今日のメッセージ 『あなたの心を照らすまことの光』 2025年12月21日

 

牧師 高橋勝義

〔ヨハネの福音書1章9~13節〕

 暗闇の中に灯る“ひかり”は、私たちに希望と勇気を与えます。あそこにたどり着けば助かると思えば、疲れ果てたからだに新なエネルギーが注ぎ込まれ、折れる心が奮い立ち、重い足も前へ前へと進みます。私たちは今、目まぐるしく変化する社会情勢、さらに、あらゆる情報に振りまわされ、先が見通せない中で生きています。ですから、人生においても、自分を導いてくれるひかりを必要としているのではないでしょうか。

 聖書は、「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」と語っています。事実、まことの光イエス・キリストは、あなたのところに来てくださいました。人間の願いや誰かの意志によるのではなく、「神によって生まれた」のです。実は、ここがとても重要なことなのです。それは、ここに私たちを思う神の愛が表されているからです。

 しかし、神の思いとは裏腹に、私たちは自分中心で、私たちを造られたまことの神ではなく、御利益を求めて偽りの神々のところに出向いています。このことを聖書は「この方(イエス・キリスト)はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった」と記しています。けれども、「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった(ヨハネ1:12)」のです。

 この特権を与えるために、キリストは、私たちの罪を身代わりに負い十字架で死なれ、その名を信じた者にだれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなる(Ⅱコリント5:17)」との約束をお与えになったのです。

 クリスマスはまことの光キリストがこの地に来られた喜びの時なのです。

今日のメッセージ 『神の国はあなたのところに来ている』 2025年12月14日

 牧師 高橋勝義

〔マルコ1章9~15節

 イエス・キリストは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたのち、御使いに導かれ、荒野で四十日間、サタンの試みを受けられましたが、神のみことばによってサタンを退けられました。それから、ガリラヤに行き、人々に「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と神の福音を宣べ伝えられたのです。

 預言者ミカは、イエス・キリストが誕生する約700年以上も前に「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。(ミカ5:2)」と語っています。さらに、ミカよりも前の預言者イザヤも「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。(イザヤ9:6)」と語っています。そして、預言通り、時満ちて、イエス・キリストはこの世に来られたのです。

 福音とは、「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと(Ⅰコリント15:3,4)」です。イエス・キリストが悔い改めて福音を信じなさいと言われたことは、このことであり、また、キリストを救い主と信じる信仰によって、すべての人を神の国(天国)へと導いてくださるのです。ですから、「わたしが来たのは世をさばくためではなく、世(私たち)を救うためだからです(ヨハネ12:47)」と語られたのです。

 今こそ、この福音に耳を傾け、キリストを救い主と信じるあなたの時が来たのではないでしょうか。神の国は、今、あなたの手の届くところまで来ているのですから…。

今日のメッセージ 『キリストはあなたを捜し救うために来た』 2025年12月7日

 牧師 高橋勝義

〔マタイ12章38~42節

 律法学者、パリサイ人たちからメシア(救い主)の「しるし」を求められたイエス様は、「しるしは与えられない、ただし預言者ヨナのしるしは別です」と答えました。これは、ご自身が十字架の上で死なれ、葬られ、三日目によみがえることを示されたのです。弟子たちにも、このことをはっきりと語っています(マタイ16:2)。彼らがイエス様にしるしを求めたのは、イエス様がメシヤであるならば、それが分かるような天からの神秘的な現象があるはずだ、と考えていたからです。しかし、イエス様は、多くの病人を癒し、悪霊を追い出していました。それゆえ、「たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい(ヨハネ10:38)」と語られたのです。これらは人間にはできないことであるにもかかわらず、彼らは自分たちの立場を守るため、その事実を受け止めようとしなかったのです。

 これまで自分が築き上げた地位や名誉を守ろうとするのは、誰もが持っている思いであり、私たちの中にも同じ思いがあることは否定できません。

 イエス様は、ユダヤ人ならば誰もが知っている預言者ヨナの話しから、ご自身がこの世に来られた目的を解き明かされたのです。それゆえ、「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。神に逆らったときのように(ヘブル3:15)」と警告されています。聞いたみことばが益とならず、みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられずに終わってしまうことのないようにしましょう(ヘブル4:2)。

 「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。(ルカ19:9,10)

