いよいよ来週は、アドベント(待降節)4週目。
教会では、クリスマス礼拝が持たれます。
石巻会堂として、初めてのクリスマス礼拝。
この3回は、クリスマスにちなんだメッセージを
栗原牧師がお話ししてくれました。
約束の御子がお生まれになった喜びをお伝えして
いきたいと思います。
12月23日には、石巻会堂で、
クリスマスランチパーティーを開きます。
たくさんの地元の方々とクリスマスの意味を
お分かちできますように。
栗原 延元牧師 |
救い主イエス・キリストがお生まれになった日の出来事は、
ルカの福音書2章8節から20節までに詳しく録されています。
この日の出来事は、天地創造以来、もっともすばらしい出来事でした。
この日を境に歴史はB.C.(キリスト以前)と
A.D.(主の年)に分けられて記述されます。
主キリストの降誕の告知は、
ベツレヘムの町の羊飼いたちに与えられました。
羊飼いたちは、住民の数の中に加えられない、
卑しいと見なされていた人たちだったのです。
しかし、主の使いは野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた
彼らのところに来られました。
そして「きょうダビデの町で、あなたがたのために、
救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)
と告げたのです。
この知らせの後、御使いと一緒に多くの天の軍勢が現れて、
神を賛美して言いました。
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)。
御子イエスの誕生は天の一大イベントでした。
この告知を聞き、実際にその通りであった事を
証言したのが羊飼いたちでした。
神は謙遜な人々の心の中にお住いになるお方なのです。
「主よ、私の心に宿り給え」と祈りたいものです。
栗原 延元牧師 |
12月に入り、街にイルミネーションが点灯され、
クリスマス・シーズンに入りました。
クリスマスを横文字で「X’mas」と表すこともあります。
この「X」は、意味不明や謎の人物を表す場合に用いる
「X(エックス)」ではなく、ギリシヤ語の救い主(キリスト)の頭文字です。
聖書は、旧約聖書と新約聖書とから成立しています。
この「約」とは約束また契約です。
誰の約束、或いは契約かと言いますと、神の約束、神の契約です。
神が救い主をこの世に遣わすとの約束です。
その約束がイエス様の誕生によって成就しました。
それで、旧い約束の内容を「旧約聖書」と言い、
イエス様によって神の救いが万民にもたらされました。
それが「新約聖書」です。
その救い主イエス様の誕生に関わる色々の出来事が
特にルカの福音書に記されています。
イエス様の誕生を「降誕」と表します。
それは神が人間の歴史の中に顕現されたからです。
人の歩むべき道と人の生きる目的と人である喜びを
イエス様は与えて下さるのです。
イエス様は人の光であり、闇の中で輝いているのです。
仲田志保 伝道師 |
教会暦では、今日からアドベント《待降節》に入りました。
神であるイエス・キリストが、人として地上に来られるのを待ち望む季節です。
アドベントののち、私たちはクリスマスを喜ぶのです。
今日は、クリスマスの出来事を振り返りながら、
私たちの人生に与えられた大きな喜び、慰めに与りたいと思います。
ヨセフは、いいなづけのマリヤが結婚前に身重になったことに悩み、
彼女をさらし者にはしたくなかったので、婚約を破棄しようと考えました。
しかし、神の使いがヨセフの夢に現れて、
マリヤの胎の実は他の男性と関係を持ってできたものではなく、
神のなさった奇蹟のわざであることを知らせました。
その子は、すべての人のたましいを暗い罪の闇から救い出す、
救い主だと言うのです。
聖書は、救い主はベツレヘムに生まれると約束しています。
しかしヨセフとマリヤはナザレにいました。
「どうしてナザレの私たちに、ベツレヘムから出るはずの救い主が、
赤ん坊として与えられるのか」と、不思議でならなかったでしょう。
しかしそんな矢先、皇帝アウグストから、国勢調査の達しが届きました。
登録のため、ベツレヘムまで来いという命令です。
歴史が、神の御手の中で、動き出しました。
栗原 延元牧師 |
イエス様の言葉には、力があります。
その力にカペナウムの町の人々は驚きました。
今日の聖書の箇所には、イエス様が御手を働かせて
人々の病を治した御業が記されています。
熱病で床に着いていた弟子ペテロの姑に近づき、
手を取って起こされると直ぐに彼女の熱は引き、
イエス様の一行をもてなしました。
またツァラアトの人を深く憐れみ、手を伸ばして彼に触りました。
すると直ぐに病は消え、その人は治りました。
人々が恐れて近づかず、触れようともされなかった人に
御手を伸ばされるイエス様に、神の愛の広さを見ます。
この2人の癒しの記事の中間に、イエス様の祈りの様子が描かれています。
<イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、
そこで祈っておられた。(マルコ1:35)>イ
エス様の手は働きを始める前に神に祈る手として
両手を組み合わせられていたのです。
私たち一人一人の救いのために。
「主が私の手を取ってくださいます。
どうしてこわがったり逃げたりするでしょう。
やさしい主の手にすべてをまかせて旅ができるとは
何たる恵みでしょう。」(聖歌651の1節)
栗原 延元牧師 |
