牧師コラム 『招かれた客』  2017年5月21日

牧師 高橋勝義

子どもは、家にお客様が来るのを楽しみにしています。なぜなら、お土産の楽しみがあるからです。しかし、必ずしも、良いお客ばかりではありません。

イエス・キリストは、『わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです』(ルカ5:32)と語りました。
 誰を招いているかは、明らかです。自分は正しいと自負している人ではなく、自分を罪人であることを認めている人です。

【罪】とは、何でしょうか?

【罪】とは、神から離れ、自分中心に生きることです。
 
その結果、人は、自分の肉(自分中心)の欲の中に生き、肉と心の望むままを行う歩みを続けています。このような歩みは、創造主の神から御怒りを受ける〕のです。

ですから、イエス・キリストは、『罪人を招いて、悔い改めさせるために来た』と語るのです。なぜなら、神の御怒りからあなたを救うために、この世に来られからです。

それ故、イエス様は、この招きを受け入れるかどうか、あなたに問いかけています。

イエス様の招きに応じるには、【自分が罪人である】ことを認めることです。自分が、【罪人】であることを認めなければ、悔い改めはできません。

その【悔い改め】とは、「神様、ごめんなさい。私は今まで神から離れ、自分勝手な歩みをしていましたが、これからは、神に従って生きます。」と自分の意志で決断し、自分中心の生き方から神中心の生き方に方向転換することです。この方向転換が、神の御怒り〕からあなたを救うのです。

それだけではありません。
 
あなたは、永遠のいのちを得て、イエス・キリストの復活のいのち、即ち、新しいいのちを頂き、新たな歩みへと踏み出すのです。

牧師コラム 『病と罪の赦し』 2017年5月14日

牧師 高橋勝義

 心の苦しみをどう解決するか?苦しみの原因のほとんどが、〈憎しみ〉や〈怒り〉から来ています。そこで、安らかな気持ちで生きるには、その相手を赦すことが必要になってきます。しかし、赦すことは、容易ではありません。

 ところで、聖書は、【罪】が〈憎しみ〉や〈怒り〉の原因であると語っています。

 病が直ったとしても、〈憎しみ〉と〈怒り〉を抱えたままでは、心の苦しみは解決されません。ですから、イエス・キリストは、中風の人に「中風が直りました」とは言わず、『友よ。あなたの罪は赦されました。』(ルカ5:20)と宣言したのです。

 イエス・キリストは、〈憎しみ〉や〈怒り〉の原因である罪を取り除くために、私たちの身代わりとなって下さり、十字架で死なれました。この十字架が、創造主である神と私たちの和解をもたらしたのです。つまり、神は、私たちを赦されたのです。
  この赦しを心から受け取る時、私たちの心が神の愛に包まれ、赦されることの幸いを味わい知るのです。この経験が、〈憎しみ〉と〈怒り〉から私たちを解放してくれます。

 人は、本当に愛された時、愛が分かり、人を愛することが出来るようになります。

 同様に、赦されることの素晴らしさを味わう時、『お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい(エペソ4:32)』の御言葉のように人を赦すことが出来る者に変えられるのです。

牧師コラム 『エリヤは来たか』 2017年5月7日

牧師 栗原延元

キリスト教会のシンボルは十字架です。その建物の屋根か正面に十字架が掲げられていれば、そこはキリスト教会です。

十字架につけられて、イエスは三十三年に及ぶこの地上の生涯を終えました。イエスの最後の一週間を詳しく福音書は書き残しています。特にイエスが十字架につけられた日の朝から晩に至るまで、誰が何をして、どうしたかが分かります。

この中で〈三時にイエスは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。〉とマルコの福音書1534節は述べています。

イエスの生の声を聞いて、十字架のそばに立っていた幾人かが「そら、エリヤを呼んでいる」、とも「エリヤがやって来て、イエスを降ろすかどうか、見ることにしよう」と言ったのです。

当時の人々は一般に、敬虔な人が助けを必要としているときには、エリヤが助けに来てくれると信じていたのです。しかし、エリヤはやって来ませんでした。

〈それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた〉のです。

そしてイエスのからだは、岩を掘って造った墓に納められたのですが、それから三日後、イエスは墓の中から、復活したのです。

ここにイエスをキリスト(救い主)と信じる者の希望があるのです。

牧師コラム 『わたしの心だ』 2017年4月30日

牧師 高橋勝義

 私達は日々、色々な人に出会い、言葉を交わします。言葉ひとつで、楽しく会話が弾むこともあれば、不愉快な気持ちにもなります。ですから、新入社員の研修で言葉の使い方を教えるのでしょう。
 しかし、いくら言葉使いを注意しても、限界はあります。
 なぜなら、言葉には、その人の心そのものが表れ出てくるからです。
 では、どうすれば、心を良いもの(きよいもの)にすることができるのでしょうか?

