牧師コラム 『神である主が戸を閉ざされた』 2020年3月15日

牧師 高橋勝義

近頃の住宅扉は鍵を使わず「カードキー」や「スマホ」で鍵を開閉し、雨の日や荷物のある時とても便利です。また病院や店舗では自動ドアが普通になっています。

さて、地に増え広がった人間が堕落した姿に心を痛めた神は、すべての生き物を滅ぼすことを決め、【主】の心にかなっていたノアに「ゴフェルの木で箱舟を造りなさい」(創世記6:13,14)と命じます。
そして、ノアはすべて神が命じられたとおりに行ったのです(創世記6:22)。
人々は、ノアから箱舟を造る理由を聞いていましたが、誰一人として信じませんでした。箱舟が完成すると、神はノアに「あなたの家族とすべてのきよい動物の中から雄と雌を七つがいずつ、きよくない動物の中から雄と雌を一つがいずつ、また空の鳥の中からも雄と雌を七つがいずつ取り、箱舟に入るように (創世記7:1~3) 」と命じます。ノアはすべて命じられたとおりに行い、そして彼も箱舟に入りました。

すると【主】が、彼のうしろの戸を閉ざされたのです。(創世記7:16)
神が閉ざされたならば、誰もその扉を開けることはできません。

今、キリストを罪からの救い主として信じ、神と共に歩むことができる「扉」は開かれています。しかしこの救いの扉も、思いがけない時、突然、閉じられます。
ノアの時代の人々のようにならないために、救いの扉の中に入ってみませんか?
「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:2)。

牧師コラム 『箱舟を造りなさい』 2020年3月8日

牧師 高橋勝義

子どもの頃、「ポンポン船」を作って遊んだことがあります。とても簡単な仕組みですが、「ポンポンポン」と音を立て、勢いよく水の上を走ります。

さて、人々は神を忘れ、神に背を向け、堕落していきました。
そのような中で、たった一人、神に従って暮らすノアという人がいたのです。
神は、このノアの家族を救うことによって人類の再出発を計画されました。
そして神は、ノアに「見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。あなたは自分のために、ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。(創世記6:13,14)」と命じます。

箱舟の大きさは、長さ約132m・幅約22m・高さ約13.2メートルです。

ノアの時代には大型重機などなく、すべて手作業であり、働き手はノア夫婦、息子三人とその妻の合計8人です。「ポンポン船」を造るのとは、けたが違います。
ノアは、すべて神が命じられたとおりに行ったのですが(創世記6:22)、彼らの箱舟造りは、周囲の人々の目にはどのように映ったのでしょうか?
ノアは、信仰によって、まだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造ったのです(へブル11:7)。
神を信じて歩むことは、時として、この世の歩みからの決別でもあります。

「神のみこころを行う者は永遠に生き続けます(Ⅰヨハネ2:17)」

牧師コラム 『主の名を呼ぶ』 2020年2月16日

牧師 高橋勝義

人は自分の力ではどうにもならないことに遭遇すると、あらゆる神々や仏、更には亡くなった人にまで助けを祈り求めますが、動物が祈っている姿は見たことがありません。

神を探し求め、祈るのは、私たちが神の似姿に造られた特別な存在だからなのです。聖書には人が神に祈り始めた時のことが、「そのころ、人々は【】の名を呼ぶことを始めた。(創世記4:26)」と記されています。

では、人々がその名を呼んだお方、【】とは、どのようなお方なのでしょうか。

モーセが神に「イスラエルの民に神の名を聞かれたら何と答えればよいのか」と、尋ねたとき、神は「『わたしはある』という者である(出エジプト3:14)」と答えられました。それは『はじめから永遠に至るまで存在する生ける神である』という意味です。【】の御名を呼ぶということは、【】がどのようなお方なのか、分かっていて祈るわけですから、決して「イワシの頭も信心から」とは異なります。

ですから【】の御名を呼ぶのは、『自分の弱さをすべて知っておられる神に信頼し、あなたに従って歩みます。そして、すべてを神に感謝します。』という信仰告白の祈りなのです。
神である主は、私たちを愛し、私たちとともに歩まれるお方なのです。
そのお方が『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。(エレミヤ33:3)』と語っておられます。

牧師コラム 『罪はあなたを恋い慕う』 2020年2月9日

牧師 高橋勝義

聖書が最初の殺人を詳しく記すのは、そこに神から私たちへの愛の警告があるからです。

エバは、カインとアベルを生みます。兄カインは大地を耕す者、弟アベルは羊を飼う者になります。そして二人は神である主にささげ物をするのですが、カインは大地の実りを、アベルは自分の羊の初子の中から肥えたものを神の前に持って行きました。神は弟アベルのささげ物に目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。兄カインは激しく怒り、顔を伏せます(創世記4:5)。

