牧師コラム 『人生の土台』 2017年7月30日

牧師 高橋勝義

 

 地震の多い日本では、土台の良し悪しが、丈夫な建物になるかどうかを左右します。ですから、地盤を調べるなど土台造りには、時間と費用をかけます。
 ところで、人生には全く揺るがない土台というものがあるのでしょうか…。
 もしも、そのような土台があるとするならば、その上に自分の人生を築けば、きっと幸いな人生になるに違いありません。
 イエス・キリストは、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)』と語りました。
 なぜ、イエス・キリストが〔道〕であり、〔真理〕であり、〔いのち〕なのか。
 イエス・キリストが〔道〕なのは、私たちを〈まことの神〉へと導くからです。
 イエス・キリストは、私たちのすべての【罪】を身代わりに負い、十字架で死なれたので、私たちと〈まことの神〉を和解させて下さる〔真理〕なのです。
 イエス・キリストが〔いのち〕なのは、この方を【罪】からの救い主として信じる時、私たちを死の滅びから〈永遠のいのち〉へと移して下さるからです。
 イエス・キリストは、あなたを愛し、あなたと共に歩んで下さる〈神〉ですから、この方を人生の土台とするならば、様々な困難や試練に会う時、いつもあなたを慰め・励まし・助け・力づけて下さいます。あなたが、気力を失い、歩くことさえままならない時には、あなたを背負って下さるお方です。
 聖書は、『その人は…岩(イエス・キリスト)の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せた時も、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。(ルカ6:48)』と語っています。これは、神の約束です。

牧師コラム 『三つの教え』 2017年7月23日

牧師 高橋勝義

 

 イエス・キリストは、弟子たちに三つのことを教えました。

〈第一は、十分訓練を受けた者となること〉私たちは、本質的に楽な道を求めます。実は、怠け者なのかもしれません。ですから、弟子のパウロは、『勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい』(ローマ12:11)と警告するのです。
 『十分訓練を受けた者』とは、イエス様を信じ、信頼して歩む人のことです。イエス様の教えが〔真実〕であることを日々の歩みの中で、まず、自分自身が、味わう。
 そうすれば、その教えを自信を持って、人々に教えることが出来るのです。
〈第二は、自分の目から梁(はり)を取る〉「目の梁」とは、自分は常に正しいとする高慢な心のことです。ですから、人の間違いにチェックを入れ、平気で『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』(ルカ6:42)と言うのです。
 しかし、聖書は、『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい』(ピリピ2:3)と語ります。まず、自分をわきまえること。そして、愛を持って話さなければ、どんなに正しい事も、相手の心には届きません。
〈第三は、良い実を結びなさい〉『人の口は、心に満ちているものを話します』(ルカ6:45)私たちの生まれながらの心は、【恨み・憎しみ・妬み・欺き】などで満ちています。このような心からは、日々、争いばかりが生まれます。
 聖書は、『御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です』(ガラテヤ5:22,23)と語ります。
 心が、御霊に満たされていれば、本当に、良い実(御霊の実)を結ぶことが出来るのです。そのためには、それを妨げている悪い思いに気付くたびごとに【罪】を認め、十字架の血潮で聖めて頂くことが必要なのです。

牧師コラム 『あら探しからの解放』 2017年7月16日

牧師 高橋勝義

  イエス・キリストは、『さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。』(ルカ6:37)と語りました。
この世の「さばく」とは、混乱したものを整理すること・道理にかなっているかどうかを明らかにすることです。
 
しかし、イエス様が『さばいてはいけません』と語られたことの意味は、「人のあら探しをしてはいけない」ということです。私たちが人をさばくのは、自分の価値観や基準で「人のあら探し」をする時です。
 
でも、ブーメランが、投げた人の所に必ず戻ってくるように、あら探しをして人を裁くと、その代償は必ず自分に戻ってきます。やられたらやり返す社会の中に生きている私たちの人間関係は、ますます悪化してしまいます。
 
イエス・キリストは、私たちのこの悪い習慣()に対して、真正面からそれを断ち切るように命じます。()を断ち切るために、『これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』(マタイ26:28)と語りました。
 『罪を赦すために多くの人のために流される』とは、まことの神を神としない、人が生まれながら持っている【罪】のために、イエス・キリストが身代わりとなって十字架で死なれたことです。
 それは、【罪】を赦す神の唯一の方法でした。
 
ですから、イエス・キリストの十字架は、あなたへの《愛と赦し》のしるしなのです。人は、このメッセージを信じ受け取る時、神の愛と赦しを知るのです。
 
神の愛は、えこひいきがなく、ありのままのあなたを受け入れて下さいます。
 
この神の愛の力が、「人のあら探し」してしまうあなたを解放し、人を赦す者へと変えるのです。

牧師コラム 『敵を愛する』 2017年7月9日

 牧師 高橋勝義

 イエス・キリストは、『あなたの敵を愛しなさい』(ルカ6:27)と何度も語りました。
 
「自分を愛してくれる人を愛する」、「自分に良いことをしてくれる人を愛する」ことは、誰でもしていることです。しかし、「敵」という言葉を「悪口を言う人」、「自分のことを嫌っている人」に置き換えた時、その人を愛することが出来るでしょうか…。
 
