牧師コラム 『信じること 祈ること』 2016年2月21日

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信じること、祈ることは人間特有の精神行動のようです。
その方向性を誤まらせている原因が罪です。
すこし堅苦しい書き方で始めてしまいましたが、
「何を信じ、何に祈るか」が人間のあり方を決めてしまうようです。

福音書は、そこに光を当てているのです。
何を信じ何に祈るかと言えば、それは「神」なのです。
聖書がいっている神と日本の八百万の神とは根本から違います。
八百万の神は被造物ですが、聖書の神は創造者です。
マルコ11章22節でイエスが言われた<神を信じなさい>の神とは
創造者なる神です。
そしてイエスはヨハネ福音書14章1節でその神とご自分を指して
<神を信じ、また、わたしを信じなさい>とも弟子たちに語っているのです。

また同じ文脈の中で、祈るときには、まず私たちの人間関係の中で
<だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。
そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。>
(マルコ11:25)とイエスは語ります。
恨みを赦すことは中々できないことです。
しかし神に祈るならば、その恨み事を赦すことができるようになるのです。
神にこの祈りをするなら、神を身近に感じるのです。天の父なるお方を。

牧師コラム 『わたしの家はすべての民の祈りの家』 2016年2月14日

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いちじくの木は、ユダヤ民族の象徴です。
自分が栽培しているいちじくの木の下にすわる事は
イスラエルの平和と繁栄を示すことであったと
聖書辞典(いのちのことば社)は記しています。

今日の聖書箇所は一読しますと、イエスの行動が腑に落ちないようにみえます。
いちじくのなる季節ではなかったのに、葉が茂っているばかりで実がないので、
そのいちじくの木を枯らしてしまうのですから。

<今後いつまでもだれもおまえの実を食べることのないように>(マルコ11:14)と
その木に言うのです。

これはイエスが人間以外の対象物において現された唯一の審判の奇跡です。
エルサレムのユダヤ教の指導者たちは、職業的宗教という葉を繁栄させていました。
しかし、彼らは義の実を結んではいません。彼らの活動の中心であるエルサレムの神殿は
利権、利得がとびかう市場と化していました。
強盗の巣とイエスは嫌悪しました。
イエスは宮を本来の姿に戻そうとしたのです。
そして言われたのです。
≪わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。≫(マルコ11:17)

牧師コラム 『イエスのエルサレム入場』 2016年2月7日

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「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。
いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」(マルコ11章9~10節)

イエスのエルサレム入場は大ぜいの人々の歓声の叫びの中に行われました。
その叫びのことばがマルコ11章9、10節です。
「ホサナ」とは「今、お救い下さい」のヘブル語の音訳です。
神の国をもたらすイエスへの期待が高まっていました。

このエルサレム入場に際してイエスが用いられたのは、馬ではなく、ろばでした。
しかも「ろばの子」でした。
軍馬に乗って威風堂々と入場したのではなく、借りて来た「ろばの子」に乗って
エルサレムに入場したのです。

これはゼカリヤ書9章9節が預言しているメシヤの姿なのです。
王なるメシヤ(キリスト)は柔和で、ろばの子に乗られてエルサレムに来られるのです。
それは、「平和」をもたらす王に相応しい乗物なのです。

山上の垂訓の中で、
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5:9)と
語られたイエスは、みずから範を垂れて平和をつくる者として最後の一週間を過ごすのです。
この地上の平和の基なる神との平和をつくるために。

牧師コラム 『あなたを救うイエス・キリスト』 2016年1月31日

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マルコ福音書は10章にわたりイエス・キリストの3年の公生涯を記します。
そして11章からは公生涯最後の8日間について詳述しています。

<あなたの信仰があなたを救ったのです。>(マルコ10章52節)は
読み様によっては、私たちの信仰の強弱大小によって病気や困難、
苦悩は克服できるのであって、問題が解決しないのは私たちの信仰
が弱く足りないからだと理解されてしまいます。
そのような意味でイエスはこのマルコ10章52節を語ってはいないのです。
もしそうでないならば、すなわち、私たちの信仰次第ということならば、
結局は、人間が人間を救えるということになります。