彼の心の中は、怒り、嫉妬、恨み、憎しみに支配され、自分の感情をコントロールできない状態になっていたのです。そのカインに主は、「罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない(創世記4:7)」と警告します。
この時カインは、正直に自分の感情を神にぶつければよかったのです。しかし怒りの矛先を弟アベル向け、あろうことかアベルを野に誘い出し、殺してしまったのです。この悲劇は、人が神である主に聞き従う歩みを捨て、自分の考えで生きることを選択した故に、人の心の中に罪が入り込み、起きたものです。

実は、これと同じことを私たちも日常的にやっています。カインのように実力行使はしなくても、心の中で否定(殺人)しているからです。人は、怒り、嫉妬、恨み、憎しみにとらわれ、思いもよらぬ行動を起こしてしまいます。

神はその原因が“罪”にあることを示し、そこからの唯一の脱出方法を示してくださいました。罪に打ち勝つその方法とは、キリストの十字架です。
キリストが、私たちの罪の身代わりとなって、十字架で死んでくださったので、神との和解が成立し、神とともに生きる新しいのちをいただくことが可能になったのです。神は今日も「救い主イエスを信じよ」と語っておられます。

牧師コラム 『御顔を避け、身を隠す』 2020年2月2日

牧師 高橋勝義

子どもの頃に遊んだ「かくれんぼ」。鬼に見つからないように身を隠し、息を殺しじっと我慢…見つかると悔しさと同時にほっとする気持ちが入り混じったものです。

さて、神に造られたアダムとエバは、神である主が園を歩き回られる音を聞き、神の御顔を避けて、園の木の間に身を隠してしまいました。(創世記3:8)
それは神が命じた「食べてはならない。必ず死ぬ」を破り、その結果、裸を恥じて隠そうとする恐れが芽生えたからでした。彼らの心にが入り込んだ故です。

神は「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」と尋ねました。
すべてをご存知の神が、その時ふたりに求めたのは、自分のを正直に認め、悔い改めることだったのですが、ふたりの心は神の御顔を避け、身を隠そうとするに支配されて、アダムはエバに責任転嫁をし、エバもまた自分を惑わした蛇に責任転嫁したのです。その結果、女は苦しんで子を産み、男は一生苦しんで食を得なければならなくなり、さらに、神はふたりをエデンの園から追放したのです。(創世記3:11~23)

こうして私たち人間は神中心から自己中心の歩みをする者になりました。

しかし、私たちを愛する神は、神のひとり子イエス・キリストに私たちのを負わせ十字架の死によって、を贖って(あがなって)くださいました。
ですから、神は自分のを正直に認めるならば「もし私たちが自分のを告白するなら、神は真実で正しい方ですから、そのを赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださる(Ⅰヨハネ1:9)」と約束しておられます。

牧師コラム 『死ぬといけないから』 2020年1月26日

牧師 高橋勝義

商品の売り出しに「従来の方法では効果がない」など、消費者の不安をあおる手法を使うことがあります。この同じやり方で、エデンの園で神と平和に暮らしていたアダムとエバに、誘惑の手が伸びてきました。創世記3章1~7節には誘惑の手口、また誘惑される側の心に潜むものが記されています。

蛇が女に「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」と、微妙なことばで聞いてきました。それに対して女は「園の中央にある木の実については『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」と答えます。

ですが、神の命令は『その木(善悪の知識の木)から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:17)』です。

女が微妙に替えたことば、その心の隙間に畳みかけるように蛇は「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」と誘惑したのです。
ついに女は、食べるのに良さそうで、目に慕わしく、賢くしてくれそうなその実を取って食べ、ともにいた夫も食べたのです。誘惑は私たちの心に潜むに訴え、誘うのです。こうして自己中心に生きるが人間の心の中に入ってきました。

しかし、神は私たち人間を見捨てるどころか、愛するひとり子イエス・キリストにそのを負わせ、十字架で刑罰を行われたのです。
「わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ(イザヤ44:22)」と、神はあなたに向かって語っておられます。

牧師コラム 『私の骨からの骨、肉からの肉』 2020年1月19日

牧師 高橋勝義

人間の創造について、聖書は『神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)』さらに『また、神である【主】は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2:18) 』と語ります。
そして神である主は、人(アダム)のところにすべての生き物を連れて行くのですが、ふさわしい助け手は見つからなかったのです。そこで、神は人に深い眠りを下され、彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさぎ、女(エバ)を造られたのです。

アダムは、エバを見て『これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉(創世記2:23) 』と感激するのです。神が女を造られた目的は「ふさわしい助け手」です。
それゆえ、『男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのです(創世記2:24) 』とあるように、夫婦はふたりで一人前です。そこに大切なのは互いの助けと、なくてはならないかけがえのない存在という自覚です。
ふたりの間には、上下関係は存在せず、平等であり、むしろ自分の欠けを自覚し、それを補う助け手を心から喜ぶ信頼関係が重要になってきます。しかし、が入り込んだ結果、互いに愛しあい、尊重しあう夫婦の関係が崩れたのです。

