牧師コラム 「らしんばん」 2015年7月12日

IMG_8506  栗原 延元牧師

主イエスは「たとえ」を用いて多くの教えを語りました。
的を得た「たとえ」は聞く人の心の中に印象深く残ります。
「空の鳥」や「野に咲く花」
「岩の上に建てられた家と砂地に建てられた家」
「からし種」
など人々の身の周りのものが「たとえ」として使われました。

今日の聖書の箇所には「パン種」が出てきます。
「パン種」は、善悪に関わらず大きな影響力を持つ小さな物のたとえとして用います。
良い意味では神の国の発展力を(マタイ13:33)、
悪い意味では、悪の力の伝播力を指して用いられています。
ここではパリサイ人の教えのことを「パン種」にたとえています。

わずかのパン種が多量の粉のかたまりをふくらませるように、
人の悪い心と性質は簡単に他の人に感染します。
ですから、イエス様は
<パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい>(マルコ8:15)
と弟子たちに命令するように語りました。

このとき、弟子たちはパン一箇しか持っていませんでした。
旅の準備として食べ物を十分に用意していなかったのです。
その不用意さをイエスに指摘されたと勘違いしてしまったようです。
それで的はずれの議論をしてしまったのです。本論は説教の中で・・・・

牧師コラム 「らしんばん」 2015年7月5日

IMG_8506  栗原 延元牧師

今日の説教題を「しるしを求める石の心」としました。
石は固いものです。
固い心は、自分の誤りを認めようとはしません。
あくまでも自分の正しさを主張します。

パリサイ人たちは誇りを持っていました。「神を知っている」と。
その誇りが凝り固まって、イエスに天からのしるし-神の子キリストである-
を求めたのでしょう。

しるしとは証拠を表す目に見える印です。
水戸黄門が葵の印籠を手に持って「天下の副将軍」である事を現すように、
イエスに神の子キリストである「しるし」をパリサイ人たちは求めたのです。

しかし、イエスは
<ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません>(マタイ16:4)
と言われます。

ヨナのしるしとは、イエスの十字架の死と3日後の復活の出来事です。
このことにユダヤ人はつまずき、異邦人には愚かに思えます。
有史以来人類は神の存在と、その愛とを捜し求めて来たのです。
神がおられるなら神を見せてもらいたい。
神の愛が確かならば、その愛のしるしを見せてもらいたいと。

聖書は証言するのです。
イエス・キリストこそがまことの神であり、
イエスの十字架の死と復活に神の愛が現されたのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年6月28日

IMG_8506  栗原 延元牧師

7つのパンと少しの魚がイエスの手のうちで4千人ほどの人々の空腹を
満たした記事がマルコ8章に記されています。
マルコ6章では5つのパンと2匹の魚で男の数で5千人の人々の空腹が
いやされたとありますから、これで2度目の奇蹟が現されたことになります。

イエスが行われた奇蹟には、必ず意味があります。
パンの奇蹟には、「イエスがいのちの主である」ことを
読みとらなければなりません。
からだにパンがなければ生きていけないと共に
こころにみことば(イエスの教え)が受け入れられて、
人は生きていける。このことを2つのパンの奇蹟は物語っています。

食物について、イエスは改革的なことを教えます。
それは、食物は人を汚さないということです。
あれを食べてはだめ、これを食べてはいけないなどのタブーが
宗教の中に入り込んでいます。
食物によって人間の生き方が左右されると思う人々がいます。
イエスは、
「食物は人の心にはいらないで腹に入り、
そしてかわやに出されてしまうのです」とも教えています(マルコ7:19)。

このようにイエス様は人のこころをからだに関して健全な歩み方を
私たちに語っているのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年6月21日

