牧師コラム 『幸いな人』 2016年11月27日

高橋 勝義 伝道師

ヘルマン・ブッセは、「山のあなた」という詩を作りました。
詩の内容は、山のかなたの果てしない向こうに幸せがある、と人は言う。
私もみんなと一緒に探しに行ってみた。
けれども、見つけることが出来ずに涙あふれたままで帰ろう。
それでも、山のはるか遠く向こうに幸いがある、と人は言う。
「山のあなた」の詩は、幸いを求めているのに、手に入れることが
出来ない切なさを見事に言い表しています。

聖書は、
主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は何と幸いでしょう。」(ルカ1:45)
と語っています。
幸いな人とは、どのような歩みをする人なのでしょうか?
第一に、神様の教え(聖書の言葉)を喜ぶ人です。
第二に、昼も夜もその教えを口ずさむ人です。
日々の暮らしの中で、御言葉が心に刻まれていると、
苦しい時・不安な時・悲しい時・嬉しい時・落ち込んでいる時に、
励まされ・力づけられ・助けられます。だから、御言葉を心から喜び、
昼も夜もその教えを口ずさむのです。
幸いな人は、日々の暮らしの中で、御言葉が真実であることを味わい知っています。
どんなことが起きても、動じることなく、私たちに希望の将来を与えて下さる聖書に耳を傾けてみましょう。

 

牧師コラム 『ユダの裏切り』 2016年11月20日

IMG_8506 栗原 延元 牧師

マルコの福音書の学びは、いよいよクライマックスに入ります。
この書物の主人公のイエスが捕えられる場面にさしかかるからです。

福音書とは、「喜ばしい音信(おとずれ)」が書かれている書物という事です。
その音信は誰が発信しているかというと、それはイエス・キリストなのです。
その当の本人が、捕えられる次第が、今日の箇所に詳しく書かれているのです。
福音書というからには、知られたくない事柄です。

イエスは、12弟子のひとり、イスカリオテ・ユダの裏切りによって、真夜中、
ゲッセマネの園の中で捕えられます。
ユダは、イエスに近寄り、口づけして、捕縛に来た群集に、この人物こそ、
イエスだと知らせます。口づけは、相手への親しさと愛を現わします。
しかし、この時のユダの口づけは、イエスを売り渡す行為でした。

他のイエスの弟子たちは、どうしたかというと、みなイエスを見捨てて
逃げてしまったのです。この福音書に描かれるイエスの弟子たちはみな弱く、
腰くだけで、弟子とは言えない情けない人物たちです。
このような人々が強くなり、愛の使徒たちに変えられるのです。
ここに福音の力が込められているのです。

 

牧師コラム 『信仰の歩み』 2016年11月13日

IMG_8506 高橋 勝義 伝道師

私たちは、ありとあらゆるものを神とする、八百万の神々がいる中で暮らしています。
ですから、本当の神様が、分かりません。
聖書に記されているまことの神様は、

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
─主の御告げ─それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

と約束しています。
人生には、多くの山があり谷があり、すべて一人で乗り越えようとするならば、
疲れ果て、倒れてしまいます。
この神様が、あなたと共に歩んで下さるなら、これほど力強い味方はいません。

信仰の歩みとは、難しい修業を積んで、自分の力で乗り越えるのではありません。単純です。
神様の約束を信じ、信頼し、すべてお任せしていくこと、これが、信仰の歩みです。
また、「神にとって不可能なことは一つもない」(ルカ1:37)ので、きっと、あなたの思いを
遥かに超えた方法で、あなたを助けて下さいます。
神様は、あなたを愛し、あなたと共に歩みたいと願っています。
素直に、神様の愛の中に飛び込んでみませんか?