聖書は、このような夫婦二人の真ん中にイエス・キリストをお迎えすることを勧めています。なぜなら『一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(伝道者の書4:12) 』からです。
ふたりの間には、キリストの赦しと愛があり、夫婦は簡単には切れない三つ撚りの糸となるのです。

牧師コラム 『いのちの息』 2020年1月12日

牧師 高橋勝義

天地創造のわざを完成した第七日、神はこの日を祝福し聖なるものとされました。さらに続いて、聖書は私たち人間の創造を詳しく語ります。『神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)』

ここで語られている「いのちの息」とは、二つのいのちのことです。

一つは、肉体のいのちです。もう一つは、霊のいのちです。神は霊なるお方ですから、人間も霊を持つものでなければ、神と親しい交わりができないからです。

さて、神である【】は、人間に「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:16,17)」と一つの命令を与えます。
「必ず死ぬ」と語られたこのは、二つのを示しています。一つは、肉体の。そして、もう一つは霊的なです。この霊的なは、神との親しい交わりが絶たれることを意味しています。なぜ、神はこのような命令を与えたのか…。
それは人間をロボットのようにではなく、人格を持つ尊い存在、その決断を尊重する存在として造られたからです。

心と心が通う交わりと信頼関係の中で、自らの意志でご自身に従うことを願われたのです。同時に、人間の自由意志を尊重する神は、責任を持ってその歩みを導こうとされた、すなわち人間は神の愛の中に見守られているのです。

神の「いのちの息」が吹き込まれたあなたは、尊い存在とされ、神の愛に絶えず見守られ、育まれているのです。

牧師コラム 『はじめから満ち溢れている神の愛』 2020年1月5日

牧師 高橋勝義

私たちを取りまく宇宙は神秘に満ちています。この宇宙の成り立ちについては、多くの学者が今日も研究を日夜重ねています。

ところが、聖書は、「はじめに神が天と地を創造された」(創世記1:1)と断言しています。また続けて「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」(創世記1:27)と、語ります。
生ける神がどのようにして天と地、すべての生き物、そして人を造られたのか、その順序を詳しく調べてみると、そこに“神の愛”が現わされていることに気づきます。

神は創造の最後に人を造られていますが、それは人が生きていくために必要な物をすべて備えておく必要があったからです。つまり、神は人を愛する大切な存在として創造されたのです。さらに、神はご自分が造られた天と地を人に任せられました。それは人が自分の好きなようにして良いということではなく、神の御心に従って管理する、という意味です。管理を委ねるからには、その能力が必要になってきますが、そこで必要なことは、生ける神とのコミュニケーションです。つまり、神は人を自分と意志の疎通ができる存在として造られたのです。
しかし、それは意のままに動くロボットにするのではなく、意志・理性・感情を持つ、かけがえのない存在としたのです。
そして、「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」(創世記1:31)と語られました。神の創造には何の問題もなかったのです。

はじめから満ち溢れる神の愛によって、すべてのものは造られており、今も神の愛の中で私たち人間は生かされているのです。

牧師コラム 『みことばに生きる』 2020年1月1日

牧師 高橋勝義

明けましておめでとうございます。

今年も主の祝福と守りが皆様の上に豊かにありますようにお祈り申し上げます。
今年もよろしくお願い致します。

 

 

ミルクは、生まれたばかりの赤ちゃんにとって命をつなぐ必要不可欠なものです。
同じように、キリストをからの救い主として信じたすべてのクリスチャンに向かって、聖書は「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(Ⅰペテロ2:2)」と語ります。

神のみことばは赤ちゃんのミルクと同じで、信仰の成長には必要不可欠なものなのです。なぜなら、みことば(聖書)は生ける神の『ことば』であり、それによって、私たちは、過ちを示されたり、慰められたり、励まされたりして、進む道を正しく導かれていくのです。聖書は単に知識を得るための書物ではないのです。

昔、エジプトで奴隷であったイスラエル人は、神の力強い御業によって救い出されました。しかし約束の地を目前にしながら、神の約束を信じないで、自分たちの判断を優先し、ついには荒野で40年間放浪生活することになってしまったのです。
その理由について聖書は「彼ら(イスラエル人)には、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。(ヘブル4:2)」と語ります。つまり『みことばを信じて生きる』ことをしなかったのです。学んだことも単に知っている、というだけではその力は発揮できません。それを日常生活の中に取り込み、生かしてこそ力を発揮するのです。

2020年、新しい年が始まりました。
この年、あなたは何を頼りにして歩むのでしょうか。私たちを愛しておられる生ける神のみことばを土台にする新しい歩みを始めましょう。