コラム 『神の恵みに生かされて』 2024年5月19日

 牧師 高橋勝義

 高3の春にイエス様に出会い、クリスチャンとして歩み始めた私は、それから17年後、「私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました(エペソ3:7)」のみことばに促されて主の召しに導かれ、聖書神学舎での学びに進むことがゆるされました。卒業後は仙台福音自由教会の東北伝道の働きに加えていただきましたが、今から8年前、主の不思議な計らいによって、石巻の地に遣わされました。

 赴任当初の当地は、東日本大震災の爪痕が至る所に残っており、多くの方々が仮設住宅に住んでおられました。支援活動を継続しながら、コンサートや夏祭り、またイースターやクリスマスの集会、クラフト教室、お茶っこ会に皆さんをお誘いし、福音を聞いていただきました。しかし2020年、新型コロナウイルスの感染拡大により、大きな集会はもちろん、クラフト教室やお茶っこ会もできず、礼拝と祈祷会だけになってしまった時期もありました。

 今、世の中は落ち着きを取り戻しましたが、コロナ禍の三年間を振り返る時、主の守りと恵み、あわれみを深く覚えるばかりです。なによりも、私が教えられたことは、私を神の召しに導いたみことばの真実です。そして今も日々このみことばの力を実感しています。

 神が与えてくださる恵みなくして、何の知恵も、力もない私が、福音に仕える者として歩むことなど不可能です。今も、これから先も、この約束のみことばは私の希望です。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5)」 アーメン

今日のメッセージ 『イエス様によるきよめ』 2024年5月12日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記13章1~59節〕

 レビ記13章は「ツァラアトに冒された場合のおしえであり、祭司がそれを調べ、きよい、あるいは汚れていると宣言するためである」と記されています。おそらくツァラアトが人々の日常生活に悪影響を与えていたからでしょう。祭司は患部を調べ、人がツァラアトに冒されていれば、彼を汚れていると宣言し、七日間隔離します。七日目に再び彼を調べ、もし患部が薄れ、その患部が皮膚に広がっていなければ、彼をきよいと宣言します。そして彼は衣服を洗い、きよくなります。また衣服や物にツァラアトが生じた場合も同様に七日間隔離し、その七日後に再び調べ、ツァラアトが広がっているなら悪性なので焼却する、と定めました。

 ところで、イエス様はツァラアトに冒されている人に、ご自身の手を伸ばしてさわり、「わたしの心だ。きよくなれ(マタイ8:3)」と言われました。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられ、彼は日常生活、そして社会生活を取り戻したのです。体の表面に現れたツァラアトは目にみえます。では、私たちの心の中はどうでしょうか。

 夜通し漁をしたにもかかわらず魚が捕れなかったペテロたちに、主は、深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさいと語られます。ペテロは従いながらも、その心には、漁師の自分たちが魚を捕れなかったのにという反発心がありました。ところが、網も破れんばかりの魚が取れたのです。ですから、ペテロは自分の醜い心に「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」(ルカ5:8)と、主の足元にひれ伏し告白したのです。

 イエス様は、体の表面に現れたツァラアトだけではなく、心の中に潜む罪をも明らかにし、その罪のすべてを十字架の血潮によってきよめてくださるのです。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:8,9)

今日のメッセージ 『神からのプレゼント』 2024年5月5日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記12章1~8節〕

 レビ記12章は、婦人の産後について、また生まれた子どもについての教えです。創造主なる神は私たちのからだの隅々まで知っておられるお方です。ですから、婦人の産後のあり方について定め、その体を守られました。これは神の愛の配慮なのです。また、誕生した子どもが男子の場合、八日目に、その子の包皮の肉に割礼を施す。これは、神がアブラハムとの間の契約のしるしとして“割礼”(創世記17:10)を定められたことに基づいています。しかし、イエス・キリストの十字架による贖いが成し遂げられたことによって、神は御霊による心の割礼こそ、まことの割礼(ローマ2:29)であるとされました。

