牧師コラム 『初めに神が天と地を創造した』 2018年1月7日

牧師 栗原延元     

 聖書は〈初めに、神が天と地を創造した〉と書き始めます。まさに神は森羅万象の創造主です。この聖書の宣言は幕末の一人の青年武士の人生を一変します。彼は日本国の存在と己の人生の目的を、この聖書を学ぶことに賭けるのです。
 その青年とは、同志社大学の創立者、新島襄です。彼がここから学んだ真理の第一は、人間が造ったものは神ではないという事です。神棚も仏壇も神ではない。自然そのものも神ではない。人間も神ではない。私どもの目に見えるものは神ではなく、神によって造られた、被造物である。それが聖書が冒頭から語っていることです。まさに詩人が〈天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる〉(詩篇191)と賛歌しているとおりです。
 次に被造物には創造者の意志とそれらを造った目的があるという真理です。人はいろいろなものを作ります。ボールペン、鉛筆などの書きもの、衣類などの着るもの、時計などそれぞれの機能を持ったものを作りますが、その目的は人間の役に立つためです。人間が神に造られたのは、人の生きる目的が「神の栄光」のためなのです。

牧師コラム 『新たなる旅たち』 2017年12月17日

 牧師 高橋勝義

 マリヤは、聖霊によって男の子を宿します。しかし、人々はそれを受け入れることが出来ませんでした。婚約者のヨセフも同様に、悩み苦しんでいました。
 ヨセフは、主の使いが夢に現れて「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(マタイ1:20,21)」と語られたので、マリヤを受け入れます。
 そこに、ローマ帝国の皇帝アウグストから世界中に住民登録をせよという勅令が出ます。住民登録をする場所は、今住んでいるところではなく、出身地で行います。
 ヨセフの出身地は、ベツレヘムなので、ナザレから直線距離で110㎞の旅となります。普通の旅でも、多くの困難が待ち受けているところに、身重のマリヤを連れての旅ですから、二人にとって、とても厳しい旅です。
 一見するよ、無慈悲な神のように感じてしまいます。
 ところが、この旅は、夫婦としての絆を深めるのにとても重要であり、彼らを守る旅でもあったのです。なぜなら、ナザレでイエス・キリストが生まれていたならば、人々から厳しい目で見られることとなり、二人には、居場所がなかったからです。
 この旅は、まことの神の御配慮に満ちた愛なのです。
 この愛に守られ、二人は、新たなる旅立ちをすることが出来たのです。
 『神を愛する人々、即ち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。       (ローマ8:28)

牧師コラム 『インマヌエル』 2017年12月10日

牧師 高橋勝義     

 今から約2700年前、預言者イザヤは、「主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ7:13)」とまことの神から託された言葉を語りました。
 『インマヌエル』とは、「神は私たちとともにおられる」という意味です。
 天地万物を創造され、人間をも造られたお方は私たちを愛し、私たちと関わりを持ち、共に歩んでいきたいと思っておられるまことの神です。ところが当の私たちは、この神に近づくすべを知らず、それどころか神から離れ、自分勝手な歩みをしています。
 しかし、そんな私たちも、圧倒的な大自然の美しさを見る時、また緻密で想像をはるかに超えた人体の仕組みを知る時、これらを設計されたお方がいるのではと感じます。
 こんなちぐはぐな私たちを神はあわれみ、神と人との隔ての罪を取り除くために、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされました。これがクリスマスです。
 神と人とを隔てる罪を、神はイエスに負わせ、十字架で処罰しました。
 神は、このイエスを信じ、罪ゆるされた者とともに歩んでくださるのです。
 十字架は、まことの神の愛のしるし『インマヌエル』なのです。
 イエスの弟子ヨハネは、「これらのことが(聖書に)書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)」と語っています。
 友が遠くから訪ねて来てくれることは、とても嬉しいことで、積もる話が尽きず、一晩中、語り合うことでしょう。ならば、天からあなたのもとに来られたイエス・キリストと語り合ってみませんか。
 イエス・キリストは、あなたを待っておられます。

牧師コラム 『とこしえの神の愛』 2017年11月26日

 牧師 高橋勝義   

 聖書の冒頭には「初めに、神が天と地を創造した(創世記1:1)」と記されています。
 神が造られた世界を見たダビデは、「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(詩篇8:35)」と驚きの声とともに創造主なる神をほめたたえています。
 人は、誰でも自分の存在を認めて欲しいと切に願っています。
 しかし、私たちは自分を正しく評価してくれない社会や人に対して、失望し、怒りや恨み、そして、憎しみと妬みを持ちます。これが、心を閉ざしたり、あるいは攻撃的な行動になったりします。
 これらは、どちらも、健全ではありません。
 ところが、創造主の神は、いつもあなたを顧みて下さる(注目して下さる)お方です。
 この神の愛に触れたダビデは、驚き、感激し、自分という存在をこの神の愛によって受け入れることが出来たのです。
 ですから、「栄光と誉れの冠」を与えて下さっていると表現したのです。
 ダビデが感じた神の愛は、創造の初めから、今に至るまで、これから先も全く変わることなく、国境を越え、人種を越え、分け隔てなく私たちに注がれています。
 では、私たちは、この神の愛をどのようにして知ることが出来るのでしょうか?
 聖書は、『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(Ⅰヨハネ4:9)』と語っています。
 神の愛のしるし、これが、イエス・キリストであり十字架なのです。

