牧師コラム 「らしんばん」 2015年6月21日

IMG_8506  栗原 延元牧師

「この方のなさったことは、みなすばらしい」(マルコ7:37)とは、
イエスのみわざに接した人々の驚嘆のことばです。

聖書を開くと、すぐに創造主の神のみわざが、「非常によかった」と
書かれていることに気づきます。
この神のうなずきに呼応するかのように、詩篇の作者は、
<天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる>(詩篇19:1)
と宣言します。
預言者イザヤはメシヤの到来を
<そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく>
(イザヤ35:5)
奇蹟が行われることによって明らかになると語ります。

今日学ぶマルコの福音書7:31~37は、イザヤの預言に呼応するかのような
イエスのお姿であるように思えるのです。
耳が聞こえない人の両耳に指を差し入れ、その人の舌につばきを塗って、
天を見上げ、深いため息をして「エパタ(開け)」と言われたことの中に、
この人への深い!深い!イエス様のあわれみを覚えます。

耳が聞こえず、口のきけない人を隣人として、
イエスのみもとに連れて来た人々の愛に
呼応するイエスの奇蹟のみわざが現わされているのでしょう。
そのみわざに人々は、「この方のなさったことはみなすばらしい!」
とイエス様を讃えているのです。

牧師コラム 「らしんばん」2015年6月14日

IMG_8506  仲田 志保 伝道師

梅雨前線が東北にいよいよ到達しようというところ、
仙台教会の玄関先のアジサイが、今年も可愛いぼんぼりのように、
花を開きました。
皆さまいかがお過ごしでしょうか。
お怪我に癒しが、悩みに解決が、不安に希望が、ありますように!

神さまは、愛です。
聖書には、こういう言葉があります。

「主は、あなたがたに恵もうと待っておられ、
あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。
主は正義の神であるからだ。
幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」(イザヤ書30章18節)

愛そのものであられる神は、私たちを愛したくて、恵みたくて、仕方がありません。
神は、私たちがご自身の愛に気付くのを待ち焦がれています。
私たちが生まれた目的は、まさにそこにあります。
私たちは、神に愛されて生まれました。
そして、その愛に気付くためにここまで生かされてきました。
一度それに気付いたなら、私たちは喜び踊りあがるほどです。
その時私たちは本当の意味でいのちを受け、
以降、神の愛のただ中を生きていくようになるのです。

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牧師コラム 「らしんばん」 2015年6月7日

IMG_8506  栗原 延元牧師

人の生きる目的は「神の栄光」のためですと
ウェストミンスター信仰告白は宣言しています。
しかし、神の栄光のために生きよと言われても、
何かピンと来なかったのが私の学生時代でありました。
創造主にして至高至聖なる神の存在が私の日々の歩みから
遠く離れたもののように見えたのでした。

今日の箇所には、イエスと海辺の町の女との会話が
録されています。
一読すると、救いを求めてやって来た女を、
イエスは冷たく突き放すように見えます。
何しろイエスは、ギリシャ人の女に
「私はイスラエル人のために働いているのだから」と
言っているのですから。

この女は、そのようなイエスの言葉をソフトに受け入れます。
「主よ。そのとおりです」(7章28節)。
ここにこの女の成熟さが現れているのです。
自分を拒んでいるように思える人の中に愛を認めることが
できるのですから。
愛は人に余裕を与えます。
ですから、イエスの言葉(7章27節)に
「でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずを
いただきます」と答えたのです。
この女の言葉は、イエスに<あなたの信仰は立派です>と言わせました。
神の御子がこの女を称賛したのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年5月31日

IMG_8506  栗原 延元牧師

 

「黒コゲのゴハンを食べるから、人の心は黒く悪くなるのではありません。
白いゴハンを食べているから、心は白く、きれいになるのではありません。」と
子供に話したある母親の言葉を、今日の聖書を読んで思い出します。
何が人を汚し、何が人を汚さないのかが今日の聖書(マルコ7:1~23)で
明らかになっています。

