栗原 延元牧師 |
このコラムを書くにあたり国語辞典(新明解)の「権威」の項目を読みました。
それによりますと、権威とは『ずば抜けた実力や、
すぐれた判断力の累積によって支えられた、
他を威圧し追随せしめる人がただよわせる雰囲気』と説明してありました。
まさにイエスの教えを聞いた人々は、そこにある種の権威を感じて
驚いたのです(マルコ1:22)。
このイエスの権威について、エルサレムの神殿の中で指導者たちは、
わざわざイエスのところにやって来て
<何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。
だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。>(マルコ11:28)
と質問するのです。
このように質問する彼らの意図は明らかでした。
だれからも、何の権威も与えられていないのに
「イエスよ。お前は好き勝手なことをするな」ということでした。
彼らの悪意を見て取ったイエスは、バプテスマのヨハネについて指導者たちに
問うのですが、彼らは自分たちの立場が悪くなるのを恐れてイエスの問いに
答えないのです。
彼らは自ら進んで善悪を判断しないのです。
本当の権威は「愛」を源泉とすることに気づかなかったからです。