牧師コラム 『恐れるな、信じなさい』 2017年11月19日

 牧師 高橋勝義

 自分の力ではどうすることもできないことが起った時、将来に希望が持てない時、私たちは、恐れと不安に襲われます。ひとり娘が死にかけていた会堂管理者のヤイロは、イエス・キリストにすべてを託し、家まで来て下さるようにお願いしました。
 しかし、イエスが彼の家に向かおうとすると、群集が押し寄せ、そのどさくさにまぎれ、十二年の間長血をわずらっていた女が「(イエスの)着物に触ることでもできれば、きっと直る(マタイ9:21)」と信じてイエスの着物に触ったのです。
 すると、その女の病は直りました。その時、「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。(ルカ8:49)」との悲しい知らせが届きました。
 イエス・キリストは、これを聞いてヤイロに「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。(ルカ8:50)」と語り、彼に信仰に立つように促したのです。
 死んだ娘が生き返る…どう考えてもあり得ない事です。
 ヤイロはイエスのことばを信じ、家にお連れしました。
 人々はみな、娘のために泣き悲しんでいましたが、イエスは「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」と言われたのです。
 しかし、人々は、イエスをあざ笑いました。
 そして、イエスが「子どもよ。起きなさい。(ルカ8:54)」と命じると娘は生き返ったのです。ペテロが『あなたがたの信仰と希望は神にかかっている(Ⅰペテロ1:21)』と語っている通りです。まさに、彼(イエス・キリスト)に信頼する者は、失望させられることがない(ローマ9:33)』のです。
 これは、信仰による約束です。

牧師コラム 『いと高き神の子』 2017年11月12日

 牧師 高橋勝義   

 悪霊に憑かれている男は、イエス・キリストに出会うと「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。(ルカ8:28)」とひれ伏し、大声で叫びました。
 この男を支配している悪霊は、イエスが、どんなお方なのかを知っており、イエスを非常に恐れていることが分かります。そうでなければ、「お願いです。どうか私を苦しめないでください。」などと言ったりはしません。また、悪霊は、イエス・キリストがこの世に来られた目的をも知っていました。
 聖書は、私たちの姿について「罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(悪霊)に従って、歩んでいる(エペソ2:2)」と記し、その結果「罪から来る報酬は死です(ローマ6:23)」と語っています。
 しかし、これだけでは終わりません。この次に続く御言葉が、とても重要になってきます。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです(ローマ6:23)」。
 イエス・キリストは、私たちを罪の支配(悪霊の支配)から解放するために、十字架で身代わりとなって死に、三日目によみがえり、人間にとって最大の恐怖である【死】を打ち破られたのです。
 それ故、イエス・キリストを信じる者は、永遠のいのちを頂き、滅びから救われ、新しいいのちに生きる者へと変えられるのです。
 これらすべては、私たちへの神からの賜物(プレゼント)なのです。
 十字架は、罪の支配(悪霊の支配)から私たちを解放する力です。
 この目的のために、『いと高き神の子』であるイエス・キリストは、この世に来られたのです。

牧師コラム 『預言者ヨナの説教』 2017年11月5日

 牧師 栗原延元

 前回(101)はヨナが魚の腹の中から、彼の神、主に祈った祈りのことばを学びました。今回は、魚の腹の中から陸地に吐き出されたヨナがニネベの町に行って、主のことばを伝えたヨナの説教の働きとその結果について学びます。
 当時のニネベは、行き巡るのに三日もかかるほどの非常に大きな町でした。12万人以上の人間と数多くの家畜とがいました。その町の人々にヨナは歩き回りながら「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」と叫んだのです。悪と暴虐が町中にはびこっていたニネベの町でしたが、ヨナの宣教のことばによってニネベの町の人々は、こぞって神を信じ、悪の道から立ち返り、暴虐な行いを悔い改めました。
 主なる神はニネベの町の人々が悪の道から立ち返るために努力しているのをご覧になって、彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直して、そうされなかったのです。
 ヨナの説教で悔い改めたニネベの人々をイエスは称賛しました。 (マタイ1241) そして、〈ここにヨナよりもまさった者がいる〉と、ご自身が誰であるかを明らかにするのです。まさにイエスこそ、神が世を救うために、天から遣わされたお方なのです。

