今日のメッセージ 『主を呼び求めよ、お会いできる間に』 2025年10月5日

 牧師 高橋勝義

〔民数記23章24~24章9節

 バラムが二度もイスラエルを祝福した後、モアブの王は「彼らに呪いをかけることも祝福することも、決してしないでください」と頼みますが、バラムは、主があなたに告げられることを話すようにと言った通りのことを自分は行なっているのだと言います。それでもバラク王はバラムを別の場所に連れて行き、祭壇を築き、雄牛と雄羊を献げます。しかし、イスラエルを祝福することが主の目にかなうのを見てきたバラムはこれまでのようにまじないを求めに行くことをせず、その顔を荒野に向けます。そして目を上げると、イスラエルがその部族ごとに宿っているのが見えたのです。すると、神の霊が彼の上に臨み、イスラエルが祝福されるありさまをバラク王の前で語りはじめたのです。

 バラムは、ユダヤ人ではありませんが、イスラエルの神を信じていました。同様に、ローマの百人隊長コルネリオもイスラエルの神を恐れかしこんでいました。ペテロは、「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。(使徒10:34,35)」と語っています。聖書が「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。(エレミヤ29:13,14)」と語っている通り、神の恵みが現わされたのです。

 私たちも、生けるまことの神を知らず、神から離れた歩みをしていた者ですが、イエス・キリストの十字架を通して、神を信じる者とされました。それは、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられる(Ⅰテモテ2:4)」からです。

 「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。(イザヤ55:6)

今日のメッセージ 『あなたとともにおられる神』 2025年9月28日

 牧師 高橋勝義

〔民数記23章13~24節

 モアブの王バラクは、イスラエルを祝福したバラムをさらにピスガの頂連れて行き、「私のために彼らに呪いをかけてください。」と頼み、ここでも七つの祭壇を築きどの祭壇にも雄牛一頭と雄羊一匹を献げます。主にお会いしたバラムはバラク王に「見よ、私は、祝福せよとの命を受けた。神が祝福されたのだ。私はそれをくつがえすことはできない。彼らの神、主は彼ら(イスラエル)とともにおられ、王をたたえる声が彼らの中にある。(民数記23:20,21)と語り、イスラエルの神は彼らとともにおられることを告げたのです。

 かつてペリシテ人の王アビメレクは、井戸をめぐってイサクと争い、彼をその場所から追い出しますが、その後、わざわざイサクのところまで出向き、盟約を結びます(創世記26:28)。それは、神がイサクとともにおられ、彼を祝福していることが分かったからです。

 今から約2000年前、神のひとり子イエス・キリストは、インマヌエル、すなわち、「神が私たちとともにおられる(マタイ1:23)」ことを私たちに示すためにこの世に来られました。そのイエス様は、「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」と語られました。これはイエス様が、いつでも、どこででも、あなたとともにおられ、守ってくださることを約束しているのです。

 私たちの生きるこの世は困難や理不尽なことばかりですが、私たちの信じる神様はインマヌエルの神であり、私たちともに歩いてくださる神です。ですから、さまざまな悩みや苦しみをイエス様に訴え、助けをいただき、今日も主とともに歩んでいきましょう。

今日のメッセージ 『愛なる神の御訓練』 2025年9月21日

 牧師 高橋勝義

〔民数記22章36~23章12節〕

 モアブの王バラクは、イスラエルを呪ってもらおうと、イスラエルの民の一部が見える場所に連れ出します。バラムはバラク王に七つの祭壇と七頭の雄牛と七匹の雄羊を用意するように願いました。神にお会いした後、戻ってきたバラムは王に「神が呪いをかけない者を私がどうして呪うことができるだろうか。」と告げます。王は、イスラエルを呪わず祝福したことに激怒しますが、バラムは王に「主が私の口に置かれること、それを忠実に語ってはいけないのですか」と答えます。バラムはバラク王のもとに来る途中、ろばが道でうずくまってしまったことで九死に一生を得ました。つまり、神によって自らの罪に気づくことが出来たのです。そして、バラムは、神が「あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え」と言われたことに忠実に従ったのです。