IMG_8506  栗原 延元牧師

「この方のなさったことは、みなすばらしい」(マルコ7:37)とは、
イエスのみわざに接した人々の驚嘆のことばです。

聖書を開くと、すぐに創造主の神のみわざが、「非常によかった」と
書かれていることに気づきます。
この神のうなずきに呼応するかのように、詩篇の作者は、
<天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる>(詩篇19:1)
と宣言します。
預言者イザヤはメシヤの到来を
<そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく>
(イザヤ35:5)
奇蹟が行われることによって明らかになると語ります。

今日学ぶマルコの福音書7:31~37は、イザヤの預言に呼応するかのような
イエスのお姿であるように思えるのです。
耳が聞こえない人の両耳に指を差し入れ、その人の舌につばきを塗って、
天を見上げ、深いため息をして「エパタ(開け)」と言われたことの中に、
この人への深い!深い!イエス様のあわれみを覚えます。

耳が聞こえず、口のきけない人を隣人として、
イエスのみもとに連れて来た人々の愛に
呼応するイエスの奇蹟のみわざが現わされているのでしょう。
そのみわざに人々は、「この方のなさったことはみなすばらしい!」
とイエス様を讃えているのです。

牧師コラム 「らしんばん」2015年6月14日

IMG_8506  仲田 志保 伝道師

梅雨前線が東北にいよいよ到達しようというところ、
仙台教会の玄関先のアジサイが、今年も可愛いぼんぼりのように、
花を開きました。
皆さまいかがお過ごしでしょうか。
お怪我に癒しが、悩みに解決が、不安に希望が、ありますように!

神さまは、愛です。
聖書には、こういう言葉があります。

「主は、あなたがたに恵もうと待っておられ、
あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。
主は正義の神であるからだ。
幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」(イザヤ書30章18節)

愛そのものであられる神は、私たちを愛したくて、恵みたくて、仕方がありません。
神は、私たちがご自身の愛に気付くのを待ち焦がれています。
私たちが生まれた目的は、まさにそこにあります。
私たちは、神に愛されて生まれました。
そして、その愛に気付くためにここまで生かされてきました。
一度それに気付いたなら、私たちは喜び踊りあがるほどです。
その時私たちは本当の意味でいのちを受け、
以降、神の愛のただ中を生きていくようになるのです。

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牧師コラム 「らしんばん」 2015年6月7日

IMG_8506  栗原 延元牧師

人の生きる目的は「神の栄光」のためですと
ウェストミンスター信仰告白は宣言しています。
しかし、神の栄光のために生きよと言われても、
何かピンと来なかったのが私の学生時代でありました。
創造主にして至高至聖なる神の存在が私の日々の歩みから
遠く離れたもののように見えたのでした。

今日の箇所には、イエスと海辺の町の女との会話が
録されています。
一読すると、救いを求めてやって来た女を、
イエスは冷たく突き放すように見えます。
何しろイエスは、ギリシャ人の女に
「私はイスラエル人のために働いているのだから」と
言っているのですから。

この女は、そのようなイエスの言葉をソフトに受け入れます。
「主よ。そのとおりです」(7章28節)。
ここにこの女の成熟さが現れているのです。
自分を拒んでいるように思える人の中に愛を認めることが
できるのですから。
愛は人に余裕を与えます。
ですから、イエスの言葉(7章27節)に
「でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずを
いただきます」と答えたのです。
この女の言葉は、イエスに<あなたの信仰は立派です>と言わせました。
神の御子がこの女を称賛したのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年5月31日

IMG_8506  栗原 延元牧師

 

「黒コゲのゴハンを食べるから、人の心は黒く悪くなるのではありません。
白いゴハンを食べているから、心は白く、きれいになるのではありません。」と
子供に話したある母親の言葉を、今日の聖書を読んで思い出します。
何が人を汚し、何が人を汚さないのかが今日の聖書(マルコ7:1~23)で
明らかになっています。

すべて、食べ物は人の外側から口の中に入り、腹に入り、そして厠(トイレ)に
出されてしまいます。
食物は人の心には入りません。イエスはすべての食物をきよいとされたのです。

