今日のメッセージ 『主よ、あの人はどうですか』 2024年7月28日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記22章1~16節〕

 レビ記22章も前回に引き続き祭司について語られています。神はモーセに「宥めに用いるささげ物は聖なるものゆえに慎重に扱い、神の聖なる名を汚してはならない」とアロンとその子らに教えるように命じました。神の聖なる名を汚す行為は、神ご自身を侮ることであると教えるためでした。汚れとは、ねたみや高慢などの罪であり、これらは主を救い主と信じ、祭司とされた私たちクリスチャン(Ⅰペテロ2:9)に語られているのです。

 私たちは様々な問題に追われ、周りの評価を気にする悪戦苦闘の日々を送っていますが、ペテロも復活のイエス様から三度「あなたはわたしを愛していますか」と聞かれたあと、「わたしの羊を飼いなさい。~ しかし年をとると~ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」と告げられたその時、後ろにいた弟子について「主よ、この人はどうなのですか」とイエス様に尋ねたのでした。すると、イエス様はペテロに「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われたのです(ヨハネ21:22)。つまり、イエス様は「人のことは気にしないで、ただわたしについて来なさい」と言われたのです。

 周りが気になるペテロの姿は、私たちの姿ではないでしょうか。そのペテロは「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(Ⅰペテロ5:6)と告白しています。

 神の目にはすべてが裸であり、神は私たちを公平にさばかれるお方、「神は、人の行いに応じて報いをし、それぞれをその道にしたがって取り扱われる (ヨブ34:11)」お方なのです。

今日のメッセージ 『日々造り変えられる歩み』 2024年7月21日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記21章1~24節〕

 神は「わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせる。(出29:44)」と言われました。神はアロンとその子らを聖別して、神の祝福を注ぐ仲介者として祭司に任命されたのです。それゆえに、祭司は聖なる者であること、また神の名を汚さないことが求められるのです。レビ記21章は、祭司職に聖別されたアロンの子孫に求められていることが記されています。

 さてそれでは、これらのことは今の私たちにどう関わるのでしょうか。キリストを罪からの救い主と信じた私たちは、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(Ⅰペテロ2:9)」と語られているように、私たちは神から祭司に任命されているのです。また、「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。(エペソ5:8)」とも語られています。イエス様は、光の子どもである私たちは「地の塩、世の光」(マタイ5:13,14)であると語られました。塩は食品の腐敗を防ぎ、光は暗闇を照らし周囲を明るくします。同様に神は、私たちの日々の歩みを通して、人々に罪を知らせ、その罪が広がるのを抑制してほしいと願っておられるのです。しかし生まれながらの私たちには、その力はありません。ただ御霊によって歩むとき、御霊の実(ガラテヤ5:22,23)が与えられ、一歩一歩前進できるのです。

 御霊によって歩むとは、日々の罪の悔い改めとイエス様に頼る歩みです。その時、私たちの内なる人は日々新たにされていくのです。(Ⅱコリント4:16)

今日のメッセージ 『刑罰に隠されている神の愛』 2024年7月14日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記20:1~27〕

 神がイスラエルに掟と定めを守ることを命じられたのは、神の民である彼らを守るためでした。しかし、現代でも、法律を破った者には刑罰が課せられるように、神は掟と定めを守らない者にはその罪の責任を問われたのです。これは、神の聖さを保つと同時に、彼らを異教の習慣から守り、かつ、罪の道に歩ませないための防波堤、すなわち、神の愛なのです。

 神は、モレク(偶像)に子をささげる者、自分の父や母をののしる者、姦淫した男や女、動物と寝た男や女、また霊媒や口寄せする者など神の掟と定めを破った者は、イスラエルの民から断ち切られるだけではなく、石打ちで必ず殺されなければならないとされました。その血の責任を彼ら自身に問われたのです。

 聖書に「あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません(ヘブル12:4)」とありますが、私たちには罪の重大さや深刻さが十分に分かっていないのかもしれません。「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(ヘブル9:22)」と語られているこのみことばに、私たちは、真摯に向き合う必要があるのではないでしょうか。イエス・キリストは、私たちのすべての罪の身代わりとなって、この重い刑罰をその身に負うためにこの世に来られました。そして「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。(Ⅰペテロ2:24)」と語られているとおり、キリストを信じる者のすべての罪が完全に赦されたのです。

 このキリストの愛に応えるべく、罪を離れ、義のために生きる歩みを目指しましょう。

今日のメッセージ 『神を恐れかしこむ信仰』 2024年7月7日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記19章1~39節〕

 神はレビ記19章でも「あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである」と語られ、神の民イスラエルに、聖なる者としての歩みを求められました。具体的には、自分の父と母を敬い、偶像礼拝を避け、まことの神だけを礼拝すること。また人への配慮を怠らず、不正やえこひいきなどをしないこと。さらに大地の実りを正しく管理し、異教的な行為を排除し、老人や在留異邦人への配慮を忘れず、公平な取引を行うことでした。しかし時が経つにつれて、自分たちの都合に合う解釈をするようになり、神の御思いからずれていったのです。イエス様も、彼らがあなたの父と母を敬え(出20:12)という戒めを知りながら、『差し上げるはずのものは神に献げてしまいました(コルバン)』と両親に言って、父と母を敬う神の戒めを無力化していることを問題視されました。

