今日のメッセージ 『主を仰ぎ見よ』 2024年4月14日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記10章1~7節〕

 祭司アロンの子ナダブとアビフは、神の命令を破り(出エジプト30:9)、定められた神聖な火ではなく異なる火を主の前に献げました。すると、たちまち火が主の前から出て、彼らを焼き尽くしたのです。「主が『わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す(レビ10:3)』と言われたのは、こういうことなのだ」と言うモーセのことばに、ただ、ただアロンは黙するばかりでした。続けてモーセは、アロンと残された二人の息子エルアザルとイタマルに「あなたがたは髪の毛を乱してはならない。~あなたがたは会見の天幕の入り口から外へ出てはならない(祭司の務めを離れてはならない)。~あなたがたの上には主の注ぎの油があるからだ。」と語ります。

 聖書は、すべての人との平和と聖さを追い求めるように語っています。それは、聖さがなければ、だれも主を見ることができないからです(ヘブル12:14)。さらに「神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです(Ⅰテサロニケ4:7)」と語っています。イエス様が「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。(マタイ5:8)」と語っておられる中に、聖さにあずかるヒントがあります。

 私たちは、日々イエス様を仰ぎ見ることによって心の状態が明らかになり、自分の罪深さが知らされ、十字架へと導かれるのです。そして聖霊が、私たちを罪の悔い改めを導き、神の愛と赦し、神の聖さを明らかにしてくださるのです。それゆえ、詩篇の作者は「どうかあなたの仰せから私が迷い出ないようにしてください(詩篇119:10)」と祈るのです。

 朝ごとの主との交わり、すなわち、デボーションを大切にしましょう。

今日のメッセージ 『主の祝福の中で』 2024年4月7日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記9章1~24節〕

 神はエジプトで奴隷の民となっていたイスラエルの人々を救い出し、十戒を授け、神を礼拝する幕屋の建設を命じられました。続いて、アロンとその子らの祭司任職式をモーセに命じましたが、それは七日間を要しました。その八日目に、モーセはアロンに罪のきよめのささげ物として子牛、また全焼のささげ物として雄羊を主の前に献げるように命じ、民にも罪のきよめのささげ物の雄やぎ、また全焼のささげ物の子牛と子羊、穀物のささげ物を用意させました。モーセは「これは、あなたがたが行うようにと主が命じられたことである。そのようにすれば、主の栄光があなたがたに現れる。」と告げ、アロンにまず自分の罪の償いを、次に民の罪の償いを、主が命じられたとおり宥めを行うように命じました。

 アロンはそれらをすべて終えて、民に向かって両手を上げ祝福し、祭壇から降りました。次にモーセとアロンが会見の天幕に入り、そこから出て来て、民を祝福すると、主の栄光が民全体に現れたのです。民はみなこれを見て喜び、主の前にひれ伏しました。神は彼らが神の民として歩み始めた最初の日を、ご自身の栄光をもって祝福されたのです。

 イエス様も失われたものが見つかる喜び(救い主と信じる者が起こされる喜び)について、「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです(ルカ15:7)」と語っておられます。罪を悔い改めるとき、人は滅びから永遠のいのちに移され(ヨハネ3:16)、神の子ども(ヨハネ1:12)、そして神の民(Ⅰペテロ2:10)とされます。この門出を、神は喜び祝福しておられるのです。

 「主は、ご自分の民を、平安をもって祝福される(詩篇29:11)」

今日のメッセージ 『キリストにある希望』 2024年3月31日

 牧師 高橋勝義

イースター礼拝

〔Ⅰコリント15章12~22節〕

 パウロの人生は、ダマスコ途上で、よみがえられたキリストに出会い、クリスチャンを迫害する者からキリストを宣べ伝える者に変えられました。彼は、キリストが死者の中からよみがえったこと、また救い主であることを力強く人々に語ったのです。ところがそこに死者の復活はないと言い出す者が出てきました。しかし、キリストがよみがえらなかったなら、自分たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなり、自分たちは神への偽証人になってしまう、とパウロは語ります。さらに、キリストに望みを抱いている自分たちは、すべての人の中で一番哀れな者となってしまうが、今やキリストが眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられたゆえに、キリストを罪からの救い主として信じるすべての者は、キリストにあって死からいのちに移されている、と語ったのです。

