今日のメッセージ 『正直な祈り』 2025年3月2日

 牧師 高橋勝義

〔民数記8章5~26節〕

 神は主の会見の天幕奉仕のためにレビ人をとりわけ、彼らをきよめるようにモーセに命じ、祭司アロンは彼らを奉献物として主の前に献げ、彼らのための宥めを行い、きよめました。こうして、レビ人は主の会見の天幕奉仕の任務に就き、民はレビ人の上に手を置き、彼らに神に仕える働きを託したのです。神はレビ人以外のイスラエルの子らは聖所に近づいてはならないと命じましたが、それは民にわざわいが及ぶことのないようにするためでした。

 聖書は、イエス様を罪からの救い主と信じる私たちは祭司としての務めを担う者として召されている(Ⅰペテロ2:9)と語ります。祭司の役目とは、人々の罪の贖いをすることですから、神は私たちにイエス・キリストによる罪の赦しを人々に伝えてほしいと願っておられるのです。また、神に仕える祭司がきよさを求められたように、祭司とされた私たちにもきよくあることを求めておられます。パウロは「あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。(ローマ6:13)」と語ります。

 ですから、私たちは「だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか隠れた罪から私を解き放ってください。」(詩篇19:12)とあるように、日ごと神の前に出て正直に祈ることが大切なのです。そうすれば聖霊が罪を示し、悔い改めへと導き、私たちは主の十字架の血潮により、すべての罪からきよめられて(Ⅰヨハネ1:9)、祭司としての務めを果たせる者にさせていただけるのです。

 「神よ私にきよい心を造り揺るがない霊を私のうちに新しくしてください(詩篇51:10)」

今日のメッセージ 『闇の中に輝く光』 2025年2月23日

 牧師 高橋勝義

〔民数記8章1~4〕

 神は幕屋建設の中で、モーセに純金の燭台を作るように告げ(出エジプト25:31)、民に燭台のともしび皿に質の良い純粋なオリーブ油を持って来させるように命じ、祭司アロンとその子らは、会見の天幕の至聖所の外側で、夕方から朝まで主の前にそのともしびを整える。これがイスラエルの子らが代々守るべき永遠の掟である、とされたのです(出エジプト27:20,21)。

 祭司アロンが燭台にある七つのともしび皿に火をともすと、真っ暗な聖所の中は、それによって光り輝きました。その聖所の輝きは、「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた(ヨハネ1:9)」とあるように、神の時が満ちて、神のひとり子イエス・キリストが、この世に来てくださったことをさし示しています。イエス・キリストは、罪に支配され暗闇の中を歩んでいる私たちのすべての罪を身代わりに負ってくださり、十字架の上で死なれ、さらに三日後によみがえり、私たちを暗闇から光の歩みへと導いてくださるのです。

 この事実を受け取り、キリストを罪からの救い主と信じるとき、私たちは神の子ども(ヨハネ1:12)とされ、さらに、光の子どもとしての歩みへと導かれるのです。(エペソ5:8)イエス様が「あなたがたは世の光です(マタイ5:14)」と語られているとおりです。

 ですが、私たちはすぐ誘惑に負けてしまう者でもあります。どうすれば、光の子どもとしての歩みができるのでしょうか。私たちの弱さをすべてご存知の主が「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(ヨハネ8:12)」と語っておられるように、信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から、目を離さず(ヘブル12:2)、日々、神との交わりを続けることがその鍵なのです。

今日のメッセージ 『主はあなたを招いておられる』 2024年10月20日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記26章34~46節〕

 神は、主の掟とすべての命令を行わないなら、様々な疫病が起こり、種を蒔いても収穫できない、それでも尚、わたしのこの懲らしめを受け入れず、逆らって歩むなら、あなたがたの地は荒れ果て、町々は廃墟となると警告されたのです。神の懲らしめとは、国を失い、捕囚の身となる非常に厳しいものです。しかし、神は、強情で頑なな心、うなじの怖い民を、この懲らしめによって、罪を自覚させ、真の悔い改めへと導こうとされたのです。

 この時、神は「わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こす。またイサクとのわたしの契約を、さらにはアブラハムとのわたしの契約をも思い起こす。わたしはその地を思い起こす。」さらに「わたしは彼らを退けず、彼らを嫌って絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしが彼らの神、主だからである。」と語られたのです。

 イエス様は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:31,32)」と語りました。それは、私たちの将来を案じてのことであり、『人間は一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27) 』ことを知っておられたからでした。

 罪とは、神の教え(律法)に聞き従わないことです。(Ⅰヨハネ3:4)イエス様は、私たちを救い出すために、私たちの罪のために十字架の上で死なれ、罪の贖いをされたのです。それは、私たちが罪を告白し、悔い改め、神に立ち返るためです。イエス様は、今日も「わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ。」(イザヤ44:2)とあなたを招いておられます。

