牧師コラム 「らしんばん」 2015年1月4日

IMG_8506  栗原 延元牧師

 

新年明けましておめでとうございます。
年の始めから石巻の地で礼拝をもてる恵みを感謝しています。

聖書の中で
<この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。>
(出エジプト記12章2節)
と録されている箇所があります。

それはイスラエルの民がエジプトの国を出た月の事です。
いわゆる出エジプトです。
四百年もの間、イスラエルの民はエジプトで奴隷の民として
過酷な労働を課せられていました。
労役の叫びは神に届き、神は彼らの嘆きを聞かれ、
モーセを起こし、数々の不思議なわざをもって
奴隷の国エジプトからイスラエルの民を約束の地カナンに導きました。

この出エジプトは、罪の奴隷の下にある人々を解放する
イエス・キリストの救いを意味します。

人は罪の奴隷となっています。
奴隷となっている人をその状態とその結果である死から
解放することのできる唯一の方がイエス・キリストです。
このことを贖い(あがない)と言います。
イエス様は身代金を払って、罪の下にある人々を解放して下さいました。
その第一声が
<子よ。あなたの罪は赦されました>(マルコ福音書2章5節)なのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2014年12月28日

IMG_8506  吉田 耕三牧師

 

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」  (詩篇103篇2節)

今日初めて、石巻週報の「らしんばん」に書かせて頂いているのですが、
何か不思議に、襟を正されているような気になります。

もうすぐ4年になろうとしている支援活動、愛の業の実として、
今ここに教会堂が立ち、宣教が進められようとしているわけで、
それは同時に、東北宣教という、仙台教会に与えられている
使命の具現の場としての働きでもあることを強く感じているからです。

思えば、あの大震災の直前3月6日に、仙台教会では、
もう一度主の使命に立って東北宣教を覚えようと、「東北宣教祈り会」を始め、
特に、宮城の石巻や気仙沼、また岩手の町々に主の業が起こりますようにと、
共に祈ったのでした。

その結果が、素晴らしい神様の御業というより、あの凄まじい震災だったのです。
私たちは途方にくれましたが、神様はその結果として、押し出すように
仙台教会を東北宣教へと導かれたのでした。

このような経緯を覚える時、私たちも、主が愛されている、
この東北の為に、更に熱心に祈り、共に立ち上がらせて頂きたいと考えるです。

牧師コラム 「らしんばん」 2014年12月21日

IMG_8506  栗原 延元牧師

 

マタイの福音書2章には、イエスの幼児期に
起こった極めて対照的な出来事が録されています。

遠い異邦の東方の博士達が、わざわざ
<ユダヤ人の王としてお生まれになった方>を
拝みにエルサレムにやって来ます。
一方、エルサレムの都でユダヤ王であったヘロデは、その幼子を殺そうと画策します。

イエスの誕生は、その始めから歴史に波紋を起こしています。
何故、波紋が起こり広がっていくのでしょうか。
それはイエスが<ユダヤ人の王>として生まれたからです。
単にユダヤ民族のみの王ではなく、全世界の王、
王の中の王(King of Kings)として生まれたのです。
遠い異邦の博士達の来訪は、イエス・キリストは
王の中の王として生まれたことを証言しているのです。

さらにイエスの生涯をたどっていくと、
その死は十字架刑という苛酷なものでした。
イエスに処刑の判決を下したローマ帝国の総督ピラトは
イエスを<ユダヤ人の王>と呼びました。
イエスは王として生まれ、王であったが故に処刑されました。

しかし神は、この方を死の苦しみから解き放ってよみがえらせ、
私達にいのちの道を知らせて下さったのです。
このイエス様こそが私達の心の王座を占めるとき、
私達に真の自由がもたらされるのです。

神の御子は今宵しも

いよいよ来週は、アドベント(待降節)4週目。
教会では、クリスマス礼拝が持たれます。

石巻会堂として、初めてのクリスマス礼拝。
この3回は、クリスマスにちなんだメッセージを
栗原牧師がお話ししてくれました。

約束の御子がお生まれになった喜びをお伝えして
いきたいと思います。

12月23日には、石巻会堂で、
クリスマスランチパーティーを開きます。
たくさんの地元の方々とクリスマスの意味を
お分かちできますように。

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牧師コラム 「らしんばん」 2014年12月14日

IMG_8506     栗原 延元牧師

救い主イエス・キリストがお生まれになった日の出来事は、
ルカの福音書2章8節から20節までに詳しく録されています。

この日の出来事は、天地創造以来、もっともすばらしい出来事でした。
この日を境に歴史はB.C.(キリスト以前)と
A.D.(主の年)に分けられて記述されます。

主キリストの降誕の告知は、
ベツレヘムの町の羊飼いたちに与えられました。
羊飼いたちは、住民の数の中に加えられない、
卑しいと見なされていた人たちだったのです。

しかし、主の使いは野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた
彼らのところに来られました。
そして「きょうダビデの町で、あなたがたのために、
救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)
と告げたのです。
この知らせの後、御使いと一緒に多くの天の軍勢が現れて、
神を賛美して言いました。

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)。

御子イエスの誕生は天の一大イベントでした。
この告知を聞き、実際にその通りであった事を
証言したのが羊飼いたちでした。
神は謙遜な人々の心の中にお住いになるお方なのです。
「主よ、私の心に宿り給え」と祈りたいものです。

牧師コラム 「らしんばん」 2014年12月7日

IMG_8506  栗原 延元牧師

 

12月に入り、街にイルミネーションが点灯され、
クリスマス・シーズンに入りました。
クリスマスを横文字で「X’mas」と表すこともあります。
この「X」は、意味不明や謎の人物を表す場合に用いる
「X(エックス)」ではなく、ギリシヤ語の救い主(キリスト)の頭文字です。

