牧師コラム 『あなたを愛された神』 2016年4月17日

IMG_8506  高橋 勝義 伝道師

私たちを愛している神様が、います。
不思議ですね。でも、「あなたを愛している」と言われて悪い気はしないでしょう。

ところで、神様は、私たちを愛さなければならない、何か特別な理由があるのでしょうか?

いや、何もありません。

むしろ、私たちは、神様に逆らって生きているので、
滅びに向かって歩んでいます。
神様は、そんな私たちを放っておけないのです。

そこで、神様は、愛する御子イエス・キリストをこの世(私たちの所)に遣わされました。
それは、イエス・キリストが私たちの罪(神様に従わないこと)をすべて負って、
十字架の上で死ぬためです。
神様は、イエス・キリストの贖いの死によって、
私たちのすべての罪を赦されたのです。

それ故、イエス・キリストを信じる者は、滅び、即ち、神様のさばきから救われ、
永遠のいのちが与えられます。

私たちは、神様の愛を受け取るか、それとも、拒むか、どちらかを選ばなければなりません。神様の愛を受け取り、滅びから永遠のいのちにあずかる恵みを頂こうではありませんか?

牧師コラム 『一番大切な命令』 2016年4月10日

IMG_8506  栗原 延元牧師

復活はないと主張していたサドカイ人たちの論拠をみごとに論破した
イエスのところに一人の律法学者(復活を主張していたパリサイ人と思われます)が
「すべての命令の中でどれが一番大切ですか。」(マルコ12:28)とイエスに尋ねます。

<イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。
『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
次には、これです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:29-31)

長く聖書箇所を引用しました。
イエスの語ったみことばをじっくり味わっていただきたいからです。
大事な命令は二つであります。神への愛と人への愛です。
この二つは別々に存在するのではないと思うのです。
源泉(みなもと)は、ひとつです。
それは神への愛です。神を愛する愛から、人を愛する愛が流れ出るのです。
そして神を愛する愛は、神の愛を知ることから生じるのです。
この神の愛は、イエス・キリストによって完全に顕されているのです。

牧師コラム 『復活の主イエスの旅行(たびゆき)』 2016年4月3日

IMG_8506  栗原 延元牧師

この絵を見て下さい。3名の人物が木立の中を歩いています。
真中の白い衣の人を二人の人が囲みながら道を進んでいます。
白衣の人物が右手を挙げながら両隣の人物に何かを説き明かしている様子です。
この絵はルカの福音書24章13~35節をもとに描かれた、
エマオ途上の復活の主イエスの旅行(たびゆき)です。

中央白衣の人物は復活の主イエス。
その両脇はイエスの弟子達で、一人の名はクレオパです。
彼らはイースターの日にエルサレムから11km余り離れた
エマオという村に行く途中でした。
道々彼らはエルサレムで起こった出来事について話し合ったり、
論じたりしていました。
そのうちにイエス自身が近づいて彼らと共に道を歩き始めたのです。
<しかし、彼らの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。>(ルカ24:16)

目がさえぎられるとは視力を失ってしまったことではありません。
死んだ人がよみがえる事はあり得ないという既成概念に捉われてしまっていたので、
イエスだとはわからなかったのでしょう。

11kmを徒歩では3、4時間はかかるでしょう。
この間、白衣の人物はモーセ及び全ての預言者から始めて、
聖書全体の中でイエスについて書いてある事柄を彼らに説明したのです。
この旅行の様子を描いたのがこの絵です。

サドカイ人は復活は無いと主張していました。
イエスの弟子達は既成概念に捉われていて、そばに復活の主イエスが
共に旅をしておられたのにもかかわらず復活のイエスを受け入れることは
できませんでした。
柔らかい心でイエスのことばを信じて歩みましょう

