牧師コラム 「らしんばん」 2015年11月1日

IMG_8506  栗原 延元牧師

今日の聖書の箇所(マルコ10:13-16)を読むと、何か心が「ホッ」とします。
イエス様の子どもたちへの温かい思いが私たちに伝わってきます。
<イエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。>

事の次第はこうです。
イエス様の人気は高まり、子を持つ親たちは子どもたちのすこやかな成長を
願ってイエスの元に連れてきたのです。
しかし弟子たちは彼らを叱ったのです。
名のある大人たちなら弟子たちは叱らなかったでしょう。
しかし名の無い者、しかも大人から軽んじられている子どもたちですから、
大声を出して叱ったのかもしれません。

それをご覧になったイエスは、弟子たちに憤りを感じて
<子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです。>とハッキリ語るのです。
さらに<子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに、入ることはできません。>とキッパリと言い切るのです。

「子どものように」とは、素直に純粋にイエスを神として信頼することです。
イエスはそのような人をご自分の両手に抱きしめて祝福して下さるのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年10月25日

IMG_8506  栗原 延元牧師

今日は「結婚の奥義」と題してマルコ10章1~12節、エペソ5章22~23節、
創世記2章19~25節を学びます。
エペソ書からは、愛と尊敬が夫と妻の間に無くてはならないことが言われます。
夫は妻を愛し、妻は夫を敬うことが求められ、夫婦は一心同体を目指すのです。

創世記2章から女はヘブル語で「イシャ」と言い、それは男(イシュ)から
取られたからであることがわかります。
男(イシュ)から取られたのが女(イシャ)だというのです。
ここですでに、<男はその父母を離れ、妻と結び合い、
ふたりは一体となるのである>と宣言されているのです。
ヘブル語の語呂あわせの見事さで、夫と妻のあるべき姿が表現されています。

一心同体という夫と妻の結び合いは奥義と言われます。
奥義の中の奥義という意味合いから<この奥義は偉大です>(エペソ5:32)と
宣言しているのが聖書です。

それは何故かと言えば、<キリストと教会>を指し示しているからなのです。
一心同体を目標に夫と妻が愛と尊敬に歩む家庭には安らぎと明るさが充ちています。
その安らぎと明るさの中に子どもたちは成長していくのです。
神は教会を夫が妻を愛する如くに愛しているのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年10月18日

IMG_8506  栗原 延元牧師

「クリスチャン」とは初代教会(アンテオケの町の信徒たち)に
集う人々につけられたあだ名です。
それには少々軽べつの意が含まれています。
何事にも関わらず、アンテオケの町の信徒たちは、
「キリストのおかげです」と言っていたからです。
彼らは、キリストの弟子として暮していたのです。

今日学びますマルコ9章38~50節には、
イエスの弟子たる者に対する教訓が語られています。
まず弟子は他の人に対しては寛大に、自己に対しては厳格に、
という内容です。
この姿勢は、言うに易しく行うに難しいことです。
人はみな、自分に甘く、他人に厳しくなるのです。
このようなところからなかなか抜けられないのです。

キリストの最初の12弟子たちもそうでした。
イエスが捕えられる直前まで、彼らは仲間内で、
誰が一番偉いかを論じていたのです。
まさしくこれは自分に甘く他人に厳しい評価を下すところから
生じる議論です。
このような彼らが、なぜ他の人のために人生を捧げることができるように
変わっていったのかは大いに興味あるところです。

そのように人を変えるのが、隠された奥義としての
神の知恵(イエス・キリスト)です

 

石巻福音自由教会 開設1周年記念特別礼拝

 kurihara_portraito  栗原 延元牧師

「きけや愛の言葉を、もろ国人らの」の朗々とした、力強く、
かつ情感に満ちた浅野洋介兄の賛美をもって一周年記念の礼拝が始まりました。

70名を超える人々が、あの仮設から、この仮設から、
そして仮設を出た人々も集まっています。
それらの人々に浅野兄の声量豊かな声によって
主イエスの愛のみわざが歌われているのです。
<イスラエルの賛美を住まいとしておられる>(詩篇22:3)方の臨在を
感じる礼拝です。

約4年半前の3月11日(金)大震災と大津波にみまわれたこの石巻市。
自然の圧倒的な力の前に、被造物である人間は、
否応なしにその被害を受け入れざるを得ませんでした。
天地は崩壊するであろう。しかし我が言葉は、決して力を失わないと
宣言される主イエスの言葉は、崩れゆく自然の前に大盾の如くに
主イエスに信頼する者の信頼を守り強めてゆくのです。
我らキリストにある者の歌声をかき消すものは無いのです。

