今日のメッセージ 『いのちのみことばを慕い求めよ』 2026年4月26日

 牧師 高橋勝義

〔申命記3章23~29節〕

 荒野を旅するイスラエルはカデシュで、モーセとアロンに水を求めて激しく抗議しました。神はモーセに「彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す」と告げますが、モーセは杖で岩を二度打ってしまいます。岩からは豊かな水が湧き出て、民も家畜も水を飲むことができましたが、神はモーセが神の命令に従わなかったゆえに、モーセとアロンは約束の地に入ることができない、と言われました(民数記20:1~13)。 それでも、モーセは神に約束の地に入らせてくださるように懇願したのですが、モーセの願いは聞き入れられませんでした。

 モーセは、新しい世代に、自分が約束の地に入れない理由と、これからはヨシュアが彼らのリーダーとなり約束の地を受け継がせると神が語られたことを告げます。そして神が立てた指導者ヨシュアに従い、何よりも神のみことばに聞き従って歩むようにと励ましたのです。

 使徒パウロも、自らの死が近いことを悟ったとき「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。(使徒20:32)」と語りました。それは、神のみことばこそが、私たちのたましいを救うことができ(ヤコブ1:21)、私たちの信仰を成長させるからです。それゆえ、聖書は、神のみことばを勝手に解釈しないようにと警告しています。聖書は、人間の意志によって書かれたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から示されて書き記した“いのち”の書物なのです(Ⅱペテロ1:20,21)。

 「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(Ⅰペテロ2:2)」

今日のメッセージ 『思いもよらない脱出の道』 2026年4月19日

 牧師 高橋勝義

〔申命記3章1~22節〕

 イスラエルが約束の地に入るためには、バシャンの王オグの領地を通る必要があり、モーセは使者を遣わして、領地を通らせてほしいと願いました。しかしバシャンの王は拒絶し、イスラエルを迎え撃ちに出て来たので、イスラエルは彼らと戦うことになりました。しかし、神が「わたしは、彼とそのすべての兵とその地を、あなたの手に渡している」と約束された通り、イスラエルは一人の生存者も残さず、すべての町を攻め取ることができました。そして、モーセは、この地をルベン族とカド族とマナセの半部族に相続地として与えたのです。この戦いは、新しい世代によってなされたのですが、モーセが「あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、【主】であるからだ」と語ったことに、彼らはうなずき、同時に、神がともにおられることの素晴らしさを経験することができたのです。

 今の私たちにとって「神がともにおられる」とは、どのようなことなのでしょうか。

 イエス様は「この方は真理の御霊です。~ この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。(ヨハネ14:17)」と語り、イエス様を信じる者の内には聖霊なる神がいつもおられることを約束してくださっています。私たちはさまざまな困難や試練の中で、孤軍奮闘しているように思ってしまいますが、実は、常に聖霊なる神がともに戦ってくださっておられるのだと私たちに教えています。

 「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:13)

今日のメッセージ 『なぜ不信仰に陥るのか』 2026年4月12日

 牧師 高橋勝義

〔申命記2章24~37節〕

 約束の地を目前にしながらイスラエルは、自ら招いた不信仰により荒野で38年過ごさなければなりませんでした。しかし、神はついに「立ち上がって出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ、わたしはヘシュボンの王アモリ人シホンとその国を、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。」とイスラエルに命じたのです。モーセは、ヘシュボンの王シホンに使者を遣わし、あなたの土地を通らせてくださいとお願いしますが、王はイスラエルを迎え撃ちに出て来たため、主の命じられた通り、すべての町を攻め取りました。この勝利によって、イスラエルは主がともにおられることを肌で感じ、勇気づけられたことでしょう。

