牧師コラム 『レプタ2つの献金』 2016年5月8日

IMG_8506  栗原 延元 牧師

一レプタは当時イスラエルの最小単位の銅貨で、
一デナリ(一日の労賃)の128分の1に相当します。
ですから一レプタは、今の百円硬貨に当たるでしょうか。

このレプタ銅貨2枚をエルサレムの神殿に備えられていた献金箱に
投げ入れた人がいました。
この人は〈貧しいやもめ〉(マルコ12:42)でした。
その他大勢の金持ちが大金を投げ入れていました。
これがイエスの受難週の火曜日のおそらく夕方近くの頃ではなかったかと思います。

イエスは弟子たちを呼び寄せて、レプタ2枚を投げ入れたこのやもめを、
どの人よりもたくさんの献金をした人であると誉めました。
その理由がマルコ12:44に記されています。

〈みなは、有り余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、
あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。〉

この女は経済的には貧しくありましたが、信仰は豊かでした。
一日の生活費の全部を献げましたが、翌日からどのようにして生きるか
ということに対する思い煩いはなかったようです。

〈明日のための心配は無用です〉の御言葉(マタイ6:34)と
「明日を守られるイエスがおられる」の歌詞が私の心に響いていきます。

牧師コラム 『イエスの喜び』 2016年5月1日

IMG_8506  栗原 延元 牧師

あなたの喜びは何でしょうか。
サッカーファンならベガルタ仙台が勝つことでしょうか。
野球が好きな人なら、楽天イーグルスが優勝することでしょうか。
人それぞれに喜びがあることでしょう。

しばらく日曜日の礼拝では、イエスの最後の一週間、
即ち受難週の出来事を学んでいます。
今日学ぶマルコ12:35は、誰も尋ねる者がいなくなった後に
イエスが尋ねたことから始まっています。

その質問は<どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう>です。
キリスト(救い主)がダビデの子孫として生まれることは、当時のユダヤ人は
分かっていました。
ダビデがイスラエル王国を確立して繁栄させたように、
キリストは地上にイスラエル王国を復興させると人々は考えていたようです。
しかし、イエスは詩篇110:1を引用し、ダビデがキリストなる主に望んでいたのは

<わたしがあなたの敵を、あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座についていなさい>と言われた神のみことばの成就でした。
イエス・キリストは、神の右の座につくことを最上の喜びとしておられました。
この喜びの故に十字架の苦難を耐え偲ばれたのです(ヘブル12:2)。

牧師コラム 『いのちの泉』 2016年4月24日

IMG_8506  高橋 勝義 伝道師

私たちは、のどが渇けば、水を飲みます。
それによって、のどは、潤い渇きから解放されますが、また、のどは渇きます。
のどの渇きは、決して、なくならないので、当然、のどを潤す水もまた必要です。

ところで、あなたは、心の健康に気を配っていますか?
口から出てくる言葉は、心の健康状態をよく表しています。
なぜなら、心が、憎しみ・恨み・妬み・嫉妬・傲慢などで満ちていれば、
とても、優しい言葉や思いやりのある言葉など出てこないからです。

たぶん、あなたは、自分の口から出た言葉でつらい経験をしてきたことでしょう。
何か、解決への道があるのでしょうか?

「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と
イエス様は語りました。

イエス様を信じる者は、あなたの内に聖霊が住んで、
あなたの心に愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制で満たしてくださいます。
まさに、いのちの泉が、あなたのうちで尽きることなく湧き出来ます。
このいのちの泉を求めてみませんか?

牧師コラム 『あなたを愛された神』 2016年4月17日

IMG_8506  高橋 勝義 伝道師

私たちを愛している神様が、います。
不思議ですね。でも、「あなたを愛している」と言われて悪い気はしないでしょう。

ところで、神様は、私たちを愛さなければならない、何か特別な理由があるのでしょうか?