 この神の掟と定めを守る心構えは、「ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました(へブル11:7)」と記されているみことばに、見いだすことができます。その心構えとは、神を信頼して「恐れかしこむ」信仰です。

 神は私たちの内にある「(神を)恐れかしこむ」ことが出来ない心をよくご存知です。それゆえに、イエス・キリストを私たちの罪の宥めのために遣わされ、十字架の上でそのいのちを献げるという罪の贖いを成し遂げてくださり、私たちに神の愛を示してくださいました。このキリストの愛を受け取る者が、喜んで神の戒めを守る者なのです。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。(Ⅰヨハネ5:3)」

今日のメッセージ 『わが足のともしび、わが道の光』 2024年6月30日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記18章1~30節〕

 神は、創造のはじめから私たちを男と女に創造され(創世記1:27)、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるようにされました(創世記2:24)。しかし、人が神の命令に従わなかった罪のために、この夫婦の関係にはひびがはいってしまい、神は、夫婦が本来のあるべき姿になるように、イスラエルの中に深く入り込んでいるエジプトの風習やカナンの風習をまねてはならないと命じたのです。罪の力は、大きいからです。具体的には近親相姦や不純な性行為、動物との性行為、また火の中に自分の子どもを通す、など異教的習慣をまねてはならないということでした。それは、彼らが主の掟と定めを守り行うことによって、彼ら自身の歩みが守られ、神の名を汚さないためでした。

 この世の道徳観や常識は時代とともに変化します。私たちは、その影響を受け、いつのまにか、その風潮に流されてしまいます。私たちの信仰生活にも、同じようなことが起こってはいないでしょうか。聖書は「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:2)」と語っています。神のみこころは、神のことばである聖書に表されており、神のことばに心開く者の内に、神は「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与える」(詩篇119:130)と約束しているのです。あなたはこの世の道徳観や常識、自分の知恵や知識で歩んではいませんか、それとも、日々神のことばに従って歩んでいますか。

 「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です」(詩篇119:105)

今日のメッセージ 『キリストのいのちに生きる』 2024年6月23日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記17章1~16節〕

 神が幕屋を建てるように命じたのは、イスラエルの民にまことの神を礼拝させるためでした。そして、神は幕屋以外では献げ物をささげないように命じました。それは雄やぎの偶像にいけにえを献げるエジプトの習慣を、イスラエルもおこなっていたからです。また『いかなる肉の血も食べてはならない』とも命じられました。人は創造の初め、草や木の実を食していましたが(創世記1:29)、罪が入り、エデンの園を出されてからは、それら以外の肉も食べるようになりました。人は神が創造したものを食べて生かされているのです。神は、いのちの尊さと、生かされていることを教えると同時に、たましいのための宥め(罪の宥め)は、いのちそのものである血が流される以外にないこと、血は罪を償い、たましいを救う代償であるゆえに、『いかなる肉の血も食べてはならない』と命じられたのです。

 神が遣わされたイエス・キリストは、私たちの罪の贖いのために、十字架の上で死んでくださいました。このキリストを救い主と信じるとき、十字架の上で流された血潮、すなわち、キリストのいのちによって、すべての罪が贖われ、永遠のいのちが与えられたのです。そして、私たちは自分のために生きるのではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きる者に変えられたのです(Ⅱコリント5:15)。イエス様も「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)と語っておられるように、パウロは『もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです(ガラテヤ2:20)』と告白しています。

 この自覚を持つことが大切であり、聖霊が「キリストのいのちに生きる」歩みへと私たちを導いてくださるのです。(ガラテヤ5:16)

今日のメッセージ 『罪の全き赦し』 2024年6月16日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記16章1~34節〕

 神は年に一度、民の罪の赦しのための宥めを、代々にわたり守るように定められました(出エジプト30:10)。アロンの二人の息子ナダブとアビフが死んだ後、主はモーセに、「アロンは垂れ幕の内側の聖所に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。」と語られ、続いてこの宥めをどのように執り行うかについて告げられました。レビ記16章はこの宥めをする贖罪の日について記されています。

 アロンはからだに水を浴びて聖なる装束を身に着け聖所に入り、自分と自分の家族の罪の償いをし、さらに主の前、会見の天幕の入り口に雄やぎ二頭を立たせて、くじを引き、主のもの(民の罪のためのいけにえ)と、民の罪の身代わりに荒野へ放つアザゼルになるほうを決めます。アザゼルのための雄やぎは、主の前に生きたままで立たせ、アロンはその頭に両手を置き、民のすべての罪を告白します。そして、民の罪を頭の上に載せた雄やぎは係りの者の手で荒野に追いやられます。これは年に一度、イスラエルの子らのすべての罪を除くために行われる宥めであり、永遠の掟でした。

