人を根絶やしにし、分捕りものについても、神の定めどおりに行いました。軍団の指揮官たち、すなわち、千人の長、百人の長たちはモーセのもとに進み出て「しもべどもは、部下の戦士たちの総数を数えました。私たちのうち一人も欠けていません。」と報告しました。そして、モーセと祭司エルアザルは、軍団の指揮官たちから受け取った金を、主の前における、イスラエルの子らのための記念としました。民は、兵士が誰ひとり欠けることなく無事に帰って来たことで、主が自分達とともにおられることを経験し、それは、これからの戦いの心の準備になったのです。

 私たちの歩みは、次々と押し寄せる困難や苦難の連続です。また社会情勢も目まぐるしく変化し、押し寄せてきますから、途方に暮れないはずがありません。しかしパウロは、「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。(Ⅱコリント4:8)」と語るのです。また、「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:13)」とも語ります。神こそが、この世を統べ治めておらるお方だからです(出エジプト19:5)。しかし、私たちは、いざ困難や苦難、試練に会うと、不安と恐れに支配され、思い煩いでいっぱいになるのも事実です。

 それゆえに、ソロモンは「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。(箴言3:6)」と諭しているのです。

今日のメッセージ 『罪をそのままにしていませんか』 2026年1月4日

 牧師 高橋勝義

〔民数記31章1~20節〕

 約束の地に入る準備として、神はモーセにミディアン人への報復を命じ、その後、あなたは自分の民に加えられる、と語られました。それはモアブのシティムにとどまっていたときのことでしたが、民は土地の娘とふしだらな関係を持ち、さらに、誘われるまま偶像礼拝に加わったのです、神の神罰で2万4千人もの人が死に、民が泣いている前で、ひとりの男がミディアン人の女を自分の兄弟たちの前に連れてきたのです。すかさず、祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスが槍でその二人を刺殺したことで、神の罰は終わりました(民数記25:6~8)。このようなわけで、神は、不品行と偶像礼拝の罪の重さを自覚させ、民への教訓と戒めのためミデヤン人への報復を命じられたのです。約束の地に入ったならば、イスラエルは、必ず、これらの誘惑にさらされることになるからです。

 この教訓と戒めから、私たちが学ばなければならないことは、罪をそのままにしないことです。しかし、罪ある人間は自分の罪を取り除くことができません。バプテスマのヨハネが、イエス様の姿を見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊(ヨハネ1:29)」と語られたように、罪なきお方が罪を取り除くためにこの世に来られ(Ⅰヨハネ3:5)、十字架の死によって私たちのすべての罪を取り除いてくださったのです。それゆえ、「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。(Ⅰテモテ2:5)」とあるように、日々、自分の罪を認め、告白する罪の悔い改めが大切なのです。

 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます(Ⅰヨハネ1:9)」これは、神の変わらない約束です。

今日のメッセージ 『聖霊に導かれて』 2026年1月1日

 牧師 高橋勝義

〔ヨハネ16章1~11節〕

 2026年も生けるまことの神を礼拝することからスタートできることに心から感謝します。

 十字架の死から復活されたイエス様は弟子たちと過ごし、40日後に彼らの目前で天に帰られました。しかし、ご自身を信じる者たちをこの地上に置き去りにするのではなく、その後も生き生きと力強く生きられるように「助け主(聖霊)」を遣わすと語られました。ご自分が去って行けば助け主が遣わされ、それがあなたがたの益になるのだと語られたのです。助け主が来ることによって、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかにし、私たちを救いへと導くからです。「聖霊によるのでなければ、だれもイエスは主ですと言うことはできません(Ⅰコリント12:3)」とある通りです。

 またイエス様は、昇天されるとき「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。(使徒1:8)」と語られました。聖霊が私たちのうちに臨み、また住んでくださる(ヨハネ14:17)ということは、自分の力で頑張って生きる歩みから、聖霊の助けによって生きる歩みへと変えられるということなのです。それゆえ、使徒パウロは「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。(ガラテヤ5:16)」と私たちに勧めます。またペテロは「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(Ⅰペテロ5:8)」と警戒を促します。