聖書は、『人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません』(ヨハネ15:13)と語っています。同時に、『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』(Ⅰヨハネ4:10)とも語っています。
 
『人(イエス・キリスト)がその友(あなた)のためにいのちを捨てる』、即ち、イエス・キリストはあなたを【罪】から救い、永遠のいのちを与え、新しいいのちに生かす歩みへと導くために、ご自分のいのちを十字架で捨てて下さったのです。
 
これが、〔神の愛〕なのです。
 神の愛は、見返りを求めない無償の愛です。
 ところで、人は〔愛されること〕を味わうことなくして人を愛することは出来ません。〔愛〕がわからなければ、どう愛すれば良いのか分からないからです。
 
イエス・キリストは、ご自分のいのちを捨ててまであなたを愛して下さいました。神はこの愛を受け取り『あなたの敵を愛する者になりなさい』と語りかけるのです。
 
しかし、自分の力では、どう頑張っても人を愛することは出来ません。肝心なことは、イエス・キリストを信じ、神の力  (聖霊の助け)によって愛する者に変えて頂くことです。
 その時、あなたは敵をも愛する人に変えられるのです。

牧師コラム 『先立ち行く復活の主イエス』

  牧師 栗原延元

 私たちは、これからの事を考えると、「心配」が先立ちます。一方、今までの事を振り返ると、後悔することが多くなります。
これからの事(あしたの事)、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかの事などについてイエスは〈あすのための心配は無用です。あすのことは、あすが心配します〉と大ぜいの人に語りました。その真意は、天の父なる神は私たちのこの世の必要をご存知ですから、先のことを心配しないで、今日、しなければならないことを一生懸命しなさい、という事のようです。
今日、学びますのは、イエスが復活したことを伝えるマルコの福音書16章です。イエスの弟子たち3婦人が葬られたイエスに香料を塗りに行こうと墓に向かいます。道々、彼女たちは、「墓の入り口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」と話し合っていたのです。墓に着いてみると石がすでにころがしてあった。墓の中に真白な長い衣をまとった青年がおり、「イエスは、よみがえられ、あなたがたより先に、ガリラヤに行かれ、そこでお会いできます」と婦人たちに語るのです。
今日の礼拝の中で、この青年の語ったことについて、学びます。
…あなたの席が用意してあります。

牧師コラム 『本当の幸い』 2017年6月25日

牧師 高橋勝義

 

すべての人は、「幸い」を求めています。災いを願う人はいないでしょう。

聖書は『貧しい者、今飢え乾いている者、今泣いている者は、幸いである(ルカ6:20,21)』というのですが、なぜ、「幸い」なのでしょうか…。

貧しい者・今飢え乾いている者・今泣いている者とは、自分の弱さや足りなさに心を痛めている人のことです。

自己憐憫に陥って、自分を嘆いている人のことではありません。

弱さや足りなさとは、まことの神に対する信仰の足りなさ、また、神に従って歩めない自分に、葛藤し、もがき苦しみ、救いを求めている人のことです。

自分には望みがないと知っている人に対して、神は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』(Ⅱコリント12:9)と語っています。

白旗を挙げている人は、神にすべてをゆだねることができるので、〔神の力〕がその人の内に働くからです。

更に、聖書は『富んでいるあなた、今食べ飽きているあなた、今笑っているあなたは、「哀れな者」である(ルカ6:24,25)』と語っています。

なぜ、「哀れな者」なのでしょうか…。

それは、富んでいる・今食べ飽きている・今笑っている人は、自分の力がすべてであると思い、心が傲慢になり、人からの助けや忠告を聞こうとしないからです。

『私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。』(ヘブル4:15)
 
本当の幸いとは、あなたの弱さをありのまま受け入れてくださるお方、即ち、イエス・キリストを信頼し、すべてをゆだね、従って歩む人のことなのです。 

牧師コラム 『使 命』 2017年6月18日

牧師 高橋勝義

 

使命とは、与えられた重大な務め、責任をもって果たさなければならない任務のことです。イエス・キリストは、弟子の中から、祈りをもって十二人の弟子を選び〔使徒〕という名をつけました。その十二使徒たちの〈使命〉とは、全世界に〔福音〕を宣べ伝え、キリストの復活の証人となることでした。