今日のメッセージ 『希望~世に打ち勝ったイエス様~』 2024年10月13日

 牧師 高橋勝義

《教会開設10周年記念礼拝》

〔ヨハネ16章29~33節〕

 弟子ユダの裏切りにより捕らえられ、無実の罪で十字架にかけられると分かっていたにもかかわらず、イエス様は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」と語られました。では、なぜ、死を目前に自覚しながら「わたしはすでに世に勝ちました」と語られたのでしょうか。

 それは、「彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。(ルカ18:33)」と語っておられた通り、十字架の上で死なれ、葬られ、しかし三日目によみがえられるからでした。イエス様のよみがえりは、主を信じるすべての人のよみがえりの先がけであり、その保証なのです(Ⅰコリント15:20)。

 しかし、弟子たちはイエス様にお会いしても、尚そのよみがえりを信じられずにいたため、イエス様は彼らの前で魚を食べ(ルカ24:43)、また、信じようとしないトマスには、手の釘の跡と脇腹の槍の跡を見せて、指を入れるようにと促されたのです。(ヨハネ20:27)。

 イエス様が「わたしはすでに世に勝ちました」と語られたのは、死を打ち破り、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを与えてくださるからです(Ⅰペテロ1:3)。つまり、イエス様の復活にこそ、永遠のいのちへの希望があるのです。この希望は、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる(ローマ10:9)」とあるように、イエス様を信じることから始まります。

 イエス・キリストがよみがえられたのは、私たちが主を罪からの救い主と信じることによって、すべての罪が赦され、神と和解し、私たちを天国に招き入れるためなのです。

今日のメッセージ 『神の豊かな恵みの中で』 2024年1月14日

 高橋勝義

〔レビ2章1~16節〕

 創造主なる神はこの世界を造られ、私たちは神が造られたすべてのものから豊かな恵みを頂いて日々の生活を送っています。イエス様が「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。(マタイ6:26)」と言われたとおり、これは神からの賜物(プレゼント)なのです。

 このレビ記2章に記されている穀物のささげ物は、神の恵みへの感謝の表われです。穀物のささげ物は、祭司アロンとその子らのもとに持って行き、祭壇で焼かれ、神にささげられました。それは、神への芳ばしい香りとなり、神はそれを喜んでくださいました。その残りは、アロンとその子らのものとなり、それは主への食物のささげ物のうちの、最も聖なるものとされました。穀物のささげものは腐敗を防ぐ塩で味をつけるように命じられましたが、これは神の契約が永遠に変わらず保たれることを現わしているのです。

 「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる(マタイ5:45)」とあるように、神は公平なお方です。この恵みによって、「主が良いものを下さるので私たちの大地は産物を産み出すのです(詩篇85:12)」。神は「あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前で礼拝しなければならない」(申命記26:10)と命じておられますが、私たちはこのような恵みを与えてくださる神に心から感謝し、喜びをもってささげ物をささげ、神を礼拝しているでしょうか。

 聖書が「世界とそれに満ちるものはわたしのものだ(詩篇50:12)」と語っているように、私たちは神の豊かな恵みの中で生かされているのです。

今日のメッセージ 『真の礼拝者』 2023年1月7日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記1章1~17節〕

 エジプトからイスラエルの民を救い出した神は、シナイ山でさとしの板に神の民としての歩みを記し(十戒)、その麓でモーセを通して幕屋造りを命じました。さらに、神の幕屋を中心にして約束の地を目指すイスラエルの民に、具体的な神との交わりについて、また聖なる国民としての生き方についても教えられたのです。それらを記したものがレビ記です。

 ノアは洪水の水が引き、地に降り立った時、まず祭壇を築き、全焼のささげ物を献げました(創8:20)。またアブラハムも、自分に現れてくださった主のために、その場所に祭壇を築きました(創12:7)。ノアもアブラハムも、自ら進んで、まず神を礼拝したのです。

 全焼のささげ物は、聖なる神を礼拝するために必要不可欠です。神が私たちの罪を、この動物の血というささげ物、すなわちいのちをもって罪を贖うようにしてくださったからです。そして民は聖なる神を礼拝したのです。

 しかし今は、イエス様がご自身のいのちを私たちの罪のために献げられ、罪の贖いを成し遂げてくださったゆえに(ヘブル7:27)、旧約の時代のような動物のささげ物は必要とせず、イエス様の十字架によって、聖なる神を礼拝し、自由に神と交わることができるのです。

 何という恵みであり、感謝なことではないでしょうか。

 神は、あなたが真の礼拝者になることを待っておられます。

 「まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。(ヨハ4:23,24)」

今日のメッセージ 『悲しみを知る慰め主』 2023年12月10日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ53章1~6節〕

