牧師コラム 「らしんばん」 2015年8月16日

IMG_8506  栗原 延元牧師

<自分のいのちを買い戻すために、人はいったい
何を差し出すことができるでしょう。>(マルコ8:37)
とはイエスのことばです。
このことばの言外には、差し出すことができないでしょうの意味が含まれています。
たとい全世界の富と財産を所有していたとしても、
損じた自分のいのちを買い戻すことはできません。

マルコ8:37でイエスが言っていることの真意は、
「わたし(イエス)以外に」それを買い戻すことはできないと言うことです。
イエスは罪の力の下に、罪の奴隷となっている人間を解放することが
できるお方なのです。
それゆえにイエスを「主」と呼ぶとき、そこに含まれているのは「贖い主」であるという事です。
買い戻すことを贖(あがな)うとも言うのです。

神の愛は、罪と死の奴隷となっている人を、その奴隷状態から
買い戻すという具体的な行動を起こすことによって表わされました。
その神のご計画をイエスは
<人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、
殺され、三日の後によみがえらなければならない>(マルコ8:31) と語られたのです。

まさに神は、ご自分の愛する御子のいのちの代価を払って人を贖ったのです。

牧師コラム 「らしんばん」2015年8月30日

IMG_8506  高橋 勝義師

夏目漱石は、小説「草枕」で『意地を通せば窮屈だ』と言っています。
確かに、自分の意地を通そうとすれば、あちこちでぶつかります。
しかし、人の言いなりになるのも嫌なものです。
それに、自分の「誇り」や「面子」を捨てられません。
とかく、この世は住みにくい?

ところが、イエス様は、そのままのあなたでいいと言って下さるので、
気張る必要がないのです。とても心が楽になります。

パウロは、イエス様を迫害していたにもかかわらず、
ありのままの自分を受け入れて下さるイエス様に出会いました。
イエス様を信じた時、自分のうちに働く神様の力の素晴らしさを
日々の歩みを通して味わいました。

パウロは、神様から

「わたしの恵みは、あなたに十分である。
わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」(Ⅱコリント12:9)

と語られた時、戸惑いましたが、自分の人生を振り返ってみて、
心からうなずくことが出来たのです。
意地を張らず、「誇り」や「面子」に振り回されず、
ありのままの自分でいられる神様の恵みを味わう歩みをさせて頂きましょう。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年8月9日

IMG_8506  栗原 延元牧師

「人のいのちの重さは地球よりも重い」と言われます。
これは
<人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、
何の得がありましょう。>(マルコ8:36)
のイエスのことばを典拠にしているのでしょう。

イエスほど、人のいのちの尊さを知っている方はいないのではないでしょうか。
そのお方が、命に生きる秘訣を教えているのが今日の聖書の箇所です。
大変重要な所ですので、ここに改めて書き記します。

<だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、
自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、
わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです>(マルコ8:34~35)

いのちの秘訣は自分の十字架を負うこと、
イエスとその福音のためにいのちを捨てることだというのです。
それは、イエスのために苦難をいとわないことです。
しかもその苦難を無理矢理イエスは負わせようとしてはいないのです。
自分の十字架を負うことをイエスは別の表現で
<わたしのくびきを負う>(マタイ11:29)
と言っています。
そのくびきは負いやすいともイエスは語ります。
そこに心の安らぎがあるからです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年8月2日

IMG_8506  栗原 延元牧師

福音書は、イエスの弟子達がイエスの教えとみわざを書き残したものです。
多くの事を教えた中で最も弟子達を困惑させたのは、十字架に関する事です。

神の御子、すなわち神の愛する方が、人に捕えられ、
裁かれ、十字架上にて死ぬというのですから、
何故このような事が起きねばならないのか、
弟子達は理解する事ができませんでした。
理解できないばかりか、そんな事はあってはならない事でした。

それ故にペテロは、ご自分の苦難と死とよみがえりを予告するイエスを
わきに連れ出して、諌め始めたのです。
諌めるとは、「正しい道の在り方を示して、欠点を改めさせたりする」(新明解)
ことです。

イエスはキリスト(救い主)として、人の病いを治したり、
様々な奇蹟を行って神の力を顕わしたりしてきましたが、
十字架につけられて命を落とす事などあってはならない事でした。

このペテロをイエスは厳しく叱りつけます。

「下がれ!サタン」と。

「下がれ」とは「わたしの後ろにまわれ」という事です。
弟子たる者は主の背中を仰ぎ見て歩まなければなりません。
その時、何故に罪なき方が十字架上の死を遂げなければならなかったかが
分かるのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年7月26日

IMG_8506  栗原 延元牧師

聖書の中に神からの呼びかけが三つあります。
第一の呼びかけは<あなたは、どこにいるのか>(創3:9)です。
サタンの誘惑に乗って、神のことばを破った人に神が呼びかけたものです。
このとき人は、己れの非を認めず互いに非難し合うのです。

第二の呼びかけ(尋ねられたこと)は、イエス様が弟子たちに
<あなたがたは、わたしをだれだと言いますか>(マルコ8:29)です。
この問いにペテロは<あなたは、キリストです>と応答します。
この応答を受けてイエスは、ご自分の苦難と復活に言及するのですが、
ペテロはこれを強く否定します。
神の子キリストが苦難に会うはずがない!と。
このペテロをイエスは「下がれ。サタン」と叱ります。
その後で<だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい>(マルコ8:34)と言われるのです。

第三の問いかけは、<あなたは、わたしを愛しますか>(ヨハネ21:16)です。
「イエスを愛するか、どうか」と人は問われるのです。
この問いを発する前に、神は、人よりも先に人を愛されたのです。
この第三の問いは、十字架上の苦き杯を飲み干した後のイエスの問いなのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年7月19日