 しかし、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」と語られたイエス様が、私たちの味方なのですから、恐れず、勇気を出して新しい年も聖霊に導かれて歩んで行きましょう。

今日のメッセージ 『あなたの信じる神はどんなお方か』 2025年12月28日

 牧師 高橋勝義

〔民数記30章1~16節〕

 30章は神様の前に真実な歩みをすることが教えられています。具体的には男性が主に誓願をしたり、物断ちをして誓う場合には、すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない、ということです。しかし、女性の場合は父が娘の誓願を認めれば有効となり、反対すれば無効、同様に夫が妻の誓願を認めれば有効となり、反対すれば無効となります。

 この時代の女性は男性主権のもとに置かれており、この教えがなければ、女性は誓願することすら許されない中で、神が女性を尊ぶご配慮なのです。

 また、ここで大切なことは、誓願するときの心です。聖書は「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。(伝道者の書5:4,5)」と教えています。ところが、誓いが形骸化している行為をイエス様は厳しく戒め(マタイ5:33~37)、からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)」と語られるのです。

 私たちは、生けるまことの神に向かって「誓願」していることを忘れてはなりません。と同時に、イエス様が「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります(マルコ11:23)」と語られたように、誓願する自らが信仰に立っているかどうか(Ⅱコリント13:5)、自分を吟味する必要があるでしょう。

 私たちの信じている生けるまことの神は、「神にとって不可能なことは何もないお方(ルカ1:37)」だからです。

今日のメッセージ 『あなたの心を照らすまことの光』 2025年12月21日

 

牧師 高橋勝義

〔ヨハネの福音書1章9~13節〕

 暗闇の中に灯る“ひかり”は、私たちに希望と勇気を与えます。あそこにたどり着けば助かると思えば、疲れ果てたからだに新なエネルギーが注ぎ込まれ、折れる心が奮い立ち、重い足も前へ前へと進みます。私たちは今、目まぐるしく変化する社会情勢、さらに、あらゆる情報に振りまわされ、先が見通せない中で生きています。ですから、人生においても、自分を導いてくれるひかりを必要としているのではないでしょうか。

 聖書は、「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」と語っています。事実、まことの光イエス・キリストは、あなたのところに来てくださいました。人間の願いや誰かの意志によるのではなく、「神によって生まれた」のです。実は、ここがとても重要なことなのです。それは、ここに私たちを思う神の愛が表されているからです。

 しかし、神の思いとは裏腹に、私たちは自分中心で、私たちを造られたまことの神ではなく、御利益を求めて偽りの神々のところに出向いています。このことを聖書は「この方(イエス・キリスト)はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」と記しています。けれども、「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった(ヨハネ1:12)」のです。

 この特権を与えるために、キリストは、私たちの罪を身代わりに負い十字架で死なれ、その名を信じた者にだれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなる(Ⅱコリント5:17)」との約束をお与えになったのです。

 クリスマスはまことの光キリストがこの地に来られた喜びの時なのです。

今日のメッセージ 『神の国はあなたのところに来ている』 2025年12月14日

 牧師 高橋勝義

〔マルコ1章9~15節

 イエス・キリストは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのち、御使いに導かれ、荒野で四十日間、サタンの試みを受けられましたが、神のみことばによってサタンを退けられました。それから、ガリラヤに行き、人々に「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と神の福音を宣べ伝えられたのです。

 預言者ミカは、イエス・キリストが誕生する約700年以上も前に「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。(ミカ5:2)」と語っています。さらに、ミカよりも前の預言者イザヤも「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。(イザヤ9:6)」と語っています。そして、預言通り、時満ちて、イエス・キリストはこの世に来られたのです。

 福音とは、「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと(Ⅰコリント15:3,4)」です。イエス・キリストが悔い改めて福音を信じなさいと言われたことは、このことであり、また、キリストを救い主と信じる信仰によって、すべての人を神の国(天国)へと導いてくださるのです。ですから、「わたしが来たのは世をさばくためではなく、世(私たち)を救うためだからです(ヨハネ12:47)」と語られたのです。

