牧師 高橋勝義 |
〔レビ記22章1~16節〕
レビ記22章も前回に引き続き祭司について語られています。神はモーセに「宥めに用いるささげ物は聖なるものゆえに慎重に扱い、神の聖なる名を汚してはならない」とアロンとその子らに教えるように命じました。神の聖なる名を汚す行為は、神ご自身を侮ることであると教えるためでした。汚れとは、ねたみや高慢などの罪であり、これらは主を救い主と信じ、祭司とされた私たちクリスチャン(Ⅰペテロ2:9)に語られているのです。
私たちは様々な問題に追われ、周りの評価を気にする悪戦苦闘の日々を送っていますが、ペテロも復活のイエス様から三度「あなたはわたしを愛していますか」と聞かれたあと、「わたしの羊を飼いなさい。~ しかし年をとると~ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」と告げられたその時、後ろにいた弟子について「主よ、この人はどうなのですか」とイエス様に尋ねたのでした。すると、イエス様はペテロに「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われたのです(ヨハネ21:22)。つまり、イエス様は「人のことは気にしないで、ただわたしについて来なさい」と言われたのです。
周りが気になるペテロの姿は、私たちの姿ではないでしょうか。そのペテロは「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(Ⅰペテロ5:6)と告白しています。
神の目にはすべてが裸であり、神は私たちを公平にさばかれるお方、「神は、人の行いに応じて報いをし、それぞれをその道にしたがって取り扱われる (ヨブ34:11)」お方なのです。