牧師コラム 『教会(エクレシア)とは』 2016年3月6日

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先週の礼拝後の交わりの中で、カトリック教会のことに話が広がりました。
そのきっかけは、ベトナムからの研修生が私たちの教会に来たことでした。
彼女は私たちの教会内にマリヤ像が置かれていないので、カトリック教会では
ないと知ったのです。

大きく分けてキリスト教には、私たちのようなプロテスタントとローマ・カトリックが
存在します。
その教会の見分け方は、マリヤ像が設置されているか、いないかでしょう。
私たちの教会の正面には説教壇が置かれ、十字架が背面と壇の前に
取り付けられているだけです。
その十字架を礼拝の対象として手を合わせることはしません。
私たちの信仰は、使徒信条に表明されています。

教会とは、新約聖書のギリシャ語「エクレシア」の訳語です。
ギリシャの都市国家が市長を呼び集めるために鐘を鳴らし、
集まった人々をエクレシアと呼びました。
キリスト教会とは、イエスをキリストと信じる共同体です。
イエスは、「2人でも3人でもわが名によって集う人々の中に居る」と語られました。
イエスを信じ、求めて集う中にイエスは共に居てくださるのです。
それが聖なる公同の教会なのです。

広島教会 青年ボランティアチーム

2016年3月3日~6日まで、広島福音自由教会の
北野献慈牧師と青年たち3名が、石巻を訪問し、
牡蠣の種つけ作業や3月11日の追悼記念集会の
チラシ配布、6日の礼拝では、青年たちの証しと
北野牧師は礼拝のメッセージを担当してくださいました。

慣れない漁業の作業、土地勘のない地域でのチラシ配布など
困難も覚えたようですが、普段何気なく口にしている食べ物が
どのようにして食卓に上るのか、チラシ配布をしながら、
地域の方々と会話をして(「あの教会ねぇ~。行ったことあるよ!」など)、
石巻教会の存在が浸透してきていることを感じたようです。

震災から5年を経過した東北ですが、
このようにして、私たちを覚え、祈り、足を運んでくださる
方がいることを感謝します。

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牧師コラム 『主イエスの権威』 2016年2月28日

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このコラムを書くにあたり国語辞典(新明解)の「権威」の項目を読みました。
それによりますと、権威とは『ずば抜けた実力や、
すぐれた判断力の累積によって支えられた、
他を威圧し追随せしめる人がただよわせる雰囲気』と説明してありました。

まさにイエスの教えを聞いた人々は、そこにある種の権威を感じて
驚いたのです(マルコ1:22)。
このイエスの権威について、エルサレムの神殿の中で指導者たちは、
わざわざイエスのところにやって来て
<何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。
だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。>(マルコ11:28)
と質問するのです。

このように質問する彼らの意図は明らかでした。
だれからも、何の権威も与えられていないのに
「イエスよ。お前は好き勝手なことをするな」ということでした。
彼らの悪意を見て取ったイエスは、バプテスマのヨハネについて指導者たちに
問うのですが、彼らは自分たちの立場が悪くなるのを恐れてイエスの問いに
答えないのです。
彼らは自ら進んで善悪を判断しないのです。
本当の権威は「愛」を源泉とすることに気づかなかったからです。

牧師コラム 『信じること 祈ること』 2016年2月21日

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信じること、祈ることは人間特有の精神行動のようです。
その方向性を誤まらせている原因が罪です。
すこし堅苦しい書き方で始めてしまいましたが、
「何を信じ、何に祈るか」が人間のあり方を決めてしまうようです。

福音書は、そこに光を当てているのです。
何を信じ何に祈るかと言えば、それは「神」なのです。
聖書がいっている神と日本の八百万の神とは根本から違います。
八百万の神は被造物ですが、聖書の神は創造者です。
マルコ11章22節でイエスが言われた<神を信じなさい>の神とは
創造者なる神です。
そしてイエスはヨハネ福音書14章1節でその神とご自分を指して
<神を信じ、また、わたしを信じなさい>とも弟子たちに語っているのです。

