栗原 延元牧師 |
イエス・キリストの郷里はナザレです。
ナザレの会堂でイエスの教えを聞いた多くの人々は驚いて
「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。
この人に与えられた知恵や、この人の手で行われる
このような力あるわざは、いったい何でしょう。」と言います。(マルコ6:2)
イエスの教えや行いは普通の人のものではありません。
ですからマルコの福音書を読み進みますと
「いったいこの方はどういう方なのだろう」という問いかけが出てきます。
「福音書は読者にイエスの姿をありのまま、
見つめる事によりイエスに宿る真理に透徹した洞察を
呼び起こそうとしているのです。」(奥村修武氏)
洞察する力を信仰と呼びますが、郷里ナザレの多くの人々は
イエスの教えと行いについて深く考えようとはせず結論を出してしまいます。
「この人は大工ではないか」と。
どうして神の子であろうかとイエスにつまずいたのです。
イエスにつまずいたのは郷里ナザレの人たちだけではありません。
イエスの12弟子の皆がつまずいたのです。
イエスの逮捕を前に弟子たちは散りぢりに
逃げてしまったのですから。
イエスの十字架の死と復活につまずかない者は幸いです。