 ここで最も重要な事は、生まれたこどもが息子であっても娘であっても、全焼のささげ物として一歳の子羊一匹と、罪のきよめのささげ物を献げなければならないことにあります。

 この世では、環境や教育などを整えれば、人は正しい人になると考えられがちですが、「ご覧ください。私は咎ある者として生まれ罪ある者として母は私を身ごもりました。(詩篇51:5)」とあるように、人は生まれながらにして“罪人”なのです。それゆえに、罪を犯してしまう者であり「生まれながら神の御怒りを受けるべき子ら(エペソ2:3)」なのです。

 イエス・キリストは、私たちの罪のためだけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物となり(Ⅰヨハネ2:2)、十字架の上で死んでくださったゆえに、やがて来る神の御怒りから私たちを救い出してくださるのです(Ⅰテサロニケ1:10)。この救いは、私たちの行いや功績、あるいは家柄、財産などによるのではなく、キリストを罪からの救い主と信じる信仰によるのであり、神からの賜物(プレゼント)なのです(エペソ2:8)。

今日のメッセージ 『主の愛の中に生きる』 2024年4月28日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記11章1~47節〕

 レビ記11章には、陸の生き物、魚など水中の生き物、空を飛ぶ鳥について、食べてよい動物と食べてはならない動物、また、きよい生き物と汚れた生き物について記されています。

 それは、「あなたがた(神の民)は聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。(レビ11:45)」と神が語っているように、イスラエルの民があらゆる汚れや忌むべきものから離れ、聖なる民として生きる姿を通して、近隣諸国の人々に、まことの神がおられることを証し、伝えるためでした。

 ところが彼らは、いつしかこの教えを守っている自分たちは「きよく正しい民だ」と思うようになっていました。それに対して、イエス様は、「外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。(マルコ7:15)」と語られました。食物は人の心に入るのではなく、腹に入り、排泄されるゆえに「すべての食物をきよいとされた(マルコ7:19)」のです。そして、人の内側(心)から出て来るもの、それが人を汚す(マルコ7:21~23)ことを教えられたのです。

 事実、私たちの口から出ることばにとげを感じることがあるのは、心の中に「恨み・妬み・嫉み・憎しみ・怒り」などがあるからではないでしょうか。このような私たちですが、神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」と語られ、あなたへのご自身の愛をイエス・キリストの十字架に現されたのです(Ⅰヨハネ4:10)。

 主は、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。(ヨハネ15:9)」と、今日も私たちに語っておられます。

今日のメッセージ 『襟を正す』 2024年4月21日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記10章8~20節〕

 主のことばを侮った祭司アロンの子ナダブとアビフが、主の火で焼き尽くされるという厳しい出来事の後、モーセはアロンに「会見の天幕に入るときには、あなたも、あなたとともにいる息子たちも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。あなたがたが死ぬことのないようにするためである。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。」と祭司職への神の掟を告げました。さらに、罪のきよめのささげ物は聖なる所で食べる、と命じられているいけにえがすでに焼かれてしまっていたので、なぜ食べなかったのかをアロンの子らに問いただしました。するとアロンはモーセに、「見なさい。今日、彼らは自分たちの罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物を主の前に献げたが、このようなことが私の身に降りかかったのだ。今日、私が罪のきよめのささげ物を食べていたら、そのことは主の目に良しとされただろうか。」と言い、これを聞いたモーセも、それで良い、としたのです。

 わが子が、目の前で死ぬ。それは、アロンにとってどんなに辛く悲しいことか。と同時に、「あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい(Ⅱコリント13:5)」とあるように、アロンは自らの心の内を探られたのです。自分も同じような間違いをしたかもしれないという思いがあるからこそ、最も聖なるものとされるささげ物を食べずにすべて焼いたのです。私たちはどうでしょうか。兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、全く気づかず(マタイ7:3)、人をさばいてはいないでしょうか。

 「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいない(ピリピ2:21)」。今一度心を聖霊によって点検して頂き、襟を正しましょう。(エペソ5:10)