 40年前イスラエルがエジプトを脱出するとき、神はエジプト王ファラオの心を頑なにされました。それは、モーセがエジプトの地でしるしと不思議を数多く行うことによって、イスラエルの信じる神こそが主であることを、人々が知るためでした。同様に、ヘシュボンの王シホンがイスラエルを阻んだのは、イスラエルがその地を占領するために、神があえて王の心を頑なにし、強気にしたからでした。では、神は、私たち人間の心をコントロールしようとしているのでしょうか。そんなことは、決してありません。

 聖書が「あなたがたの心を頑なにしてはならない。荒野での試みの日に神に逆らったときのように。(ヘブル3:8)」と警告するのは、我を通す心が私たちの中にはあるからです。これが問題の“根”です。ですから、「わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである。(箴言1:33)」と約束されているように、どんな状況の中にあっても、神のみことばに素直に聞き従う心(信仰)が大切なのです。

今日のメッセージ 『あなたはわたしを信じますか』 2026年4月5日

 牧師 高橋勝義

〔ヨハネ11章1~45節〕

 マリヤとその姉マルタは、兄弟ラザロの病を癒してもらうためにイエス様に使いを送りました。イエス様はその四日後にラザロのところに出かけて行きますが、ラザロはすでに亡くなっていました。マルタはイエス様を見るなり「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言います。その彼女にイエス様は、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と言い、このことを信じますかと聞きます。彼女は「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」と答えました。それから、イエス様は、ラザロが埋葬されている墓のところに行き、大声で「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれたのです。すると、死んでいたはずのラザロが、手と足を長い布で巻かれたままで出て来たのです。

 死んだ人がよみがえる、「そんなことがあるはずはない」と誰もが思うでしょう。しかし、何もないところから、ことばをもってこの世界を造られた神にとって、不可能なことは何一つないのです(ルカ1:37)。事実、イエス・キリストは、私たちのすべての罪を身代わりに負い、十字架で死なれ、葬られました。しかし三日目によみがえられ、ご自分の語られたことば(わたしは、よみがえりです。いのちです)が、真実であることを証明されたのです。キリストのよみがえりは、私たちの罪の贖いと、信じる者のよみがえりの保証です。

 イエス・キリストは、不信仰な弟子トマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と語られました。この問いかけは、あなたにも語られています。あなたがいのちの道に歩めるかどうかの、とても重要な分岐点なのです。

今日のメッセージ 『真の罪の悔い改め』 2026年3月22日

 牧師 高橋勝義

〔申命記1章41~46節

 出エジプトから二年後、約束の地を目前にしながら、イスラエルは神に聞き従わなかったゆえに「あなたがたの子どもたちが、そこに入る。わたしが彼らにそこを与えるので、彼らはそこを所有するようになる。あなたがたは向きを変え、葦の海の道を通って荒野に向かって旅立て。」と告げられ、ことの重大さを知りました。そして、「私たちは主に対して罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って戦おう。」と言い出したのです。神はモーセをとおして「上って行ってはならない。戦ってはならない。わたしはあなたがたのうちにいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。」と言われたのですが、イスラエルの民は主に対して罪を犯したと言いつつもまたもや、御声に聞き従わず、山地を上って行き、出て来たアモリ人に打ち負かされてしまったのです。

 イエス様を銀貨三十枚で祭司長、長老たちに売ったユダは、後悔し、自ら命を断ちました(マタイ27:3~5)。ユダと同じ十二弟子のひとりペテロは主を「知らない」と三度も否認しましたが、その罪を自分で抱え込まず、泣いて悔い改め、神の愛と赦しをいただきました。

 預言者イザヤは、神である主が「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)と記しています。私たちも失敗をした時、ユダと同じ過ちを犯さないために、まず主に正直に告白し、更に、どこからズレたのか、どこに問題があったのか、私たちの内におられる聖霊に聞き、後悔ではなく、真の罪の悔い改めをさせていただきましょう。

 「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます(詩篇119:130)

