牧師コラム 「らしんばん」2015年11月22日

IMG_8506  栗原 延元牧師

今日の聖書箇所は、富める者(お金持ち)が神の国に入るのが
何と難しいものであるかが論じられています。
難しいのではなく、ほとんど不可能であることが、
イエスによって次のように語られています。

<金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい>
(マルコ10章25節)

この言葉は弟子たちに大きな驚きを引き起こします。

<それでは、だれが救われることができるのだろうか>と。
イエスは更に話しを続けます。<それは人にはできないことです>。
人にはできないことを今までもイエスはハッキリ語ってきました。

まず人は<一本の髪の毛すら、白くも黒くもできない>(マタイ5:36)のです。
<自分のいのちを少しでも延ばすことができない>(マタイ6:28)のです。
人は人を救うことができません。どんなにお金を払っても、神の国を買うことはできません。

神の国は、神からの贈りものだからです。
贈りものをお金で買おうとする人には、神の国は絶対に買えないのです。
その人は、神ではなく、お金に依存しているからです。
お金に依存することを止めて(悔い改めて)神に頼ることです。
悔い改めに大きな妨げになるのが富なのです。
お金を神とすることがないように。

牧師コラム 「らしんばん」2015年11月15日

IMG_8506  門谷 信愛希牧師(古川福音自由教会)

「聖書の内容を、原稿用紙3枚でまとめてください」。

今日の聖書の箇所は、まさしくこの問いに対する答えを
くれる箇所と言えるでしょう。
実に多くの事が書いてある聖書ですが、このルカ15章の物語こそ、
聖書が語るメッセージの中心を語っているのです。
それは、「父の家に帰還する子の物語」です。

聖書は、この世界は偶然の産物ではなく、創造者なる神がおられて、
意味と目的を持ってお造りになったと語ります(創世記1:1)。
当たり前のことですが、子は親から産まれます。
では、歴史をずっとさかのぼった最初の親は誰でしょうか。
その方こそ本当の父ではないでしょうか。

ところが人間は、この「本当の父」である神様を捨て、
自分の思う道を歩むようになりました。
聖書が言う「罪」とは、犯罪行為のことと言うよりもむしろ、
この「本当の父を捨てて自分中心に生きる」ということです。
その罪から救い出され、再び本当の父の家に還り、
そして迎え入れられること。それが聖書が言う「救い」なのです。
今日の物語はまさに、そのことを表しているのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年11月8日

IMG_8506  栗原 延元牧師

ひとりの真面目な青年が道をゆくイエスに走り寄り、ひざまずいて尋ねます。

「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには
何をしたらよいでしょうか。」
(マルコ10:17)

これに対しイエスは彼に「なぜわたしを『尊い』と言うのですか。
尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」と応答し、
モーセの十戒の後半部分の人間関係の戒めを守るようにと話します。
すると彼は「私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」と
返事をします。

その青年をいつくしんで―原語では「愛して」―
イエスは「あなたには欠けたことが一つあります。」と言われ、
その欠けた一つの事をズバリ指摘して

「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」
(マルコ10:21)と話します。

大変厳しい事を何故にイエスは語ったのでしょうか。
それは、いのちは財産には無いという事と、人は二人の主人に同時に
仕える事は出来ない(神に仕え、同時に富にも仕える)事を分からせるためでした。
いのちの源泉は神にあるのですから。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年11月1日

IMG_8506  栗原 延元牧師

今日の聖書の箇所(マルコ10:13-16)を読むと、何か心が「ホッ」とします。
イエス様の子どもたちへの温かい思いが私たちに伝わってきます。
<イエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。>

事の次第はこうです。
イエス様の人気は高まり、子を持つ親たちは子どもたちのすこやかな成長を
願ってイエスの元に連れてきたのです。
しかし弟子たちは彼らを叱ったのです。
名のある大人たちなら弟子たちは叱らなかったでしょう。
しかし名の無い者、しかも大人から軽んじられている子どもたちですから、
大声を出して叱ったのかもしれません。

それをご覧になったイエスは、弟子たちに憤りを感じて
<子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。
神の国は、このような者たちのものです。>とハッキリ語るのです。
さらに<子どものように神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに、入ることはできません。>とキッパリと言い切るのです。

「子どものように」とは、素直に純粋にイエスを神として信頼することです。
イエスはそのような人をご自分の両手に抱きしめて祝福して下さるのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年10月25日

IMG_8506  栗原 延元牧師

今日は「結婚の奥義」と題してマルコ10章1~12節、エペソ5章22~23節、
創世記2章19~25節を学びます。
エペソ書からは、愛と尊敬が夫と妻の間に無くてはならないことが言われます。
夫は妻を愛し、妻は夫を敬うことが求められ、夫婦は一心同体を目指すのです。