 らい病人は、イエス・キリストを見ると、ひれ伏し「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」とお願いしました。(ルカ5:12)イエス様は、彼をあわれみ、手を伸ばして、彼にさわり『わたしの心だきよくなれ。』と言われました。するとすぐに、そのらい病が消えたのです。(ルカ5:13)その時、イエス様のきよい心が、らい病と彼の心を癒やしたのです。
 彼の心は、社会から隔離され、希望のない人生に打ちのめされていたのですが、病が直り、社会復帰し、希望を持って歩めるように変えられたのです。

 〔心〕がきよくされるには、まず、自分の心はきよくない(罪)と自覚することが必要です。私たちの心をきよめ、新しく生きる道を備えるために、イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなり、十字架で死んでくださったのです。

 心をきよくする約束として、聖書は『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(Ⅰヨハネ1:8,9)と語っています。

牧師コラム 『人生を変える出会い』 2017年4月23日

牧師 高橋勝義

野球選手が、「優勝して、監督を胴上げしたい」とインタビューで語る姿をテレビで見たことがあります。まさに、監督冥利に尽きることばです。

監督は、選手を思い、信頼し任せるので、選手も監督を信頼し、この監督のためならば、頑張ろうと思うのでしょう。

漁師のペテロは、一晩中働きましたが、何も取れませんでした。

そのペテロに、イエス・キリストは、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』(ルカ5:4)と命じます。

さすがのペテロも驚き戸惑いますが、「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」(ルカ5:5)と言って、従ったのです。

すると、たくさんの魚がはいり、網は破けそうになったのです。

これを見たペテロは、イエス様の足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ5:8)と言いました。

イエス様は、ペテロに『こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。』と言われると、そこにいたヤコブ・ヨハネ・ペテロの三人は、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエス様に従ったのです(ルカ5:11)

彼らにとって、イエス・キリストとの出会いは、人生を変えるものでした。

 彼らは、イエス様がすべてをご存知であり、すべてを受け入れてくださるお方であることを確信したので、このお方に人生をお任せする決断をし、従ったのです。

 あなたを愛し、あなたのありのままを受け入れ、責めることなく、共に歩んでくださるイエス様に、あなたの人生を委ね、歩みませんか?

 その時、あなたの人生は、新しく変えられたものとなるのです。

牧師コラム 『見ずに信じる者は幸いです』 2017年4月16日

牧師 高橋勝義

イエス・キリストは、『見ずに信じる者は幸いです』と語りました。

この言葉を聞いた人々の中には、見ずに信じるなど、とんでもないと思う方もおられることでしょう。しかし、日常生活に目を向けてみると、私たちは、様々なことを見ずに信じて、生活していることが分かります。

たとえば、電気は見えませんが、電気が来ていると信じているので、プラグをコンセントに差し込みます。

そして、様々な電化製品の恩恵を受けて、生活しているのです。

イエス様の弟子トマスは、ほかの弟子たちが「よみがえったイエス様を見た。」と言ったのですが、三年間、寝食を共にした仲間のことばを信じられず、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘の所に差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(ヨハネ20:25)と言いました。

しかし、イエス様は、この慎重で疑り深いトマスにも、ご自身を現されました。

トマスが、「私の主。私の神」と言った時、イエス様は、『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』と語られたのです。

死んだ者が、よみがえる…人には、とても受け入れなれないことです。

しかし、神様は、死者の中からイエス様をよみがえらせました。

イエス様の復活は、罪の贖い(償い)、救いの完成であり、主を信じる私たちも同様に、終わりの日に復活することの証しです。

 ですから、イースター(復活祭)は、キリスト教信仰のかなめなのです。

牧師コラム 『あなたこそ神の子です』 2017年4月9日

牧師 高橋勝義

人は、相手によって、表面的に付き合う、干渉されない程度に付き合う、深く関わりたいので積極的に付き合う、といった具合に付き合い方や距離感を変えます。

さて、あなたと神の子イエス・キリストとの関係はどうでしょうか?