 神は「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)」と約束してくださり、事実この約束は、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊(ヨハネ1:29)」としてこの世に来られたイエス・キリストによって成就しました。私たちの罪のために十字架で流されたイエス・キリストの血潮がすべての罪から私たちをきよめてくださるからです(Ⅰヨハネ1:7)。

 「わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさない(エレミヤ31:34)」

コラム 『永遠のいのちに生かされて』 2024年6月9日

 牧師 栗原延元

 〈永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたとあなたが遣わされたイエス・キリストとを知ることです。〉(ヨハネ伝17:3)

 ヨハネの福音書17章はイエス様の最後の祈りがしるされています。「目を天に向けて」主は祈られたのです。その祈りの冒頭の教えが「永遠のいのち」についてです。

 (イ)「永遠のいのち」は、誰もが求めるものです。私は友人を亡くし、その友が火葬場で荼毘(たび)に付され、その煙突からけむりが立ち上っていくのを見上げながら人のいのちのはかなさを実感するとともに「人は死んでも死なない道はないだろうか」と思い始めていました。そのような浪人生活をへて、思いがけなくミッション・スクールに入り聖書研究会に出るようになりました。そこで、学んでいたのがヨハネの福音書です。様々な議論が交わされる中で、私の心に強烈な印象を与えたのが11章25~26節です。

 (ロ)イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」このイエスのことばから私は真剣に聖書を学びました。その結果、私が求めていた道は、イエス・キリストであると信じました。

 (ハ)それから私の心が変わりました。下宿から自転車に乗って学校に通う京都の街並みが輝いているのです。生きているのが、いや生かされているのが嬉しくなっていったのです。〈あなたがたは聖書の中に永遠のいのちがあると思うので聖書を調べています。その聖書がわたしについて証言しているのです。〉(ヨハネ伝5:39)京都のミッション・スクールを卒業してから東京の神学校で聖書を学び、牧師、宣教師の働きに就かせていただき半世紀を過ぎました。八十路になる今、主イエスの恵みと父なる神の愛と、御霊なる神、すなわち三位一体なる神のいのちに支えられる私です。

今日のメッセージ 『闇から光へ』 2024年6月2日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記15章1~33節〕

 神は人を男と女に創造され、彼らを祝福し「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」と仰せられ、「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と命じられました。しかし、人はこの神の命令に従わず、それによって、人は自分たちが裸であることを知り、恥じて、いちじくの葉をつづり合わせた腰の覆いを作ったのです(創世記3:7)。これは、神から離れた人の心が「闇」を好むようになったことの表れです。

 レビ記15章で、神は罪が引き起こす「性」の問題をタブー視せず、そこに光を当てられました。それは、イスラエルの子らを汚れから離れさせ、彼らが、イスラエルのただ中にある主の幕屋を汚し、自分たちの汚れで死ぬことのないようにするためでした。

 時満ちて、イエス様はすべての人を照らすまことの光として来られましたが、人々は、光よりも闇を愛し、光であるイエス様を受け入れなかったのです(ヨハネ3:19,20)。そのような中で、主は、私たちの心の中に潜む罪を教えるために、「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです(マタイ5:28)」と語られました。

 では、どうすれば、私たちは光の中を歩むことができるのでしょうか。

 その答えは、イエス様が「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(ヨハネ8:12)」と語られたみことばにあります。イエス様を罪からの救い主と信じるなら「わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです(ヨハネ12:46)」との約束があなたの中に成就されるのです。

今日のメッセージ 『神との回復』 2024年5月26日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記14章1~57節〕

 レビ記14章では、祭司がツァラアトの患部が治っていることを確認した後、その人のきよめをどのように行なうかが記されています。また、イスラエルが約束の地カナンに入り、所有しようとする家にツァラアトに冒された箇所があったならば、どのように対処すべきかについても記されています。ツァラアトが完治した、と祭司の宣言を受けることはとても重要です。

 この宣言によって、人々の不安や恐れは取り除かれ、何よりもツァラアトに冒された者の日常生活と社会生活が回復されるからです。また、家についても、安心して住めるだけではなく、近隣の人々との交流、出入りが可能になるからです。

 聖書は「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなた方の罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ(イザヤ59:2)」と語っています。これは、神と私たちの関係が絶縁状態であることを示しています。しかし、神はメシアであるイエス・キリストを遣わし、私たちとの関係を回復する道を備えてくださいました(使徒3:20)。それは、神との仕切りとなっている咎(罪)を取り除くために、イエス様が十字架上でご自分のいのちをささげ、罪を取り除くいけにえとなってくださる、という道でした(ヘブル9:26)。この十字架が、私の罪のためであると信じる時、「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいき(ローマ5:10)」、神との絶縁状態から私たちを回復させるのです。つまり、聖霊をいただいた私たちは霊的に死んでいた状態から、創造の初めの状態に戻り、神を「アバ、父」と呼ぶことのできる関係になったのです(ローマ8:15)。

 私たちは「主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです」(Ⅰコリント1:9)