創世記2章から女はヘブル語で「イシャ」と言い、それは男(イシュ)から
取られたからであることがわかります。
男(イシュ)から取られたのが女(イシャ)だというのです。
ここですでに、<男はその父母を離れ、妻と結び合い、
ふたりは一体となるのである>と宣言されているのです。
ヘブル語の語呂あわせの見事さで、夫と妻のあるべき姿が表現されています。

一心同体という夫と妻の結び合いは奥義と言われます。
奥義の中の奥義という意味合いから<この奥義は偉大です>(エペソ5:32)と
宣言しているのが聖書です。

それは何故かと言えば、<キリストと教会>を指し示しているからなのです。
一心同体を目標に夫と妻が愛と尊敬に歩む家庭には安らぎと明るさが充ちています。
その安らぎと明るさの中に子どもたちは成長していくのです。
神は教会を夫が妻を愛する如くに愛しているのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年10月18日

IMG_8506  栗原 延元牧師

「クリスチャン」とは初代教会(アンテオケの町の信徒たち)に
集う人々につけられたあだ名です。
それには少々軽べつの意が含まれています。
何事にも関わらず、アンテオケの町の信徒たちは、
「キリストのおかげです」と言っていたからです。
彼らは、キリストの弟子として暮していたのです。

今日学びますマルコ9章38~50節には、
イエスの弟子たる者に対する教訓が語られています。
まず弟子は他の人に対しては寛大に、自己に対しては厳格に、
という内容です。
この姿勢は、言うに易しく行うに難しいことです。
人はみな、自分に甘く、他人に厳しくなるのです。
このようなところからなかなか抜けられないのです。

キリストの最初の12弟子たちもそうでした。
イエスが捕えられる直前まで、彼らは仲間内で、
誰が一番偉いかを論じていたのです。
まさしくこれは自分に甘く他人に厳しい評価を下すところから
生じる議論です。
このような彼らが、なぜ他の人のために人生を捧げることができるように
変わっていったのかは大いに興味あるところです。

そのように人を変えるのが、隠された奥義としての
神の知恵(イエス・キリスト)です

 

石巻福音自由教会 開設1周年記念特別礼拝

 kurihara_portraito  栗原 延元牧師

「きけや愛の言葉を、もろ国人らの」の朗々とした、力強く、
かつ情感に満ちた浅野洋介兄の賛美をもって一周年記念の礼拝が始まりました。

70名を超える人々が、あの仮設から、この仮設から、
そして仮設を出た人々も集まっています。
それらの人々に浅野兄の声量豊かな声によって
主イエスの愛のみわざが歌われているのです。
<イスラエルの賛美を住まいとしておられる>(詩篇22:3)方の臨在を
感じる礼拝です。

約4年半前の3月11日(金)大震災と大津波にみまわれたこの石巻市。
自然の圧倒的な力の前に、被造物である人間は、
否応なしにその被害を受け入れざるを得ませんでした。
天地は崩壊するであろう。しかし我が言葉は、決して力を失わないと
宣言される主イエスの言葉は、崩れゆく自然の前に大盾の如くに
主イエスに信頼する者の信頼を守り強めてゆくのです。
我らキリストにある者の歌声をかき消すものは無いのです。

黒人霊歌の「深い川を越えて」の歌詞が心に浸みてきます。
「ふかい河を越えて、さあ行こうよ。懐かしい心の古里さして、
めぐみの主の救いと平和を、友よ。さあうけようよ。」と
魂の奥にひびく、賛美の調べが新しくきれいな会堂一杯に歌われています。

テノール歌手 浅野洋介兄の四年に及ぶドイツ留学の成果が、
この歌声によく表現されていたようです。
絶望の苦悩、見えざる出口を捜し続ける黒人の煩悩が
聞く人々に伝わっているように思いました。

ここに集った人々は、あの津波によって家を失い、家族を亡くし、
仮設暮らしが5年近くにもなろうとして、今なお、明日の暮らしを
どう立て直していくのかの見当がつかない人々が大勢です。
そのような人々に、私は、ルカ伝から「どうしても必要なもの」と題して、
主イエス様のみことばを語りました。
人に起因し、人の口から語られる言葉は、たとえ、その人の背後に
国家があろうと、大企業がいようと、むなしいものです。
しかし、我らの主イエスは大いなる神です。
歴史の中に活きて働いておられる方です。
そのお方に「あなたは神です」と全的に信頼できるとは何という恵みでしょう。

