今日のメッセージ 『人とは何者なのか』 2025年5月18日

 牧師 栗原延元

〔詩篇8:3~9、144:1~4〕

 今日はダビデのため息から漏れ出たような信仰告白を見ていきたいと思います。

 彼は夜空に輝く月や星を眺めながら〈人とは何者なのか〉と呟き、詩を作ります。それは神によって天地が造られていることを信じる信仰から生み出されているのです。

 「あなた(神)の指のわざである天を見、あなたの整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」(詩篇8:3~4)

 一方でダビデは自分の生涯を省みるとき主なる神は、私を守る「盾」であり、私の身の避け所であることを思いながら、人とは何者なのかと呟くのでした。「主よ。人とは何者なのでしょう。人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです」(詩篇144:3~4)としながらも、虚無感に陥ることなく神を賛美するのです。〈ほむべきかな。わが岩である主。〉と。それは〈あなた(神)は、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉の冠をかぶらせられました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、〉と、人の使命が何であるかを知っているからでした。「何のために人は生きるのか」人生の真のゴールに向かって歩んでいたからです。神の栄光のために生きる人生は、何と幸いなのか、八十路をむかえた私の呟きです。

今日のメッセージ 『あなたの目は何を見たか』 2025年5月11日

 牧師 高橋勝義

〔民数記13章1~33節〕

 約束の地カナンを目前にしたパランの荒野で、主はモーセに、イスラエル十二部族の族長12人をカナンへ偵察に遣わすように命じられました。四十日後、偵察隊が戻ると、彼らはモーセに、「あなたがお遣わしになった地は確かに乳と蜜が流れています。これがそこの果物です。ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、アナク(巨人)の子孫を見ました。」と報告しました。その時、カレブがモーセの前で、不安でざわつく民を静めて、「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」と言いましたが、他の偵察隊の族長たちは「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」と悪く言いふらしました。その地の人々は、背が高く、自分たちはバッタのように見えるだろうと思ってしまったからでした。しかし、これは事実ではありません。彼らは不安と恐れに支配され、神がどのように自分たちを導いて来られたのか、その御業をすっかり忘れ、神を信じる信仰が働かなかったのです。

 同様に、私たちも様々な問題や困難に遭う時、まだ何も起こっていないのに、あれこれ考え、先を思い煩ってしまいます。曇りメガネでは、ぼやけて何も見えないように、問題や苦難にばかりに気を取られ、神のご支配の中にいることを見失ってしまいます。イエス様は、ご自身に助けを求めて来た人たちに「あなたの信仰があなたを救ったのです」(ルカ18:42)と語っています。あなたは、様々な問題や困難の先に何を見ていますか。ここが信仰の分岐点です。

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)」

今日のメッセージ 『妬みからの解放』 2025年5月4日

 牧師 高橋勝義

〔民数記12章1~16節〕

 モーセは地の上のだれにもまさって柔和であり忠実な者でした。ところが、姉ミリアムと兄アロンは、弟モーセがクシュ人の女を妻としていることで彼を非難したのです。それは、主がモーセとだけ話すことを妬み、弟が特別扱いされることに不満があったからです。主はアロンとミリアムを呼び、二人は叱責されました。そして主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、ミリアムの皮膚はツァラアトに冒され、雪のようになったのです。アロンは、あわてて弟モーセに助けを求め、モーセは「神よ、どうか彼女を癒やしてください」と主に叫びました。神は、「彼女を七日間、宿営の外に締め出しておかなければならない。その後で彼女は戻ることができる。」と語られ、この間、民は旅立ちませんでした。

 アロンやミリアムの行動は、他人事ではありません。私たちの心も、些細なことで妬み、次第にそれが膨らみ、憎悪となり、苦しみます。「穏やかな心は、からだのいのち。ねたみは骨をむしばむ。(箴言14:30)」とある通りです。神は、私たちの心をよく知っておられるからこそ、イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。それゆえ、イエス様は「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。(マルコ2:17)」と語るのです。ところが、私たちは自分が病人であり、罪人であることを受け入れないため、病状は悪化するばかりです。

 では、どうすればよいのでしょうか。キリストを罪からの救い主と信じるなら「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)とのみことばの約束が、あなたの身に起こり、そこから解放されるのです。