イースター礼拝 2016年4月3日

今年のイースターは3月27日でしたが、
石巻教会は、1週遅れの4月3日にイースター礼拝を
持ちました。

昨年と同じように、皆さんと昼食を共に食し、
仙台教会の土川夫妻によるピアノとクラリネットの
ミニコンサート、同じく仙台教会の森本姉による
お抹茶のお点前と、春の訪れと、イエス様の復活の
2つを喜び楽しむ時間となりました。

栗原牧師は、エマオに向かう2人の弟子に復活のイエス様が
現れ、道々話をしてくださったにも関わらず、食卓にて、
パンを割いてくださるまで、それがイエス様ご本人だと
は気づかなかった。
目の前に真実があったとしても、目が開かれなければ、
その真実が分からない。
私たちも、見るべきものをしっかりと見ていきましょうと、
力強いメッセージを語っていました。

石巻教会の礼拝も、もうすぐ80回となります。
愛の神様を伝える場所として、これからも地域に仕えて
いきたいと願っています。

彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って
祝福し、裂いて彼らに渡された。
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。
すると、イエスは彼らには見えなくなった。
そこで、ふたりは話し合った。
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、
私たちの心のうちに燃えていたではないか。」
ルカ24:30-32
(伊東綾)

 

牧師コラム 「大変な思い違い」 2016年3月27日

IMG_8506  栗原 延元牧師

本日はイースター・サンデー(復活祭聖日)です。
マルコ12章18~27節には、復活はないと主張していた
サドカイ人たちとイエスの問答が録されています。
その中で彼らの思い違いをイエスは指摘しています。
<聖書も神の力も知らない>ところから来ているのです。

まず彼らは聖書を知らないと言われます。
彼ら、サドカイ人たちは、旧約聖書の中のモーセ五書を
大変重んじていましたから聖書を知らないと言われる事は
心外だったでしょう。
イエスはモーセの書にある柴の箇所(出エジプト3:6)を読んだことが
ないのかと言われるのです。
そこには<わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である>と
神がモーセに語られたことばが書かれています。
サドカイ人たちは何度も読み、暗記していたことばでしょう。
しかし彼らはその本当の意味を知りませんでした。

イエスは<神は死人だ者の神ではありません。生きている者の神です>と
アブラハムもイサクもヤコブも神にあって生きている者であると語るのです。
イエスはことばで語るだけではなくて、死人の内よりよみがえり、
復活が事実であることを証しされたのです。(続く)

牧師コラム 『カイザルへの税金』 2016年3月20日

IMG_8506  栗原 延元牧師

マルコの福音書12章17節に
<カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい>
と言われたイエスのことばが録されています。
このことばは、カイザルに税金を納めるべきなのか、
納めるべきでないのかを問われて言われました。
肯定的に答えればイエスは民衆に憎まれ、
否定的に言えばローマ人との問題を引き起こすことになります。

この時、イエスはデナリ銀貨(1日分の労賃)を持って来させて相手に尋ねるのです。
「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」と。
彼らは「カイザルのです」と言った。
デナリ銀貨にはローマ皇帝カイザルの銘が刻印されています。
この銀貨が流通する所にカイザルの支配が及ぶのです。
貨幣の力の源がカイザルなのです。
税金(この場合は人頭税)を納めるべきかどうかの問題について
銀貨の発行元であるローマ皇帝のカイザルに返しなさいとイエスは言われ、
さらに大切なこと、<神のものは神に返しなさい>と命じられるのです。

イエスはご自分のいのちに代えて、私たちを死の滅びから救い出して下さったの
ですから自分のからだをもって神の栄光を現すことが求められているのです

牧師コラム 『ブドウ園のたとえ』 2016年3月13日

IMG_8506  栗原 延元牧師

マルコ12章はイエスの長いたとえ話です。
「過去のイスラエルの歴史をさかのぼり、
現在のイエスとイスラエルの指導者たちの争いを描き、
未来の結末を指向する」(グラハム・スィフト)のですから。