黒人霊歌の「深い川を越えて」の歌詞が心に浸みてきます。
「ふかい河を越えて、さあ行こうよ。懐かしい心の古里さして、
めぐみの主の救いと平和を、友よ。さあうけようよ。」と
魂の奥にひびく、賛美の調べが新しくきれいな会堂一杯に歌われています。

テノール歌手 浅野洋介兄の四年に及ぶドイツ留学の成果が、
この歌声によく表現されていたようです。
絶望の苦悩、見えざる出口を捜し続ける黒人の煩悩が
聞く人々に伝わっているように思いました。

ここに集った人々は、あの津波によって家を失い、家族を亡くし、
仮設暮らしが5年近くにもなろうとして、今なお、明日の暮らしを
どう立て直していくのかの見当がつかない人々が大勢です。
そのような人々に、私は、ルカ伝から「どうしても必要なもの」と題して、
主イエス様のみことばを語りました。
人に起因し、人の口から語られる言葉は、たとえ、その人の背後に
国家があろうと、大企業がいようと、むなしいものです。
しかし、我らの主イエスは大いなる神です。
歴史の中に活きて働いておられる方です。
そのお方に「あなたは神です」と全的に信頼できるとは何という恵みでしょう。

この礼拝は、主の祈りによって閉じました。
「天にいますわが主よ。み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ」と。
まさにこの日本に、東北、宮城の地の石巻の地にみ国を来たらせたまえと、
この礼拝に集った者の心が、ひとつ祈りのことばになって閉じられた
集いでありました。

集いの後には、森本馥姉の指導のもとに抹茶が振る舞われました。
甘い茶菓子、京都から駆けつけてくださったT夫妻の生八つ橋を
味わいながらの茶席での交わりでした。
伴奏の土川ゆかり姉のピアノの澄んだ音色は、ここで奉仕して下さる
兄姉の内面の美しさを集約しているようでした。

石巻教会の礼拝は第2周年目に入ります。
徐々にですが、礼拝に加わる人が増し加わり、集う人々の信仰が強められ、
賛美歌529
「ああうれし わが身も 主のものとなりけり。
うき世だにさながらあまつ世のここちす。」
がこのところから、響きわたることを願いつつ筆を置きます。

諸教会のお祈りとご協力に感謝しつつ。主にありて

牧師コラム 「らしんばん」 2015年10月4日

IMG_8506  高橋 勝義師

ソロフォークシンガーである井上陽水の曲の中に
「人生が二度あれば」があります。
もしも、人生をやり直すことが出来るならば…と思うことが、
あなたにもあったのではないでしょうか? そんな思いを切実に歌っています。

しかし、あなた自身は、全く変わっていないのに、人生をやり直せたとして、
果たして、あなたの思い描いた人生にすべてなるのでしょうか?
どこかで、同じような失敗を繰り返すような気がするのですが…。

ところが、イエス様は、人生のやり直しではなく、全く新しいいのち、
即ち、永遠のいのちを持つことが出来ると語りました。
それには、新しく生まれる必要があります。

イエス様が「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つため」(ヨハネ3:15)と
語られたように、イエス様を自分の罪からの救い主として信じ従うことが、
新しく生まれる秘訣です。

十字架」が、証拠であり、保証です。
一度しかない人生ですから、やり直しの人生ではなく、
全く新しく生まれる人生に、あなたも一歩踏み出してみませんか?

牧師コラム 「らしんばん」 2015年9月27日

IMG_8506  栗原延元牧師

イエスは、12弟子を任命して使徒と名づけました。
この使徒たちが全世界に遣わされてキリスト教会が
築き上げられて行くのですが、弟子たちを教育して使徒とするために、
イエスは苦労したのです。

12人の弟子たちの間でいつしか<だれが一番偉いか>が
論争になっていたからです。
このような論議が、イエスをメシヤ(救い主)と信じる信仰者たちに
ふさわしくないと彼らは感じとっていましたから、
<道で何を論じ合っていたのか>とイエスに尋ねられた時、
彼らは黙っていたのです。
それでイエスは一人の子供を連れて来て、幼子たちを大切にするように、
イエスの名のゆえに受け入れるようにと諭すのです(マルコ9:33~37)。

しかし12弟子たちはイエスの最後の晩餐の中でも、
自分たちの中では誰が一番偉いだろうかと議論するのです(ルカ22:24)。
どこに人間が人間である故に尊敬される世界があるのでしょう。

宗教は余程注意しないと、その教え故にヒエラルキー(人を支配する階級)を
形成しやすいのです。
人間を格付け、あるいは順位付けする領域から解放するものは
「恵み」による救いというキリストの福音に立脚することです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年9月20日

IMG_8506  栗原 延元 牧師

聖書は真実な書物です。
旧約聖書は神の選びの民イスラエルが約四百年もの間
エジプトの奴隷であった事を伝えます。
新約聖書には、初代教会の指導者であった
ペテロ、ヨハネ、パウロたちの隠しておきたい失敗、
思い違いや誤りを正直に書き残しています。