 聖書に「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです(ヤコブ1:14)」とあるように、神のお取り扱いによって、バラムは自分の罪に気づき、神は全知全能なるお方であることを知ったのです。このことは、私たちにも重なります。イエス様は「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです(マタイ6:21)」と語られましたが、私たちは日々この世の誘惑の中で生きています。しかし、神がバラムを取り扱われたように、神は私たちを子として扱い(へブル12:5~7)、私たちの内にある不純物(罪)を取り除くために訓練されるのです。

 訓練は喜ばしいものではなく、かえって苦しいものですが、今あなたが受けている訓練は、神がバラムを神の民イスラエルの祝福に用いたように、神の良い働きのためにあなたを用いようと整えておられるからなのです(Ⅱテモテ2:21)。

今日のメッセージ 『心の中を見抜いておられる神』 2025年9月14日

 牧師 高橋勝義

〔民数記22章14~35節〕

 再びモアブの王バラクに招かれた占い師バラムは、見返りに心が動きます。主は彼に行くことを許しますが、「あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え」と語りました。ところが、神の怒りが燃え上がり、主の使いが道に立ちはだかりました。バラムの乗っていたろばが剣を手に持つ主の使いを見てうずくまったのです。バラムはろばを三度打ち、道に戻そうとしますが、主がろばの口を開かれ「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは。」と言いました。

 その後、バラムの目の覆いが除かれ、バラムは抜き身の剣を手に持っている主の使いを見て、ひざまずき、伏し拝みます。主の使いは、「あなたがわたしの道を踏み外そうとしているから、わたしが敵対者として出て来た」と告げました。ようやくバラムは、自分の罪に気づいたのです。主の使いは、「わたしがあなたに告げることばだけを告げよ」と念を押し、こうして、バラムはバラクのもとに向かったのです。

 「障子に目あり壁に耳あり」とあるように、どこで誰が聞いているか、見ているか分かりません。けれども、人の心の中までは誰も知ることはできません。しかし、「神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されて」おり(ヘブル4:13)、「闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされる(Ⅰコリント4:5)」のです。ですから、人の前に歩むのか、それとも、神の前に歩むのかが重要になってきます。詩篇の作者は「主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。(詩篇118:6)」と告白しています。肝心なことは、神を恐れて歩むことなのです。

 「神は人間に仰せられた。『見よ。主を恐れること、これが知恵であり、悪から遠ざかること、これが悟りである』と。(ヨブ28:28)」

今日のメッセージ 『キリストは常に真実なお方』 2025年9月7日

 牧師 高橋勝義

〔民数記22章1~13節〕

 モアブの王バラクは、イスラエルの民の多さと、彼らがアモリ人との戦いに勝利したことにおびえ、イスラエルを呪ってもらおうと考え、ベオルの子バラムに使いを送りました。それは、このバラムが祝福する者は祝福され、呪う者は呪われていたからです。そのバラムは使いの者に、神のみこころを求めるので、一晩ここに泊まるように言います。

 その晩、神はバラムに「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。また、その民をのろってもいけない。その民は祝福されているのだから。」と言われ、バラムは使いの者たちに、神が一緒に行くことをお許しにならなかったと告げました。

 神はイスラエルの父祖アブラム(アブラハム)に、わたしが示す地へ行くなら「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。(創世記12:2)」と語られ、神を信じたアブラハムの子孫は、神の民イスラエル民族となっていったのです。それゆえ、神がバラムに「その民は祝福されている」と語るのは当然なのです。神の約束は決して変わらず、神はまことに真実なお方です。そして、このアブラハムへの神の祝福は、キリストを救い主と信じる私たちにも受け継がれているのです。

 イエス様は「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。(ヨハネ14:18)」と語られました。主に従って歩んだ使徒パウロも「私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。(Ⅱテモテ2:13)」と証ししています。人生は労苦とわざわい多き日々ですが、この真実なお方、イエス・キリストとともに天国をめざして歩み続けましょう。(ヨハネ15:4)

