今日のメッセージ 『あなたが最も大切なものは何か』 2026年5月17日

 牧師 高橋勝義

〔申命記4章15~31節〕

 かつてイスラエルはホレブ山で、火の中から主が自分たちに語りかける声を聞きましたが、御姿を見ることはできませんでした。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。(出エジプト33:20)」と神が語っておらるからです。人は神の御姿を見るならそこから偶像を作ってしまうゆえに、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない(出エジプト20:4)」との律法に繋がります。

 それゆえ、モーセは約束の地に入った民が、その地の住民の影響を受けることを案じ「あなたの神、主の命令に背いて、いかなる形の彫像も造ることがないようにしなさい」と命じたのです。偶像礼拝は主の御怒りを引き起こし、根絶やしにされてしまうというのです。しかしそこから主を探し求めるならば、イスラエルは主にお会いする、と希望のメッセージも語りました。

 イエス様は、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです(マタイ6:21)」と語られました。あなたの関心事は、お金ですか、この世の誉ですか、知識ですか。それが大切な宝となり、これらを手に入れようと人は貪欲になっていくのです。そしてこれこそが〈偶像〉なのです。私たちは、気づかないうちに、たくさんの偶像を心の中に持ち、それに支配されているのです。貪欲は偶像礼拝につながり(コロサイ3:5)、生けるまことの神から私たちを引き離し、私たちを死となる道に引き引きずり込むのです(箴言14:12)。それゆえに神は、自分の関心事(宝)に十分に気をつけなさいと警告するのです。

 「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように(ローマ15:13)」

コラム 『神は私の創造主』 2026年5月10日

 高橋勝義

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」(へブル4:7)

 頑なな人は、「自分の意見を押し通し、自の非を認めない」、そして「自分が間違うはずない」明らかなミスをしていてもなかなか謝ることができない傾向を持っています。何かにつけて負けず嫌いであり、ばかにされるのを嫌うからです。つまり、自分のプライドのために、人は心を頑なにさせるのでしょうか。さらに、年齢を重ねると「考えを曲げることは、自らの経験を否定することだ」と考えてしまい、頑固で、融通のきかない面も現れてきます。これは、他人の事ではありません。私の中に、この「頑なな心」があるのです。

 冒頭のみことばの注目すべき点は、「もし御声を聞くなら」にあり、これは神のみことばに対する態度が記されているのです。アダムは、神から食べてはならないと命じられていた木の実を食べてしまいました。アダムが制約されることに反抗して神の命令を破ったように、私の中にも反抗心があり、この反抗する心こそがイエス様を十字架につけた罪なのだ、と知ったときに、私はパウロの語る「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。(ガラテヤ3:24)」に頷いたのです。

 それでは心を頑なにしない方法はあるのでしょうか。イザヤが、神を陶器師に、私たちを粘土になぞらえ「ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に『彼は私を造らなかった』と言い、陶器が陶器師に『彼にはわきまえがない』と言えるだろうか。(イザヤ29:16)」と語っているように、創造主と自分との関係をしっかり自覚して歩むことにその鍵があると教えられます。

今日のメッセージ 『愛の帯を締めよ』 2026年5月3日

 牧師 高橋勝義

〔申命記4章1~14節〕

 神がホレブ(シナイ山)でイスラエルに二枚の石の板に書き記した十のことば、律法(掟と定め)を与えられたのは、約束の地で彼らが神の民として生きるためであり、それによって諸国の民にあなたがたの知恵と悟りを示し、まことの神がおられることを証しするためです。そして、神のことばに「つけ加えてはならない。また減らしてはならない。」と命じ、さらに、「私たちの神、主は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか。」「あなたはよく気をつけ、十分に用心し、あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間それらがあなたの心から離れることのないようにし、それらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。」と信仰の継承を命じたのです。

 イエス様もあらゆる国の人々を弟子とし、イエス様が命じられたすべてのことを守るように教えなさいと命じられました(マタイ28:19,20)。信仰の継承には、主の弟子となることが鍵だからです。では、イエス様の弟子であるとはどのような姿なのでしょうか。

 それは、「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります(ヨハネ13:35)」とイエス様が語られたようにがあるかどうかです。しかし、本物の愛を知らない私たちには、愛のある歩みはできません。それゆえ、まず「私には愛がありません」と正直に認め、イエス様の十字架の愛をしっかりと受け取ることが大切なのです(Ⅰヨハネ4:10)。

 「互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。(コロサイ3:13,14)

今日のメッセージ 『いのちのみことばを慕い求めよ』 2026年4月26日

 牧師 高橋勝義

〔申命記3章23~29節〕

 荒野を旅するイスラエルはカデシュで、モーセとアロンに水を求めて激しく抗議しました。神はモーセに「彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す」と告げますが、モーセは杖で岩を二度打ってしまいます。岩からは豊かな水が湧き出て、民も家畜も水を飲むことができましたが、神はモーセが神の命令に従わなかったゆえに、モーセとアロンは約束の地に入ることができない、と言われました(民数記20:1~13)。 それでも、モーセは神に約束の地に入らせてくださるように懇願したのですが、モーセの願いは聞き入れられませんでした。