 「死者がよみがえる」。これは、私たちの理性や常識、あるいは科学をもってしても受け入れがたいことですが、実はここにこそ、本当の希望があるのです。それゆえに、パウロは、よみがえられたキリストと出会った証人として、自分のいのちをも顧みず、人々に福音を宣べ伝えました。いのちの危険にさらされながらも、ひるむことなく、自分の人生のすべてを注ぎこんだのです。

 イエス様は、御自身のよみがえりを信じようとしないトマスに対して「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(ヨハネ20:29)」と語りました。そして今、イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」とあなたに語っておられます。

今日のメッセージ 『聖霊の証印』 2024年3月24日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記8章22~36節〕

 モーセはアロンに大祭司の装束を着せ、頭の上に油を注ぎ聖別しました。次にその子らにも祭司職の装束を着せ、アロンとその子らを祭司職に任じる任職を行ないました。アロンとその子らは雄羊の頭に手を置き、それは屠られ、モーセはその血を彼らの右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に塗り、残りを祭壇の側面に振りかけ、脂肪及び輪形と薄焼きパン各一個も祭壇の上で、全焼のささげ物とともに焼いて煙にしました。アロンとその子らは会見の天幕の入り口で、その肉を煮て、任職のささげ物のかごの中にあるパンと一緒に食べ、残りは火で焼きました。祭司職の任命には七日を要するため、会見の天幕の入り口で七日の間、昼も夜もとどまり、主への務めを果たさなければなりません。それは、彼らが死ぬことがないようにと神が定められたからです。

 任職式は、神からの召しと祭司職に任ぜられたことを示す証印ですからとても重要です。では、この事は今の私たちにどう関わるのでしょうか。

 聖書は「神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました」(Ⅱコリント1:22) さらに「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました」(エペソ1:13)と語っています。

 証印とは、証明のために押す印のことですから、神は私たちが救われていることを証明するために、私たちの内に聖霊を内住させてくださったのです。

 「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」
(ローマ8:1)

今日のメッセージ 『御霊によって歩みなさい』 2024年3月17日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記8章1~21節〕

 神はアロンとその子らを神の働きに召し、モーセに油注ぎを行うように指示されました。アロンとその子ら、そして全会衆を幕屋の入り口に集め、アロンとその子らを水で洗い、その後アロンに祭司服を身につけさせます。モーセは注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてと祭壇の上に七度振りまき、祭壇とそのすべての用具、洗盤とその台の油注ぎを行い、それらを聖別しました。それからアロンの頭に油を注ぎ、彼を聖別しました。次にアロンの子らを連れて来て、彼らにも長服を着せ、装束を整えました。アロンとその子らは、罪のきよめのささげ物、また全焼のささげ物である雄牛の頭に手を置き、それを屠り、モーセはその血を祭壇の側面に振りかけ、その雄羊を全部、祭壇の上で焼いて煙にしました。すべて主が命じられたとおりにモーセは行いました。

 神は御自身の働きのために召した人、アロンの頭に、特別に油を注ぎました。この頭に油を注ぐ行為は、今の私たちにどう関わるのでしょうか。イエス様の昇天から50日後、約束された通り聖霊が下られました(使徒1:8)。炎のような舌が分かれて、一人ひとりの上にとどまると、皆が聖霊に満たされ、他国のいろいろなことばで話し始めたのです(使徒2:3,4)。また、異邦人にも同じように聖霊が注がれました(使徒10:44)。この時から聖霊はイエス様を救い主と信じるすべての人の内にきてくださったのです。そして自分の力で頑張る歩みから、私たちの心に内住される神、聖霊に導かれる歩みへと移されたのです。

 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」                    (ガラテヤ5:16)

