牧師コラム 『あなたこそ神の子です』 2017年4月9日

牧師 高橋勝義

人は、相手によって、表面的に付き合う、干渉されない程度に付き合う、深く関わりたいので積極的に付き合う、といった具合に付き合い方や距離感を変えます。

さて、あなたと神の子イエス・キリストとの関係はどうでしょうか?

イエスという名は、御使いがヨセフに「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)と告げられたところから来ています。

その名前の意味は、『主は救い』です。

悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と大声で叫びました。(ルカ4:41)

イエス様の十二弟子のひとりであるヨハネは、イエス様と私たちの関わりについて、『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(Ⅰヨハネ4:10)と書き記しています。

イエス・キリストは、あなたを愛するゆえに、あなたの罪の贖いのために、十字架で死なれました。神様の方からあなたと深く関わりたい、積極的にあなたと付き合いたいと呼びかけておられます。

ですから、その神様の呼びかけに答えて、今度は、あなたが、イエス様に近づき、積極的に関りを持つ番です。

牧師コラム 『主イエスの十字架をめぐって』 2017年4月2日

      

 

牧師 栗原延元

                                     

今日は、主イエスの十字架をめぐる人々について学びます。第一に、ローマの兵士たちです。彼らは、シモンというクレネ人にイエスの十字架を無理やり背負わせ、「どくろ」と呼ばれた場所までイエスを連れ出し、そこでイエスを十字架につけ、イエスの着物をくじ引きで決めたうえで分けます。またイエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右にひとりは左に、十字架につけたのです。

第二に、道行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」第三に、祭司長たちも同じようにイエスをあざけって言った。「他人は救ったが自分は救えない。」第四に、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

イエスはこのように、ののしられ、あざけられたのですが、驚くべきことに、これらの人々のために、こう祈られたのです。「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でも分からないのです。」(ルカ23:34)

第五に、イエスの正面に立っていた百人隊長は、「この方はまことに神の子であった。」と言ったのです。イエスの十字架をめぐる、これらの人達のどこに私たちはっているのでしょうか。

牧師コラム 『権 威』 2017年3月26日

高橋勝義

※2017年4月2日から午前礼拝(10:30~11:45)になります

大きな地震が起こると、ニュース番組では、アナウンサーが「地震の権威者である○○先生から、今回の地震について説明をして頂きます」と紹介します。

権威とは、辞書によれば、「地位や立場によって他の者を服従させる力」、また、「ある分野において、知識や技術が抜きん出て優れていること」とあります。

イエス・キリストは、人々に神の国について教えました。

聖書は、『人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである』(ルカ4:32)と書き記しています。また、イエス・キリストは、ことばで、汚れた悪霊につかれた人から、汚れた霊を追い出しました。この出来事を目撃した人々は、権威と力に満ち溢れるイエス・キリストに驚愕しました。本当に、びっくりしたのです。

悪霊を服従させることが出来たのは、イエス・キリストご自身に権威と力があるからです。そのお方が、『誰かが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたし(イエス・キリスト)はその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世(あなた)を救うために来たのです。』(ヨハネ12:47)と語りました。

人は、神から離れた歩みをしているために、憎しみ・恨み・嫉妬・妬み・怒りなどに支配されています。これが、【罪】です。罪から私たちを救い出すために、権威と力あるお方が、その権威を使わずに、〔愛〕によって、救いを成し遂げられたのです。

その愛とは、イエス・キリストが、私たちのすべての罪を身代わりに負って、十字架で死なれたことです。それほどまでに、あなたは、神に愛されているのです。

牧師コラム 『閉じた心』 2017年3月19日

牧師 高橋勝義

私たちは、様々な経験をしながら人生を歩み、そこから、たくさんの知恵や知識を得ます。そして、問題が起きると、それらを用いて、乗り越えようとします。

しかし、そこには、勘違いや思い込みもあります。

人は、一度、「こうだ」と記憶してしまうと、間違いだと分かっていても、プライドが邪魔をして、その間違いを素直に正せなくなります。

ここで重要になってくるのが、「謙虚になる」という心です。

イエス・キリストが、ご自分の故郷に帰られた時のことです。

故郷に帰られる前に、ガリラヤへ行かれ、人々に神の国について教えました。人々は、イエス様の教えを喜んで聞き、イエス様を尊敬しました。

生まれ郷里ナザレの人々は、どうであったか?ガリラヤの人々のように、イエス様の教えを喜んで聞くどころか、丘のがけからイエス様を投げ落とそうとしたのです。郷里の人々には、イエス様を幼い頃から知っている事がかえってあだとなり、「大工の息子が救い主であるはずがない」と決めつけ、心を閉じてしまったからです。

