石巻教会の礼拝も昨日で21回目となりました。
地元の方も少しずつ礼拝に集ってくださっています。
昨日は、聖餐式も持たれました。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。
わたしを覚えてこれを行ないなさい。」と言われた
イエス様の教えに加わる方が起こされていきますように。
栗原 延元牧師 |
先週イエス様は歴史上の人物の中で最も「なぞ」の多い人であると話しました。
今日のマルコ4:41に<風や湖までが言うことをきくとは、
いったいこの方はどういう方なのだろう>とイエスのなぞの力に
大きな恐怖に包まれ互いに言い合っていた事が録されています。
山上の垂訓(マタイ5~7章)の教えから、イエスを道徳倫理の教師と見做し、
十字架上で「父よ。彼らをお赦しください」と言いながら息を引き取った姿から
自己犠牲の人物として評価する人もいます。
なぞめいたイエスの教えや行動に人は戸惑い続けてきたと言えるでしょう。
マルコ4章後半は、イエスは自然現象をコントロールしたことが描かれています。
嵐を静める力を弟子達の前で現したのです。
ヨハネの福音書は冒頭からそのなぞに光をあてます。
<初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた>
この方がイエス・キリストです。
マルコ福音書ではこのなぞが最後で解き明かされるのです。
栗原 延元牧師 |
マルコ4章を読むと、17、8年前にガリラヤ湖畔に立ち、
流山教会の人達に聖書を話した光景が鮮やかに浮かんできます。
私の声がよく通り、遠く離れた人にも聞きとれたのです。
2千年前に、イエス様がここで大勢の人々に話された事を思うと
私の心が熱くなりました。
アジア大陸の西の果てから東の果ての国に生まれた者にも
イエス様の事が伝えられかと思うと感動で胸が一杯になりました。
2節には、イエス様はたとえによって多くの事を教えられたと
書いてあります。
たとえ話は直接的に話すよりも、もっと大きな効果をもっています。
たとえ話は聞く人の心のキャンパスに絵を描くようなものです。そ
の内容が印象深く聞く人の心に残ります。
心に残る話は、その人に考える余裕を与え、
余裕は人に気づきを与えます。
<おびただしい数の群集>にイエス様は、
ご自分の語る「ことば」の大切さを理解させる為、
<種を蒔く人が種まきに出かけた>と農夫の情景を話します。
道端、土の薄い岩地、茨の中、良い地に蒔かれました。
芽生え、育ち、実を結んだのは、良い地に蒔かれた種です。
私達の心はどの地でしょうか。
そしてどのようにすれば、私達は実を結ぶ「良い地」になれるのでしょうか。
考えてみて下さい。
栗原延元牧師 |
船の航路を定めるための器具が羅針盤です。
人生の方向を示すものが座右の銘です。
「敬天愛人」(天を敬い人を愛する)は西郷隆盛の座右の銘です。
彼は郷里にて聖書を教えてもいました。
特にマタイ福音書を読んでいたようです。
その中の
<自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。
天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、
正しい人たちにも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです>
の箇所に「敬天愛人」の銘は由来しているようです。
西郷は勝海舟との話し合いで江戸城の無血開城をし、
江戸を戦火から救いました。
鹿児島にある西郷南州記念館の館長は、
西郷はキリスト教の信仰を持って生涯を閉じたのではないかと話しています。
(DVD聖書を読んだサムライたち―龍馬をめぐる5人の男たち―)
この記念館には、西郷の愛読した聖書が展示してあります。
西郷の人物の大きさをある人は、
「大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く太鼓のようだ」と語っています。
西郷さんは、天の父なる神を仰ぎ見つめていたのではないかと思っています。
<あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。>(マタイ5:48)
栗原 延元牧師 |
今日は「12使徒の任命」と題して
マルコ3章7~19節を学びます。
「使徒」とはイエス様の受洗から復活、昇天まで
イエス様と一緒に歩んだ弟子たちの中から、
特に福音宣教と汚れた霊を追放する権威を授けられた人たちです。
12という数はイスラエルの12部族に対応しています。
新しい神の民を生み出すイエス様の意図が表されています。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネなどの12使徒は普通のただの人たちです。
新しい神の民を創り出すにはあまりにも貧弱な人たちです。
しかし、この12使徒からキリスト教会が始まりました。
神のなさる方法は本当に不思議です。
ただ、はっきりしていることは、彼らは「イエス様の復活の証人」であり、
イエス様の十字架上の死と復活を歴史上、
実際に起こった事実として証言して行ったのです。
永遠のいのちと罪の赦しのメッセージが人間の歴史を
貫き伝え続けられているのです。
イエス様の権威に満ちた言葉が響いてきます。
<あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それはあなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため>
(ヨハネ15:16)です。
このみことばが私の心に響いています。
栗原延元牧師 |
<安息日は人間のために設けられたのです。
人間が安息日のために造られたのではありません。
人の子は安息日にも主です。>(マルコ2:27-28)とは
イエス・キリストの言葉です。
この言葉から、イエス・キリストと人間と日との関わりを知ることができます。