今日のメッセージ 『私たちの永遠の相続地』 2024年3月10日

 牧師 高橋勝義

〔レビ7章22~38節〕

 神は、動物の死骸にある脂肪、野獣にかみ裂かれた動物の脂肪、また、食物のささげ物として主に献げられた動物の脂肪を食べてはならない。また、イスラエルの民は、どこに住んでいても、鳥でも動物でもその血を食べてはならない、これを食べる者はみな、神の民から断ち切られる、と告げられました。そして神は、交わりのいけにえとしてささげられた胸肉、右のもも肉をアロンとその子らがイスラエルの民から受け取る永遠の割り当て(権利)と定められました。それは神が、レビ族は相続地を持ってはならないと定められた(民数記18:20)ゆえです。これから入る約束の地では、レビ族には受け取るべき割り当て地がないのです。

 それでは、私たちが受け取る割り当て地、相続地について考えてみましょう。

 イエス様と一緒に十字架にかけられた囚人が二人いました。そのうちの一人は、イエス様をののしりますが、もう一人は、自分の罪を認め「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と願いました。彼のこの告白に対して、イエス様は、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43)」と言われたのです。同様に、イエス様を罪からの救い主と信じた私たちには、天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあるのです(Ⅱコリント5:1)。

 これこそが、イエス・キリストを救い主と信じる者が受け取る割り当て地であり、私たちの永遠の相続地なのです。ここでは、私たちの目の涙を神がことごとくぬぐい取って下さり、もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもないのです(黙示21:4)。さあ、罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか(へブル12:1)。

今日のメッセージ 『狭い門から入りなさい』 2024年3月3日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記7章1~21節〕

 今日の聖書個所は、代償のささげ物、罪のきよめのささげ物、交わりのいけにえ(感謝のささげ物・誓願のささげ物)についての祭司への教えが記されています。

 代償のささげ物の脂肪はすべて、祭壇の上で、主への食物のささげ物として、焼いて煙にする。感謝のための交わりのいけにえをささげる時には一緒に種入りの輪形パンも献げ、肉はその日に食べ、朝まで残してはならない。誓願のささげ物は献げた日に食べ、残りは翌日食べてもよいが、三日目は火で焼く。汚れたものに触れた肉は火で焼き、食べてはならない。また汚れがある人が、交わりのいけにえの肉を食べるなら、その人は神の民から断ち切られ、また人の汚れや汚れた動物、またあらゆる汚れた忌むべきものに触れていながら、主に献げられた交わりのいけにえの肉を食べるなら、その人は神の民から断ち切られる、と語られました。かつて神は、「聖なる油と似たものを調合したり、作って嗅ぐ者((出30:33,38)は、自分の民の間から断ち切られる」と命じていました。神の権威を侮る者、また聖さを汚す者は、「神の民から切り離される」のです。それは、彼らに神の民であることの自覚と神の権威と聖さを教えるためでした。

 イエス様は「わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。(マタイ12:31)」と語りました。聖霊だけが人を救いに導くことができるからです(テトス3:5)。事実、私たちがイエス様を罪からの救い主と告白することができるのは、聖霊の働きと導きがあるからです(Ⅰコリント12:3)。

 「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。(マタイ7:13)

今日のメッセージ 『朝ごとに主にお会いする』 2023年2月25日

 牧師 高橋勝義

〔レビ6章8~30節〕

 今日の聖書個所には、全焼のささげ物、穀物のささげ物、アロンとその子らが任職の時主に献げるささげ物、罪のきよめのためのささげ物について記されています。

 全焼のささげ物は、一晩中、朝まで祭壇で焼き続け、祭壇の火は消してはならない。穀物のささげ物は、祭壇の上で焼いて煙にし、アロンの子らのうち男子はみな、残りの分を種なしパンにして会見の天幕の庭で食べる。しかし、祭司職に任せられるときの主へのささげ物は、すべて完全に焼き尽くし、食べてはならない。罪のきよめのためのささげ物は、全焼のささげ物が屠られる場所、主の前で屠られ、祭司の家系に属する男子はみな、それを聖なる所、会見の天幕の庭で食べる。これは最も聖なるものである。