今日のメッセージ 『信仰によって生きる』 2025年11月30日

 牧師 高橋勝義

〔民数記29章1~40節

 安息日の由来は、神が創造の第七日に、なさっていたわざを完成し、すべてのわざをやめ、この日を聖なるものとされたところからきています。(2:2,3)。さらに神は、七日目が聖なる日であるように、目を安息の月と定められたのです。月の第目を特別な安息日10日目は大祭司年に至聖所に入り、契約の箱の上で万民のために罪の贖いをす「贖罪の日」、第15日目からの一週間は「主の祭り」、そして八日目(22日目)に「きよめの集会」を開いて、第七月の主へのささげ物の各会合は終わります。

 第七月のささげものは雄の子羊(11匹)・雄羊(30匹)・雄牛(73頭)・雄やぎ(10頭)でしたが、イエス・キリストは、「雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた(ヘブル9:12)」のです。それは、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げられた(ヘブル9:28)と記されているとおりです。

 それゆえ、神は「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」と言ってくださるのです。神のこの約束は、キリストを罪からの救い主と信じる信仰によって与えられるのです。これはキリストを信じることによって義と認められるのであって、だれも、律法を行うことによっては義と認められないからなのです(ガラテヤ2:16)。さらに、信仰に生きる人々こそアブラハムの子であり、アブラハムとともに祝福を受けるのです(ガラテヤ3:6,9)

 このような素晴らしい恵みを私たちに与えてくだった神に、心から感謝しましょう。

 「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物(プレゼント)です。(エペソ2:8)

今日のメッセージ 『神は真の礼拝者を求めておられる』 2025年11月23日

 牧師 高橋勝義

〔民数記28章1~31節〕

 神は、ささげ物について、朝夕のささげ物、安息日のささげ物、月初め新月のささげ物、過越りのささげ物、初穂の日(七週の祭り)のささげ物を行うようにモーセをとおして民に命じられました。これらの命令はすでに与えられていたものですが、この時にはカレブとヨシュアのほかにはだれも生きておらず、神は世代交代で新たにされた民に語られたのです。

 約束の地に入った民の生活の中心は、神を礼拝することであり、これが神の民の大切な歩みであると示されたのです。「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。(レビ11:44)」と語られているとおりです。

 パウロは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ12:1)」と語りました。そして、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:2)」と促しています。

 私たちの生きている現代社会は、様々な情報が大量に満ち溢れています。みことばから目を外してしまうと、それらに翻弄され、神の子どもとしての歩みを見失ってしまいます。このような時代だからこそ、神は、ご自身を心から礼拝する者を求めておられるのです。

 それゆえ、イエス様は、「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません(ヨハネ4:24)」と語るのです。

今日のメッセージ 『主は私の羊飼い』 2025年11月16日

 牧師 高橋勝義

〔民数記27章12~23節

 「このアバリム山に登り、わたしがイスラエルの子らに与えた地を見よ。それを見て、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたのと同じように、自分の民に加えられる。ツィンの荒野で会衆が争ったとき、あなたがたがわたしの命令に逆らい、彼らの見ている前で、あの水のところで、わたしが聖であることを現さなかったからである。」と主から告げられたモーセは、「(民を)羊飼いのいない羊の群れのようにしないでください」と主に訴えました。すると、主はヌンの子ヨシュアを後継者に任命するように命じられ、モーセは主が告げられたとおりに手をヨシュアの上に置き、彼後継者に任命しました。

 ところでイエス様も群衆を見て深くあわれまれたお方です。それは、彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからです(マタイ9:36)。この羊飼いのいない羊とは、実は私たちのことなのですが、私たちにはその自覚がありません。それでも、イエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」と私たちを招いてくださいます。

 しかし人々は、誰かに頼るのは弱い者がすること、だから自分には関係がないと、イエス様の招きに応じようとしません。使徒パウロは、自分の心の中を見るとき、良いことをしたいという願いがあるのに、それを実行できない自分がいる(ローマ7:18)ことを正直に告白しています。しかし同時に、このみじめな自分を救い出してくださるのは、イエス・キリストであることを知るのです(ローマ7:24)。また、王ダビデは、自分の生涯を振り返るとき、まことに主は私の羊飼いであり、主に日々守られてきたことを実感し、「主は私の羊飼い(詩篇23:1)」と告白するのです。

今日のメッセージ 『愛は人間関係の潤滑油』 2025年11月9日

 牧師 高橋勝義

〔民数記27章1~11節

 相続地について、神はモーセに登録した数に応じて大きい部族には大きく、小さい部族には小さく、くじで割り当て、彼らの父祖の部族の名にしたがって受け継がせるように命じました。しかし相続人となるべき男子がいなかったマナセ部族のツェロフハデ一族は5人の娘たちが相続地の継承を、モーセに願い出ました。この訴えに神は、彼女たちに相続地を与えるように命じられました。それは部族の名が残るためです。息子、娘がいないときは、その相続地を彼の父の兄弟たちに、もしその父に兄弟がいないときには、その相続地を彼の氏族の中で彼に一番近い血縁の者に与え、受け継がせるようにされたのです。