今日のメッセージ 『主を仰ぎ見よ』 2024年4月14日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記10章1~7節〕

 祭司アロンの子ナダブとアビフは、神の命令を破り(出エジプト30:9)、定められた神聖な火ではなく異なる火を主の前に献げました。すると、たちまち火が主の前から出て、彼らを焼き尽くしたのです。「主が『わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す(レビ10:3)』と言われたのは、こういうことなのだ」と言うモーセのことばに、ただ、ただアロンは黙するばかりでした。続けてモーセは、アロンと残された二人の息子エルアザルとイタマルに「あなたがたは髪の毛を乱してはならない。~あなたがたは会見の天幕の入り口から外へ出てはならない(祭司の務めを離れてはならない)。~あなたがたの上には主の注ぎの油があるからだ。」と語ります。

 聖書は、すべての人との平和と聖さを追い求めるように語っています。それは、聖さがなければ、だれも主を見ることができないからです(ヘブル12:14)。さらに「神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです(Ⅰテサロニケ4:7)」と語っています。イエス様が「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。(マタイ5:8)」と語っておられる中に、聖さにあずかるヒントがあります。

 私たちは、日々イエス様を仰ぎ見ることによって心の状態が明らかになり、自分の罪深さが知らされ、十字架へと導かれるのです。そして聖霊が、私たちを罪の悔い改めを導き、神の愛と赦し、神の聖さを明らかにしてくださるのです。それゆえ、詩篇の作者は「どうかあなたの仰せから私が迷い出ないようにしてください(詩篇119:10)」と祈るのです。

 朝ごとの主との交わり、すなわち、デボーションを大切にしましょう。

今日のメッセージ 『主の祝福の中で』 2024年4月7日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記9章1~24節〕

 神はエジプトで奴隷の民となっていたイスラエルの人々を救い出し、十戒を授け、神を礼拝する幕屋の建設を命じられました。続いて、アロンとその子らの祭司任職式をモーセに命じましたが、それは七日間を要しました。その八日目に、モーセはアロンに罪のきよめのささげ物として子牛、また全焼のささげ物として雄羊を主の前に献げるように命じ、民にも罪のきよめのささげ物の雄やぎ、また全焼のささげ物の子牛と子羊、穀物のささげ物を用意させました。モーセは「これは、あなたがたが行うようにと主が命じられたことである。そのようにすれば、主の栄光があなたがたに現れる。」と告げ、アロンにまず自分の罪の償いを、次に民の罪の償いを、主が命じられたとおり宥めを行うように命じました。

 アロンはそれらをすべて終えて、民に向かって両手を上げ祝福し、祭壇から降りました。次にモーセとアロンが会見の天幕に入り、そこから出て来て、民を祝福すると、主の栄光が民全体に現れたのです。民はみなこれを見て喜び、主の前にひれ伏しました。神は彼らが神の民として歩み始めた最初の日を、ご自身の栄光をもって祝福されたのです。

 イエス様も失われたものが見つかる喜び(救い主と信じる者が起こされる喜び)について、「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです(ルカ15:7)」と語っておられます。罪を悔い改めるとき、人は滅びから永遠のいのちに移され(ヨハネ3:16)、神の子ども(ヨハネ1:12)、そして神の民(Ⅰペテロ2:10)とされます。この門出を、神は喜び祝福しておられるのです。

 「主は、ご自分の民を、平安をもって祝福される(詩篇29:11)」

今日のメッセージ 『キリストにある希望』 2024年3月31日

 牧師 高橋勝義

イースター礼拝

〔Ⅰコリント15章12~22節〕

 パウロの人生は、ダマスコ途上で、よみがえられたキリストに出会い、クリスチャンを迫害する者からキリストを宣べ伝える者に変えられました。彼は、キリストが死者の中からよみがえったこと、また救い主であることを力強く人々に語ったのです。ところがそこに死者の復活はないと言い出す者が出てきました。しかし、キリストがよみがえらなかったなら、自分たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなり、自分たちは神への偽証人になってしまう、とパウロは語ります。さらに、キリストに望みを抱いている自分たちは、すべての人の中で一番哀れな者となってしまうが、今やキリストが眠った者の初穂として、死者の中からよみがえられたゆえに、キリストを罪からの救い主として信じるすべての者は、キリストにあって死からいのちに移されている、と語ったのです。