今日のメッセージ 『神の恵みを数えて感謝する』 2025年4月27日

 牧師 高橋勝義

〔民数記11章31~35節〕

 『ああ、肉が食べたい。エジプトは良かった。』と不平を言う民に、神は「嫌というほど肉を食べさせる」と言われました。しかしモーセは、「この多くの民にどのようにして肉を用意するのですか」と問います。すると、神は、「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」と答えられました。そして、海の向こうから吹く東風に乗り、うずらが飛んできて宿営の近くに落下し、なんと宿営の周囲約一日の道のりに高さ約88㎝ほどにびっしり敷き詰めたようになりました。しかし、民は肉が与えられたことに感謝せず、また朝ごとにマナを与えてくださる神様であることも忘れ、先を心配し、自分たちの知恵に頼り、うずらの肉を干して保存食にしたのです。

 神はご自身を信じようとしない民のこの行動に怒り、民を疫病で打たれたのです。

 「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。(伝道者の書5:10)」とあるように、私たちの貪欲は尽きません。私たちもイスラエルの民と同じなのです。それゆえ、イエス様は、私たちに「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)」と語っています。

 頭では分かっていても、どうしても日々の生活のことや先のことなどが気がかりになってしまいます。では、どうすればよいのでしょうか。「主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな(詩篇103:2)」とあるように、神の恵みを数えるとき、今まで気づかなかった神の恵みを知り、神への信仰、そして感謝が生まれてくるのではないでしょうか。 「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5)

今日のメッセージ 『キリストの死とよみがえり』 2025年4月20日

 牧師 高橋勝義

〔使徒の働き17章21~34節〕

 使徒パウロは、アテネの町の人々が宗教熱心で様々な神を祀り、その中に「知られていない神に」という祭壇があるのを見つけました。そこで彼は「あなた方が知らずに拝んでいる方のことを教えましょう。天地を造られたまことの神は、手で造られた宮には住まず、また神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません。今神は、すべての人にまことの神に立ち返るように命じておられます。神がお立てになった一人の方(イエス・キリスト)が、この世界に正しいさばきを行う日が決まっているからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、動かぬ証拠とされたのです。」と語りました。しかし、アテネの人々はあざ笑い取り合わなかったのです。

 死者の復活は、人々にとってたわごとに聞こえるかもしれません。けれども、キリストのよみがえりを目撃した弟子たちは、「このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。(使徒の働き2:32)」と語るのです。事実、イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と語られた通り、ご自身がよみがえられたことによって、ご自身を信じるすべての人が復活することを保証されたのです。キリストが死なれたのは、私たちの罪の身代わりになられたからであり、キリストがよみがえられたのは、罪の贖いを成し遂げ、私たちを罪から救うためです。(ローマ4:23~25)。それゆえ、私たちの国籍は天にあるのです(ピリピ3:20)。

 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるのです」(ローマ10:9)

今日のメッセージ 『主にあって共に苦しみ喜ぶ』 2025年4月13日

 牧師 高橋勝義

〔民数記11章1~30節〕

 約束の地へ出発したイスラエルは主に激しい不平を言い始め、主の怒りの火が宿営の端をなめ尽く事態が起こります。民はモーセに叫び、彼が主に祈ると、ようやく火は消えました。

 ところが、しばらくすると、今度は食べ物のことで「肉が食べたい、魚、きゅうり、すいか…今はマナだけしかない」と言い始め、またしても主の怒りが激しく燃え上がったのです。このことは、モーセにとって辛く、彼は主に「私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。私をこのように扱われるのなら、お願いです、どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」と訴えました。神はこれを聞き、民の長老七十人を集めさせ、モーセの仕事を手伝えるように、モーセの上にある霊の力の一部を取り分け、その七十人の長老たちに与えられたのです。

 聖書は、教会をキリストの体にたとえ、クリスチャンはそれを構成する各部分だと教えています(Ⅰコリント12:27)。神がモーセの霊を長老たちに分け与えられたように、御霊はキリストのからだなる教会を建て上げるために、主を信じる一人ひとりに賜物をくださっています(Ⅰコリント12:11)。奉仕や働きは様々ですが、その仕える相手は主であり、神がすべての働きをなさる(Ⅰコリント12:5,6)故に、私たちに与えられた賜物に優劣はありません。

 教会(クリスチャンの集まり)は一つの部分(ひとり)が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(Ⅰコリント12:26)。ですから、日々、十字架を見上げながら歩むことが肝心です。
「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」