今日のメッセージ 『人生の土台』 2025年8月31日

 牧師 高橋勝義

〔民数記21章10~35節〕

 約束の地をめざすイスラエルは、アルノン川の対岸に宿営し、アモリ人の王シホンに使者を遣わし「あなたの土地を通らせてください。私たちは畑にもぶどう畑にもそれて入りません。井戸の水も飲みません。あなたの領土を通過するまで、私たちは『王の道』を通ります。」とお願いしました。しかし、王シホンはイスラエルを迎え撃つために出て来たのです。そして、イスラエルはアモリ人と戦い、彼らの地を占領します。さらに彼らが向きを変えてバシャンへの道を上って行くと、バシャンの王オグも戦うために出て来たので、主が命じられた通りイスラエルは戦い、その地を占領したのです。

 これまでイスラエルは、約束の地をめざす荒野の旅を送ってきましたが、ここから占領したアモリ人の地に住んだのです。いよいよ約束の地に入って行く、足掛かりができたのです。

 イエス様は、岩の上に建てた人の家は大風にも洪水にも倒れないが、砂の上に家を建てた家は洪水や風に打たれると倒れ、しかもその倒れ方はひどいものになる、と話されました。岩の上に家を建てるとは、神のみことばを土台とすることです(マタイ7:24~27)。

 使徒パウロも、自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えていますと語っています(Ⅱコリント4:5)。信仰の土台は、イエス・キリストにあるからです(Ⅰコリント3:11)。あなたの人生の土台は、神のみことばでしょうか。それとも、この世の権力や富、知恵や知識、そして、自分の考えや経験でしょうか。

 神のみことばを土台とするならば、「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます(詩篇119:130)」とあるように、私たちの歩みは守られるのです。

今日のメッセージ 『十字架を仰ぎ見よ』 2025年8月24日

 牧師 高橋勝義

〔民数記21章1~9節〕

 約束の地を目指すイスラエルは、カナン人アラドの王と戦いましたが、何人かが捕虜になったため、この民を渡してくださるなら、彼らの町々を聖絶いたします、と主に誓願をたてます。主はこの願いを聞き入れ、イスラエルはカナン人とその町々を聖絶し、その場所の名をホルマと呼んだのです。しかし、エドムの地を迂回して葦の海の道を進む民は、「われわれはこのみじめな食べ物(マナ)に飽き飽きしている」と神とモーセに逆らったのです。

 そこで、主は民の中に燃える蛇を送られ、多くの者が死んだため、民はモーセに助けを求めます。主はモーセに、燃える蛇を作りそれを旗ざおの上に付け、それを仰ぎ見れば、かまれた者はみな生きると語られます。民は、主のことばを信じて旗ざおの上にある青銅の蛇を仰ぎ見ると、蛇が人をかんでも、その人は生きたのです。

 青銅の蛇を仰ぎ見れば生きると語られた主のことばを民が信じたように、使徒パウロは、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです(ローマ10:9)」と語りました。

 それは、私たちがまことの神に従わない罪の刑罰を受けなければならない存在であるにもかかわらず、イエス様が私たちの罪の身代わりとなって、ご自分のいのちを贖いの代価としてささげられたことによって(マルコ10:45)、神は私たちの罪を帳消しにしてくださったからです。ですから、家柄、地位、富などでなく、また、行いによるのでもなく、イエス様を罪からの救い主と信じる信仰によって私たちは救われるのです。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です(Ⅰコリント1:18)」

今日のメッセージ 『キリストの愛の中に生きる』 2025年8月17日

 牧師 高橋勝義

〔民数記20章22~29節〕

 イスラエルの民はカデシュを出発し、エドムの国境に近いホル山に来ましたが、主はモーセとアロンに、ここでアロンは自分の民に加えられると、彼の死を告げられました。モーセとアロンは、主の仰せのとおりアロンの息子エルアザルを連れてホル山に登り、やがて祭司の衣服を着たエルアザルがモーセと一緒に山から下りてきました。全会衆はアロンの死を悟り、アロンのために三十日の間泣き悲しみました。こうして、祭司職は、息子エルアザルに引き継がれ、神の民としての歩みが保たれたのです。