 「死者がよみがえる」。これは、私たちの理性や常識、あるいは科学をもってしても受け入れがたいことですが、実はここにこそ、本当の希望があるのです。それゆえに、パウロは、よみがえられたキリストと出会った証人として、自分のいのちをも顧みず、人々に福音を宣べ伝えました。いのちの危険にさらされながらも、ひるむことなく、自分の人生のすべてを注ぎこんだのです。

 イエス様は、御自身のよみがえりを信じようとしないトマスに対して「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(ヨハネ20:29)」と語りました。そして今、イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」とあなたに語っておられます。

今日のメッセージ 『聖霊の証印』 2024年3月24日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記8章22~36節〕

 モーセはアロンに大祭司の装束を着せ、頭の上に油を注ぎ聖別しました。次にその子らにも祭司職の装束を着せ、アロンとその子らを祭司職に任じる任職を行ないました。アロンとその子らは雄羊の頭に手を置き、それは屠られ、モーセはその血を彼らの右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に塗り、残りを祭壇の側面に振りかけ、脂肪及び輪形と薄焼きパン各一個も祭壇の上で、全焼のささげ物とともに焼いて煙にしました。アロンとその子らは会見の天幕の入り口で、その肉を煮て、任職のささげ物のかごの中にあるパンと一緒に食べ、残りは火で焼きました。祭司職の任命には七日を要するため、会見の天幕の入り口で七日の間、昼も夜もとどまり、主への務めを果たさなければなりません。それは、彼らが死ぬことがないようにと神が定められたからです。

 任職式は、神からの召しと祭司職に任ぜられたことを示す証印ですからとても重要です。では、この事は今の私たちにどう関わるのでしょうか。

 聖書は「神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました」(Ⅱコリント1:22) さらに「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました」(エペソ1:13)と語っています。

 証印とは、証明のために押す印のことですから、神は私たちが救われていることを証明するために、私たちの内に聖霊を内住させてくださったのです。

 「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」
(ローマ8:1)

今日のメッセージ 『御霊によって歩みなさい』 2024年3月17日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記8章1~21節〕

 神はアロンとその子らを神の働きに召し、モーセに油注ぎを行うように指示されました。アロンとその子ら、そして全会衆を幕屋の入り口に集め、アロンとその子らを水で洗い、その後アロンに祭司服を身につけさせます。モーセは注ぎの油を取って、幕屋とその中にあるすべてと祭壇の上に七度振りまき、祭壇とそのすべての用具、洗盤とその台の油注ぎを行い、それらを聖別しました。それからアロンの頭に油を注ぎ、彼を聖別しました。次にアロンの子らを連れて来て、彼らにも長服を着せ、装束を整えました。アロンとその子らは、罪のきよめのささげ物、また全焼のささげ物である雄牛の頭に手を置き、それを屠り、モーセはその血を祭壇の側面に振りかけ、その雄羊を全部、祭壇の上で焼いて煙にしました。すべて主が命じられたとおりにモーセは行いました。

 神は御自身の働きのために召した人、アロンの頭に、特別に油を注ぎました。この頭に油を注ぐ行為は、今の私たちにどう関わるのでしょうか。イエス様の昇天から50日後、約束された通り聖霊が下られました(使徒1:8)。炎のような舌が分かれて、一人ひとりの上にとどまると、皆が聖霊に満たされ、他国のいろいろなことばで話し始めたのです(使徒2:3,4)。また、異邦人にも同じように聖霊が注がれました(使徒10:44)。この時から聖霊はイエス様を救い主と信じるすべての人の内にきてくださったのです。そして自分の力で頑張る歩みから、私たちの心に内住される神、聖霊に導かれる歩みへと移されたのです。

 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」                    (ガラテヤ5:16)