イエスという名は、御使いがヨセフに「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイ1:21)と告げられたところから来ています。

その名前の意味は、『主は救い』です。

悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と大声で叫びました。(ルカ4:41)

イエス様の十二弟子のひとりであるヨハネは、イエス様と私たちの関わりについて、『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(Ⅰヨハネ4:10)と書き記しています。

イエス・キリストは、あなたを愛するゆえに、あなたの罪の贖いのために、十字架で死なれました。神様の方からあなたと深く関わりたい、積極的にあなたと付き合いたいと呼びかけておられます。

ですから、その神様の呼びかけに答えて、今度は、あなたが、イエス様に近づき、積極的に関りを持つ番です。

牧師コラム 『主イエスの十字架をめぐって』 2017年4月2日

      

 

牧師 栗原延元

                                     

今日は、主イエスの十字架をめぐる人々について学びます。第一に、ローマの兵士たちです。彼らは、シモンというクレネ人にイエスの十字架を無理やり背負わせ、「どくろ」と呼ばれた場所までイエスを連れ出し、そこでイエスを十字架につけ、イエスの着物をくじ引きで決めたうえで分けます。またイエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右にひとりは左に、十字架につけたのです。

第二に、道行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」第三に、祭司長たちも同じようにイエスをあざけって言った。「他人は救ったが自分は救えない。」第四に、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

イエスはこのように、ののしられ、あざけられたのですが、驚くべきことに、これらの人々のために、こう祈られたのです。「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でも分からないのです。」(ルカ23:34)

第五に、イエスの正面に立っていた百人隊長は、「この方はまことに神の子であった。」と言ったのです。イエスの十字架をめぐる、これらの人達のどこに私たちはっているのでしょうか。

牧師コラム 『権 威』 2017年3月26日

高橋勝義

※2017年4月2日から午前礼拝(10:30~11:45)になります

大きな地震が起こると、ニュース番組では、アナウンサーが「地震の権威者である○○先生から、今回の地震について説明をして頂きます」と紹介します。

権威とは、辞書によれば、「地位や立場によって他の者を服従させる力」、また、「ある分野において、知識や技術が抜きん出て優れていること」とあります。

イエス・キリストは、人々に神の国について教えました。

聖書は、『人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである』(ルカ4:32)と書き記しています。また、イエス・キリストは、ことばで、汚れた悪霊につかれた人から、汚れた霊を追い出しました。この出来事を目撃した人々は、権威と力に満ち溢れるイエス・キリストに驚愕しました。本当に、びっくりしたのです。

悪霊を服従させることが出来たのは、イエス・キリストご自身に権威と力があるからです。そのお方が、『誰かが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたし(イエス・キリスト)はその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世(あなた)を救うために来たのです。』(ヨハネ12:47)と語りました。

人は、神から離れた歩みをしているために、憎しみ・恨み・嫉妬・妬み・怒りなどに支配されています。これが、【罪】です。罪から私たちを救い出すために、権威と力あるお方が、その権威を使わずに、〔愛〕によって、救いを成し遂げられたのです。

その愛とは、イエス・キリストが、私たちのすべての罪を身代わりに負って、十字架で死なれたことです。それほどまでに、あなたは、神に愛されているのです。

牧師コラム 『閉じた心』 2017年3月19日

牧師 高橋勝義

私たちは、様々な経験をしながら人生を歩み、そこから、たくさんの知恵や知識を得ます。そして、問題が起きると、それらを用いて、乗り越えようとします。

しかし、そこには、勘違いや思い込みもあります。

人は、一度、「こうだ」と記憶してしまうと、間違いだと分かっていても、プライドが邪魔をして、その間違いを素直に正せなくなります。

ここで重要になってくるのが、「謙虚になる」という心です。

イエス・キリストが、ご自分の故郷に帰られた時のことです。

故郷に帰られる前に、ガリラヤへ行かれ、人々に神の国について教えました。人々は、イエス様の教えを喜んで聞き、イエス様を尊敬しました。

生まれ郷里ナザレの人々は、どうであったか?ガリラヤの人々のように、イエス様の教えを喜んで聞くどころか、丘のがけからイエス様を投げ落とそうとしたのです。郷里の人々には、イエス様を幼い頃から知っている事がかえってあだとなり、「大工の息子が救い主であるはずがない」と決めつけ、心を閉じてしまったからです。

十二弟子のひとりマタイは、『イエスは、彼らの不信仰の故に、そこで多くの奇跡をなさらなかった』(マタイ13:58)と書き記しています。

思い込みや先入観によって閉じた心は、イエス・キリストを正しく見ることが出来ないだけでなく、神様が与えようとしている素晴らしい約束を見出すことが出来ません。

思い込みや先入観を捨て、心を開いて聖書を読んでみてはいかかでしょうか?

イエス・キリストが、あなたにとってどんなお方かが見えてくるでしょう。