今日のメッセージ 『あなたの信じる神はどんなお方か』 2025年12月28日

 牧師 高橋勝義

〔民数記30章1~16節〕

 30章は神様の前に真実な歩みをすることが教えられています。具体的には男性が主に誓願をしたり、物断ちをして誓う場合には、すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない、ということです。しかし、女性の場合は父が娘の誓願を認めれば有効となり、反対すれば無効、同様に夫が妻の誓願を認めれば有効となり、反対すれば無効となります。

 この時代の女性は男性主権のもとに置かれており、この教えがなければ、女性は誓願することすら許されない中で、神が女性を尊ぶご配慮なのです。

 また、ここで大切なことは、誓願するときの心です。聖書は「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。愚かな者は喜ばれない。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。(伝道者の書5:4,5)」と教えています。ところが、誓いが形骸化している行為をイエス様は厳しく戒め(マタイ5:33~37)、からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。(マタイ10:28)」と語られるのです。

 私たちは、生けるまことの神に向かって「誓願」していることを忘れてはなりません。と同時に、イエス様が「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります(マルコ11:23)」と語られたように、誓願する自らが信仰に立っているかどうか(Ⅱコリント13:5)、自分を吟味する必要があるでしょう。

 私たちの信じている生けるまことの神は、「神にとって不可能なことは何もないお方(ルカ1:37)」だからです。

今日のメッセージ 『神の国はあなたのところに来ている』 2025年12月14日

 牧師 高橋勝義

〔マルコ1章9~15節

 イエス・キリストは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのち、御使いに導かれ、荒野で四十日間、サタンの試みを受けられましたが、神のみことばによってサタンを退けられました。それから、ガリラヤに行き、人々に「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と神の福音を宣べ伝えられたのです。

 預言者ミカは、イエス・キリストが誕生する約700年以上も前に「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。(ミカ5:2)」と語っています。さらに、ミカよりも前の預言者イザヤも「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。(イザヤ9:6)」と語っています。そして、預言通り、時満ちて、イエス・キリストはこの世に来られたのです。

 福音とは、「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと(Ⅰコリント15:3,4)」です。イエス・キリストが悔い改めて福音を信じなさいと言われたことは、このことであり、また、キリストを救い主と信じる信仰によって、すべての人を神の国(天国)へと導いてくださるのです。ですから、「わたしが来たのは世をさばくためではなく、世(私たち)を救うためだからです(ヨハネ12:47)」と語られたのです。

 今こそ、この福音に耳を傾け、キリストを救い主と信じるあなたの時が来たのではないでしょうか。神の国は、今、あなたの手の届くところまで来ているのですから…。

今日のメッセージ 『信仰によって生きる』 2025年11月30日

 牧師 高橋勝義

〔民数記29章1~40節

 安息日の由来は、神が創造の第七日に、なさっていたわざを完成し、すべてのわざをやめ、この日を聖なるものとされたところからきています。(2:2,3)。さらに神は、七日目が聖なる日であるように、目を安息の月と定められたのです。月の第目を特別な安息日10日目は大祭司年に至聖所に入り、契約の箱の上で万民のために罪の贖いをす「贖罪の日」、第15日目からの一週間は「主の祭り」、そして八日目(22日目)に「きよめの集会」を開いて、第七月の主へのささげ物の各会合は終わります。

 第七月のささげものは雄の子羊(11匹)・雄羊(30匹)・雄牛(73頭)・雄やぎ(10頭)でしたが、イエス・キリストは、「雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた(ヘブル9:12)」のです。それは、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げられた(ヘブル9:28)と記されているとおりです。

 それゆえ、神は「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」と言ってくださるのです。神のこの約束は、キリストを罪からの救い主と信じる信仰によって与えられるのです。これはキリストを信じることによって義と認められるのであって、だれも、律法を行うことによっては義と認められないからなのです(ガラテヤ2:16)。さらに、信仰に生きる人々こそアブラハムの子であり、アブラハムとともに祝福を受けるのです(ガラテヤ3:6,9)

 このような素晴らしい恵みを私たちに与えてくだった神に、心から感謝しましょう。

 「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物(プレゼント)です。(エペソ2:8)

今日のメッセージ 『神は真の礼拝者を求めておられる』 2025年11月23日

 牧師 高橋勝義

〔民数記28章1~31節〕

 神は、ささげ物について、朝夕のささげ物、安息日のささげ物、月初め新月のささげ物、過越りのささげ物、初穂の日(七週の祭り)のささげ物を行うようにモーセをとおして民に命じられました。これらの命令はすでに与えられていたものですが、この時にはカレブとヨシュアのほかにはだれも生きておらず、神は世代交代で新たにされた民に語られたのです。

 約束の地に入った民の生活の中心は、神を礼拝することであり、これが神の民の大切な歩みであると示されたのです。「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。(レビ11:44)」と語られているとおりです。

 パウロは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ12:1)」と語りました。そして、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:2)」と促しています。