 この「聖なる所、会見の天幕の庭で食べる」とは、神の御臨在の中で「最も聖なるもの」を食べること、つまり、神との交わりの中で、聖なる神の聖さにあずかることを意味します。

 イエス様を罪からの救い主と信じた私たちは、今や祭司とされ、同時に「光」の中に召されています(Ⅰペテロ2:9)。イエス様は「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(ヨハネ8:12)と語られました。その私たちが「光」また「聖」であるために必要なことは、日々の神との交わりです。それは「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない(ヨハネ15:5)」からです。

 神と交わることができるのは、イエス様の十字架ゆえであり、私たちはこの恵みの中に生かされているのです。ですから、神はあなたに「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。(エペソ5:8)」と勧めています。

今日のメッセージ 『貪欲に警戒しなさい』 2024年2月18日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記5章14節~6章7節〕

 今日の聖書個所は、三つの罪について扱っています。一つは主へのささげ物に関して気づかずに罪を犯したなら、代償のささげ物に五分の一を加え、償いとして傷のない雄羊一匹を祭司のところに連れて行く。二つ目は主の戒めの一つでも自覚せずに、または気づかずに犯した場合には、過失の代償として傷のない雄羊一匹を祭司のところに連れて行く。三つ目は、盗み、横領、着服、詐欺によって損害を被らせた場合、それらすべてを返し、さらに五分の一を加えて支払った上で、代償として傷のない雄羊一匹を主への代償のささげ物として祭司のところに連れて行く。祭司は、それぞれに宥めを行ない、そして彼は赦される。

 代償とは、他人に与えた損害の償いとして、それに相応するものを支払うことです。神が代償のささげ物を求められたのは、私たちの内に潜む貪欲がさまざまな問題を引き起こしてしまうことを気づかせ、自らの心を吟味するように教えるためでした。

 イエス様は「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。(ルカ12:15)」と語りました。それは、豊かになることが幸せだと考えている私たちに対し、「永遠のいのち」こそが最も大切であることを教え諭すためなのです。では、なぜ貪欲に警戒しなければならないのでしょうか。貪欲が私たちの心を曇らせ、私たちを肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢へと走らせ、不正なむさぼりを引き起こしてしまうからです。

 「その悪しき者が質物を返し、かすめた物を償い、不正を行わず、いのちの掟に従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。」(エゼキエル33:15)

今日のメッセージ 『罪から離れよ』 2024年2月11日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記5章1~13節〕

 神は、イスラエルの民が証人としての責務を果たさなかった場合、汚れたものに触れた場合、誓ったことを果たさなかった場合、それらの一つにでも責めを覚えるなら、その罪を神の前に告白し、子羊、あるいはやぎの雌一匹、しかし羊、やぎを買う余裕がなければ山鳩、あるいは家鳩のひな二羽、さらにそれさえも手に入れられなかったなら、十分の一エパの小麦粉を罪のきよめのささげ物として祭司のところに持って行くように定められました。そして祭司はその人の罪のための宥めを行ない、彼は赦される、と定めたのです。

 「膿を出す」とは組織、団体などの悪い慣習を根本から取り除くことで、放置すれば、取り返しのつかない状況を招きます。同様に罪も放置するなら、民全体が罪に支配されます。ですから、聖なる神は、神の民に聖なる歩みを求め、罪の宥めを定められたのです。

 「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった(創世記6:5)」、これがこの世の姿です。バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と証言した通り、イエス様は、私たちの罪のために十字架で血を流し、贖いを成し遂げてくださり、ご自身を信じる者を神の子どもとしてくださいました。そして、神のこどもとなった私たちを、あらゆる形の悪から離れる歩み(Ⅰテサロニケ5:22)へと導いてくださいました。ですが、それは自分の力では到底できません。そこで、神は助け主、即ち聖霊を私たちの内に住まわせてくださり、このお方の助けによって、悪から離れる力を与えてくださったのです。

 私たちの内に来てくださった聖霊の働きを妨げるものは罪です。ですから、罪の悔い改めが重要なのです。