そう云えばクリスチャンとは、十字架で死んだイエスを救い主(キリスト)と
信じ仰ぐのですから変わった人達であると言われ続けてもいます。
しかしイエスの生涯に起こった受難の死と復活が、
実際に無かったならばキリスト教は存在しません。
イエスは最も重要な、ご自身の受難と復活を前もって三度予告しています。
この予告の内容をいずれの場合も弟子達は理解できませんでした。
マルコの福音書を読んでいきますと、弟子たちはイエスの種まきのたとえ話も分かりません。
湖上を歩くイエスを見て幽霊と勘違いしてしまいます。
イエスの弟子たちの理解力の鈍さ、また人格的な欠陥(ペテロはおっちょこちょい、ヨハネの気性の荒さ)も見られます。

イエス・キリストは本当に素晴らしい教育者です。
このようなガリラヤ湖の漁師たちを、人間をとる漁師に育て上げたのですから。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年9月13日

IMG_8506  栗原 延元牧師

イエスとペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子たちは高い山(ヘルモン山か)で、
すばらしい光景を目撃しました。
その光景についてイエスと語り合いながら山を下りて里に帰ってみると、
他の弟子たちは律法学者たちと議論していました。

イエスは何を議論しているのかを尋ねると、てんかんと思われる少年の父親が
事の次第を説明したのです。
そして弟子にではなく、主イエスに

<もしできるのなら、私たちをあわれんで、お助けください>と言います。

この父親をたしなめるように
<できるものならと言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです>と
イエスは話すのです。
このイエスの言葉は、父親に信仰を呼び起こします。
<信じます。不信仰な私をお助けください>(マルコ9:21~24)

このイエスと父親のやりとりの場面を山口昇師(私の神学校の先生)は、
「我々は自分の可能な限りの信仰をもって神を信じる。
しかも、なお神の目の前には、それは不完全であり、
不信仰である。
しかしこのような意味における信仰の不完全さを認めるのは、
神の御前に謙遜な人間にふさわしいこと」であると書いています。

信仰の完成者であるイエスから目を離さないように。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年9月6日

IMG_8506  栗原 延元牧師

前回はイエスが高い山(ヘルモン山か)の上で姿が変わり、
そこにエリヤとモーセが現れて語り合っていた情景の事を学びました。
この変貌山の光景を目撃した者は、ペテロとヤコブとヨハネの3人の使徒たちでした。
この3人にイエスは
<人の子が死人の中からよみがえるときまでは、
いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。>(マルコ9:9)

人はすばらしい事を黙っているのは困難です。
特に天上の光景とも言うべき体験を目撃する特権に
この3人は選ばれたのですから、他の弟子達に誇らしく
語りたくなるのではないでしょうか。
しかし彼らはこの事を口外しなかったようです。
それは<そのおことばを心に堅く留め>(マルコ9:10)ていた事から
推測できるでしょう。

人の子(イエス)がよみがえる時まではとの期間限定の緘口令でした。
しかし人の子がよみがえるとは、どのような意味を有しているのかは、
彼ら3人だけでなく、他の弟子達にも分かりませんでしたが、
はっきりと理解できる時が来るのです。
それは<聖霊があなたがたの上に臨まれるとき>(使徒1:8)なのです。
その時、人の心の暗に光が射すのです。

牧師コラム 「らしんばん」2015年8月23日

IMG_8506  栗原 延元牧師

山は都会の喧噪を離れて静寂の中に身を置くことのできる場所です。
その静かさの中で、イエスは人々にこの地上での生き方を語りました。
その教えは聞いた人たちの心の中に響きました。
それが「山上の垂訓」です。マタイ5章から7章に記されています。
この山上の垂訓が語られた山はガリラヤ湖に近く、それほど高い山ではありません。
ですから多くの人々が登って来ることができました。

イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に導いて行きました(マルコ9章2節)。
この高い山の名は、並行記事のマタイ、ルカにも記されていませんが、
多分ヘルモン山(海抜約2800m)であろうと思われます。
一年中雪をいただき、その雪解けの水はヨルダン川の主要な水源です。

この山でイエスの御姿が変わりました。「山上の変貌」です。
イエスの復活と再臨が予表されたのです。
このときモーセとエリヤが現れ、彼らはイエスと語り合っていた。

モーセとエリヤは旧約聖書の律法と預言者を代表し、2人とも山に登っています。
モーセはシナイ山(出エ19章)、エリヤはカルメル山(Ⅰ列王18章)に、
いわば頂上サミットです。
ここでのテーマはイエスの十字架の苦難に関してでした。