十二弟子のひとりマタイは、『イエスは、彼らの不信仰の故に、そこで多くの奇跡をなさらなかった』(マタイ13:58)と書き記しています。

思い込みや先入観によって閉じた心は、イエス・キリストを正しく見ることが出来ないだけでなく、神様が与えようとしている素晴らしい約束を見出すことが出来ません。

思い込みや先入観を捨て、心を開いて聖書を読んでみてはいかかでしょうか?

イエス・キリストが、あなたにとってどんなお方かが見えてくるでしょう。

牧師コラム 『嘲弄の限りを受けて』 3月12日

牧師 栗原延元

イエスの教えと行為を書き録す四福音書とも、詳しく記しているのがイエスの受けた苦難についてです。

その姿は実に誰しもが顔をそむけたくなるものです。

 今回、学びますマルコの福音書の個所では、ローマの兵士たちがイエスの頭にいばらの冠を編んでかぶらせ、葦の棒で頭をたたいたり、顔につばきをかけたり、「ユダヤ人の王さま、ばんざい」と叫んで、ひざまずいて拝んだり、あざけりの限りを尽くしてから、十字架につけるために、ゴルゴダ(されこうべ)の丘に連れ出します。

 救い主(キリスト)が来られたとき、人々は、彼にどのような事をするかは、キリスト降誕七百年も前に、預言者イザヤによって詳述されていました。

 〈彼(キリスト)は、さげすまれ、人々からのけものにされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった〉(イザヤ53:3)

 キリストが何故に苦しまなければならないか、その理由を知っていた者は、イエスと同時代の者は誰もいなかったのです。

 イエスが苦しまれたのは、人を罪と死から救う神の知恵なのです。

 この救いの知恵は、イエスを信じる者に開示されるのです。

牧師コラム 『神の訓練』 2017年3月5日

 高橋勝義

 「獅子の子落とし」。わが子に厳しい訓練を与え、その器量を試すことで一人前に育てることが出来るというたとえです。実際には、母ライオンは非常に子煩悩、父ライオンは見た目によらず、意気地がないためこのような事はないようです。
 神の子であるイエス・キリストは、神から訓練を受けました。
 イエス・キリストが受けたこの訓練は、私たちが直面する個々の問題に対して、何を選択すればよいのか、その基準を私たちに教えてくれます。
 聖書は、『人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる(申命記8:3)』と語ります。「病は気から」とあるように、人は、心が健全でなければ、体を健康に保つことが出来ません。
 神の御言葉に信頼して歩む時、心は健全になるのです。
 また、『あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。(申命記6:13)』と語ります。人は、「権力と富」を追い求めますが、逆に、「権力と富」の虜になっているのではないでしょうか?
 本当にお仕えできるお方は、私たちを造られた神だけです。
 更に、『あなたがたの神、主を試みてはならない(申命記6:16)』と語ります。
 私たちは、解決できないことが起こると、神々と取引するような願掛けをします。
 聖書の神は、創造主の神であり、主権は、すべてこの神にあります。
 この神の御手にすべて任せて歩む時、希望を持って歩めるのです。

牧師コラム 『いのちの系図』 2017年2月26日

 高橋勝義

 「どこの馬の骨とも分からない」者は、信用できない。 「馬の骨」とは、素性の分からない人のことです。つまり、素性の分からない者をあざけって言う言葉ですが、言われた方は、不愉快な気分になり、悲しくなってしまいます。
 ここは、その人自身の人柄を見て、判断して欲しいところです。
 ところで、聖書は、イエス・キリストの系図を記しています。
 この系図は、私たちを『いのち』に導きます。そのいのちとは、『永遠のいのち』のことです。
 イエス・キリストの父ヨセフから系図をさかのぼっていった初めの人アダムとエバは、神と共に歩む幸いな道を捨てて、自分の力で生きる道を選びました。この時から、人は、人との信頼関係を築けなくなり、更に、女は、生みの苦しみを負い、男は、額に汗して糧を得なければならなくなりました。そこで、神は、昔から、永遠の昔から救いの道を備えられたのです。
 その救いの道とは、私たちの罪の身代わりとなられるイエス・キリストをこの世に遣わすことでした。なぜ、神は、ここまでされるのか?それは、私たちを愛しているからです。
 この事を受け取り、信じる時、私たちは、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)』とある約束を頂けるのです。
 ですから、イエス・キリストの系図は、私たちを『いのち』に導くのです。

