牧師コラム 『神の種』 2019年10月20日

牧師 高橋勝義

花の種を購入する時には、袋に印刷された花の写真が参考になります。写真を見れば、どんな花が咲くのかが分かるからです。
しかし、種を蒔き、楽しみに、大切に育てたのに、写真とは全く違う花が咲いたとしたら、がっかりしてしまうことでしょう。

ところで、愛は何によって測ることができるのでしょうか。

イエス・キリストは、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15:13)」と語りました。
あなたのために、キリストは、ご自分のいのちを十字架の上で献げられたのです。その動機は、あなたを“愛”しているからでした。
私たちは、神に背を向け、神から離れた自分中心の歩みの結果、憎しみと恨みと妬みの渦巻くに支配されています。この歩みの行きつく先は、滅びです。

キリストは、この滅びの歩みからあなたを救うために、あなたのを身代わりに負い、ご自分のいのちを献げられたのです。
同時に、あなたに“愛”を届けたのです。この愛を受け取って、キリストを信じるとき、あなたの内に「神の種」即ち、神の愛が宿るのです。
ですから、ヨハネは「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です(Ⅰヨハネ3:11)」と語ります。
キリストを信じた者の内には、神の種が宿っているので、“愛の花”が咲き始めるのです。神の子どもの特徴は、“愛”を咲かせることなのです。

牧師コラム 『変わらない神の愛』 2019年10月13日

牧師 高橋勝義

震災から9年、町の風景は一変し、人々の生活も変わりました。新しい道路が次々と造られ、今も新たな道路が建設中です。そのような中でも、私のカーナビの地図は震災前のままで、そこだけは、まるでタイムスリップしているかのようです。

しかし、世界がどんなに変わろうとも“神の愛”だけは変わることがありません。

イエス・キリストは、『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと…(ヨハネ15:12)』と語られました。『わたしがあなたがたを愛したように』とは、ご自分のいのちを私たちのために献げてくださった十字架の“愛”のことです。ではなぜ、神は大切なひとり子イエス・キリストのいのちを、私たちにくださったのか、それは神が私たちを愛してやまないお方であり、さらにある私たちの行きつく先が滅びであることをご存知だからなのです。

神は私たちを救うために、私たちのすべてのをキリストに負わせ、十字架の上でそのを処罰されたのです。この事実を受け入れ、罪を認め、キリストを救い主として信じる時、私たちは救われるのです。さらに復活されたイエス・キリストから、私たちは新しいいのちを頂き、新しい歩みへと踏み出します。
しかし、そこには不安と恐れも出てきます。ですから、神は、キリストを救い主として信じたすべての人に対して『ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。(申命記31:8)』と約束してくださっているのです。

キリストを信じる者は、変わらない神の愛と、この約束に守られているのです。

牧師コラム 『神の子ども』 2019年10月6日

牧師 高橋勝義

人には誰にでも「親」がいます。たとえ、好き嫌いがあっても「親」であることに変わりはありません。子どもは、その「親」から財産・家柄などを、また性格・容姿なども受け継ぎます。残念ながら、そのどちらも、子どもには選ぶことが出来ません。

ヨハネは、キリストを信じたすべての者に向かって「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(Ⅰヨハネ3:2)」と語っています。
神の子どもとされた私たちは、親である「神」から、何を受け継ぐのでしょうか…。

第一に、本物の“愛”を知り、その“愛”を受け継ぎました。
「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。(Ⅰヨハネ3:16)」とある通りです。

第二に、“信仰によって生きる歩み”を受け継ぎました。
「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです(ガラテヤ3:26)」とあるように、良い行いをすることでから救われるのではなく、キリストが自分ののために死んでくださったことを信じる信仰によって救われたのです。

第三に、“御霊(聖霊)に導かれる歩み”を受け継ぎました。
キリストを信じる前の自分の力に頼る生き方から、キリストを信じた時に心に来て下さった御霊によって、あなたは、神を信頼して生きる生き方に変えられたのです。「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです(ローマ8:14)」とある通りです。