また同じ文脈の中で、祈るときには、まず私たちの人間関係の中で
<だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。
そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。>
(マルコ11:25)とイエスは語ります。
恨みを赦すことは中々できないことです。
しかし神に祈るならば、その恨み事を赦すことができるようになるのです。
神にこの祈りをするなら、神を身近に感じるのです。天の父なるお方を。

牧師コラム 『わたしの家はすべての民の祈りの家』 2016年2月14日

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いちじくの木は、ユダヤ民族の象徴です。
自分が栽培しているいちじくの木の下にすわる事は
イスラエルの平和と繁栄を示すことであったと
聖書辞典(いのちのことば社)は記しています。

今日の聖書箇所は一読しますと、イエスの行動が腑に落ちないようにみえます。
いちじくのなる季節ではなかったのに、葉が茂っているばかりで実がないので、
そのいちじくの木を枯らしてしまうのですから。

<今後いつまでもだれもおまえの実を食べることのないように>(マルコ11:14)と
その木に言うのです。

これはイエスが人間以外の対象物において現された唯一の審判の奇跡です。
エルサレムのユダヤ教の指導者たちは、職業的宗教という葉を繁栄させていました。
しかし、彼らは義の実を結んではいません。彼らの活動の中心であるエルサレムの神殿は
利権、利得がとびかう市場と化していました。
強盗の巣とイエスは嫌悪しました。
イエスは宮を本来の姿に戻そうとしたのです。
そして言われたのです。
≪わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。≫(マルコ11:17)

牧師コラム 『イエスのエルサレム入場』 2016年2月7日

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「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。
いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」(マルコ11章9~10節)

イエスのエルサレム入場は大ぜいの人々の歓声の叫びの中に行われました。
その叫びのことばがマルコ11章9、10節です。
「ホサナ」とは「今、お救い下さい」のヘブル語の音訳です。
神の国をもたらすイエスへの期待が高まっていました。

このエルサレム入場に際してイエスが用いられたのは、馬ではなく、ろばでした。
しかも「ろばの子」でした。
軍馬に乗って威風堂々と入場したのではなく、借りて来た「ろばの子」に乗って
エルサレムに入場したのです。

これはゼカリヤ書9章9節が預言しているメシヤの姿なのです。
王なるメシヤ(キリスト)は柔和で、ろばの子に乗られてエルサレムに来られるのです。
それは、「平和」をもたらす王に相応しい乗物なのです。

山上の垂訓の中で、
「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」(マタイ5:9)と
語られたイエスは、みずから範を垂れて平和をつくる者として最後の一週間を過ごすのです。
この地上の平和の基なる神との平和をつくるために。

牧師コラム 『あなたを救うイエス・キリスト』 2016年1月31日

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マルコ福音書は10章にわたりイエス・キリストの3年の公生涯を記します。
そして11章からは公生涯最後の8日間について詳述しています。

<あなたの信仰があなたを救ったのです。>(マルコ10章52節)は
読み様によっては、私たちの信仰の強弱大小によって病気や困難、
苦悩は克服できるのであって、問題が解決しないのは私たちの信仰
が弱く足りないからだと理解されてしまいます。
そのような意味でイエスはこのマルコ10章52節を語ってはいないのです。
もしそうでないならば、すなわち、私たちの信仰次第ということならば、
結局は、人間が人間を救えるということになります。

少し理屈めいた事になってしまいましたが、ここでいう信仰とは
イエスをキリスト(救い主)と信じて仰ぐことであり、そのような者を
キリスト者(クリスチャン)と呼ぶのです。
クリスチャンとは要約すればイエスが私にとって無くてはならぬお方、
どのような時も(順調な時も逆境の時も)私に必要なお方、すなわち
救い主(キリスト)と告白する者です。
私がイエスにとって必要な者と思い込む時に、
先週学んだヤコブとヨハネのようにキリスト教会の中で
立身出世を求めてしまうのです。

