牧師 高橋勝義 |
聖書の冒頭には「初めに、神が天と地を創造した(創世記1:1)」と記されています。
神が造られた世界を見たダビデは、「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(詩篇8:3~5)」と驚きの声とともに創造主なる神をほめたたえています。
人は、誰でも自分の存在を認めて欲しいと切に願っています。
しかし、私たちは自分を正しく評価してくれない社会や人に対して、失望し、怒りや恨み、そして、憎しみと妬みを持ちます。これが、心を閉ざしたり、あるいは攻撃的な行動になったりします。
これらは、どちらも、健全ではありません。
ところが、創造主の神は、いつもあなたを顧みて下さる(注目して下さる)お方です。
この神の愛に触れたダビデは、驚き、感激し、自分という存在をこの神の愛によって受け入れることが出来たのです。
ですから、「栄光と誉れの冠」を与えて下さっていると表現したのです。
ダビデが感じた神の愛は、創造の初めから、今に至るまで、これから先も全く変わることなく、国境を越え、人種を越え、分け隔てなく私たちに注がれています。
では、私たちは、この神の愛をどのようにして知ることが出来るのでしょうか?
聖書は、『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。(Ⅰヨハネ4:9)』と語っています。
神の愛のしるし、これが、イエス・キリストであり十字架なのです。