 私たちの生きている現代社会は、様々な情報が大量に満ち溢れています。みことばから目を外してしまうと、それらに翻弄され、神の子どもとしての歩みを見失ってしまいます。このような時代だからこそ、神は、ご自身を心から礼拝する者を求めておられるのです。

 それゆえ、イエス様は、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません(ヨハネ4:24)」と語るのです。

今日のメッセージ 『主は私の羊飼い』 2025年11月16日

 牧師 高橋勝義

〔民数記27章12~23節

 「このアバリム山に登り、わたしがイスラエルの子らに与えた地を見よ。それを見て、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたのと同じように、自分の民に加えられる。ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、彼らの見ている前で、あの水のところで、わたしが聖であることを現さなかったからである。」と主から告げられたモーセは、「(民を)羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください」と主に訴えました。すると、主はヌンの子ヨシュアを後継者に任命するように命じられ、モーセは主が告げられたとおりに手をヨシュアの上に置き、彼後継者に任命しました。

 ところでイエス様も群衆を見て深くあわれまれたお方です。それは、彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからです(マタイ9:36)。この羊飼いのいない羊とは、実は私たちのことなのですが、私たちにはその自覚がありません。それでも、イエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」と私たちを招いてくださいます。

 しかし人々は、誰かに頼るのは弱い者がすること、だから自分には関係がないと、イエス様の招きに応じようとしません。使徒パウロは、自分の心の中を見るとき、良いことをしたいという願いがあるのに、それを実行できない自分がいる(ローマ7:18)ことを正直に告白しています。しかし同時に、このみじめな自分を救い出してくださるのは、イエス・キリストであることを知るのです(ローマ7:24)。また、王ダビデは、自分の生涯を振り返るとき、まことに主は私の羊飼いであり、主に日々守られてきたことを実感し、「主は私の羊飼い(詩篇23:1)」と告白するのです。

今日のメッセージ 『愛は人間関係の潤滑油』 2025年11月9日

 牧師 高橋勝義

〔民数記27章1~11節

 相続地について、神はモーセに登録した数に応じて大きい部族には大きく、小さい部族には小さく、くじで割り当て、彼らの父祖の部族の名にしたがって受け継がせるように命じました。しかし相続人となるべき男子がいなかったマナセ部族のツェロフハデ一族は5人の娘たちが相続地の継承を、モーセに願い出ました。この訴えに神は、彼女たちに相続地を与えるように命じられました。それは部族の名が残るためです。息子、娘がいないときは、その相続地を彼の父の兄弟たちに、もしその父に兄弟がいないときには、その相続地を彼の氏族の中で彼に一番近い血縁の者に与え、受け継がせるようにされたのです。

 神は私たちのために律法を定められたお方です。しかし決して、その律法で私たちを縛ろうとされたのではありません。それどころか、聖なる神は律法を守ることができない私たちのために、ひとり子イエス・キリストを私たちのもとに遣わし、キリストは私たちの罪の身代わりとして、十字架上で死なれたのです。それによって律法の要求はすべて満たされたのです。これは神が、滅びから私たちを救うためになされたことであり、十字架は、私たちへの神の愛のしるしなのです。それゆえ、私たちのためにご自身のいのちを献げられたイエス・キリストは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(ヨハネ13:34)」と語るのです。

 私たちは、神から受けた愛によって、人間関係を円滑にする潤滑油の働きを担っています。憎しみは争いを引き起こしますが、愛は人を育てるからです(Ⅰコリント8:1)。

 「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい(ピリピ2:4)

今日のメッセージ 『神の忍耐は私たちへの愛』 2025年11月2日

 牧師 高橋勝義

〔神の忍耐は私たちへの愛〕

 イスラエルは、神の御業によってモーセに導かれエジプトから救い出され、約束の地に向かう旅を始めました。しかし、モーセやアロンへの不平不満、また神への不信仰により、約束の地に入ることができず、40年間荒野で生活することになってしまいました。

 そして今、再び約束の地に入る準備が始まり、主の命令により各部族の二十歳以上の者を数えました。この時40年前にモーセと祭司アロンが人口調査して登録した者はエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかは誰一人いませんでした。それは、主がかつて、不信仰な彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ」と言われたとおりでした。この荒野で、神への信仰を学んだ新しい世代が、約束の地に入る準備を始めたのです。

 前回、登録された者は六十万三千五百五十人でした(民数記1:46)が、今回は六十万一千七百三十人(民数記26:51)で、ほぼ、変わらなかったのです。「神はあわれみ深く彼らの咎を赦して滅ぼされなかった。怒りを何度も抑えて憤りのすべてをかき立てられることはなかった。(詩篇78:38)」とある通りです。それゆえ、詩篇の作者は「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇106:1)」と語るのです。

 神はだれひとり滅びることがなく、すべての人が悔い改めて救われることを心から待ち望んでいます(Ⅱペテロ3:9)神のいつくしみと恵みにより、私たちは滅ぼされなかったのです。時が満ち、神は、愛する一人子イエス・キリストを救い主としてこの世に遣わされました。それゆえ、「今は恵みの時、今は救いの日です(Ⅱコリント6:2)」から、このチャンスを逃さず、新しく造り変えられる新たな人生へと踏み出して行きましょう。

