牧師コラム 「らしんばん」 2015年9月13日

IMG_8506  栗原 延元牧師

イエスとペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子たちは高い山(ヘルモン山か)で、
すばらしい光景を目撃しました。
その光景についてイエスと語り合いながら山を下りて里に帰ってみると、
他の弟子たちは律法学者たちと議論していました。

イエスは何を議論しているのかを尋ねると、てんかんと思われる少年の父親が
事の次第を説明したのです。
そして弟子にではなく、主イエスに

<もしできるのなら、私たちをあわれんで、お助けください>と言います。

この父親をたしなめるように
<できるものならと言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです>と
イエスは話すのです。
このイエスの言葉は、父親に信仰を呼び起こします。
<信じます。不信仰な私をお助けください>(マルコ9:21~24)

このイエスと父親のやりとりの場面を山口昇師(私の神学校の先生)は、
「我々は自分の可能な限りの信仰をもって神を信じる。
しかも、なお神の目の前には、それは不完全であり、
不信仰である。
しかしこのような意味における信仰の不完全さを認めるのは、
神の御前に謙遜な人間にふさわしいこと」であると書いています。

信仰の完成者であるイエスから目を離さないように。