牧師コラム 『モーセ物語~その2』 2019年9月29日

牧師 栗原延元

イスラエルの民族の父祖は「アブラハム」ですが、建国の父は「モーセ」です。イスラエルの国の月の始まり、年の始まりに、過越の祭りが行われます。このときに各家庭で行うべき事とその行事の意味することが、出エジプト記12章に詳述されています。大変重要な章句なので長くなりますが下に引用します。
「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしはである。あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれをへの祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。」(出エジプト記12:12~14)

神がエジプトの地を打たれたとき、イスラエルの家々には滅びのわざわいが及びませんでした。神のこの審きによって、イスラエルの民はエジプトから出て行くことが出来たのです。奴隷状態から解放されたのです。このことは罪から解放するイエスの救い主のみわざにつながるのです。

牧師コラム 『イエスはキリストか』 2019年9月22日

牧師 高橋勝義

私たちの名前は親の思いや期待が込められて名付けられているものです。
ところで、「イエス・キリスト」というお方の名前はどうなのでしょうか…。

今から約2000年前、イエス様の父となったヨセフは、御使いから「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救って下さる方です(マタイ1:21)」と、告げられます。そして両親はその通りに「イエス」という名を付けました。この神のひとり子の名前「イエス」は、ヘブル語の「ヨシュア」をギリシャ語読みにした名前で、「主は救い」という意味です。
では、「キリスト」の意味は何でしょうか。これはヘブル語の「メシヤ」をギリシャ語読みにしたのが「キリスト」で、「油注がれた者、救い主」という意味です。

イエス・キリストの弟子ペテロは、「あなたは生ける神の子キリストです(マタイ16:16)」と告白しています。これは、ペテロの信仰告白なのです。
しかし、キリストを否定する者たちが現れたために、ヨハネは「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。(Ⅰヨハネ2:22)」と注意を促す手紙を書いたのです。

イエス・キリストは、「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネ5:24)」と約束されました。

キリストを否定するということは、この素晴らしい約束を失うことになるのです。

このお方は、確かに罪からの救い主、人生の主である「キリスト」なのです。

牧師コラム 『世に打ち勝つ者とはだれか』 2019年9月15日

牧師 高橋勝義

「勝ち組」とか「負け組」と言った言葉をよく耳にします。「勝ち組」とは、富や地位、名誉を得て、人生の成功者となった人。それに対して、「負け組」とは、人生がうまくいかず、敗北したようにみえる人のことでしょうか。

聖書では、本当の勝ち負けについて、どのように言っているのでしょうか?

ヨハネの手紙第一2章13節と14節で、ヨハネは、二度も繰り返して、「あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」と語っています。
また、悪い者に打ち勝った理由については、第一に「初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです」。第二には「あなたがたのうちに神のことばがとどまった」からであると語っています。

「初めからおられた方」とは、天地万物の創造の時、父なる神とともにおられたイエス・キリストのことです。このお方は、私たちを罪から解放するために、私たちの罪を身代わりに負い、十字架で死んで下さいました。私たちは、このキリストを罪からの救い主として信じる時、罪赦され、新しいのちによる歩みへと導かれたのです。それは、悪しき者の支配から解放され、罪に打ち勝つ者になったことを意味します。

 罪に対して、私たちの生まれながらの力は、太刀打ちできません。

しかし、「神のことばがとどまるなら」とあるように、神が与えて下さったみことば(聖書)に聞き従って歩もうと、舵を神の力に頼る生き方に変える時、私たちの内におられる聖霊が力を与えて下さり、悪い者、即ち、サタンからの誘惑や力に打ち勝たせて頂けるのです。
ヨハネは、私たちには素晴らしい味方がいることを思い起こさせ、真の勝利者はキリストを信じる者にあることを示してくれたのです。