 神は私たちのために律法を定められたお方です。しかし決して、その律法で私たちを縛ろうとされたのではありません。それどころか、聖なる神は律法を守ることができない私たちのために、ひとり子イエス・キリストを私たちのもとに遣わし、キリストは私たちの罪の身代わりとして、十字架上で死なれたのです。それによって律法の要求はすべて満たされたのです。これは神が、滅びから私たちを救うためになされたことであり、十字架は、私たちへの神の愛のしるしなのです。それゆえ、私たちのためにご自身のいのちを献げられたイエス・キリストは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(ヨハネ13:34)」と語るのです。

 私たちは、神から受けた愛によって、人間関係を円滑にする潤滑油の働きを担っています。憎しみは争いを引き起こしますが、愛は人を育てるからです(Ⅰコリント8:1)。

 「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい(ピリピ2:4)

今日のメッセージ 『神の忍耐は私たちへの愛』 2025年11月2日

 牧師 高橋勝義

〔神の忍耐は私たちへの愛〕

 イスラエルは、神の御業によってモーセに導かれエジプトから救い出され、約束の地に向かう旅を始めました。しかし、モーセやアロンへの不平不満、また神への不信仰により、約束の地に入ることができず、40年間荒野で生活することになってしまいました。

 そして今、再び約束の地に入る準備が始まり、主の命令により各部族の二十歳以上の者を数えました。この時40年前にモーセと祭司アロンが人口調査して登録した者はエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアのほかは誰一人いませんでした。それは、主がかつて、不信仰な彼らについて、「彼らは必ず荒野で死ぬ」と言われたとおりでした。この荒野で、神への信仰を学んだ新しい世代が、約束の地に入る準備を始めたのです。

 前回、登録された者は六十万三千五百五十人でした(民数記1:46)が、今回は六十万一千七百三十人(民数記26:51)で、ほぼ、変わらなかったのです。「神はあわれみ深く彼らの咎を赦して滅ぼされなかった。怒りを何度も抑えて憤りのすべてをかき立てられることはなかった。(詩篇78:38)」とある通りです。それゆえ、詩篇の作者は「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(詩篇106:1)」と語るのです。

 神はだれひとり滅びることがなく、すべての人が悔い改めて救われることを心から待ち望んでいます(Ⅱペテロ3:9)神のいつくしみと恵みにより、私たちは滅ぼされなかったのです。時が満ち、神は、愛する一人子イエス・キリストを救い主としてこの世に遣わされました。それゆえ、「今は恵みの時、今は救いの日です(Ⅱコリント6:2)」から、このチャンスを逃さず、新しく造り変えられる新たな人生へと踏み出して行きましょう。

コラム 『神の不思議』 2025年10月26日

 牧師 高橋勝義

 人には、誰でも人生を変えるような出来事があるものです。その時は気づかなくても、それまでの人生を振り返ったとき、「あの時が…」と思い当たることが、きっとあるでしょう。

 私も中学三年生の時、自分の将来についてあれこれ考えるなかで、これからはコンピューターの時代になると思い、それを学びたいと考えていました。しかし時代は建築ブームで、叔父のひとりが建築科に進んだ方がいいと勧めました。今でも、なぜその勧めに従ったのか、不思議なのですが、私は建築の方に舵を切りました。そして、その建築科のある高校で、私はイエス・キリストに出会ったのです。

 生きる道を求めていた高校三年の春、私は教会に導かれ、イエス様を罪からの救い主と信じ、翌年、洗礼を受けました。あれから、50数年の月日が流れ、この間いろいろなことがありましたが、神の恵みとあわれみによって、福音を宣べ伝える働きに携わらせていただいています。もしも、あの時、自分の考え通りに進んでいたならば、イエス・キリストに出会うことはなかったかもしれません。中学三年のあの時には想像すらできなかったインターネットの普及、そして、それによる技術革新の日々の中で、私は取り残されないようにと、必死で頑張り、疲れ果てていたことでしょう。神のなさることは、本当に不思議です。

 私たちを造られた神は、私たち一人ひとりに御計画を持っておられます。 

 「私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。」(伝道者の書3:14)