コラム 『神の不思議』 2025年10月26日

 牧師 高橋勝義

 人には、誰でも人生を変えるような出来事があるものです。その時は気づかなくても、それまでの人生を振り返ったとき、「あの時が…」と思い当たることが、きっとあるでしょう。

 私も中学三年生の時、自分の将来についてあれこれ考えるなかで、これからはコンピューターの時代になると思い、それを学びたいと考えていました。しかし時代は建築ブームで、叔父のひとりが建築科に進んだ方がいいと勧めました。今でも、なぜその勧めに従ったのか、不思議なのですが、私は建築の方に舵を切りました。そして、その建築科のある高校で、私はイエス・キリストに出会ったのです。

 生きる道を求めていた高校三年の春、私は教会に導かれ、イエス様を罪からの救い主と信じ、翌年、洗礼を受けました。あれから、50数年の月日が流れ、この間いろいろなことがありましたが、神の恵みとあわれみによって、福音を宣べ伝える働きに携わらせていただいています。もしも、あの時、自分の考え通りに進んでいたならば、イエス・キリストに出会うことはなかったかもしれません。中学三年のあの時には想像すらできなかったインターネットの普及、そして、それによる技術革新の日々の中で、私は取り残されないようにと、必死で頑張り、疲れ果てていたことでしょう。神のなさることは、本当に不思議です。

 私たちを造られた神は、私たち一人ひとりに御計画を持っておられます。 

 「私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。」(伝道者の書3:14)

今日のメッセージ 『あなたはキリストとともに十字架で死んだのです』 2025年10月19日

 牧師 高橋勝義

〔民数記25章1~18節

 イスラエルがモアブにとどまっていた時のことです。民は土地の娘たちとふしだらな関係を持ち始め、さらにモアブの神々の儀式に加わり、ついには偶像を拝んだのです。しかも、それは民のかしらたちでした。すると、主の怒りがイスラエルに燃え上がり、神はモーセにバアルを拝んだ者たちを一人残らず処刑するように命じます。神の厳しい命令に、全会衆は幕屋の入り口で泣いていましたが、その目の前で、一人の男がミディアン人の女を連れてきて、自分の兄弟たちに近づけたのです。それを見た祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、その男と女二人のあとを追い、槍で殺しました。すると、このことでイスラエルの子らへの神の罰は終わり、イスラエルは絶ち滅ぼされずに済んだのです。

 かつて荒野で民は「ああ、肉が食べたい」と大声で泣き、主に激しく不平を言ったため、主の怒りが燃え上がり、主の火が宿営の端をなめ尽くしました(民数記11:1~6)。聖書は、このことについて、「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。(ピリピ3:19)」と語っています。

 イエス様を罪からの救い主と信じた者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたと聖書は教えています(ガラテヤ5:24)。欲望のままに生きる歩みから、神とともに生きる歩みとなるためです(Ⅰペテロ4:2)。しかし、欲望に打ち勝つ力は私たちにはありません。私たちの内に住んでおられる御霊の力によってなら打ち勝つことができるのです。(ローマ8:11)。

 それゆえ、「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。(ガラテヤ5:16)」と勧められています。

今日のメッセージ 『神は生きている者の神です』 2025年10月12日

 牧師 高橋勝義

〔民数記24章10~25節

 敵国イスラエルを呪って、戦に勝利を収めたいモアブの王バラクでしたが、「私の敵(イスラエル)に呪いをかけてもらうためにおまえを招いたのに、かえっておまえは三度までも彼らを祝福した」とバラムに怒ります。しかし、バラムは「たとえ私に銀や金で満ちたの家をくれても、主のことばに背くことはできません。主が告げられること、それを私は告げなければなりません。」と答え、さらに、彼はモアブ人、アマレク人、ケニ人について、神から与えられた幻について語りました。こうして、バラムは自分の帰り、バラクも帰途につきます。バラムが王を恐れずイスラエルを祝福したのは、それが神の御心であったからであり、また、神がすべてを支配しておられるお方であることが分かったからです。

 この箇所を読みながら、私は捕囚の民となったハナンヤ、ミシャエル、アザルヤを思い出しました。ネブカドネツァル王が建てた金の像をひれ伏して拝まない者はだれでも、即刻、火の燃える炉に投げ込まれるとの命令が出る中で、彼らは従いませんでした。燃える炉を前にして、主が救い出してくださるが「しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません(ダニエル3:18)」と彼らは答えました。モアブの王を恐れなかったバラム、王の命令に背いて、金の像を拝まなかったハナンヤ、ミシャエル、アザルヤのような信仰が、自分の中にあるだろうか、と問われのです。イエス様が「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です(ルカ20:38)と語られたように、生き生きとした生ける神との交わりが、私の日々の歩みの中に現されますように(詩篇23:6)

 あなたは、どうですか。