人の心を汚すものは、人から出るもの、すなわち、心の思いなのです。
心の思いが、ことばとなって人から出てきます。
人の内側から、人の心から出てくるものをイエスは具体的に話します。
<悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな内側から出て、人を汚すのです。>

この人の心の汚れを洗い清めて下さる方がイエス・キリストです。
<御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。>(Ⅰヨハネ1:7)

牧師コラム 「らしんばん」 2015年5月24日

IMG_8506  栗原 延元牧師

「新しく造られる民が主を賛美しますように」(詩篇102:18)は、
ペンテコステの日に実現しました。
その日の模様は使徒の働き2章に記されています。

ペンテコステに聖霊が降り、ペテロは説教します。
そして3千人の人々が罪を悔い改めてイエスを信じ洗礼を受け、
エルサレムにキリスト教会が誕生しました。
彼らは使徒たちの教えを堅く守り、喜びと真心をもって食事を共にし、
神を賛美していきました。

イエス様は、いのちの水に聖霊をたとえ
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と
声を大にして人々に呼びかけていました。
その聖霊が、ペンテコステの日に天から注がれたのです。
そしてイエス様を信じる者の体に宿っていてくださるのです。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを
知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)と書かれているのです。

御霊のお働きは、その結ぶ実によって明らかになります。
「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22)です。
良い木は良い実を結ぶのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年5月17日

IMG_8506  栗原 延元牧師

今日と来聖日は、マルコの福音書の学びをお休みにして、
「使徒の働き」から使徒パウロの回心とペンテコステについて学びます。
パウロの回心は、「使徒」9章、22章、26章に書かれています。
今回は26章からパウロと復活の主イエス・キリストとの出会いを見ていきます。

以前のパウロはキリスト教徒に激しい怒りを抱いていました。
その理由はイエスの復活にありました。
パリサイ人パウロにとって、十字架に処刑されたナザレ人イエスは
神に呪われた人でした。
しかしキリスト教徒は、イエスは復活したと宣べ伝えているのです。
パウロは、神が死者をよみがえらせることは信じていました。
しかし神に呪われて十字架刑を受けた人物が、
復活したなどとはあり得ないことでした。

ダマスコ途上のパウロに復活の主は、ヘブル語で語りかけます。
「なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、
あなたにとって痛いことだ」(使徒26:14)

この主の言葉は迫害者パウロの心の痛みに言及しています。
キリスト教徒の敵対者パウロを思いやっていることばです。
「汝の敵を愛せよ」と教えられた主は、あの十字架上だけでなくここでも
神の愛を注いでいるのです。
この愛がパウロを回心させたのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年5月10日

IMG_8506  栗原 延元牧師

ガリラヤ湖は、南北20km、東西12kmの淡水湖です。
北方のヘルモン山は氷雪をいただき、湖面は地中海面よりも200mも低く、
亜熱帯気候で、激しい突風が吹き降ります。
今日の聖書のテキストにも、イエスの弟子達が向い風のために
舟を漕ぎあぐねていたことが書かれています(マルコ6:48)。

このとき陸地にいたイエスが湖の上を歩いて弟子達の乗った舟に
近づいて行きます。
このイエスを見て弟子達は、怯え「幽霊だ」と叫びます。
取り乱した弟子達を落ち着かせようとイエスは声をかけます。
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と。
そして舟に乗り込まれると、風がやんだのです。

パンのことから弟子達はイエスが神であることを悟ることができませんでした。
ですから湖の上を歩くイエスを見て、ただ怯えてしまう弟子達でした。

私達の人生には、穏やかな日もあれば、嵐の日もあります。
しかしイエスは、私達一人一人の人生の舟に乗って下さる方なのです。
天地を造られた方が、私達を心に留め顧みていて下さるのです。
このイエス様を私達の人生の舟にお乗せしたいものです。