 今こそ、この福音に耳を傾け、キリストを救い主と信じるあなたの時が来たのではないでしょうか。神の国は、今、あなたの手の届くところまで来ているのですから…。

今日のメッセージ 『キリストはあなたを捜し救うために来た』 2025年12月7日

 牧師 高橋勝義

〔マタイ12章38~42節

 律法学者、パリサイ人たちからメシア(救い主)の「しるし」を求められたイエス様は、「しるしは与えられない、ただし預言者ヨナのしるしは別です」と答えました。これは、ご自身が十字架の上で死なれ、葬られ、三日目によみがえることを示されたのです。弟子たちにも、このことをはっきりと語っています(マタイ16:2)。彼らがイエス様にしるしを求めたのは、イエス様がメシヤであるならば、それが分かるような天からの神秘的な現象があるはずだ、と考えていたからです。しかし、イエス様は、多くの病人を癒し、悪霊を追い出していました。それゆえ、「たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい(ヨハネ10:38)」と語られたのです。これらは人間にはできないことであるにもかかわらず、彼らは自分たちの立場を守るため、その事実を受け止めようとしなかったのです。

 これまで自分が築き上げた地位や名誉を守ろうとするのは、誰もが持っている思いであり、私たちの中にも同じ思いがあることは否定できません。

 イエス様は、ユダヤ人ならば誰もが知っている預言者ヨナの話しから、ご自身がこの世に来られた目的を解き明かされたのです。それゆえ、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように(ヘブル3:15)」と警告されています。聞いたみことばが益とならず、みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられずに終わってしまうことのないようにしましょう(ヘブル4:2)。

 「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。(ルカ19:9,10)

今日のメッセージ 『信仰によって生きる』 2025年11月30日

 牧師 高橋勝義

〔民数記29章1~40節

 安息日の由来は、神が創造の第七日に、なさっていたわざを完成し、すべてのわざをやめ、この日を聖なるものとされたところからきています。(2:2,3)。さらに神は、七日目が聖なる日であるように、目を安息の月と定められたのです。月の第目を特別な安息日10日目は大祭司年に至聖所に入り、契約の箱の上で万民のために罪の贖いをす「贖罪の日」、第15日目からの一週間は「主の祭り」、そして八日目(22日目)に「きよめの集会」を開いて、第七月の主へのささげ物の各会合は終わります。

 第七月のささげものは雄の子羊(11匹)・雄羊(30匹)・雄牛(73頭)・雄やぎ(10頭)でしたが、イエス・キリストは、「雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた(ヘブル9:12)」のです。それは、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げられた(ヘブル9:28)と記されているとおりです。

 それゆえ、神は「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」と言ってくださるのです。神のこの約束は、キリストを罪からの救い主と信じる信仰によって与えられるのです。これはキリストを信じることによって義と認められるのであって、だれも、律法を行うことによっては義と認められないからなのです(ガラテヤ2:16)。さらに、信仰に生きる人々こそアブラハムの子であり、アブラハムとともに祝福を受けるのです(ガラテヤ3:6,9)

 このような素晴らしい恵みを私たちに与えてくだった神に、心から感謝しましょう。

 「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物(プレゼント)です。(エペソ2:8)

今日のメッセージ 『神は真の礼拝者を求めておられる』 2025年11月23日

 牧師 高橋勝義

〔民数記28章1~31節〕

 神は、ささげ物について、朝夕のささげ物、安息日のささげ物、月初め新月のささげ物、過越りのささげ物、初穂の日(七週の祭り)のささげ物を行うようにモーセをとおして民に命じられました。これらの命令はすでに与えられていたものですが、この時にはカレブとヨシュアのほかにはだれも生きておらず、神は世代交代で新たにされた民に語られたのです。

 約束の地に入った民の生活の中心は、神を礼拝することであり、これが神の民の大切な歩みであると示されたのです。「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。(レビ11:44)」と語られているとおりです。

 パウロは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ12:1)」と語りました。そして、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:2)」と促しています。

 私たちの生きている現代社会は、様々な情報が大量に満ち溢れています。みことばから目を外してしまうと、それらに翻弄され、神の子どもとしての歩みを見失ってしまいます。このような時代だからこそ、神は、ご自身を心から礼拝する者を求めておられるのです。

 それゆえ、イエス様は、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません(ヨハネ4:24)」と語るのです。