牧師コラム 『使 命』 2017年6月18日

牧師 高橋勝義

 

使命とは、与えられた重大な務め、責任をもって果たさなければならない任務のことです。イエス・キリストは、弟子の中から、祈りをもって十二人の弟子を選び〔使徒〕という名をつけました。その十二使徒たちの〈使命〉とは、全世界に〔福音〕を宣べ伝え、キリストの復活の証人となることでした。

キリストの復活が、私たちを【罪】から救い、死からいのちへと移し、《永遠のいのち》を得させて下さる、この良い知らせが、〔福音〕です。

選ばれた十二人は、この世の知者・権力者・身分の高い者ではなく、漁師であり、人々から嫌われている取税人であり、ごくごく普通の人たちでした。

その彼らが、福音を宣べ伝えるという〈使命〉を果たすことが出来たのは、キリストの復活を目撃したことと、“聖霊”に導かれて歩んだからなのです。

同じように、神は、イエス・キリストを救い主として信じる者に【罪】からの救いと共に〈使命〉をくださいました。

その使命とは、『地の塩(マタイ5:13)』になることです。料理に欠かせない塩のように、私たちが人々によい影響を与える者にならせていただくことです。

さらに『世界の光(マタイ5:14)』になることも使命です。暗闇を照らし、周りを明るくする光のような存在、愛を届ける者になることです。

十二使徒が全世界に宣べ伝え、そして今日、私たちの元に届いた、この〔福音〕を信じる時、あなたは『地の塩』、『世界の光』、愛を運ぶ者にならせて頂けるのです。

そして、〔福音〕は、真にあなたを生かす“源”となるのです 

牧師コラム 『誰のための安息日か』 2017年6月11日

牧師 高橋勝義
   

明治9年(1876年)3月12日、官庁の定休日を日曜日、土曜日を半休とする政府からの通達が出るまで、日本には、決まった休日はありませんでした。

聖書は、『主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それ故、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。(出エジプト20:11)』……『六日間は仕事をしてもよい。しかし、七日目は、主の聖なる全き休みの安息日である。(出エジプト31:15)』と語っています。

神は、世界の創造の初めから人間のために〈休み〉を定めました。なぜなら、私たちを造られた神は、私たちに休息が必要であることをよく御存知だからです。

初め、安息日は、「土曜日」でした。では、いつから、日曜日が、安息日になったのでしょうか?それは、イエス・キリストが、私たちの【罪】のすべてを身代わりに負い、十字架で死なれ、三日目の日曜日の朝によみがえられた時からです。

イエス・キリストのよみがえりは、私たちに永遠のいのちを与え、新しい歩みへと導き入れます。これが、〔救い〕です。

イエス・キリストを救い主として信じる人々が、日曜日の朝、主のよみがえりを喜び、神の愛と恵みに感謝し、救いを与えて下さったイエス・キリストを賛美するために、集まるようになったのです。

ですから、日曜日(安息日)は、からだと心の休みであると同時に、私たちに救いを与えて下さった神の愛と恵みに感謝し、その神を賛美、礼拝するためにあるのです。イエス様が『人の子は、安息日の主です』(ルカ6:5)と語っている通りです。

牧師コラム 『死にて葬られ』 2017年6月4日

牧師 栗原延元

死んだ人に対して、残った人のなすべきことは、その人を丁重に葬ることです。しかしその人が犯罪人として刑死した場合はどうでしょうか。イエスは十字架の極刑を受けたのです。だれしもこのような人を葬るのをためらうでしょう。イエスの場合もそうでした。他人(ひと)の目を恐れて、イエスの12弟子たちは逃げてしまっていたのです。イエスの生前は、弟子であることを隠していた2人の人が、イエスの遺体を引き取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従ってイエスを墓に納めたのです。

今日学びますマルコの福音書には、イエスを葬った、アリマタヤのヨセフが登場します。彼はユダヤ議会(サンヘドリン)の有力な議員でしたが、議員たちのイエスを亡き者としようとする協議には賛同していませんでした。議員たちの行動に心を痛めていたようです。イエスの十字架上の死の様子を知って、ヨセフは〈思い切ってピラとのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。〉(マルコ15:43)のです。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から取り降ろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った、自分の墓に納めたのです。

神の御子イエスは死にて葬られたのです。人が最後に体験するのが葬られることです。イエスの人としての事業が完成したのです。それ故にキリストは〈完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となった〉(ヘブル5:9)のです。 