キリストの復活が、私たちを【罪】から救い、死からいのちへと移し、《永遠のいのち》を得させて下さる、この良い知らせが、〔福音〕です。

選ばれた十二人は、この世の知者・権力者・身分の高い者ではなく、漁師であり、人々から嫌われている取税人であり、ごくごく普通の人たちでした。

その彼らが、福音を宣べ伝えるという〈使命〉を果たすことが出来たのは、キリストの復活を目撃したことと、“聖霊”に導かれて歩んだからなのです。

同じように、神は、イエス・キリストを救い主として信じる者に【罪】からの救いと共に〈使命〉をくださいました。

その使命とは、『地の塩(マタイ5:13)』になることです。料理に欠かせない塩のように、私たちが人々によい影響を与える者にならせていただくことです。

さらに『世界の光(マタイ5:14)』になることも使命です。暗闇を照らし、周りを明るくする光のような存在、愛を届ける者になることです。

十二使徒が全世界に宣べ伝え、そして今日、私たちの元に届いた、この〔福音〕を信じる時、あなたは『地の塩』、『世界の光』、愛を運ぶ者にならせて頂けるのです。

そして、〔福音〕は、真にあなたを生かす“源”となるのです 

牧師コラム 『誰のための安息日か』 2017年6月11日

牧師 高橋勝義
   

明治9年(1876年)3月12日、官庁の定休日を日曜日、土曜日を半休とする政府からの通達が出るまで、日本には、決まった休日はありませんでした。

聖書は、『主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それ故、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。(出エジプト20:11)』……『六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。(出エジプト31:15)』と語っています。

神は、世界の創造の初めから人間のために〈休み〉を定めました。なぜなら、私たちを造られた神は、私たちに休息が必要であることをよく御存知だからです。

初め、安息日は、「土曜日」でした。では、いつから、日曜日が、安息日になったのでしょうか?それは、イエス・キリストが、私たちの【罪】のすべてを身代わりに負い、十字架で死なれ、三日目の日曜日の朝によみがえられた時からです。

イエス・キリストのよみがえりは、私たちに永遠のいのちを与え、新しい歩みへと導き入れます。これが、〔救い〕です。

イエス・キリストを救い主として信じる人々が、日曜日の朝、主のよみがえりを喜び、神の愛と恵みに感謝し、救いを与えて下さったイエス・キリストを賛美するために、集まるようになったのです。

ですから、日曜日(安息日)は、からだと心の休みであると同時に、私たちに救いを与えて下さった神の愛と恵みに感謝し、その神を賛美、礼拝するためにあるのです。イエス様が『人の子は、安息日の主です』(ルカ6:5)と語っている通りです。

牧師コラム 『死にて葬られ』 2017年6月4日

牧師 栗原延元

死んだ人に対して、残った人のなすべきことは、その人を丁重に葬ることです。しかしその人が犯罪人として刑死した場合はどうでしょうか。イエスは十字架の極刑を受けたのです。だれしもこのような人を葬るのをためらうでしょう。イエスの場合もそうでした。他人(ひと)の目を恐れて、イエスの12弟子たちは逃げてしまっていたのです。イエスの生前は、弟子であることを隠していた2人の人が、イエスの遺体を引き取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従ってイエスを墓に納めたのです。

今日学びますマルコの福音書には、イエスを葬った、アリマタヤのヨセフが登場します。彼はユダヤ議会(サンヘドリン)の有力な議員でしたが、議員たちのイエスを亡き者としようとする協議には賛同していませんでした。議員たちの行動に心を痛めていたようです。イエスの十字架上の死の様子を知って、ヨセフは〈思い切ってピラとのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。〉(マルコ15:43)のです。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から取り降ろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った、自分の墓に納めたのです。

神の御子イエスは死にて葬られたのです。人が最後に体験するのが葬られることです。イエスの人としての事業が完成したのです。それ故にキリストは〈完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となった〉(ヘブル5:9)のです。 

牧師コラム 『新たなる歩みへ』 2017年5月28日

牧師 高橋勝義

 石巻出身の漫画家、石ノ森章太郎の代表作に「仮面ライダー」があります。
 主人公は、敵を前にすると変身し、悪をやっつけるという物語です。
 ところで、あなたも、全く新しい自分に変わりたいと思ったことはありませんか?
 イエス・キリストは、『新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません(ルカ5:38)』と語りました。新しいぶどう酒は、皮袋の中でも発酵し続けます。
 新しい皮袋は、皮に柔軟性があるので、ぶどう酒が発酵して膨らんでも、耐えることが出来ますが、古い皮袋は裂けてしまいます。
 この新しいぶどう酒とは、《福音》を意味しています。
 福音とは、イエス・キリストが、私たちの【罪】の全てを負い、身代わりとなって十字架で死なれたこと。
 そして、それを信じる時、罪赦され、永遠のいのちが与えられるという良き知らせのことです。
 この良き知らせ(福音)を受け取る時、イエス・キリストのよみがえりのいのち、即ち、新しいいのちを頂いて、あなたは〔新しい歩みへ〕と踏み出すのです。
 新しい皮袋とは、〈新しい心〉のことです。
 私たちは、自分中心で生きてきたので、神から離れて生きることが【罪】であることを知らず、認めることができません。
 けれども、聖霊が私たちの内に働かれる時、私たちの心に【罪】を教え、誤りに気付かせ、〈新しい心〉にさせるのです。
 新しい心が、福音を受け入れ、真の神への信仰があなたの中で育つのです。

 聖書は、『誰でもキリストの内にあるならその人は新しく造られた者です古いものは過ぎ去って見よすべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)』と語ります。

 これは、神の約束です。外見が変わるのではなく、イエス・キリストの新しいいのちによって、心が一新され、内側から変えられて、新たなる歩みが始まるのです。