 人は自分たちを守ってくれる指導者に、強くてリーダーシップに長けた人を求めます。特に不安定な時代になればなるほど、「強さ」を求めるものです。

 しかし、預言者イザヤが語った救い主像は、大国アッシリアの脅威にさらされていた南ユダ王国の民にとって、受け入れられるものではありませんでした。それは強い指導者ではなく「悲しみの人で、病を知っている」方であり、人々が慕うような見栄えもなく、むしろ蔑まれ、のけ者にされ、尊ばれないお方として語られたからでした。その預言通り、救い主としてこの世に来られたイエス・キリストは、無実であるにもかかわらず十字架刑による惨めな死を迎えました。「私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。(イザヤ53:4~5)」とあるのは、神がご自身に対する私たちの背きの罪と咎をこのキリストに負わせ、十字架によって処罰し、私たちを赦すための贖いを成し遂げるためだったのです。

 すべては、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって歩んでいる私たちを、探し出し、神の身元に再び招き入れるためでした。そのために、神はイエス・キリストをこの世に遣わされたのです。そして、「悲しみの人で、病を知っている」このお方は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」とあなたを招いておられます。

 今、あなたは、どこにいるのでしょうか、イエス様の懐に勇気をもって飛び込みましょう。 「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(ヘブル2:18)

今日のメッセージ 『新しいいのちの始まり』 2023年12月3日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ11章1~5節〕

 ソロモン王の死後イスラエル王国は南北に分裂し、北王国イスラエルは隣国アッシリアに滅ぼされ、ホセア王を始めその十部族はアッシリアに捕らえ移されます。南王国ユダにもアッシリア王国の脅威が迫っていました。

 このような中で預言者イザヤは、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる(イザヤ9:6)」とイエス・キリストの誕生を預言しました。それは救い主が生まれる700年も前で、そのみどりごはダビデの父エッサイの子孫から生まれると告げたのです。しかし身分の低い羊飼いエッサイは、「エッサイの子のうちには、われわれのためのゆずりの地はない(Ⅱサムエル20:1)」と、軽んじられていました。

 それは私たちの救い主が、神でありながら、へりくだったお方であり、神としての権利を求めたり執着せず、しもべの姿をとり、人間と同じようになられ、この地上に来てくださったことを表しています(ピリピ2:6,7)。主は知恵と悟りの霊、思慮と力の霊に満ち、父なる神に従うことを喜びとし、外見や評判、うわさで人をさばくことをせず、弱い者や貧しい者の味方になってくださるお方なのです。それゆえ「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。(マルコ2:17)」と語り、さらに「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移る。(ヨハネ5:24)」と約束されました。神は、あなたが高価で尊い存在だと語り、あなたを招いておられます。

 神が遣わされた救い主イエス・キリストの御降誕を心から感謝し、受け取りましょう。

今日のメッセージ 『私の友イエス様』 2023年8月27日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト33章7~11節〕

 モーセは、いつも宿営の外、離れたところに、自分のために天幕を張り、これを会見の天幕と呼んでいました。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にあるこの会見の天幕に行くのを常としており、モーセがその天幕に入ると、雲の柱が降りて来て天幕の入り口に立ち、主は、人が自分の友と語るように顔と顔を合わせてモーセと語られたのです。

 雲の柱が天幕の入り口に立つのを見ると、民はみな立ち上がって、それぞれ自分の天幕の入り口で伏し拝みました。

 イエス様は、「わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。(ヨハネ15:15)」と語られました。

 そして、ご自身の十字架の死によって、私たちを神と和解させてくださり(ローマ5:10)、友と呼べる関係に修復してくださったのです。ですから、今私たちは、すべての障害が取り除かれて、神と自由に語り合うことができるのです。

 ところで、あなたは心にあることを正直に何でも神にお話しすることができるでしょうか。神は、私たちの心の中すべてをご存じですから、何の遠慮もいらないのです。どのように話せばよいのか分からず戸惑うならば、感謝なことに、聖霊がとりなしてくださるとの約束があります(ローマ8:26)。

 神は、あなたが心を開き、ご自身のところに来ることを今か今かと待っておられます。さあ、感謝と喜びをもって、友となってくださった神と語り合いましょう。

牧師コラム 『人としての歩み』 2022年11月20日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト20:12~17〕
神がくださった十の戒めの後半は、人と人との関係に必要不可欠な戒めです。
第五はあなたの父と母を敬え、第六は殺してはならない、第七は姦淫してはならない、第八は盗んではならない、第九はあなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない、第十はあなたの隣人の家を欲してはならないです。

親との関係について、次に、人と人との関係について語られていますが、今から約3500年も前に、すでにこのような戒めが与えられていたことに驚かされます。
聖書には、「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。(創 6:5)」とありますが、この戒めを与えてくださったお方、すなわち、天地万物の創造主である神が、私たちを愛するがゆえに幸せに生きるための「人としての道」を具体的に教えてくださったのです。

現代は科学も進歩し、生活も豊かになりましたが、残念ながら、人の心は今も昔も変わってはいません。特に私たちの心の中にある貪欲は、尽きることがありません。
聖書は「ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです(ヤコブ3:16)」と私たちに警告しています。
イエス・キリストは、私たちのすべての罪を十字架で身代わりに負い、罪の贖いを成し遂げてくださいました。それによって、私たちに神の愛が注がれていることが分かったのです。

 「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)」