「マルコの福音書」は、弟子マルコが書いた
イエス様の「教え」と「行い」の書物です。
この書物を書かせた動機は、イエス様の教えと行いに対する「驚き」です。
この驚きはマルコだけではなく、イエス様に接した人々が抱いたものでした。
イエス様がガリラヤ湖畔カペナウムの町の会堂に入って教え始められた時に、
人々は驚いたのです。
それは、律法学者たちのようではなく「権威ある者」のように
教えられたからです。(マルコ1:22)
律法学者は、旧約聖書の律法に様々な解釈を施して
ユダヤ人の行為と行動を縛っていました。
しかしイエス様の教えは、それらのタブーから人間を解放したのです。
旧約律法のタブーから解放したからと言って、律法を廃棄したのではありません。
そうではなく、イエス様ご自身が語っておられるように
律法を私たちのうちに成就するために来られたのです。
権威ある者のように教えられたとは、イエス様の教えが聞く者の心の中に響き、
イエス様のお言葉に聞き従いたいとの思いが起こされてきたという事のようです。
すべての権威はイエス様にあるのですから。
栗原 延元牧師 |
聖書は信仰の書物です。
信仰について学ぶのに最適の読み物です。
分かりやすく、具体的に書かれています。
今日の聖書箇所に4名の人物が登場します。
ガリラヤ湖の漁師であった、ペテロとアンデレの兄弟、
ヤコブとヨハネの兄弟です。
イエスに最初に従っていったのは漁師でした。
彼らはイエス様から<わたしについて来なさい。
人間をとる漁師にしてあげよう>と言われたのです。
人間をとる漁師とは、一言で言えば
「愛の人」になるということです。
正しく神を愛し、正しく自分を愛し、
正しく他の人々を愛する人に、
私達を造り変えて下さるのがイエス様です。
4人の漁師達は、これらの事を初めからハッキリと
自覚していたのではないかもしれませんが、
イエス様の眼差しとその声の響きに何か惹かれるものを
感じたのでしょう。
網を置いてイエス様について行ったのです。
彼らは人間をとる漁師となり、
イエスをキリスト(救い主)と信じて、
愛の人に変えられました。
聖書は信仰の宝の書物です。
11月1日に福音歌手 森祐理さんをお招きして、
石巻会堂初のコンサートを開きました。
午前中は、時々大粒の雨が降り、出足が鈍るかもと
心配しましたが、コンサート開始近くになると、
小雨になってきました。
一人、また一人と集まって来てくださいました。
全身真っ白の衣装で登場された妖精のような姿に
一瞬、ドキッとしたみたいです。
懐かしい歌謡曲や童謡、唱歌などを、来場してくださった
皆さんと共に歌い、あっという間に1時間半のコンサートは
終了しました。
コンサートの後は、お茶タイム。
おしゃべりにも花が咲き、コンサート同様に、
和やかな時間となりました。
最後は、先日焼いたクッキーのお土産をお持ち帰り
いただきました。
来月は、12月。クリスマスの季節です。
さて、さて、石巻でどんなクリスマス集会をするか、
みんなで、話し合いをしていきます。\(^o^)/
仲田志保 伝道師 |
私は、イエス・キリストを、私の救い主だと信じています。
マルコの福音書5章には、
12年間も長(なが)血(ち)という病を
背負ってきた女性が記録されています。
彼女はひどい痛みに苦しみ、心無い差別を受け、
治療のために全財産を使い果たすも、病気は悪化し続けていました
この女性を救った救い主もまた、イエス・キリストでした。
彼女と私は、少し似ています。
彼女は、キリストの着物に触ることでもできれば、
きっとこの病気が治ると思いました。
その思いに応えて、キリストは彼女の病を
すっかり癒してくださいました。
私も、キリストに助けてほしいと願ったので、
彼は私の疲れ果てていた心を癒してくださったのです。
また、キリストは、ごった返す群衆の中に、
この女一人のことを探しました。
同じようにキリストは、私が自分で自分のことを、
生きていても仕方がない存在だと思うような時に、
「わたしが探しているのはあなたなんだよ」と
私を探してくださいました。
私は、この素晴らしい愛なるお方に、
一人でも多くの方に出会っていただきたいと願っています。
栗原 延元牧師 |
イエス・キリストは私達の人生航路のらしんばんです。
誰も心の中に、今の生活の不満や将来への不安があります。
そのような日々の歩みの中でイエス様は私達の不満や不安を
思いやることのおできになる方です。
今日の聖書の箇所で、
<イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた>ことが記されています。
イエスは人としてこの誘惑を見事退けられました。
<罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みに会われたのです。>
と書かれている通りです。
神の子イエスが、私達と同じように試みに会われたのは、
私達の弱さを分かるためでした。
人の弱さが理解できてこそ、その弱さの中に苦しみ悩んでいる人を解放できるのです。
イエス様は<私たちの弱さに同情できない方ではありません。>(ヘブル4:15)。
イエス・キリストが世に出て語られた第一声は、
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、福音を信じなさい。」でした。
神の国の慈愛と恵みは、イエス・キリストを通して与えられるのですから、
この福音に耳を傾け続けて歩みたいものです。