 モーセは、新しい世代に、自分が約束の地に入れない理由と、これからはヨシュアが彼らのリーダーとなり約束の地を受け継がせると神が語られたことを告げます。そして神が立てた指導者ヨシュアに従い、何よりも神のみことばに聞き従って歩むようにと励ましたのです。

 使徒パウロも、自らの死が近いことを悟ったとき「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。(使徒20:32)」と語りました。それは、神のみことばこそが、私たちのたましいを救うことができ(ヤコブ1:21)、私たちの信仰を成長させるからです。それゆえ、聖書は、神のみことばを勝手に解釈しないようにと警告しています。聖書は、人間の意志によって書かれたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から示されて書き記した“いのち”の書物なのです(Ⅱペテロ1:20,21)。

 「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(Ⅰペテロ2:2)」

今日のメッセージ 『思いもよらない脱出の道』 2026年4月19日

 牧師 高橋勝義

〔申命記3章1~22節〕

 イスラエルが約束の地に入るためには、バシャンの王オグの領地を通る必要があり、モーセは使者を遣わして、領地を通らせてほしいと願いました。しかしバシャンの王は拒絶し、イスラエルを迎え撃ちに出て来たので、イスラエルは彼らと戦うことになりました。しかし、神が「わたしは、彼とそのすべての兵とその地を、あなたの手に渡している」と約束された通り、イスラエルは一人の生存者も残さず、すべての町を攻め取ることができました。そして、モーセは、この地をルベン族とカド族とマナセの半部族に相続地として与えたのです。この戦いは、新しい世代によってなされたのですが、モーセが「あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、【主】であるからだ」と語ったことに、彼らはうなずき、同時に、神がともにおられることの素晴らしさを経験することができたのです。

 今の私たちにとって「神がともにおられる」とは、どのようなことなのでしょうか。

 イエス様は「この方は真理の御霊です。~ この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。(ヨハネ14:17)」と語り、イエス様を信じる者の内には聖霊なる神がいつもおられることを約束してくださっています。私たちはさまざまな困難や試練の中で、孤軍奮闘しているように思ってしまいますが、実は、常に聖霊なる神がともに戦ってくださっておられるのだと私たちに教えています。

 「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:13)

今日のメッセージ 『なぜ不信仰に陥るのか』 2026年4月12日

 牧師 高橋勝義

〔申命記2章24~37節〕

 約束の地を目前にしながらイスラエルは、自ら招いた不信仰により荒野で38年過ごさなければなりませんでした。しかし、神はついに「立ち上がって出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ、わたしはヘシュボンの王アモリ人シホンとその国を、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。」とイスラエルに命じたのです。モーセは、ヘシュボンの王シホンに使者を遣わし、あなたの土地を通らせてくださいとお願いしますが、王はイスラエルを迎え撃ちに出て来たため、主の命じられた通り、すべての町を攻め取りました。この勝利によって、イスラエルは主がともにおられることを肌で感じ、勇気づけられたことでしょう。

 40年前イスラエルがエジプトを脱出するとき、神はエジプト王ファラオの心を頑なにされました。それは、モーセがエジプトの地でしるしと不思議を数多く行うことによって、イスラエルの信じる神こそが主であることを、人々が知るためでした。同様に、ヘシュボンの王シホンがイスラエルを阻んだのは、イスラエルがその地を占領するために、神があえて王の心を頑なにし、強気にしたからでした。では、神は、私たち人間の心をコントロールしようとしているのでしょうか。そんなことは、決してありません。

 聖書が「あなたがたの心を頑なにしてはならない。荒野での試みの日に神に逆らったときのように。(ヘブル3:8)」と警告するのは、我を通す心が私たちの中にはあるからです。これが問題の“根”です。ですから、「わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。(箴言1:33)」と約束されているように、どんな状況の中にあっても、神のみことばに素直に聞き従う心(信仰)が大切なのです。

今日のメッセージ 『あなたはわたしを信じますか』 2026年4月5日

 牧師 高橋勝義

〔ヨハネ11章1~45節〕

 マリヤとその姉マルタは、兄弟ラザロの病を癒してもらうためにイエス様に使いを送りました。イエス様はその四日後にラザロのところに出かけて行きますが、ラザロはすでに亡くなっていました。マルタはイエス様を見るなり「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言います。その彼女にイエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言い、このことを信じますかと聞きます。彼女は「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」と答えました。それから、イエス様は、ラザロが埋葬されている墓のところに行き、大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれたのです。すると、死んでいたはずのラザロが、手と足を長い布で巻かれたままで出て来たのです。

 死んだ人がよみがえる、「そんなことがあるはずはない」と誰もが思うでしょう。しかし、何もないところから、ことばをもってこの世界を造られた神にとって、不可能なことは何一つないのです(ルカ1:37)。事実、イエス・キリストは、私たちのすべての罪を身代わりに負い、十字架で死なれ、葬られました。しかし三日目によみがえられ、ご自分の語られたことば(わたしは、よみがえりです。いのちです)が、真実であることを証明されたのです。キリストのよみがえりは、私たちの罪の贖いと、信じる者のよみがえりの保証です。

