牧師コラム 「らしんばん」 2015年3月15日

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今日は12年間、出血で病んでいた婦人が
イエス・キリストによっていやされた記事を学びます。
この人は多くの医者からひどい目に会わされて、
自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、
何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした(マルコ5:26)。

病気の回復をあきらめても仕方のない状態でしたが、
この人は、イエスのことを耳にして、
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えて、
イエスの着物にさわるとすぐに血の源がかれて、
ひどい痛みが直ったのです。
この婦人はイエスのもとに来ていやされました。

「人は自分の病気を自覚した段階で病人となります。
しかし医者の前に現れるまでは、いわゆる患者ではありません。」(奥村修武氏)
病気が直るには患者(わずらい悩んでいる)として医者に診てもらわなければなりません。
丈夫な人は医者を必要としないとはイエスのことばです。
クリスチャンとは、イエスを必要としている人です。
義人(人間らしい人)は信仰によって生きるのです。
この婦人はイエスをキリスト(救い主)と信じて病が直り、救われたのです。

3.11 祈りのとき ―ハープの調べとともに―

『今日』3月11日は、東北の私たちにとって
”特別な日”です。

この4年間を様々な思いを抱えて過ごして
こられた方々が私たちの目の前におられます。

石巻の方々とともに、この日を過ごすことが
できました。

神様の大きな愛が、東北全体をおおいますように。

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牧師コラム 「らしんばん」 2015年3月8日

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イエスのひとことばで嵐が静まった一行は、
ガリラヤ湖の向こう側のゲラサ人の地方に着きます。
今はケルサと呼ばれている町であったようです。

この町に悪霊につかれている男がいました。
この男は<長い間着物も着けず>とありますから自虐性があり
<家には住まず墓地に住んでいた>ところから非社交性を有し、
<私を苦しめないで>と言ったり、<鎖や足かせを断ち切ったり>
していたことから人格が混濁し、あるいは分裂していた。
酒の飲み過ぎで狂人になったか、あるいは何かの精神緊張の
過重さのあまりではないかと推測しています(榊原康夫氏)。
この男の状態は躁うつ病の躁状態の時と非常によく似ていると
言う人もいます(ジョンソン氏)。

この男には多くの悪霊が入っていました。
この大ぜいの悪霊をイエスはこの人から追放しました。
追放された悪霊どもは近くに飼ってあった豚に入り、
豚の群れは崖を駆け下り、湖に入って溺れ死にました。

現代はなんと狂気が若き者も老いた人をも支配し、
痛ましい事件が日本のいたる地域で起こっていることでしょうか。

イエスにいやされて正気に返ったこの男は、
家族のもとに帰って神の大きな救いのみわざを伝えたのです。

聖餐式も始まりました

石巻教会の礼拝も昨日で21回目となりました。
地元の方も少しずつ礼拝に集ってくださっています。

昨日は、聖餐式も持たれました。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。
わたしを覚えてこれを行ないなさい。」と言われた
イエス様の教えに加わる方が起こされていきますように。

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牧師コラム 「らしんばん」 2015年3月1日

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先週イエス様は歴史上の人物の中で最も「なぞ」の多い人であると話しました。
今日のマルコ4:41に<風や湖までが言うことをきくとは、
いったいこの方はどういう方なのだろう>とイエスのなぞの力に
大きな恐怖に包まれ互いに言い合っていた事が録されています。

山上の垂訓(マタイ5~7章)の教えから、イエスを道徳倫理の教師と見做し、
十字架上で「父よ。彼らをお赦しください」と言いながら息を引き取った姿から
自己犠牲の人物として評価する人もいます。
なぞめいたイエスの教えや行動に人は戸惑い続けてきたと言えるでしょう。

マルコ4章後半は、イエスは自然現象をコントロールしたことが描かれています。
嵐を静める力を弟子達の前で現したのです。

ヨハネの福音書は冒頭からそのなぞに光をあてます。
<初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた>

この方がイエス・キリストです。
マルコ福音書ではこのなぞが最後で解き明かされるのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年2月15日

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マルコ4章を読むと、17、8年前にガリラヤ湖畔に立ち、
流山教会の人達に聖書を話した光景が鮮やかに浮かんできます。
私の声がよく通り、遠く離れた人にも聞きとれたのです。
2千年前に、イエス様がここで大勢の人々に話された事を思うと
私の心が熱くなりました。
アジア大陸の西の果てから東の果ての国に生まれた者にも
イエス様の事が伝えられかと思うと感動で胸が一杯になりました。

2節には、イエス様はたとえによって多くの事を教えられたと
書いてあります。
たとえ話は直接的に話すよりも、もっと大きな効果をもっています。
たとえ話は聞く人の心のキャンパスに絵を描くようなものです。そ
の内容が印象深く聞く人の心に残ります。
心に残る話は、その人に考える余裕を与え、
余裕は人に気づきを与えます。
<おびただしい数の群集>にイエス様は、
ご自分の語る「ことば」の大切さを理解させる為、
<種を蒔く人が種まきに出かけた>と農夫の情景を話します。