牧師コラム 『喜びのおとずれ』 2016年11月6日

IMG_8506 高橋 勝義 伝道師

私たちの歩みには、時に想定外のことが起こります。
ザカリヤとエリザベツ夫婦は、子どもが与えられるように、
熱心に神様に祈り求めていました。
しかし、二人とも年を重ねていったある日、突然、
神様から遣わされた御使いが、ザカリヤの前に現れ
ザカリヤあなたの願いが聞かれたのです
あなたの妻エリザベツは男の子を生みます
名をヨハネとつけなさい。」と告げます。
喜びのおとずれが、やって来たのです。

しかし、ザカリヤは、自分たちの年齢を考えてしまい、
素直に喜ぶことが出来ず、「私は何によってそれを知ることが出来ましょう」と
答えてしまうのです。
ザカリヤは、御使いが語った通りのことが実現する日まで、
口がきけなくなってしまいます。
最も知らせたい「喜びのおとずれ」を妻エリザベツに話せません。

人は、想定外のことが起こると、この世の常識や理性に心が支配され、
どんな神様を信じているのか、心の中が明らかにされるのです。
私たちのことを愛しておられる神様は、いい加減なことを語るはずがありません。
この信仰に立って日々歩む時、どんなことが起こっても、
神様に信頼して歩むことが出来るのです。
神様の愛と約束の中に生きる歩みを目指しましょう。

牧師コラム 『ルカの福音書の始まり』 2016年10月30日

IMG_8506 高橋 勝義 伝道師

私たちは、歴史の目撃者たちが書き残した書物によって、
過去に何があったのかを知ることが出来ます。
しかし、勝者によって残された書物は、自分に不利なことを書かせないので、
正確ではありません。
だから、歴史は、あらゆる角度から検証する必要があります。

さて、ルカが、テオピロという人に送ろうとしている書物は、
すでに多くの人々に確信されている出来事」であり、
ルカ自身も綿密に調べているので、正確な事実であることを
分かって欲しいと語りました。
その書物が、「ルカの福音書」です。
ルカが、綿密に調べた事とは一体何か?
それは、ユダヤの国で起こった出来事です。
イエス・キリストというお方が、ゴルゴダの丘で十字架にかけられ、
死に、さらに三日目によみがえった出来事です。
なぜ、これが、それほどに重要なのか?
それは、

キリストが、神様に背を向け、逆らい続けてきた人間の罪を
身代わりに負って死なれたからです。この十字架は、神様の愛です。
この事実を受け取り、イエス様を信じる時、人はさばきに会わず、
永遠のいのちが与えられるという良き知らせです。

ルカが書き残した福音書(良き知らせ)から、イエス・キリストと共に
生きる新しい生き方を教えられていきましょう。

牧師コラム 『死からいのちへ』 2016年10月23日

IMG_8506  高橋 勝義 伝道師

共同生活をしようとするならば、共通のルールが必要になります。
なぜなら、自分の考えや価値観を互いに主張し合えば、社会が成り立たなくなるからです。
ルールを破った時に行われる謝罪会見では、必ず、「世間を騒がせ、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と言って、深々と頭を下げます。
でも、これが本当に謝罪でしょうか?
ただ、世間を騒がせ、迷惑をかけたことへのお詫びにしか聞こえません。
破ったルール、罪に対する心からの悔い改めがないのです。

イエス・キリストは、

「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、
あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」(ヨハネ8:24)

と語られました。罪とは、神様から離れ、自分中心の歩みをすることです。
罪によってもたらされるものは、
憎しみ・恨み・妬み・貪欲・欺き・高ぶり・盗み・悪い考えなどです。
生まれながらの人は、自分の罪の中にいるのです。
このような歩みに希望は、あるでしょうか?

イエス・キリストは、私たちのこの罪を身代わりに負って、十字架の上で死なれました。
十字架には、神様の赦しと愛が表されています。
神様の赦しと愛が分かる時、人は、本当の希望を見出すのです。
罪の中で死ぬ歩みから、赦しと愛の歩みを求めてみませんか?

牧師コラム 『良い牧者』 2016年10月16日

IMG_8506 高橋 勝義 伝道師

イエス・キリストは、「わたしは良い牧者です。
良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と語りました。
羊飼いは、羊を獣や盗人から守るために寝ずの番をします。
夏ならまだしも、冬の寒さはとても厳しく、命を落とすことさえあります。
羊飼いの仕事は、命がけです。
羊は、羊飼いにとって財産ですから、羊のために命をかけるのは
当たり前なのかもしれません。

聖書は、人間を“”にたとえています。
羊は、導く者がいないと、すぐに迷子になり、命の危険にさらされてしまいます。
同様に、人間も導き助ける人が必要です。
しかし、多くの人は、自分の力で歩んでいます。
その先にある滅びさえ知らずにいるのです。
滅びに至る道とは、私たち人間を創造された神に従わず歩む道のことです。

イエス・キリストは、このような歩みをしている私たちのためにいのちを捨て、
神様と共に歩む道へと導いて下さったのです。
それが、十字架です。十字架は、私たちを滅びに至る道から救い出し、
いのちの道へと導きます。
この道を求めてみませんか?