牧師コラム 『新たなる歩みへ』 2017年5月28日

牧師 高橋勝義

 石巻出身の漫画家、石ノ森章太郎の代表作に「仮面ライダー」があります。
 主人公は、敵を前にすると変身し、悪をやっつけるという物語です。
 ところで、あなたも、全く新しい自分に変わりたいと思ったことはありませんか?
 イエス・キリストは、『新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません(ルカ5:38)』と語りました。新しいぶどう酒は、皮袋の中でも発酵し続けます。
 新しい皮袋は、皮に柔軟性があるので、ぶどう酒が発酵して膨らんでも、耐えることが出来ますが、古い皮袋は裂けてしまいます。
 この新しいぶどう酒とは、《福音》を意味しています。
 福音とは、イエス・キリストが、私たちの【罪】の全てを負い、身代わりとなって十字架で死なれたこと。
 そして、それを信じる時、罪赦され、永遠のいのちが与えられるという良き知らせのことです。
 この良き知らせ(福音)を受け取る時、イエス・キリストのよみがえりのいのち、即ち、新しいいのちを頂いて、あなたは〔新しい歩みへ〕と踏み出すのです。
 新しい皮袋とは、〈新しい心〉のことです。
 私たちは、自分中心で生きてきたので、神から離れて生きることが【罪】であることを知らず、認めることができません。
 けれども、聖霊が私たちの内に働かれる時、私たちの心に【罪】を教え、誤りに気付かせ、〈新しい心〉にさせるのです。
 新しい心が、福音を受け入れ、真の神への信仰があなたの中で育つのです。

 聖書は、『誰でもキリストの内にあるならその人は新しく造られた者です古いものは過ぎ去って見よすべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)』と語ります。

 これは、神の約束です。外見が変わるのではなく、イエス・キリストの新しいいのちによって、心が一新され、内側から変えられて、新たなる歩みが始まるのです。

牧師コラム 『招かれた客』  2017年5月21日

牧師 高橋勝義

子どもは、家にお客様が来るのを楽しみにしています。なぜなら、お土産の楽しみがあるからです。しかし、必ずしも、良いお客ばかりではありません。

イエス・キリストは、『わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです』(ルカ5:32)と語りました。
 誰を招いているかは、明らかです。自分は正しいと自負している人ではなく、自分を罪人であることを認めている人です。

【罪】とは、何でしょうか?

【罪】とは、神から離れ、自分中心に生きることです。
 
その結果、人は、自分の肉(自分中心)の欲の中に生き、肉と心の望むままを行う歩みを続けています。このような歩みは、創造主の神から御怒りを受ける〕のです。

ですから、イエス・キリストは、『罪人を招いて、悔い改めさせるために来た』と語るのです。なぜなら、神の御怒りからあなたを救うために、この世に来られからです。

それ故、イエス様は、この招きを受け入れるかどうか、あなたに問いかけています。

イエス様の招きに応じるには、【自分が罪人である】ことを認めることです。自分が、【罪人】であることを認めなければ、悔い改めはできません。

その【悔い改め】とは、「神様、ごめんなさい。私は今まで神から離れ、自分勝手な歩みをしていましたが、これからは、神に従って生きます。」と自分の意志で決断し、自分中心の生き方から神中心の生き方に方向転換することです。この方向転換が、神の御怒り〕からあなたを救うのです。

それだけではありません。
 
あなたは、永遠のいのちを得て、イエス・キリストの復活のいのち、即ち、新しいいのちを頂き、新たな歩みへと踏み出すのです。

牧師コラム 『病と罪の赦し』 2017年5月14日

牧師 高橋勝義

 心の苦しみをどう解決するか?苦しみの原因のほとんどが、〈憎しみ〉や〈怒り〉から来ています。そこで、安らかな気持ちで生きるには、その相手を赦すことが必要になってきます。しかし、赦すことは、容易ではありません。

 ところで、聖書は、【罪】が〈憎しみ〉や〈怒り〉の原因であると語っています。

 病が直ったとしても、〈憎しみ〉と〈怒り〉を抱えたままでは、心の苦しみは解決されません。ですから、イエス・キリストは、中風の人に「中風が直りました」とは言わず、『友よ。あなたの罪は赦されました。』(ルカ5:20)と宣言したのです。

 イエス・キリストは、〈憎しみ〉や〈怒り〉の原因である罪を取り除くために、私たちの身代わりとなって下さり、十字架で死なれました。この十字架が、創造主である神と私たちの和解をもたらしたのです。つまり、神は、私たちを赦されたのです。
  この赦しを心から受け取る時、私たちの心が神の愛に包まれ、赦されることの幸いを味わい知るのです。この経験が、〈憎しみ〉と〈怒り〉から私たちを解放してくれます。

 人は、本当に愛された時、愛が分かり、人を愛することが出来るようになります。

 同様に、赦されることの素晴らしさを味わう時、『お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい(エペソ4:32)』の御言葉のように人を赦すことが出来る者に変えられるのです。

牧師コラム 『エリヤは来たか』 2017年5月7日

牧師 栗原延元

キリスト教会のシンボルは十字架です。その建物の屋根か正面に十字架が掲げられていれば、そこはキリスト教会です。

十字架につけられて、イエスは三十三年に及ぶこの地上の生涯を終えました。イエスの最後の一週間を詳しく福音書は書き残しています。特にイエスが十字架につけられた日の朝から晩に至るまで、誰が何をして、どうしたかが分かります。