聖書は、旧約聖書と新約聖書とから成立しています。
この「約」とは約束また契約です。
誰の約束、或いは契約かと言いますと、神の約束、神の契約です。
神が救い主をこの世に遣わすとの約束です。

その約束がイエス様の誕生によって成就しました。
それで、旧い約束の内容を「旧約聖書」と言い、
イエス様によって神の救いが万民にもたらされました。
それが「新約聖書」です。

その救い主イエス様の誕生に関わる色々の出来事が
特にルカの福音書に記されています。
イエス様の誕生を「降誕」と表します。
それは神が人間の歴史の中に顕現されたからです。
人の歩むべき道と人の生きる目的と人である喜びを
イエス様は与えて下さるのです。

イエス様は人の光であり、闇の中で輝いているのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2014年11月30日

IMG_8506   仲田志保 伝道師

教会暦では、今日からアドベント《待降節》に入りました。
神であるイエス・キリストが、人として地上に来られるのを待ち望む季節です。
アドベントののち、私たちはクリスマスを喜ぶのです。

今日は、クリスマスの出来事を振り返りながら、
私たちの人生に与えられた大きな喜び、慰めに与りたいと思います。

ヨセフは、いいなづけのマリヤが結婚前に身重になったことに悩み、
彼女をさらし者にはしたくなかったので、婚約を破棄しようと考えました。

しかし、神の使いがヨセフの夢に現れて、
マリヤの胎の実は他の男性と関係を持ってできたものではなく、
神のなさった奇蹟のわざであることを知らせました。
その子は、すべての人のたましいを暗い罪の闇から救い出す、
救い主だと言うのです。

聖書は、救い主はベツレヘムに生まれると約束しています。
しかしヨセフとマリヤはナザレにいました。
「どうしてナザレの私たちに、ベツレヘムから出るはずの救い主が、
赤ん坊として与えられるのか」と、不思議でならなかったでしょう。

しかしそんな矢先、皇帝アウグストから、国勢調査の達しが届きました。
登録のため、ベツレヘムまで来いという命令です。

歴史が、神の御手の中で、動き出しました。

牧師コラム 「らしんばん」 2014年11月23日

IMG_8506  栗原 延元牧師

イエス様の言葉には、力があります。
その力にカペナウムの町の人々は驚きました。
今日の聖書の箇所には、イエス様が御手を働かせて
人々の病を治した御業が記されています。

熱病で床に着いていた弟子ペテロの姑に近づき、
手を取って起こされると直ぐに彼女の熱は引き、
イエス様の一行をもてなしました。

またツァラアトの人を深く憐れみ、手を伸ばして彼に触りました。
すると直ぐに病は消え、その人は治りました。
人々が恐れて近づかず、触れようともされなかった人に
御手を伸ばされるイエス様に、神の愛の広さを見ます。

この2人の癒しの記事の中間に、イエス様の祈りの様子が描かれています。
<イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、
そこで祈っておられた。(マルコ1:35)>イ

エス様の手は働きを始める前に神に祈る手として
両手を組み合わせられていたのです。
私たち一人一人の救いのために。

「主が私の手を取ってくださいます。
どうしてこわがったり逃げたりするでしょう。
やさしい主の手にすべてをまかせて旅ができるとは
何たる恵みでしょう。」(聖歌651の1節)

牧師コラム 「らしんばん」2014年11月16日

IMG_8506  栗原 延元牧師

「マルコの福音書」は、弟子マルコが書いた
イエス様の「教え」と「行い」の書物です。
この書物を書かせた動機は、イエス様の教えと行いに対する「驚き」です。
この驚きはマルコだけではなく、イエス様に接した人々が抱いたものでした。

イエス様がガリラヤ湖畔カペナウムの町の会堂に入って教え始められた時に、
人々は驚いたのです。
それは、律法学者たちのようではなく「権威ある者」のように
教えられたからです。(マルコ1:22)

律法学者は、旧約聖書の律法に様々な解釈を施して
ユダヤ人の行為と行動を縛っていました。
しかしイエス様の教えは、それらのタブーから人間を解放したのです。

旧約律法のタブーから解放したからと言って、律法を廃棄したのではありません。
そうではなく、イエス様ご自身が語っておられるように
律法を私たちのうちに成就するために来られたのです。

権威ある者のように教えられたとは、イエス様の教えが聞く者の心の中に響き、
イエス様のお言葉に聞き従いたいとの思いが起こされてきたという事のようです。

すべての権威はイエス様にあるのですから。

牧師コラム 「らしんばん」 2014年11月9日

IMG_8506  栗原 延元牧師

聖書は信仰の書物です。
信仰について学ぶのに最適の読み物です。
分かりやすく、具体的に書かれています。

今日の聖書箇所に4名の人物が登場します。
ガリラヤ湖の漁師であった、ペテロとアンデレの兄弟、
ヤコブとヨハネの兄弟です。
イエスに最初に従っていったのは漁師でした。

彼らはイエス様から<わたしについて来なさい。
人間をとる漁師にしてあげよう>と言われたのです。

人間をとる漁師とは、一言で言えば
「愛の人」になるということです。

正しく神を愛し、正しく自分を愛し、
正しく他の人々を愛する人に、
私達を造り変えて下さるのがイエス様です。

4人の漁師達は、これらの事を初めからハッキリと
自覚していたのではないかもしれませんが、
イエス様の眼差しとその声の響きに何か惹かれるものを
感じたのでしょう。

網を置いてイエス様について行ったのです。
彼らは人間をとる漁師となり、
イエスをキリスト(救い主)と信じて、
愛の人に変えられました。

聖書は信仰の宝の書物です。