 イエス様が弟子たちに「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい(マタイ28:19)」と命じられたように、主を救い主と信じた私たちにはイエス様を人々に宣べ伝える使命があります。イエス様は、弟子としての条件について、ご自身のことばにととまることにある(ヨハネ8:31)と語っています。それは、イエス様の愛の中に生きる歩みをすることなのです(ヨハネ15:12)。それゆえ、私たちの罪の身代わりとなってくださった“十字架の愛”を受け取れているか否かが重要になってきます。しかし、聖霊の助けなくして“十字架の愛”を本当に味わい知ることはできません。ですから、聖霊が私たちの内で自由に働くことができるように、日々の罪の告白と悔い改めが大切になってくるのです。

 そのとき、イエス様が「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります(ヨハネ13:35)」と語られたことが、あなたの日々の歩みの中に現われ、人々がイエス様を知るようになるのです。

 ところで、あなたは、キリストの愛の中に生きる歩みになっているでしょうか。

今日のメッセージ 『あなたの道を主にゆだね、主に信頼せよ』 2025年8月10日

 牧師 高橋勝義

〔民数記20章14~21節〕

 カデシュから約束の地に入ることは神の御心ではないと知っていたモーセは、ヨルダン川の東から入るために、エドムの王に領地を通過させてくださいとお願いしました。しかし、エドムの王は、「私のところを通ってはならない。通るなら、私は剣をもっておまえを迎え撃つ。」と語り、強力な大軍勢を率いて出て来たのです。イスラエルは、やむなく向きを変えることになったのですが、エドムの先祖は父祖ヤコブの双子の兄であり、神は同族エドムとの争いを避けるために、あえてイスラエルに遠回りの道を行かせたのです。

 ことわざには「急がば回れ」とありますが、神は意味もなくイスラエルを遠回りの道に導いたのではなく、深いご計画があってのことでした。聖書も「争いを避けることは人の誉れ。愚か者はみな、争いを引き起こす。(箴言20:3)」と語ります。

 「主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない(哀歌3:33)」とあるように、すべてを御支配しておられる神は、私たち一人一人の歩みを責任をもって導いてくださるお方です。ですから、たとえ、私たちの目には、一見、不利に見えても、すべてのことがともに働いて益となさる神を信じて歩むことが大事なのです(ローマ8:28)。なぜなら、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。(詩篇37:5)」との約束があるからです。しかし私たちは、様々な困難や苦難に出会うと、すべてが神の御支配の中にあることを信じる信仰が働かず、この世の知識や知恵、これまで歩んできた自分の経験を頼りにしてしまいます。

 それゆえ神は、「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。(箴言3:5)」と私たちに愛の警告をしているのです。

今日のメッセージ 『神のみことばを信じて生きる』 2025年8月3日

 牧師 高橋勝義

〔民数記20章1~13節〕

 イスラエルの民はツィンの荒野に着き、カデシュで宿営しますが、そこには水がなく、またもや民は抗議に押しかけました。モーセとアロンは集会の前から、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏しました。すると、神はモーセに、「(アロンの)杖を取れ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。」と告げたのです。けれども、モーセは杖で岩を二度打ってしまったのです。モーセが神の命に従わなかったにもかかわらず、岩からは豊かな水が湧き出て、会衆も家畜もその水を飲みました。

 しかし神は、モーセとアロンに、「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会(民)を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」と言われたのです。

 モーセは神の杖を用いて、数多くの御業を行ってきました。しかし、民の度重なる不平への怒りと「ことば」だけで岩から水を出すことへの不安から、目で見て分かるように杖で岩を二度打ってしまいました。それでも、神は、岩から水を出し、民のリ-ダーであるモーセを守られました。私はここで、百人隊長のしもべが病になり、イエス様に癒しをお願いした出来事を思い出しました。「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。(マタイ8:8)」という百人隊長に対して、イエス様は驚かれ、「わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません(マタイ8:10)」と人々に語りました。

 神は天地万物を、ことばをもって創造されたお方です。私たちも神のみことばをひたむきに信じる信仰に生きる歩みをしましょう(へブル11:6)。