まず安息日を含めて「日」はイエスによって造られたのです。
創世記1章に、神がある調和をもって自然を造り、
日を定め、年を定められました。
その創造のわざに神の御子としてイエスは参加していたということです。
「日」を設けたのは人に仕えるために、人となられた神であるイエスなのです。
また人は神のかたちに、神によって造られました。
その創造のわざにイエスは「主」として加わっていたのです。
人間は神が設けられた地と世界に生かされているのです。
その人間のために一日という日が定められたのです。
私たちの日々は、無限には続きません。有限です。
一生を70年とすると25,550日です。
人はその日を大安とか仏滅とか友引などと呼んでいますが、
本来それは全く無意味なことなのです。
人がイエス様のもとに行く時、人はまことの安らぎを得るのです。
栗原 延元牧師 |
今日は「イエスの友人たち」と題して学びます。
まずイエスの弟子となったのは2組の漁師の兄弟たちでした。
その仲間となったのがレビ・マタイという取税人でした。
この人は後にマタイの福音書を書いた人です。
彼は実入りの良い取税人を捨ててイエスに従ったのです。
彼はいやいやながら従ったのではありません。
<わたしについて来なさい>とのお声が掛けられて喜んで
イエスの弟子になりました。
それで友人、知人たちを家に招いて盛大な宴を開きました。
その中には学者たち、取税人、罪人たちもいました。
マタイの付き合いの広さが伺えます。
イエスの友人の大多数は取税人や罪人たちでした。
旧約聖書の専門家である律法学者たちは、どんな人とも付き合う
イエスの無軌道ぶりにあきれたのでしょう。
弟子たちのところに来てこう言ったのです。
<なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか>と。
イエスはこれを聞いて
<医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです>
と答えられました。
罪の病いを負う人の医者がイエスなのです。
己の罪人としての姿が見えて来るとき、イエスの招きの声が聞こえて来るのです。
栗原 延元牧師 |
新年明けましておめでとうございます。
年の始めから石巻の地で礼拝をもてる恵みを感謝しています。
聖書の中で
<この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。>
(出エジプト記12章2節)
と録されている箇所があります。
それはイスラエルの民がエジプトの国を出た月の事です。
いわゆる出エジプトです。
四百年もの間、イスラエルの民はエジプトで奴隷の民として
過酷な労働を課せられていました。
労役の叫びは神に届き、神は彼らの嘆きを聞かれ、
モーセを起こし、数々の不思議なわざをもって
奴隷の国エジプトからイスラエルの民を約束の地カナンに導きました。
この出エジプトは、罪の奴隷の下にある人々を解放する
イエス・キリストの救いを意味します。
人は罪の奴隷となっています。
奴隷となっている人をその状態とその結果である死から
解放することのできる唯一の方がイエス・キリストです。
このことを贖い(あがない)と言います。
イエス様は身代金を払って、罪の下にある人々を解放して下さいました。
その第一声が
<子よ。あなたの罪は赦されました>(マルコ福音書2章5節)なのです。
吉田 耕三牧師 |
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」 (詩篇103篇2節)
今日初めて、石巻週報の「らしんばん」に書かせて頂いているのですが、
何か不思議に、襟を正されているような気になります。
もうすぐ4年になろうとしている支援活動、愛の業の実として、
今ここに教会堂が立ち、宣教が進められようとしているわけで、
それは同時に、東北宣教という、仙台教会に与えられている
使命の具現の場としての働きでもあることを強く感じているからです。
思えば、あの大震災の直前3月6日に、仙台教会では、
もう一度主の使命に立って東北宣教を覚えようと、「東北宣教祈り会」を始め、
特に、宮城の石巻や気仙沼、また岩手の町々に主の業が起こりますようにと、
共に祈ったのでした。
その結果が、素晴らしい神様の御業というより、あの凄まじい震災だったのです。
私たちは途方にくれましたが、神様はその結果として、押し出すように
仙台教会を東北宣教へと導かれたのでした。
このような経緯を覚える時、私たちも、主が愛されている、
この東北の為に、更に熱心に祈り、共に立ち上がらせて頂きたいと考えるです。
栗原 延元牧師 |
マタイの福音書2章には、イエスの幼児期に
起こった極めて対照的な出来事が録されています。
遠い異邦の東方の博士達が、わざわざ
<ユダヤ人の王としてお生まれになった方>を
拝みにエルサレムにやって来ます。
一方、エルサレムの都でユダヤ王であったヘロデは、その幼子を殺そうと画策します。
イエスの誕生は、その始めから歴史に波紋を起こしています。
何故、波紋が起こり広がっていくのでしょうか。
それはイエスが<ユダヤ人の王>として生まれたからです。
単にユダヤ民族のみの王ではなく、全世界の王、
王の中の王(King of Kings)として生まれたのです。
遠い異邦の博士達の来訪は、イエス・キリストは
王の中の王として生まれたことを証言しているのです。
さらにイエスの生涯をたどっていくと、
その死は十字架刑という苛酷なものでした。
イエスに処刑の判決を下したローマ帝国の総督ピラトは
イエスを<ユダヤ人の王>と呼びました。
イエスは王として生まれ、王であったが故に処刑されました。
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放ってよみがえらせ、
私達にいのちの道を知らせて下さったのです。
このイエス様こそが私達の心の王座を占めるとき、
私達に真の自由がもたらされるのです。