牧師コラム 『あなたの信仰はどこにあるのですか』 2017年10月29日

 牧師 高橋勝義

 イエス・キリストとその弟子たちは、舟で湖を渡ろうとしていました。
 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれたのですが、そこに突然、突風が吹き荒れ、弟子たちは水をかぶり危険になりました。
 弟子たちは、イエスを起こし「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と必死に助けを求めたのです。
 そこで、イエスは、起き上がり、風と荒波とをしかりつけました。
 すると、風も波も収まり、湖は穏やかになったのです。
 イエスは、弟子たちに『あなたがたの信仰はどこにあるのです』と問いただしました。
 舟には、この湖で漁をしていた元漁師が4人も乗っていました。
 しかし、湖を熟知している彼らでもどうすることも出来ない突風がやって来たのです。彼らの経験や知識は、全く役に立ちませんでした。
 それどころか、死の危険を感じ、慌てふためいたのです。
 信仰は、生活のただ中で働かせてこそ、力になるのですが、残念ながら、肝心な時に彼らの信仰は働かなかったのです。
 弟子たちは、イエスと寝食を共にしていましたから、イエスの歩みのすべてを日々見ていました。にもかかわらず、イエス・キリストというお方がどのようなお方なのか、分かっていなかったのです。
 『あなたがたの信仰はどこにあるのです』は、ご自身のことを分かっていないことへの嘆きなのかもしれません。
 幸いにも、弟子たちは、イエスがおられることに気付き、助けを求めました。
 「ことばで、嵐を鎮めるお方」に信頼して歩むならば、たとえ、あなたの日々の暮らしの中に大嵐が襲って来たとしても、まことの神イエス・キリストがあなたを助けて下さいます。

牧師コラム 『神の御心を行う』 2017年10月22日

 牧師 高橋勝義  

 イエス・キリストは、ご自分に会いに来た母と兄弟に『わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです(ルカ8:21)』と語りました。
 一見すると、愛のない、思いやりのない言葉のように聞こえてしまいます。
 しかし、マルコの福音書335節で『神の御心を行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです』と語っているように、ここでは、信仰を持つ者同士の関係について語られたのです。
 そして、そのポイントは、[神の御心を行う]ことです。
 イエス・キリストは、父なる神の御心を行うためにこの世に遣わされました。
 その御心について、『事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。(ヨハネ6:40)』と語っています。
 人は、まことの神から離れ、自分の願うままに生きています。
 聖書は、その行き着く先について『人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27)』と語っています。
 愛なる神は、滅びとさばきからすべての人を救うために、イエス・キリストをこの世に遣わし、すべての人の罪の身代わりに、十字架で彼を処罰されたのです。
 この良き知らせ(福音)を信じる者には、みな永遠のいのちが与えられ、イエス・キリストがよみがえったように、終わりの日によみがえる約束をくださったのです。
 神の御心は、イエス・キリストの十字架によって成し遂げられ、その恵みを受けた者に引き継がれ、御心を行う者へと変えられていくのです。

牧師コラム 『聞き方に注意しなさい』 2017年10月15日

牧師 高橋勝義

  話し上手な人は、他人の話を聞くのも上手とよく言われています。
 しかし、聞き上手が、必ずしも、相手の真意を正しく理解できているどうかまでは分かりません。ここが肝心なところです。
 イスラエル民族の指導者たちは、イエス・キリストの話を聞きに出かけて行きました。その彼らに対し、イエス・キリストは、彼らが言葉巧みにはぐらかすので、『聞き方に注意しなさい(ルカ8:18)』と警告するのです。
 なぜなら、まことの神の前では、『隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはない(ルカ8:17)』からです。
 まことの神の御言葉を聞くという事は、神が自分に何を語っておられるのか、真摯に向き合い、その神に信頼し、従う歩みをすることなのです。
 そうした神に従う日々の暮らしの中で、人は、神の愛と恵みを味わい知るのです。
 そして、これら一つ一つの積み重ねが、やがては、大きな祝福へとなっていくのです。
 では、具体的にはどうすればよいのか。預言者イザヤは、まことの神の思いをこう語ります。「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。(イザヤ57:15)』」
 つまり、心砕かれ、へりくだることこそが、神の御言葉を聞く時の姿勢なのです。
 心砕かれ、へりくだるとは、神の前に、自分の弱さ・無力さ・足りなさを素直に認め、神に助けを求めることです。そうすれば、神が、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かして下さるのです。
 この約束が、あなたの中で大きな力になるのです。

 【お詫びと訂正】

  2017528日の「牧師コラム」で「石巻出身の漫画家、石ノ森章太郎の代表作に『仮面ライダー』があります。」と記載しました。
 石ノ森章太郎氏の出身地は、「登米市である」との指摘を受け、確認したところ、確かに「登米市」でした。しかも、登米市には、「石ノ森章太郎ふるさと記念館」があることも分かりました。
 私の思い込みで、間違ったことを記載し、誠に申し訳ありません。
 ご指摘して下さった方に、心から感謝します。