すべて、食べ物は人の外側から口の中に入り、腹に入り、そして厠(トイレ)に
出されてしまいます。
食物は人の心には入りません。イエスはすべての食物をきよいとされたのです。

人の心を汚すものは、人から出るもの、すなわち、心の思いなのです。
心の思いが、ことばとなって人から出てきます。
人の内側から、人の心から出てくるものをイエスは具体的に話します。
<悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな内側から出て、人を汚すのです。>

この人の心の汚れを洗い清めて下さる方がイエス・キリストです。
<御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。>(Ⅰヨハネ1:7)

牧師コラム 「らしんばん」 2015年5月24日

IMG_8506  栗原 延元牧師

「新しく造られる民が主を賛美しますように」(詩篇102:18)は、
ペンテコステの日に実現しました。
その日の模様は使徒の働き2章に記されています。

ペンテコステに聖霊が降り、ペテロは説教します。
そして3千人の人々が罪を悔い改めてイエスを信じ洗礼を受け、
エルサレムにキリスト教会が誕生しました。
彼らは使徒たちの教えを堅く守り、喜びと真心をもって食事を共にし、
神を賛美していきました。

イエス様は、いのちの水に聖霊をたとえ
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と
声を大にして人々に呼びかけていました。
その聖霊が、ペンテコステの日に天から注がれたのです。
そしてイエス様を信じる者の体に宿っていてくださるのです。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを
知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)と書かれているのです。

御霊のお働きは、その結ぶ実によって明らかになります。
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22)です。
良い木は良い実を結ぶのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年5月17日

IMG_8506  栗原 延元牧師

今日と来聖日は、マルコの福音書の学びをお休みにして、
「使徒の働き」から使徒パウロの回心とペンテコステについて学びます。
パウロの回心は、「使徒」9章、22章、26章に書かれています。
今回は26章からパウロと復活の主イエス・キリストとの出会いを見ていきます。

以前のパウロはキリスト教徒に激しい怒りを抱いていました。
その理由はイエスの復活にありました。
パリサイ人パウロにとって、十字架に処刑されたナザレ人イエスは
神に呪われた人でした。
しかしキリスト教徒は、イエスは復活したと宣べ伝えているのです。
パウロは、神が死者をよみがえらせることは信じていました。
しかし神に呪われて十字架刑を受けた人物が、
復活したなどとはあり得ないことでした。

ダマスコ途上のパウロに復活の主は、ヘブル語で語りかけます。
「なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、
あなたにとって痛いことだ」(使徒26:14)

この主の言葉は迫害者パウロの心の痛みに言及しています。
キリスト教徒の敵対者パウロを思いやっていることばです。
「汝の敵を愛せよ」と教えられた主は、あの十字架上だけでなくここでも
神の愛を注いでいるのです。
この愛がパウロを回心させたのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年5月10日

IMG_8506  栗原 延元牧師

ガリラヤ湖は、南北20km、東西12kmの淡水湖です。
北方のヘルモン山は氷雪をいただき、湖面は地中海面よりも200mも低く、
亜熱帯気候で、激しい突風が吹き降ります。
今日の聖書のテキストにも、イエスの弟子達が向い風のために
舟を漕ぎあぐねていたことが書かれています(マルコ6:48)。

このとき陸地にいたイエスが湖の上を歩いて弟子達の乗った舟に
近づいて行きます。
このイエスを見て弟子達は、怯え「幽霊だ」と叫びます。
取り乱した弟子達を落ち着かせようとイエスは声をかけます。
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と。
そして舟に乗り込まれると、風がやんだのです。

パンのことから弟子達はイエスが神であることを悟ることができませんでした。
ですから湖の上を歩くイエスを見て、ただ怯えてしまう弟子達でした。

私達の人生には、穏やかな日もあれば、嵐の日もあります。
しかしイエスは、私達一人一人の人生の舟に乗って下さる方なのです。
天地を造られた方が、私達を心に留め顧みていて下さるのです。
このイエス様を私達の人生の舟にお乗せしたいものです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年5月3日