ぶどう園はイスラエルのシンボルでした。
旧約預言者イザヤは、万軍の主がいかに心を尽くし思いを込めて
イスラエルを形成されたかを、荒地を耕して、そこをぶどう畑にする
農夫の姿を描いて詩的に表現しています。

<さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。
そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。
わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、
その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを
待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった>(イザヤ5:1~2)

酸いぶどうとは、汚れ、争い、そねみ、偶像礼拝、酩酊など肉がもたらす行い
(ガラテヤ5:19~21)を指します。
一方、甘いぶどうとは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22~23)を生み出す御霊(みたま)の実を言うのです。
それらの実は、イエスを信じる者の中に実るのです(ヨハネ15:5)。

牧師コラム 『教会(エクレシア)とは』 2016年3月6日

IMG_8506  栗原 延元牧師

先週の礼拝後の交わりの中で、カトリック教会のことに話が広がりました。
そのきっかけは、ベトナムからの研修生が私たちの教会に来たことでした。
彼女は私たちの教会内にマリヤ像が置かれていないので、カトリック教会では
ないと知ったのです。

大きく分けてキリスト教には、私たちのようなプロテスタントとローマ・カトリックが
存在します。
その教会の見分け方は、マリヤ像が設置されているか、いないかでしょう。
私たちの教会の正面には説教壇が置かれ、十字架が背面と壇の前に
取り付けられているだけです。
その十字架を礼拝の対象として手を合わせることはしません。
私たちの信仰は、使徒信条に表明されています。

教会とは、新約聖書のギリシャ語「エクレシア」の訳語です。
ギリシャの都市国家が市長を呼び集めるために鐘を鳴らし、
集まった人々をエクレシアと呼びました。
キリスト教会とは、イエスをキリストと信じる共同体です。
イエスは、「2人でも3人でもわが名によって集う人々の中に居る」と語られました。
イエスを信じ、求めて集う中にイエスは共に居てくださるのです。
それが聖なる公同の教会なのです。

広島教会 青年ボランティアチーム

2016年3月3日~6日まで、広島福音自由教会の
北野献慈牧師と青年たち3名が、石巻を訪問し、
牡蠣の種つけ作業や3月11日の追悼記念集会の
チラシ配布、6日の礼拝では、青年たちの証しと
北野牧師は礼拝のメッセージを担当してくださいました。

慣れない漁業の作業、土地勘のない地域でのチラシ配布など
困難も覚えたようですが、普段何気なく口にしている食べ物が
どのようにして食卓に上るのか、チラシ配布をしながら、
地域の方々と会話をして(「あの教会ねぇ~。行ったことあるよ!」など)、
石巻教会の存在が浸透してきていることを感じたようです。

震災から5年を経過した東北ですが、
このようにして、私たちを覚え、祈り、足を運んでくださる
方がいることを感謝します。

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牧師コラム 『主イエスの権威』 2016年2月28日

IMG_8506  栗原 延元牧師

このコラムを書くにあたり国語辞典(新明解)の「権威」の項目を読みました。
それによりますと、権威とは『ずば抜けた実力や、
すぐれた判断力の累積によって支えられた、
他を威圧し追随せしめる人がただよわせる雰囲気』と説明してありました。

まさにイエスの教えを聞いた人々は、そこにある種の権威を感じて
驚いたのです(マルコ1:22)。
このイエスの権威について、エルサレムの神殿の中で指導者たちは、
わざわざイエスのところにやって来て
<何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。
だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。>(マルコ11:28)
と質問するのです。

このように質問する彼らの意図は明らかでした。
だれからも、何の権威も与えられていないのに
「イエスよ。お前は好き勝手なことをするな」ということでした。
彼らの悪意を見て取ったイエスは、バプテスマのヨハネについて指導者たちに
問うのですが、彼らは自分たちの立場が悪くなるのを恐れてイエスの問いに
答えないのです。
彼らは自ら進んで善悪を判断しないのです。
本当の権威は「愛」を源泉とすることに気づかなかったからです。