道端、土の薄い岩地、茨の中、良い地に蒔かれました。
芽生え、育ち、実を結んだのは、良い地に蒔かれた種です。
私達の心はどの地でしょうか。
そしてどのようにすれば、私達は実を結ぶ「良い地」になれるのでしょうか。
考えてみて下さい。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年2月8日

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船の航路を定めるための器具が羅針盤です。
人生の方向を示すものが座右の銘です。
「敬天愛人」(天を敬い人を愛する)は西郷隆盛の座右の銘です。
彼は郷里にて聖書を教えてもいました。
特にマタイ福音書を読んでいたようです。
その中の
<自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。
天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、
正しい人たちにも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです>
の箇所に「敬天愛人」の銘は由来しているようです。

西郷は勝海舟との話し合いで江戸城の無血開城をし、
江戸を戦火から救いました。
鹿児島にある西郷南州記念館の館長は、
西郷はキリスト教の信仰を持って生涯を閉じたのではないかと話しています。
(DVD聖書を読んだサムライたち―龍馬をめぐる5人の男たち―)

この記念館には、西郷の愛読した聖書が展示してあります。
西郷の人物の大きさをある人は、

「大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く太鼓のようだ」と語っています。

西郷さんは、天の父なる神を仰ぎ見つめていたのではないかと思っています。

<あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。>(マタイ5:48)

牧師コラム 「らしんばん」 2015年2月1日

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今日は「12使徒の任命」と題して
マルコ3章7~19節を学びます。
「使徒」とはイエス様の受洗から復活、昇天まで
イエス様と一緒に歩んだ弟子たちの中から、
特に福音宣教と汚れた霊を追放する権威を授けられた人たちです。

12という数はイスラエルの12部族に対応しています。
新しい神の民を生み出すイエス様の意図が表されています。
ペテロ、ヤコブ、ヨハネなどの12使徒は普通のただの人たちです。
新しい神の民を創り出すにはあまりにも貧弱な人たちです。
しかし、この12使徒からキリスト教会が始まりました。
神のなさる方法は本当に不思議です。
ただ、はっきりしていることは、彼らは「イエス様の復活の証人」であり、
イエス様の十字架上の死と復活を歴史上、
実際に起こった事実として証言して行ったのです。
永遠のいのちと罪の赦しのメッセージが人間の歴史を
貫き伝え続けられているのです。

イエス様の権威に満ちた言葉が響いてきます。
<あなたがたがわたしを選んだのではありません。
わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。
それはあなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため>
(ヨハネ15:16)です。

このみことばが私の心に響いています。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年1月25日

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<安息日は人間のために設けられたのです。
人間が安息日のために造られたのではありません。
人の子は安息日にも主です。>(マルコ2:27-28)とは
イエス・キリストの言葉です。

この言葉から、イエス・キリストと人間と日との関わりを知ることができます。
まず安息日を含めて「日」はイエスによって造られたのです。
創世記1章に、神がある調和をもって自然を造り、
日を定め、年を定められました。
その創造のわざに神の御子としてイエスは参加していたということです。
「日」を設けたのは人に仕えるために、人となられた神であるイエスなのです。

また人は神のかたちに、神によって造られました。
その創造のわざにイエスは「主」として加わっていたのです。
人間は神が設けられた地と世界に生かされているのです。
その人間のために一日という日が定められたのです。

私たちの日々は、無限には続きません。有限です。
一生を70年とすると25,550日です。
人はその日を大安とか仏滅とか友引などと呼んでいますが、
本来それは全く無意味なことなのです。
人がイエス様のもとに行く時、人はまことの安らぎを得るのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年1月11日

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今日は「イエスの友人たち」と題して学びます。
まずイエスの弟子となったのは2組の漁師の兄弟たちでした。

その仲間となったのがレビ・マタイという取税人でした。
この人は後にマタイの福音書を書いた人です。
彼は実入りの良い取税人を捨ててイエスに従ったのです。

彼はいやいやながら従ったのではありません。
<わたしについて来なさい>とのお声が掛けられて喜んで
イエスの弟子になりました。
それで友人、知人たちを家に招いて盛大な宴を開きました。
その中には学者たち、取税人、罪人たちもいました。
マタイの付き合いの広さが伺えます。

イエスの友人の大多数は取税人や罪人たちでした。
旧約聖書の専門家である律法学者たちは、どんな人とも付き合う
イエスの無軌道ぶりにあきれたのでしょう。
弟子たちのところに来てこう言ったのです。
<なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか>と。

イエスはこれを聞いて
<医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです>
と答えられました。

罪の病いを負う人の医者がイエスなのです。
己の罪人としての姿が見えて来るとき、イエスの招きの声が聞こえて来るのです。