今日のメッセージ 『主を心にお迎えする祈り』 2025年4月6日

 牧師 高橋勝義

〔民数記10章29~36節〕

 モーセは、しゅうとの子ホバブに、一緒に神が与える約束の地に行きましょうと誘いますが、彼は私の親族のものに帰りますと答えます。しかし、モーセは、自分たちは荒野の地を知らないので、自分たちを助けてくれるように願います。こうしてイスラエルは彼らとともにシナイ山を出発し、三日の道のりを進みました。先頭を契約の箱が進み、その前にはいつも雲がありました。契約の箱が出発する時にはモーセは、「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。」と大声で祈り、またそれがとどまるときには、「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千幾万もの民のもとに。」と祈りました。契約の箱は、民を導く神の臨在の象徴なのです。

 私たちも天の御国に向かって人生の荒野を旅する者ですが、荒野の旅で重要なことは、どんな時にも神がともにおられることを忘れてはいけないということです。そのために、契約の箱が神の臨在の象徴であったように、イエス様を救い主と信じる者の内には、聖霊なる神が内住され、聖霊の宮(Ⅰコリント6:19)とされているのです。けれども、これですべてが順風満帆になるわけではありません。なぜなら、悪魔が、吼えたける獅子のように、私たちを食い尽くそうと探し回っているからです(Ⅰペテロ5:8)。ですから、聖書は「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい(エペソ6:11)」と語るのです。

 私たちも日々の生活の中で、災いや困難に遭いうろたえるときには、何を差し置いてもモーセのように、私たちの人生に寄り添い伴走してくださる神様に向かって、正直に「神様、私の所に来てください。助けてください。」と祈りましょう。

今日のメッセージ 『信仰の従順』 2025年3月30日

 牧師 高橋勝義

〔民数記10章11~28節〕

 エジプトを出て二年、約束の地に出発する準備がすべて整い、その年の第二の月の二十日に雲があかしの幕屋の上から離れ上り、ラッパが吹き鳴らされました。イスラエルの子らはシナイの荒野を旅立ち、雲に導かれてパランの荒野に向かいました。民はすべてモーセを通して神が命じられたように、ユダ族を先頭に十二部族が軍団を先頭に出発したのです。

 神の御声に聞き従う歩みについて、預言者サムエルは、イスラエルの民に向かって「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(Ⅰサムエル15:22)と語りました。それはイスラエルがいつのまにか形式主義に陥っていたからです。

 詩篇の作者は、「主に身を避けることは人に信頼するよりも良い(詩篇118:8)」と語っていますが、それは、多くの人がこの世の権力や地位、財産や知恵に頼れば、問題は解決できると思っているからです。しかし、詩篇の作者は、主に身を避ける、つまり、神に信頼するほうが遥かに勝っていると言っています。そのようにできないのは、自分が信じているお方のことがよく分かっていないからなのかもしれません。それゆえ、ペテロは、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。(Ⅰペテロ2:6)」と私たちに訴えます。

 キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び(ヘブル5:8)、私たちにもその足跡に従うようにと、模範を残されました(Ⅰペテロ2:21)。

 私たちもみことばの約束を信じる信仰の従順を学ばせて頂きましょう。

今日のメッセージ 『みことばに根ざした歩み』 2025年3月23日

 牧師 高橋勝義

〔民数記10章1~10節〕

 約束の地に出発する準備の最後に、神はモーセに銀のラッパを二本作らせ、それを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりするように命じられました。ラッパが長く吹き鳴らされると、全会衆は会見の天幕の入り口の主のところに集まり、その一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちが集まる。また、侵略者との戦い、神が定められた例祭と新月の日、全焼のささげ物と交わりのいけにえの上にラッパを吹き鳴らすとき、イスラエルは神がともにおられることを覚えたのでした。ラッパは、神のみこころを知り、神のご臨在の中にあることを覚えるとても重要な役割を担ったのです。

 では今を生きる私たちに、神はどのようにしてみこころを知らせてくださるのでしょうか。それは、「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます(詩篇119:130)」とあるように、私たちはみことばによって神のみこころを知るのです。ですから、聖書は神のみこころを知る人生の羅針盤であり、当時のラッパの役割をしているのです。

 ところが、イエス様を救い主と信じ、人生の主として心の王座に迎えたにもかかわらず、「彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。(ヘブル4:2)」と語られています。この世の思い煩いや、富の惑わしや欲望が入り込み、みことばに堅く立つことができなかったからです。

 これは、信仰者ならば誰もが経験する切実な問題です。イエス様は、神のみことばはすべて実現する(マタイ5:18)と語っています。ですから、神のみことばの約束に堅く立ち、聖霊の助けによって、様々な問題に勝利する歩みを目指しましょう。(⇒ヘブル11:6)