今日のメッセージ 『あなたの心はどこにあるのか』 2026年3月15日

 牧師 高橋勝義

〔申命記1章26~40節

 神は「見よ、わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。(申命記1:8)」とイスラエルに約束、命じておられたにもかかわらず、38年前の彼らは、先住民の背の高さや高くそびえる城壁の情報に、心が萎え、神の命令に聞き従えなかったのです。それゆえ、神は怒って「あなたがたの子どもたちが、そこに入る。わたしが彼らにそこを与えるので、彼らはそこを所有するようになる。あなたがたは向きを変え、葦の海の道を通って荒野に向かって旅立て。」と命じたのです。イスラエルは、約束の地を目の前にしながら、そこに入ることができず、もと来た道、すなわち、荒野に戻ることになったのです。

 「主はあなたがたが宿営する場所を探すために、道中あなたがたの先に立って行き、夜は火の中、昼は雲の中にあって、あなたがたが行くべき道を示される(申命記1:33)お方である」とモーセは語っています。まるで、神が私たちの歩む道を探すために、先立ってくださり、私たちの行くべき道を示してくださる、と私たちに語っているかのようです。ここまで、私たちのことを親身になって心配してくださる神がいるでしょうか。

 しかし、私たちの心は、すぐに不信仰に陥り、この世のものを頼みとしてしまいます。ですから、正直に「主よ。私をあわれんでください。」と、神に絶えず祈る必要ああるのです。神は、私たちが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れている(マタイ9:36)ことをご存じのお方であり、その私たちを案じてくださっているお方だからです。

 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)」

今日のメッセージ 『勇気を出しなさい』 2026年3月8日

 牧師 高橋勝義

〔申命記1章19~25節〕

 モーセは約束の地を前にして、荒野での生活を余儀なくされた分岐点を振り返ります。38年前、イスラエルは、主の命によりホレブを旅立ち、カデシュ・バルネアまですすんでましたが、約束の地がどんな地なのかを探るために、各部族の長12人が偵察に出かけます。40日後に帰ってきた偵察隊は、神が「わたしが乳と蜜の流れる地をあなたがたに与えて所有させる。(レビ20:24)」と語っておられた通り、「私たちの神、主が私たちに与えようとしておられる地は良い地ですと民に報告し、持ち帰ったその地の果物を民に見せました。

 しかしこの後、カレブとヨシュア以外の偵察隊の報告に民は不信仰を募らせ、荒野を38年さまようことになったのです。それゆえ、モーセは、38前と同じ過ちを繰り返させないためにも、神が語られた約束が真実であったことを、新しい世代に伝え、神がこの約束の地を自分たちに与えてくださるのだから、恐れずに戦うようにと励ましているのです。

 ここで重要なことは、見よ、あなたの神、主はこの地をあなたの手に渡してくださった。上れ。占領せよ。(申命記1:21)」との神のみことばの約束を信じて従うことでした。私たちの人生にはさまざまな困難や試練が待ち受けています。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」と語っておられるイエス様は、十字架の死とよみがえりをもって、私たちを罪の縄目から解放し、勝利を宣言されたのです。ですから、「勇気を出して歩みさない」と私たちを励ましておられるのです。

 あなたは一人ではないのですから、みことばの約束に堅く立ち、歩んで行きましょう。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」

今日のメッセージ 『苦楽をともに分かち合える交わり』 2026年3月1日

 牧師 高橋勝義

〔申命記1章1~18節〕

 イスラエルは、エジプトから救い出され40年の時を経てヨルダンの川向う、モアブの地にたどり着きます。ここで、モーセは、イスラエルの新しい世代に向かって、これまでの歩みの回想、神の律法の反復、そして勧告をします。それが、申命記です。

 ホレブで「あなたがたはこの山に十分長くとどまった。あなたがたは向きを変えて出発せよ。」と神が告げられたことばを受け、イスラエルは約束の地を「占領」するために旅立ちましたが、民の中で起こるあらゆる問題が、モーセにひとりに集まるため、負い切れなくなっていました。そこで、モーセは、部族のかしらで、知恵があり経験に富む人たちを選び、彼らをの上に立たせることを提案し、部族のかしらたちに了承されたのです。

