牧師 高橋勝義 |
〔イザヤ書50章4~9節〕
イエス・キリストは、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15:13)」と語られたとおり、私たちのすべての罪の身代わりとなって十字架の上で死なれました。このことを、聖書は「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」と語っています。
また、メシヤ(救い主)について「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった(イザヤ50:6)」と預言されているとおり、弟子のペテロもイエス様の歩みについて「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった(Ⅰペテロ2:23)」と証言しています。
罪を犯したこともなく、その口には欺きもなかったイエス様。また、イエス様は、通りすがりの人たちからも、「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(マタイ27:40)」と侮辱されました。このような辱めを耐え忍ばれてまで、なぜ、イエス様は十字架の上で私たちの罪をその身に負い、死んでくださったのでしょうか。
天の父の御思いは、私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つことです。さらに、私たちを罪から離れさせ、たましいの牧者であり監督者である方のもとに帰らせるためです。そのために、イエス様はご自分のいのちを私たちのために献げられたのです。
私たちの救いのために、ここまで耐え忍ばれた主の愛を仰ぎ見、神を信じ、信頼し、神が用意しておられる御国を目指し、忍耐をもって走り続けて行きましょう。