この礼拝は、主の祈りによって閉じました。
「天にいますわが主よ。み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ」と。
まさにこの日本に、東北、宮城の地の石巻の地にみ国を来たらせたまえと、
この礼拝に集った者の心が、ひとつ祈りのことばになって閉じられた
集いでありました。

集いの後には、森本馥姉の指導のもとに抹茶が振る舞われました。
甘い茶菓子、京都から駆けつけてくださったT夫妻の生八つ橋を
味わいながらの茶席での交わりでした。
伴奏の土川ゆかり姉のピアノの澄んだ音色は、ここで奉仕して下さる
兄姉の内面の美しさを集約しているようでした。

石巻教会の礼拝は第2周年目に入ります。
徐々にですが、礼拝に加わる人が増し加わり、集う人々の信仰が強められ、
賛美歌529
「ああうれし わが身も 主のものとなりけり。
うき世だにさながらあまつ世のここちす。」
がこのところから、響きわたることを願いつつ筆を置きます。

諸教会のお祈りとご協力に感謝しつつ。主にありて

牧師コラム 「らしんばん」 2015年10月4日

IMG_8506  高橋 勝義師

ソロフォークシンガーである井上陽水の曲の中に
「人生が二度あれば」があります。
もしも、人生をやり直すことが出来るならば…と思うことが、
あなたにもあったのではないでしょうか? そんな思いを切実に歌っています。

しかし、あなた自身は、全く変わっていないのに、人生をやり直せたとして、
果たして、あなたの思い描いた人生にすべてなるのでしょうか?
どこかで、同じような失敗を繰り返すような気がするのですが…。

ところが、イエス様は、人生のやり直しではなく、全く新しいいのち、
即ち、永遠のいのちを持つことが出来ると語りました。
それには、新しく生まれる必要があります。

イエス様が「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つため」(ヨハネ3:15)と
語られたように、イエス様を自分の罪からの救い主として信じ従うことが、
新しく生まれる秘訣です。

十字架」が、証拠であり、保証です。
一度しかない人生ですから、やり直しの人生ではなく、
全く新しく生まれる人生に、あなたも一歩踏み出してみませんか?

牧師コラム 「らしんばん」 2015年9月27日

IMG_8506  栗原延元牧師

イエスは、12弟子を任命して使徒と名づけました。
この使徒たちが全世界に遣わされてキリスト教会が
築き上げられて行くのですが、弟子たちを教育して使徒とするために、
イエスは苦労したのです。

12人の弟子たちの間でいつしか<だれが一番偉いか>が
論争になっていたからです。
このような論議が、イエスをメシヤ(救い主)と信じる信仰者たちに
ふさわしくないと彼らは感じとっていましたから、
<道で何を論じ合っていたのか>とイエスに尋ねられた時、
彼らは黙っていたのです。
それでイエスは一人の子供を連れて来て、幼子たちを大切にするように、
イエスの名のゆえに受け入れるようにと諭すのです(マルコ9:33~37)。

しかし12弟子たちはイエスの最後の晩餐の中でも、
自分たちの中では誰が一番偉いだろうかと議論するのです(ルカ22:24)。
どこに人間が人間である故に尊敬される世界があるのでしょう。

宗教は余程注意しないと、その教え故にヒエラルキー(人を支配する階級)を
形成しやすいのです。
人間を格付け、あるいは順位付けする領域から解放するものは
「恵み」による救いというキリストの福音に立脚することです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年9月20日

IMG_8506  栗原 延元 牧師

聖書は真実な書物です。
旧約聖書は神の選びの民イスラエルが約四百年もの間
エジプトの奴隷であった事を伝えます。
新約聖書には、初代教会の指導者であった
ペテロ、ヨハネ、パウロたちの隠しておきたい失敗、
思い違いや誤りを正直に書き残しています。

そう云えばクリスチャンとは、十字架で死んだイエスを救い主(キリスト)と
信じ仰ぐのですから変わった人達であると言われ続けてもいます。
しかしイエスの生涯に起こった受難の死と復活が、
実際に無かったならばキリスト教は存在しません。
イエスは最も重要な、ご自身の受難と復活を前もって三度予告しています。
この予告の内容をいずれの場合も弟子達は理解できませんでした。
マルコの福音書を読んでいきますと、弟子たちはイエスの種まきのたとえ話も分かりません。
湖上を歩くイエスを見て幽霊と勘違いしてしまいます。
イエスの弟子たちの理解力の鈍さ、また人格的な欠陥(ペテロはおっちょこちょい、ヨハネの気性の荒さ)も見られます。

イエス・キリストは本当に素晴らしい教育者です。
このようなガリラヤ湖の漁師たちを、人間をとる漁師に育て上げたのですから。