いや、何もありません。

むしろ、私たちは、神様に逆らって生きているので、
滅びに向かって歩んでいます。
神様は、そんな私たちを放っておけないのです。

そこで、神様は、愛する御子イエス・キリストをこの世(私たちの所)に遣わされました。
それは、イエス・キリストが私たちの罪(神様に従わないこと)をすべて負って、
十字架の上で死ぬためです。
神様は、イエス・キリストの贖いの死によって、
私たちのすべての罪を赦されたのです。

それ故、イエス・キリストを信じる者は、滅び、即ち、神様のさばきから救われ、
永遠のいのちが与えられます。

私たちは、神様の愛を受け取るか、それとも、拒むか、どちらかを選ばなければなりません。神様の愛を受け取り、滅びから永遠のいのちにあずかる恵みを頂こうではありませんか?

牧師コラム 『一番大切な命令』 2016年4月10日

IMG_8506  栗原 延元牧師

復活はないと主張していたサドカイ人たちの論拠をみごとに論破した
イエスのところに一人の律法学者(復活を主張していたパリサイ人と思われます)が
「すべての命令の中でどれが一番大切ですか。」(マルコ12:28)とイエスに尋ねます。

<イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。
『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
次には、これです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
この二つより大事な命令は、ほかにありません。」(マルコ12:29-31)

長く聖書箇所を引用しました。
イエスの語ったみことばをじっくり味わっていただきたいからです。
大事な命令は二つであります。神への愛と人への愛です。
この二つは別々に存在するのではないと思うのです。
源泉(みなもと)は、ひとつです。
それは神への愛です。神を愛する愛から、人を愛する愛が流れ出るのです。
そして神を愛する愛は、神の愛を知ることから生じるのです。
この神の愛は、イエス・キリストによって完全に顕されているのです。

牧師コラム 『復活の主イエスの旅行(たびゆき)』 2016年4月3日

IMG_8506  栗原 延元牧師

この絵を見て下さい。3名の人物が木立の中を歩いています。
真中の白い衣の人を二人の人が囲みながら道を進んでいます。
白衣の人物が右手を挙げながら両隣の人物に何かを説き明かしている様子です。
この絵はルカの福音書24章13~35節をもとに描かれた、
エマオ途上の復活の主イエスの旅行(たびゆき)です。

中央白衣の人物は復活の主イエス。
その両脇はイエスの弟子達で、一人の名はクレオパです。
彼らはイースターの日にエルサレムから11km余り離れた
エマオという村に行く途中でした。
道々彼らはエルサレムで起こった出来事について話し合ったり、
論じたりしていました。
そのうちにイエス自身が近づいて彼らと共に道を歩き始めたのです。
<しかし、彼らの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。>(ルカ24:16)

目がさえぎられるとは視力を失ってしまったことではありません。
死んだ人がよみがえる事はあり得ないという既成概念に捉われてしまっていたので、
イエスだとはわからなかったのでしょう。

11kmを徒歩では3、4時間はかかるでしょう。
この間、白衣の人物はモーセ及び全ての預言者から始めて、
聖書全体の中でイエスについて書いてある事柄を彼らに説明したのです。
この旅行の様子を描いたのがこの絵です。

サドカイ人は復活は無いと主張していました。
イエスの弟子達は既成概念に捉われていて、そばに復活の主イエスが
共に旅をしておられたのにもかかわらず復活のイエスを受け入れることは
できませんでした。
柔らかい心でイエスのことばを信じて歩みましょう

イースター礼拝 2016年4月3日

今年のイースターは3月27日でしたが、
石巻教会は、1週遅れの4月3日にイースター礼拝を
持ちました。

昨年と同じように、皆さんと昼食を共に食し、
仙台教会の土川夫妻によるピアノとクラリネットの
ミニコンサート、同じく仙台教会の森本姉による
お抹茶のお点前と、春の訪れと、イエス様の復活の
2つを喜び楽しむ時間となりました。