IMG_8506  栗原 延元牧師

今日の箇所は、わずか5個のパンと2匹の魚が
イエスの御手の中で5千人の男たちを満腹にさせた奇蹟が描かれています。

主イエスの奇蹟を考える時に重要なのは、
その奇蹟が何を意味し意図しているかに思いを寄せることです。
奇蹟を始めから否定してしまうと、イエスがどのような方なのかを
知ることはできません。
又奇蹟を自然現象として解説する時も、イエスの主キリストであることを
見失います。
一方、奇蹟を単に物理的にのみ捉えようとすると、キリストの(罪からの)贖いの真意を
見落とすことになります。

この奇蹟の記事を読んで思い出すのは、モーセに引き入られて荒野を旅した
イスラエルの民のことです。
彼らは荒野で神とモーセに逆らい、「食物が無い、飲み水が無い」と騒ぎ出します。
「この荒野で我らを殺すつもりか」と。

神は40年間荒野でイスラエルの民を養います。
その折りの食物を「マナ」と呼びました。
正にイエスはまことの「マナ」であることをこの奇蹟を起こすことによって、
弟子たちと御元に集まって来た人々に証ししているのです。

<イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。」>(ヨハネ6:35)

牧師コラム 「らしんばん」 2015年4月26日

IMG_8506  栗原 延元牧師

今日の聖書箇所はマルコ6:14~29です。
ここには、義人ヨハネが何故ヘロデによって投獄され、
獄中で斬首されたのかが詳しく書かれています。
まるで一幕の劇を観ているようです。

王ヘロデはこのヨハネを正しい聖なる人と知って、
彼を恐れ、保護し、教えを非常に当惑しながらも
喜んで耳を傾けていた(マルコ6:20)。
このヘロデが何故にヨハネの首をはねなければならなかったのかというと、
妻ヘロデヤの恨み(ヨハネへの)と人々への恐れでした。

ヘロデは王という地位にありました。
王は、何も恐れる必要のない、人間社会の中では最も高い地位です。
しかしヘロデの心は恐れで支配されていました。
人々への恐れ、妻への恐れ、そして自分への恐れです。

この恐れは、神に対して悔い改めないところから生じる恐れです。
この恐れが悪に悪を加え、人から正しい判断と行動を奪うのです。

王ヘロデは、何でも自分の思うような行動ができると考えていたことでしょう。
しかし、現実にはやってはいけないことをしてしまうのです。
自己の心の中に宿っている悪に振り廻されてしまったのです。
人は罪に捕われています。
この捕われから人を解放する方が救い主イエスなのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年4月19日

IMG_8506  栗原 延元牧師

イエスは郷里ナザレの人々から拒まれた後、
12弟子を2人一組にして伝道に派遣します。
その時「杖一本の他、何も持って行くな」と命じます。
私はここを読み、賛美歌270番の

「信仰こそ旅路を導く杖 弱きを強むる力なれや。
心勇ましく旅を続けゆかん。この世の危うき恐るべしや」
を思い出しました。

人生は旅にたとえられます。
奥の細道の芭蕉は栗の木の杖を手に取って
みちのくの旅に出ました。
なぜ栗の木が杖に選ばれたのかというと、
旅先で生命を落とす事があっても栗の木の杖は
西方浄土に連れて行ってくれるからと言うのです。
それは栗の木が西方に立つ木だからなのだそうです(小畑進師)。
私の名字は栗原です。それで大変自分の名字が気に入っています。

イエスが弟子達に「杖一本」の他、何も持って行くなと命じたのは、
信仰一本で行けと言うことのようです。
ここで言う信仰とは、知性も感性も理性も何もかも無視して
歩めというのではありません。

なぜなら、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と
イエスは語っておられるからです。
そのイエスへの信頼が信仰なのです。