栗原 延元牧師 |
<自分のいのちを買い戻すために、人はいったい
何を差し出すことができるでしょう。>(マルコ8:37)
とはイエスのことばです。
このことばの言外には、差し出すことができないでしょうの意味が含まれています。
たとい全世界の富と財産を所有していたとしても、
損じた自分のいのちを買い戻すことはできません。
マルコ8:37でイエスが言っていることの真意は、
「わたし(イエス)以外に」それを買い戻すことはできないと言うことです。
イエスは罪の力の下に、罪の奴隷となっている人間を解放することが
できるお方なのです。
それゆえにイエスを「主」と呼ぶとき、そこに含まれているのは「贖い主」であるという事です。
買い戻すことを贖(あがな)うとも言うのです。
神の愛は、罪と死の奴隷となっている人を、その奴隷状態から
買い戻すという具体的な行動を起こすことによって表わされました。
その神のご計画をイエスは
<人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、
殺され、三日の後によみがえらなければならない>(マルコ8:31) と語られたのです。
まさに神は、ご自分の愛する御子のいのちの代価を払って人を贖ったのです。