少し理屈めいた事になってしまいましたが、ここでいう信仰とは
イエスをキリスト(救い主)と信じて仰ぐことであり、そのような者を
キリスト者(クリスチャン)と呼ぶのです。
クリスチャンとは要約すればイエスが私にとって無くてはならぬお方、
どのような時も(順調な時も逆境の時も)私に必要なお方、すなわち
救い主(キリスト)と告白する者です。
私がイエスにとって必要な者と思い込む時に、
先週学んだヤコブとヨハネのようにキリスト教会の中で
立身出世を求めてしまうのです。

石巻教会のひとこま・・・1月24日

暖冬と言われていた今年でしたが、ついに「積雪」となりました。
大型の寒波で、九州でも各地で水道管破裂など、思いがけない
「寒さ」の被害があったようで、大変な思いをされた方もおられますね。

東北の中で、宮城は他県に比べれば、雪の少ない方ではありますが、
車は渋滞するし、どんなに気をつけて運転してもスリップ事故はあるし、
滑って転ぶし、雪かきをしなければならないしと、降らなければそれなりに
楽ではありますが、雪が降れば「仕方ない」と諦めます。

毎週日曜日には、仙台から石巻教会の礼拝に、出かけていますが、
仙台は結構な雪が積もっていたので(仙台教会付近は、15cmくらい)、
誰もいない石巻教会の駐車場の積雪量を心配しながら、
石巻教会に着いたところ、さすがに、沿岸部。
5㎝くらいしか降っておらず、朝から太陽が照っていてくれたおかげで、
融け始めていたので、雪かきも非常に楽でした。
(一人だけで、30分で終了しました)

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本日30日も仙台は雪が降り、皆さん雪かきに汗を流していました。
明日、石巻に出向いて さて、雪の量は・・・・・・

牧師コラム 『人の先に立つとは』 2016年1月24日

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「親の心、子知らず」ではありませんが、師匠であるイエスの心を、
弟子たち(ヤコブとヨハネの兄弟)は全く知らなかったことを、
今日の聖書箇所は伝えています。

ヤコブとヨハネは、イエスの御国で右大臣、左大臣の座に着かせて下さいと願い出ます。
彼らは他の弟子たちより偉くなりたいと立身出世を求めるのです。
イエスがご自分の苦難をはっきりと予告している折にです。
イエスの十字架の苦難の言葉について思いを深めるのではなく、
自分たちの事で心が一杯になっているのです。エゴイズムの塊です。

エゴイズム(自分だけが良い思いをしたい)むき出しの言葉が
「人々の間で偉くなりたい」、「人の先に立ちたい」でしょうか。
しかしイエスは、「偉くなりたい」、「人の先に立ちたい」との思いを否定してはいないのです。
そのような思いを受けとめて、12弟子を呼び集めて言われたことが42~45節です。
この箇所の焦点は「仕える者になる」、「しもべになる」ということでしょう。
エゴの塊のような人の思いがイエスに向くとき、その人は全く新しい人生へと舵を切るのです。
神と人とに仕える人生へと・・・。

牧師コラム 『先頭に立つイエス』 2016年1月17日

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イエス様はご自分に起ころうとしていることを、前もって三度も12弟子たちに話しました。
その内容は弟子たちには理解されませんでした。
理解するどころか、弟子のペテロなどは「そんな事が起こることはありません」と
イエス様をいさめた程です。そのペテロを激しくイエス様はお叱りになりました。
「下がれサタン!」と。

イエス様に起ころうとしていることは、三度目に詳しく具体的に表明されています。
どこでそれは起こるのかというと「エルサレム」の都です。
誰が起こすのかというと、祭司長、律法学者たちです。
彼らは何をイエス様にするのかというと「死刑」に定めることです。
その死刑は誰によって執行されるのかというと「異邦人」だというのです。
彼らはイエス様を「あざけり」、「つばきをかけ」、「むち打ち」、ついに殺すのだというのです。
虫けらのようにイエス様を死に至らせます。