牧師コラム 『光と闇』 2019年9月8日

牧師 高橋勝義

「光と闇」と聞くと、多くの場合、光は善、闇は悪、とイメージするのではないでしょうか。また、成功は光で、失敗は闇と人生を表現することもあります。
では、聖書は「光と闇」について、どのように語っているのでしょうか。
聖書は「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです(ヨハネの手紙第一2章9節)」と語っています。
「光」とは、私たちを造られた創造主である「まことの神」のことであり、「光の中にいる」とは、「神の愛」の中に生きることなのです。

なぜなら、神の一人子であるイエス・キリストが十字架の上で死なれたのは、私たちを愛するゆえに、私たちのの身代わりとなられたからで、このお方を人生の主として信じる時、神の子どもとされ、神の愛の中に生きる者とされるからです。
しかしイエス・キリストを信じ、神の子どもとされても、残念なことに私たちの心の中には次々と怒りや憎しみ、競争心、虚栄心、高慢などのが湧き出てきます。
これらのをそのまま放置するなら、その人は闇の中で生きることになります。
ですから、光の中に生きるとは、日々、そのを正直に神の前に認め(告白し)、イエス・キリストの十字架の血潮によってきよめていただく歩みなのです。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます(ヨハネの手紙第一1章9節)」

自分の力では赦すことも、愛することも出来ない私たちですが、信じる者の内におられる聖霊の助けと力により、愛の中に生きる者へと変えられていくのです。

牧師コラム 『キリストにならう』 2019年9月1日

牧師 高橋勝義

私たちの人生は、目標となる人が、いるといないとでは、大きく変わってきます。目指す人を目標に、自分もその人のようになろうと努力し、その人を越えたいと願うならば、さらなる努力することもいとわないでしょう。

ヨハネは、信仰者が目指すお方はイエス・キリストであり、このお方にならって自分も同じ生き方をしようとするはずだ、と語ります。「神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません(Ⅰヨハネ2:6)」
ここでヨハネが「神のうちにとどまっていると言う人は…」という表現をしているのは、「自分はみことばをちゃんと守っている」と、勝手な解釈で主張する人がいたからです。しかし、このような人は自分の知識を誇り、「互いに愛し合いなさい」という神の教えからはほど遠く、ズレた歩みになっているのです。

イエス・キリストは、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5)」と語っています。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」ことを受け止めて、しっかりと心に刻みましょう。イエス・キリストにとどまるということは、毎日みことばを読んでキリストの愛に触れることです。

イエス様の愛をいただき、内におられる聖霊の助けによって、私たちは「愛の人、喜びの人、平安の人、寛容な人、親切な人、善意の人、誠実な人、柔和な人、自制の人(ガラテヤ5:22)」という御霊の実を結ぶ者に変えられていくのです。

牧師コラム 『正直に、真実に神の前に生きる』 2019年8月25日

牧師 高橋勝義

神は光であり、闇が全くありません。その神が、人としてこの世に遣わした御子イエス・キリストを、私たちのすべての罪の身代わりに、十字架上で処罰されました。そして、このイエス・キリストを救い主と信じ、罪をきよめていただいた私たちは、光の神と共に歩む者、交わりをする者(親しく会話する者)とされるのです。

それゆえ、私たちはイエス様の橋渡しで、全能の神に向かってなんでも話すことができます。お祈りは神との会話であり、神の思いは、聖書に記されています。

死に値する罪が赦され、永遠のいのちに移されて、神のこども、光の子になった私たちですが、怒り、ねたみ、競争心、さばきなどの罪を犯してしまいます。
この時、私たちは、なんとかして自分の力で解決しようと頑張ってしまいやすいのです。もし、神と交わりを持ち、光の中を歩んでいるなら、私たちには闇がないはずです。闇がないというのは、偽りがないということなので、弱さも、惨めさも、愚かさも、ありのままの自分で良いのです。むしろ、犯してしまった罪を正直に神に申し上げ、認めることが大切なのです。立派な人になろうとするのではなく、正直な者になれば良いのです。なぜなら、神はそれを求め、待っておられるからです。

『もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。(Ⅰヨハネ1:8~10) 』