 教会の働きも同じです。聖書は、「教会はキリストのからだである(エペソ1:23)」と教えています。教会の構成メンバーは、イエス・キリストを罪からの救い主と信じる人々であり、一人ひとりはキリストのからだである教会の部分なのです(Ⅰコリント12:27)。神が一人ひとりに与えておられる賜物を用いて、キリストのからだである教会を建て上げていくのです。

 ですから、どの賜物にも優劣はなく、自分に与えられている賜物を用いて「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ(Ⅰコリント12:26)」関係を築き上げることが大切なのです。

 それには、「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい(ピリピ2:3)」とあるように、模範を残されたイエス・キリストの歩みに倣い、聖霊の助けを求めて歩むことが大切なのです。

今日のメッセージ 『神のみことばを信じて歩む信仰』 2026年2月22日

 牧師 高橋勝義

〔民数記36章1~13節〕

 マナセ族のギルアデの氏族に属するかしらたちが、息子のいないツェロフハデの相続地を彼の娘たちに与えるように命じられたことについてモーセに訴え出ました(民数記27:7)。それは、娘たちがほかの部族に嫁ぐなら、その相続地は嫁いだ部族のものになり、ヨベルの年が来ても、自分たちの先祖の相続地には戻らないことが問題でした。神は、50年に一度、負債の免除と売却地の回復をなどを定められました(ヨベルの年)(レビ25:8~24)。しかし、嫁いだ場合は、この規定に該当しません。そして、神は相続地はくじで割り当て、彼らの父祖の部族の名にしたがって受け継がれなければならない(民数記26:55)と命じておらます。

 この訴えに対し、モーセをとおして主は、「彼女たちは、自分が良いと思う人に嫁いでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族に嫁がなければならない。神から与えられた相続地は他部族に移してはならない。イスラエルの子らの部族は、それぞれ、自分たちの相続地を堅く守らなければならないからである。」と命じられました。この時のイスラエルは、まだ約束の地に入っていないのに、彼らは神が定めるヨベルの年が、将来確実に行われると信じて、モーセに訴え出たことに私は驚かされました。彼らは、荒野での歩みを通して、生けるまことの神を畏れることを学んだのです。この箇所を読みながら、私の心に「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです(へブル11:1)」のみことばが浮かんできました。また、イエス様も「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります(マルコ11:23)」と語っておられます。 

 「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです(ルカ11:28)

今日のメッセージ 『神とともに歩む人生』 2026年2月15日

 牧師 高橋勝義

〔民数記34章1~34節〕

 神は祭司アロンに「あなたは彼らの地で相続地を持ってはならない(民数記18:20)」と語りました。しかし、レビ人にも住む場所は必要です。それゆえ、神はモーセに「あなた方の相続地のうちから、居住のための町々をレビ人に与えよ」と民命じるように告げられたのです。そして与える町々は大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならないとされました。さらに、誤って人を殺してしまった者が逃れることできる逃れの町」を定めるようにと命じました。これは、血の復讐を防ぐためであり、何より、神が与える約束の地は、主である神自身がそのイスラエルの子らのただ中に宿っておられのですから、その土地を汚さないためなのです。

 宿るとは、生けるまことの神がともにおられることです。時が満ちて、神は、このことを具体的に見える形にされました。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエル(神が私たちとともにおられる)と呼ぶ。(イザヤ7:14)」と預言されているとおり、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。

 神が人となってこの世に来られ、罪に満ちたこの世(私)をきよめるために、この方が、ご自身のいのちを私たちの罪のためにささげてくださったのです。「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55:9)」とあるように、神のなさる不思議な御業であり、到底、人間には思いもよらないことです。その愛には、本当に驚かされるばかりです。

 私たちとともにいてくださるイエス様を喜び、このお方を信頼して歩んで行きましょう。