牧師コラム 『わたしの愛する子』 2017年2月19日

高橋 勝義 牧師


2月14日は、「バレンタインデー」でした。
「女性から男性に、愛を込めてチョコレートを贈る」という
「日本型バレンタインデー」は、40年位前から広まったようです。
今は、愛の告白チョコ、義理チョコ、仲の良い友達に贈る友チョコ、
自分へのご褒美チョコなどがあるようです。

ところで、神も私たちに素晴らしいプレゼントを用意してくださいました。
神は、イエス・キリストが、バプテスマを受けた時、
『あなたは(イエス・キリスト)、わたし(神)の愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』
(ルカ3:22)
と語られましたが、私たちがまだ罪人であった時、その愛するひとり子
イエス・キリストをこの世に送られたのです。

それは、私たち人間のすべての罪の肩代わりをさせるためでした。
そして、罪のないキリストは、十字架で死なれ、三日目によみがえられました。
すべては、私たちを罪から救うため、私たちを心から愛しているからでした。
これが、神からの素晴らしい「愛のプレゼント」なのです。
ですから、十字架には、私たちに対する〔神の愛〕がいっぱい詰まっています。
あなたも神の愛を受け取り、この素晴らしい救いの恵みをいただいて、
神の愛の中に日々生きる道を選びませんか?

牧師コラム 『悔い改めの実』 2017年2月12日

高橋 勝義 牧師


収穫を迎えた時、苦労して育て来た農家や漁業の人たちには、
言葉に表せない喜びがこみ上げてくるのではないでしょうか…。
農業や漁業に限らず、人は、何かを成し遂げるために、日々努力を重ねます。
そして、その実を見る時、喜びと共に充実感・満足感・達成感に満たされ、
生きていて本当に良かったと思うことでしょう。

バプテスマのヨハネという人は、創造主を神と信じているイスラエル人に向かって、
『悔い改めにふさわしい実を結びなさい』(ルカ3:8)と命じました。
なぜ、このように命じたのか。
それは、人々が、「自分たちの祖先であるアブラハムの立派な信仰」にあぐらを
かいていたからです。
アブラハムの信仰で、自分も救われると考え、
神の教えを無視して歩んでいたのです。
そこで、バプテスマのヨハネは、人々に罪の悔い改めを迫ったのです。
罪の悔い改めとは、自分が神から離れた歩みをしていることを認めて、
神の教えに聞き従う決心をすることです。神の教えとは、聖書の言葉です。

この悔い改めの歩みをする者は、「御子のかたち」(ローマ8:29)、
すなわち、イエス・キリストに似る者に変えられていくのです。
イエス・キリストが、人々を愛されたように、キリストの愛を届ける人に
変えられるのです。これが、悔い改めの実です。

牧師コラム 『イエス・キリストとの出会い』 2017年2月5日

高橋 明美姉

 

私の兄には脊髄損傷障害があり、母はおしめの洗濯が日課でした。
兄さえいなければ…と考える私。それをごまかすために良い子を装う偽善者の私。
両親がいなくなった後、誰を頼ればよいのだろうか、誰が私を守ってくれるだろうか
と将来への不安を抱えていた26歳の冬、教会の英会話教室に通い始めました。

そんなある日、家に帰ろうとする私に宣教師の先生が笑顔で「道ありき」という
一冊の本を貸して下さったのです。それは、作家三浦綾子の信仰のあかし書でした。

それまでの私は、キリスト教の神イエス・キリストも八百万の神の一つと
思っていましたが、そこには「真の神は唯一でイエス・キリストである」と記されてありました。

ほどなく、イエス・キリストの十字架の話を聞き、兄の存在を消した罪が
赦されるのなら信じてみようと祈りました。
更に帰宅後、満天の星空を仰ぎ思いました。

「神様は『いる』か『いない』かのどちらか一つだ、よし!」

清水の舞台から飛び降りる覚悟で
「神様、もし本当におられるのでしたら私の心を変えて下さい。
私はあなたが『いる』と信じます。」と祈りました。

あの夜からイエス様が私の頼れるお方、守って下さるお方になって下さったのです。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
─主の御告げ─それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』(エレミヤ29:11)