開設2周年記念コンサート ~竹下静さんを迎えて~

開設2周年を迎えた10月9日、記念礼拝に仙台教会から聖歌隊が駆けつけ、
一緒にお祝いしました。
教会がなかった渡波地区に、神様が教会を置いてくださり、
共に神様を賛美する兄姉を与えてくださっていることを、心から感謝します。

10日は、ゴスペル歌手の竹下静さんをお迎えして記念のコンサートです。
竹下さんは、仙台で生まれて、中学3年と高校時代を石巻で過ごした方です。
震災の後、故郷の方たちのために歌うことで力になれたらと願い、
以来仮設住宅に何度も足を運ばれました。演歌が喜ばれることや、
「花は咲く」のリクエストがあったことから、レパートリーを増やして、
被災された方たちの心に寄り添う音楽活動を続けて来られました。
最後に歌ってくださった「アメイジング グレイス」は、圧巻という他ありません。

高橋師によるショートメッセージの後、茶菓をいただきながら色々なお話を伺いました。
復興住宅にようやく当たった3人の方は、来年春の引越しが決まって、
本当にホッとしているとのこと。一緒に喜べるのは嬉しいことです。
また、夏に来てくださった川越教会のS夫妻と手紙のやり取りをしている方は、
今日のコンサートのことを早速報告すると言ってくださいました。
一度は文字通り全てを失った方たち、キリスト教の「キ」の字も知らなかった方たちが、
64名集われて、共に「主 我を愛す」と歌い、未来に期待して、笑い合うとは、
なんと素敵なことでしょう。
ここまで守り導いてくださった主に、深く感謝致します。
お祈りをありがとうございました。

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牧師コラム 『主は私の羊飼い』 2016年10月9日

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2年前(2014年)の10月第2日曜日からここで礼拝を始めました。
今日(10月9日)で満2年を過ぎ、3年目に入ります。
周囲の皆さんのご理解を得て歩めますことを主に感謝しております。
また今年、4月より高橋夫妻が仙台より移住しました。
お寺のお坊さんは住職と呼ばれます。
住職とは字のごとく、そこに住むこと自体が職業なのでしょう。
ですから高橋夫妻はキリスト教会の住職でもあります。
今後とも、よろしくお願いします。

今日は、詩篇23を学びます。この詩は

〈主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために義の道に導かれます。
たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。
あなたが私と共におられますから…〉

と信仰者の人生の中で神の導き、神の支えの豊かさ、確かさを証ししています。
神の守りの確かさは、死の陰の谷の中でいよいよ明らかになります。
それはこの作者が神を〈あなた〉と呼ぶ中に表されているのです。

〈あなたが私と共におられます〉

これこそが神への信仰に生きる者の告白です。

牧師コラム 『ゲツセマネの祈り』 2016年10月2日

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聖書は創造主なる神からの手紙ともいえるものです。
手紙にはそれを書いた人の思いが表されています。
人の心の思いが正直に表されるのが、祈りのことばです。

今日学びますマルコの福音書14章32~42節は、
ゲッセマネの祈りと言われ、苦難を前にしたイエスの心情が描かれています。
その祈りとは、父なる神を、親しさを込めて「アバ、父よ」と呼び、

「あなたにおできにならないことはありません。
どうぞ、この杯をわたしから取り除けてください。
しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままをなさってください。」
と祈るのです。

この杯とは、十字架にはりつけになることです。
イエスには、何の落ち度も罪もありません。
しかし、十字架刑を受けなければならないのです。
前途に控えるこの苦難を前に、ゲッセマネの園で、
イエスは深く恐れ、もだえ始めたのです。

正しい人、義なる人が罰せられる不合理、理不尽と言える中で、
イエスは「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままをなさってください」と祈り、
受難の杯を受け入れます。
それは〈民の罪の為になだめがなされるため〉(ヘブル2:17)でした。
この死によってこそ、人は救われるのです。