牧師コラム 『死にて葬られ』 2017年6月4日

牧師 栗原延元

死んだ人に対して、残った人のなすべきことは、その人を丁重に葬ることです。しかしその人が犯罪人として刑死した場合はどうでしょうか。イエスは十字架の極刑を受けたのです。だれしもこのような人を葬るのをためらうでしょう。イエスの場合もそうでした。他人(ひと)の目を恐れて、イエスの12弟子たちは逃げてしまっていたのです。イエスの生前は、弟子であることを隠していた2人の人が、イエスの遺体を引き取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従ってイエスを墓に納めたのです。

今日学びますマルコの福音書には、イエスを葬った、アリマタヤのヨセフが登場します。彼はユダヤ議会(サンヘドリン)の有力な議員でしたが、議員たちのイエスを亡き者としようとする協議には賛同していませんでした。議員たちの行動に心を痛めていたようです。イエスの十字架上の死の様子を知って、ヨセフは〈思い切ってピラとのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。〉(マルコ15:43)のです。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から取り降ろして、その亜麻布に包み、岩を掘って造った、自分の墓に納めたのです。

神の御子イエスは死にて葬られたのです。人が最後に体験するのが葬られることです。イエスの人としての事業が完成したのです。それ故にキリストは〈完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となった〉(ヘブル5:9)のです。