IMG_8506  栗原 延元牧師

「御手の支えを祈ります」とは入船尊先生の常套句でした。
御手とは主イエスの手です。
その主の支えが常にありますようにとの祈りを込めて、
度々お手紙を下さったのです。
この句を思い起こす度に主イエスの臨在と
その主に生涯を委ねて歩んだ先生を想い出します。
今日の箇所は御前に連れて来られた盲人の両目に両手を当てて治す
イエス様の奇蹟が記されています。
しかも二度もこの盲人の目に両手を当てるのです。
最初はつばきをつけて両手を当てます。
すると木のように人が立って歩いているのが見えます。
再度イエスは彼の両目に両手を当てます。
すると、すっかり直り、全てのものがはっきり見えるようになります。

二度も両手を盲人の目に当てなければ、
この盲人は目が見えるようにならなかったのでしょうか。
それ程にイエス様はエネルギーを必要としていたのでしょうか。
私はそうではないと思います。
ここで私たちが考えなければいけないことは、
イエス様のことを人は中々正しく悟れないということです。
心の目が曇っているとき人はイエスを神の子と言えるかもしれませんが、
十字架で死なれ復活された贖い主と告白できないのです。
そのような人に復活の主は釘跡のある両手を見せるのです。

それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。
手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
(ヨハネ20:27)

ボランティア ありがとうございました

7月12日の礼拝に、アメリカよりお客様が
来てくださいました。

お二人は、1年前の会堂建築の際に、ボランティアとして
携わってくださり、柱や壁の建て上げや、
床下の溜まった雨水を汲み出してくださったりと、
建築初期にお手伝いくださいました。

石巻教会の完成を見ずに、帰国されましたので、
完成後の教会を見るのは、今日が初めて。

骨組みだけしたなかった建物が、綺麗に仕上がっている
のを見て、本当に嬉しそうでした。

多くのボランティアさんや支援してくださった方々が
いればこその「石巻教会」です。

また来年 お会いできるのを約束してお別れしました。

IMG_0016

牧師コラム 「らしんばん」 2015年7月12日

IMG_8506  栗原 延元牧師

主イエスは「たとえ」を用いて多くの教えを語りました。
的を得た「たとえ」は聞く人の心の中に印象深く残ります。
「空の鳥」や「野に咲く花」
「岩の上に建てられた家と砂地に建てられた家」
「からし種」
など人々の身の周りのものが「たとえ」として使われました。

今日の聖書の箇所には「パン種」が出てきます。
「パン種」は、善悪に関わらず大きな影響力を持つ小さな物のたとえとして用います。
良い意味では神の国の発展力を(マタイ13:33)、
悪い意味では、悪の力の伝播力を指して用いられています。
ここではパリサイ人の教えのことを「パン種」にたとえています。

わずかのパン種が多量の粉のかたまりをふくらませるように、
人の悪い心と性質は簡単に他の人に感染します。
ですから、イエス様は
<パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい>(マルコ8:15)
と弟子たちに命令するように語りました。

このとき、弟子たちはパン一箇しか持っていませんでした。
旅の準備として食べ物を十分に用意していなかったのです。
その不用意さをイエスに指摘されたと勘違いしてしまったようです。
それで的はずれの議論をしてしまったのです。本論は説教の中で・・・・

牧師コラム 「らしんばん」 2015年7月5日

IMG_8506  栗原 延元牧師

今日の説教題を「しるしを求める石の心」としました。
石は固いものです。
固い心は、自分の誤りを認めようとはしません。
あくまでも自分の正しさを主張します。

パリサイ人たちは誇りを持っていました。「神を知っている」と。
その誇りが凝り固まって、イエスに天からのしるし-神の子キリストである-
を求めたのでしょう。

しるしとは証拠を表す目に見える印です。
水戸黄門が葵の印籠を手に持って「天下の副将軍」である事を現すように、
イエスに神の子キリストである「しるし」をパリサイ人たちは求めたのです。

しかし、イエスは
<ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません>(マタイ16:4)
と言われます。

ヨナのしるしとは、イエスの十字架の死と3日後の復活の出来事です。
このことにユダヤ人はつまずき、異邦人には愚かに思えます。
有史以来人類は神の存在と、その愛とを捜し求めて来たのです。
神がおられるなら神を見せてもらいたい。
神の愛が確かならば、その愛のしるしを見せてもらいたいと。

聖書は証言するのです。
イエス・キリストこそがまことの神であり、
イエスの十字架の死と復活に神の愛が現されたのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年6月28日

IMG_8506  栗原 延元牧師

7つのパンと少しの魚がイエスの手のうちで4千人ほどの人々の空腹を
満たした記事がマルコ8章に記されています。
マルコ6章では5つのパンと2匹の魚で男の数で5千人の人々の空腹が
いやされたとありますから、これで2度目の奇蹟が現されたことになります。

イエスが行われた奇蹟には、必ず意味があります。
パンの奇蹟には、「イエスがいのちの主である」ことを
読みとらなければなりません。
からだにパンがなければ生きていけないと共に
こころにみことば(イエスの教え)が受け入れられて、
人は生きていける。このことを2つのパンの奇蹟は物語っています。

食物について、イエスは改革的なことを教えます。
それは、食物は人を汚さないということです。
あれを食べてはだめ、これを食べてはいけないなどのタブーが
宗教の中に入り込んでいます。
食物によって人間の生き方が左右されると思う人々がいます。
イエスは、
「食物は人の心にはいらないで腹に入り、
そしてかわやに出されてしまうのです」とも教えています(マルコ7:19)。

このようにイエス様は人のこころをからだに関して健全な歩み方を
私たちに語っているのです。