ご自分の受難を詳しくイエス様は話します。
この話の結末は「しかし」によって苦難が栄光へと逆転します。
<しかし、人の子は三日の後によみがえります>(マルコ10:34)と。
この「しかし」を理解するためには、弟子たちは、
自分の罪と直面しなければなりませんでした。

牧師コラム 『少年イエスと過越しの祭り』 2016年1月10日

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降誕の賛美歌に「神の御子は今宵しも、ベツレヘムに生まれたもう」の一節がありますが、
イエスは何歳頃に自分が神の子であるとの認識を持つようになったのでしょう。
「オギャー」と産声を上げた時に、まさか自分は神だと思い始めたのではないでしょう。
「人となりたる活ける神なれ」と歌われるように(賛121番4節)、
イエスは人としての成長の過程を歩んだはずです。

ルカ福音書は、このような問いに光を与えています。
イエスが12歳の時、明確に神の子であると認識していたことが書かれています。
その時は過越祭りの時であり、その場所はエルサレムの神殿の中でした。
そのエピソードが2章41~51節に載っています。
詳しくはその箇所をお読み下さい。

要点を述べますと、祭りの人ごみの中で迷子になったイエスをようやくの事で捜した両親に

「どうしてわたしを捜すのですか。
わたしが必ず自分の父の家にいることをご存じなかったのですか」

と返答するのです。自分の父とは、父なる神を指します。
ですから、イエスは12歳の年には神の子としての認識を得ていました。
そして両親に仕えたのです。ここにイエスの謙卑さが表されているのです。
この謙卑さ故に人はイエスの神性を理解できないのでしょう。

牧師コラム 『イエスの宮詣で』 2016年1月3日

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イエスは生まれて間もなく(40日後)、両親によってエルサレムの神殿に宮詣でをします。
この折に2人の老人と不思議な出会いをします。

老人の一人はシメオンといい、正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められるのを
待ち望んでおり、主のキリスト(救い主)を見るまでは決して死なないと聖霊のお告げを
受けていたのです。
心の中に、救い主にこの地上でお会いできると確かな希望を抱いていました。
シメオンは宮で幼子イエスを連れて来たヨセフとマリヤに出会い、幼子イエスを腕に抱き、
神をほめたたえる詩を述べます。

<主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です>(ルカ2:29~32)

まことに幼子イエスは、啓示の光なのです。
啓示とは今まで覆いで隠されていたものが、その覆いを取り除かれて明らかになることです。
イエスが啓示の光であるとは、イエスが神であり、イエスにおいて人は神に出会うのです。
まさにイエスは神殿そのものなのです。

牧師コラム 「らしんばん」 2015年12月27日

IMG_8506  仲田 志保伝道師

楽しいクリスマスが過ぎて行き、いよいよ年の瀬となりました。
暖冬で少し物足りなり冬ではありますが、それでも風邪は流行っているようです。
みなさま、お変わりございませんか。

先週は栗原師が、クリスマスの喜びをメッセージしてくださいました。
今日はその余韻に浸りながら、紙芝居を通して、あらためてクリスマスの記録を
振り返ってみたいと思います。

クリスマスは、神ご自身であられる方が、こともあろうに人間などとして生まれてくださった。
その奇跡をお祝いする日です。
以前伺った教会で、『アリと人間のたとえ話』を聞きました。
アリの行列に水を垂らすと、アリはパニックになってしまいますが、
「もう水を垂らしたりしないから、安心していいよ」と人間が声を掛けても、
アリには届きません。
人間がアリになって、アリのところに行って、アリの言葉でアリに語り掛けてやらないことには、
伝わらないのです。
神がキリストとして私たちの間に来られたのは、ちょうどこれと同じだと言うのです。

まさにキリストは、私たちに神を教え示すために、
人間として生まれ、
人間として生き、
人間として語られました。
クリスマスに私たちは、この驚くばかりの恵みに心を震わせるほどに喜ぶのです。