 イエス・キリストは、不信仰な弟子トマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と語られました。この問いかけは、あなたにも語られています。あなたがいのちの道に歩めるかどうかの、とても重要な分岐点なのです。

今日のメッセージ 『真の罪の悔い改め』 2026年3月22日

 牧師 高橋勝義

〔申命記1章41~46節

 出エジプトから二年後、約束の地を目前にしながら、イスラエルは神に聞き従わなかったゆえに「あなたがたの子どもたちが、そこに入る。わたしが彼らにそこを与えるので、彼らはそこを所有するようになる。あなたがたは向きを変え、葦の海の道を通って荒野に向かって旅立て。」と告げられ、ことの重大さを知りました。そして、「私たちは主に対して罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って戦おう。」と言い出したのです。神はモーセをとおして「上って行ってはならない。戦ってはならない。わたしはあなたがたのうちにいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。」と言われたのですが、イスラエルの民は主に対して罪を犯したと言いつつもまたもや、御声に聞き従わず、山地を上って行き、出て来たアモリ人に打ち負かされてしまったのです。

 イエス様を銀貨三十枚で祭司長、長老たちに売ったユダは、後悔し、自ら命を断ちました(マタイ27:3~5)。ユダと同じ十二弟子のひとりペテロは主を「知らない」と三度も否認しましたが、その罪を自分で抱え込まず、泣いて悔い改め、神の愛と赦しをいただきました。

 預言者イザヤは、神である主が「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)と記しています。私たちも失敗をした時、ユダと同じ過ちを犯さないために、まず主に正直に告白し、更に、どこからズレたのか、どこに問題があったのか、私たちの内におられる聖霊に聞き、後悔ではなく、真の罪の悔い改めをさせていただきましょう。

 「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます(詩篇119:130)

今日のメッセージ 『あなたの心はどこにあるのか』 2026年3月15日

 牧師 高橋勝義

〔申命記1章26~40節

 神は「見よ、わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。(申命記1:8)」とイスラエルに約束、命じておられたにもかかわらず、38年前の彼らは、先住民の背の高さや高くそびえる城壁の情報に、心が萎え、神の命令に聞き従えなかったのです。それゆえ、神は怒って「あなたがたの子どもたちが、そこに入る。わたしが彼らにそこを与えるので、彼らはそこを所有するようになる。あなたがたは向きを変え、葦の海の道を通って荒野に向かって旅立て。」と命じたのです。イスラエルは、約束の地を目の前にしながら、そこに入ることができず、もと来た道、すなわち、荒野に戻ることになったのです。

 「主はあなたがたが宿営する場所を探すために、道中あなたがたの先に立って行き、夜は火の中、昼は雲の中にあって、あなたがたが行くべき道を示される(申命記1:33)お方である」とモーセは語っています。まるで、神が私たちの歩む道を探すために、先立ってくださり、私たちの行くべき道を示してくださる、と私たちに語っているかのようです。ここまで、私たちのことを親身になって心配してくださる神がいるでしょうか。

 しかし、私たちの心は、すぐに不信仰に陥り、この世のものを頼みとしてしまいます。ですから、正直に「主よ。私をあわれんでください。」と、神に絶えず祈る必要ああるのです。神は、私たちが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れている(マタイ9:36)ことをご存じのお方であり、その私たちを案じてくださっているお方だからです。

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)」

今日のメッセージ 『勇気を出しなさい』 2026年3月8日

 牧師 高橋勝義

〔申命記1章19~25節〕

 モーセは約束の地を前にして、荒野での生活を余儀なくされた分岐点を振り返ります。38年前、イスラエルは、主の命によりホレブを旅立ち、カデシュ・バルネアまですすんでましたが、約束の地がどんな地なのかを探るために、各部族の長12人が偵察に出かけます。40日後に帰ってきた偵察隊は、神が「わたしが乳と蜜の流れる地をあなたがたに与えて所有させる。(レビ20:24)」と語っておられた通り、「私たちの神、主が私たちに与えようとしておられる地は良い地ですと民に報告し、持ち帰ったその地の果物を民に見せました。

 しかしこの後、カレブとヨシュア以外の偵察隊の報告に民は不信仰を募らせ、荒野を38年さまようことになったのです。それゆえ、モーセは、38前と同じ過ちを繰り返させないためにも、神が語られた約束が真実であったことを、新しい世代に伝え、神がこの約束の地を自分たちに与えてくださるのだから、恐れずに戦うようにと励ましているのです。

 ここで重要なことは、見よ、あなたの神、主はこの地をあなたの手に渡してくださった。上れ。占領せよ。(申命記1:21)」との神のみことばの約束を信じて従うことでした。私たちの人生にはさまざまな困難や試練が待ち受けています。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」と語っておられるイエス様は、十字架の死とよみがえりをもって、私たちを罪の縄目から解放し、勝利を宣言されたのです。ですから、「勇気を出して歩みさない」と私たちを励ましておられるのです。

 あなたは一人ではないのですから、みことばの約束に堅く立ち、歩んで行きましょう。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」