栗原牧師は、エマオに向かう2人の弟子に復活のイエス様が
現れ、道々話をしてくださったにも関わらず、食卓にて、
パンを割いてくださるまで、それがイエス様ご本人だと
は気づかなかった。
目の前に真実があったとしても、目が開かれなければ、
その真実が分からない。
私たちも、見るべきものをしっかりと見ていきましょうと、
力強いメッセージを語っていました。

石巻教会の礼拝も、もうすぐ80回となります。
愛の神様を伝える場所として、これからも地域に仕えて
いきたいと願っています。

彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って
祝福し、裂いて彼らに渡された。
それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。
すると、イエスは彼らには見えなくなった。
そこで、ふたりは話し合った。
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、
私たちの心のうちに燃えていたではないか。」
ルカ24:30-32
(伊東綾)

 

牧師コラム 「大変な思い違い」 2016年3月27日

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本日はイースター・サンデー(復活祭聖日)です。
マルコ12章18~27節には、復活はないと主張していた
サドカイ人たちとイエスの問答が録されています。
その中で彼らの思い違いをイエスは指摘しています。
<聖書も神の力も知らない>ところから来ているのです。

まず彼らは聖書を知らないと言われます。
彼ら、サドカイ人たちは、旧約聖書の中のモーセ五書を
大変重んじていましたから聖書を知らないと言われる事は
心外だったでしょう。
イエスはモーセの書にある柴の箇所(出エジプト3:6)を読んだことが
ないのかと言われるのです。
そこには<わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である>と
神がモーセに語られたことばが書かれています。
サドカイ人たちは何度も読み、暗記していたことばでしょう。
しかし彼らはその本当の意味を知りませんでした。

イエスは<神は死人だ者の神ではありません。生きている者の神です>と
アブラハムもイサクもヤコブも神にあって生きている者であると語るのです。
イエスはことばで語るだけではなくて、死人の内よりよみがえり、
復活が事実であることを証しされたのです。(続く)

牧師コラム 『カイザルへの税金』 2016年3月20日

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マルコの福音書12章17節に
<カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい>
と言われたイエスのことばが録されています。
このことばは、カイザルに税金を納めるべきなのか、
納めるべきでないのかを問われて言われました。
肯定的に答えればイエスは民衆に憎まれ、
否定的に言えばローマ人との問題を引き起こすことになります。

この時、イエスはデナリ銀貨(1日分の労賃)を持って来させて相手に尋ねるのです。
「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」と。
彼らは「カイザルのです」と言った。
デナリ銀貨にはローマ皇帝カイザルの銘が刻印されています。
この銀貨が流通する所にカイザルの支配が及ぶのです。
貨幣の力の源がカイザルなのです。
税金(この場合は人頭税)を納めるべきかどうかの問題について
銀貨の発行元であるローマ皇帝のカイザルに返しなさいとイエスは言われ、
さらに大切なこと、<神のものは神に返しなさい>と命じられるのです。

イエスはご自分のいのちに代えて、私たちを死の滅びから救い出して下さったの
ですから自分のからだをもって神の栄光を現すことが求められているのです

牧師コラム 『ブドウ園のたとえ』 2016年3月13日

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マルコ12章はイエスの長いたとえ話です。
「過去のイスラエルの歴史をさかのぼり、
現在のイエスとイスラエルの指導者たちの争いを描き、
未来の結末を指向する」(グラハム・スィフト)のですから。

ぶどう園はイスラエルのシンボルでした。
旧約預言者イザヤは、万軍の主がいかに心を尽くし思いを込めて
イスラエルを形成されたかを、荒地を耕して、そこをぶどう畑にする
農夫の姿を描いて詩的に表現しています。

<さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。
そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。
わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、
その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを
待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった>(イザヤ5:1~2)

酸いぶどうとは、汚れ、争い、そねみ、偶像礼拝、酩酊など肉がもたらす行い
(ガラテヤ5:19~21)を指します。
一方、甘いぶどうとは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22~23)を生み出す御霊(みたま)の実を言うのです。
それらの実は、イエスを信じる者の中に実るのです(ヨハネ15:5)。