石巻教会のひとこま・・・1月24日

暖冬と言われていた今年でしたが、ついに「積雪」となりました。
大型の寒波で、九州でも各地で水道管破裂など、思いがけない
「寒さ」の被害があったようで、大変な思いをされた方もおられますね。

東北の中で、宮城は他県に比べれば、雪の少ない方ではありますが、
車は渋滞するし、どんなに気をつけて運転してもスリップ事故はあるし、
滑って転ぶし、雪かきをしなければならないしと、降らなければそれなりに
楽ではありますが、雪が降れば「仕方ない」と諦めます。

毎週日曜日には、仙台から石巻教会の礼拝に、出かけていますが、
仙台は結構な雪が積もっていたので(仙台教会付近は、15cmくらい)、
誰もいない石巻教会の駐車場の積雪量を心配しながら、
石巻教会に着いたところ、さすがに、沿岸部。
5㎝くらいしか降っておらず、朝から太陽が照っていてくれたおかげで、
融け始めていたので、雪かきも非常に楽でした。
(一人だけで、30分で終了しました)

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本日30日も仙台は雪が降り、皆さん雪かきに汗を流していました。
明日、石巻に出向いて さて、雪の量は・・・・・・

牧師コラム 『人の先に立つとは』 2016年1月24日

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「親の心、子知らず」ではありませんが、師匠であるイエスの心を、
弟子たち(ヤコブとヨハネの兄弟)は全く知らなかったことを、
今日の聖書箇所は伝えています。

ヤコブとヨハネは、イエスの御国で右大臣、左大臣の座に着かせて下さいと願い出ます。
彼らは他の弟子たちより偉くなりたいと立身出世を求めるのです。
イエスがご自分の苦難をはっきりと予告している折にです。
イエスの十字架の苦難の言葉について思いを深めるのではなく、
自分たちの事で心が一杯になっているのです。エゴイズムの塊です。

エゴイズム(自分だけが良い思いをしたい)むき出しの言葉が
「人々の間で偉くなりたい」、「人の先に立ちたい」でしょうか。
しかしイエスは、「偉くなりたい」、「人の先に立ちたい」との思いを否定してはいないのです。
そのような思いを受けとめて、12弟子を呼び集めて言われたことが42~45節です。
この箇所の焦点は「仕える者になる」、「しもべになる」ということでしょう。
エゴの塊のような人の思いがイエスに向くとき、その人は全く新しい人生へと舵を切るのです。
神と人とに仕える人生へと・・・。

牧師コラム 『先頭に立つイエス』 2016年1月17日

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イエス様はご自分に起ころうとしていることを、前もって三度も12弟子たちに話しました。
その内容は弟子たちには理解されませんでした。
理解するどころか、弟子のペテロなどは「そんな事が起こることはありません」と
イエス様をいさめた程です。そのペテロを激しくイエス様はお叱りになりました。
「下がれサタン!」と。

イエス様に起ころうとしていることは、三度目に詳しく具体的に表明されています。
どこでそれは起こるのかというと「エルサレム」の都です。
誰が起こすのかというと、祭司長、律法学者たちです。
彼らは何をイエス様にするのかというと「死刑」に定めることです。
その死刑は誰によって執行されるのかというと「異邦人」だというのです。
彼らはイエス様を「あざけり」、「つばきをかけ」、「むち打ち」、ついに殺すのだというのです。
虫けらのようにイエス様を死に至らせます。

ご自分の受難を詳しくイエス様は話します。
この話の結末は「しかし」によって苦難が栄光へと逆転します。
<しかし、人の子は三日の後によみがえります>(マルコ10:34)と。
この「しかし」を理解するためには、弟子たちは、
自分の罪と直面しなければなりませんでした。