この中で〈三時にイエスは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。〉とマルコの福音書1534節は述べています。

イエスの生の声を聞いて、十字架のそばに立っていた幾人かが「そら、エリヤを呼んでいる」、とも「エリヤがやって来て、イエスを降ろすかどうか、見ることにしよう」と言ったのです。

当時の人々は一般に、敬虔な人が助けを必要としているときには、エリヤが助けに来てくれると信じていたのです。しかし、エリヤはやって来ませんでした。

〈それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた〉のです。

そしてイエスのからだは、岩を掘って造った墓に納められたのですが、それから三日後、イエスは墓の中から、復活したのです。

ここにイエスをキリスト(救い主)と信じる者の希望があるのです。

牧師コラム 『わたしの心だ』 2017年4月30日

牧師 高橋勝義

 私達は日々、色々な人に出会い、言葉を交わします。言葉ひとつで、楽しく会話が弾むこともあれば、不愉快な気持ちにもなります。ですから、新入社員の研修で言葉の使い方を教えるのでしょう。
 しかし、いくら言葉使いを注意しても、限界はあります。
 なぜなら、言葉には、その人の心そのものが表れ出てくるからです。
 では、どうすれば、心を良いもの(きよいもの)にすることができるのでしょうか?

 らい病人は、イエス・キリストを見ると、ひれ伏し「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」とお願いしました。(ルカ5:12)イエス様は、彼をあわれみ、手を伸ばして、彼にさわり『わたしの心だきよくなれ。』と言われました。するとすぐに、そのらい病が消えたのです。(ルカ5:13)その時、イエス様のきよい心が、らい病と彼の心を癒やしたのです。
 彼の心は、社会から隔離され、希望のない人生に打ちのめされていたのですが、病が直り、社会復帰し、希望を持って歩めるように変えられたのです。

 〔心〕がきよくされるには、まず、自分の心はきよくない(罪)と自覚することが必要です。私たちの心をきよめ、新しく生きる道を備えるために、イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとなり、十字架で死んでくださったのです。

 心をきよくする約束として、聖書は『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(Ⅰヨハネ1:8,9)と語っています。

牧師コラム 『人生を変える出会い』 2017年4月23日

牧師 高橋勝義

野球選手が、「優勝して、監督を胴上げしたい」とインタビューで語る姿をテレビで見たことがあります。まさに、監督冥利に尽きることばです。

監督は、選手を思い、信頼し任せるので、選手も監督を信頼し、この監督のためならば、頑張ろうと思うのでしょう。

漁師のペテロは、一晩中働きましたが、何も取れませんでした。

そのペテロに、イエス・キリストは、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい』(ルカ5:4)と命じます。

さすがのペテロも驚き戸惑いますが、「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」(ルカ5:5)と言って、従ったのです。

すると、たくさんの魚がはいり、網は破けそうになったのです。

これを見たペテロは、イエス様の足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ5:8)と言いました。

イエス様は、ペテロに『こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。』と言われると、そこにいたヤコブ・ヨハネ・ペテロの三人は、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエス様に従ったのです(ルカ5:11)

彼らにとって、イエス・キリストとの出会いは、人生を変えるものでした。

 彼らは、イエス様がすべてをご存知であり、すべてを受け入れてくださるお方であることを確信したので、このお方に人生をお任せする決断をし、従ったのです。

 あなたを愛し、あなたのありのままを受け入れ、責めることなく、共に歩んでくださるイエス様に、あなたの人生を委ね、歩みませんか?

 その時、あなたの人生は、新しく変えられたものとなるのです。

牧師コラム 『見ずに信じる者は幸いです』 2017年4月16日

牧師 高橋勝義

イエス・キリストは、『見ずに信じる者は幸いです』と語りました。

この言葉を聞いた人々の中には、見ずに信じるなど、とんでもないと思う方もおられることでしょう。しかし、日常生活に目を向けてみると、私たちは、様々なことを見ずに信じて、生活していることが分かります。

たとえば、電気は見えませんが、電気が来ていると信じているので、プラグをコンセントに差し込みます。

そして、様々な電化製品の恩恵を受けて、生活しているのです。

イエス様の弟子トマスは、ほかの弟子たちが「よみがえったイエス様を見た。」と言ったのですが、三年間、寝食を共にした仲間のことばを信じられず、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘の所に差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(ヨハネ20:25)と言いました。

しかし、イエス様は、この慎重で疑り深いトマスにも、ご自身を現されました。

トマスが、「私の主。私の神」と言った時、イエス様は、『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』と語られたのです。

死んだ者が、よみがえる…人には、とても受け入れなれないことです。

しかし、神様は、死者の中からイエス様をよみがえらせました。

イエス様の復活は、罪の贖い(償い)、救いの完成であり、主を信じる私たちも同様に、終わりの日に復活することの証しです。

 ですから、イースター(復活祭)は、キリスト教信仰のかなめなのです。