牧師コラム 『御顔を避け、身を隠す』 2020年2月2日

牧師 高橋勝義

子どもの頃に遊んだ「かくれんぼ」。鬼に見つからないように身を隠し、息を殺しじっと我慢…見つかると悔しさと同時にほっとする気持ちが入り混じったものです。

さて、神に造られたアダムとエバは、神である主が園を歩き回られる音を聞き、神の御顔を避けて、園の木の間に身を隠してしまいました。(創世記3:8)
それは神が命じた「食べてはならない。必ず死ぬ」を破り、その結果、裸を恥じて隠そうとする恐れが芽生えたからでした。彼らの心にが入り込んだ故です。

神は「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」と尋ねました。
すべてをご存知の神が、その時ふたりに求めたのは、自分のを正直に認め、悔い改めることだったのですが、ふたりの心は神の御顔を避け、身を隠そうとするに支配されて、アダムはエバに責任転嫁をし、エバもまた自分を惑わした蛇に責任転嫁したのです。その結果、女は苦しんで子を産み、男は一生苦しんで食を得なければならなくなり、さらに、神はふたりをエデンの園から追放したのです。(創世記3:11~23)

こうして私たち人間は神中心から自己中心の歩みをする者になりました。

しかし、私たちを愛する神は、神のひとり子イエス・キリストに私たちのを負わせ十字架の死によって、を贖って(あがなって)くださいました。
ですから、神は自分のを正直に認めるならば「もし私たちが自分のを告白するなら、神は真実で正しい方ですから、そのを赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださる(Ⅰヨハネ1:9)」と約束しておられます。

牧師コラム 『死ぬといけないから』 2020年1月26日

牧師 高橋勝義

商品の売り出しに「従来の方法では効果がない」など、消費者の不安をあおる手法を使うことがあります。この同じやり方で、エデンの園で神と平和に暮らしていたアダムとエバに、誘惑の手が伸びてきました。創世記3章1~7節には誘惑の手口、また誘惑される側の心に潜むものが記されています。

蛇が女に「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」と、微妙なことばで聞いてきました。それに対して女は「園の中央にある木の実については『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」と答えます。

ですが、神の命令は『その木(善悪の知識の木)から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:17)』です。

女が微妙に替えたことば、その心の隙間に畳みかけるように蛇は「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」と誘惑したのです。
ついに女は、食べるのに良さそうで、目に慕わしく、賢くしてくれそうなその実を取って食べ、ともにいた夫も食べたのです。誘惑は私たちの心に潜むに訴え、誘うのです。こうして自己中心に生きるが人間の心の中に入ってきました。

しかし、神は私たち人間を見捨てるどころか、愛するひとり子イエス・キリストにそのを負わせ、十字架で刑罰を行われたのです。
「わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ(イザヤ44:22)」と、神はあなたに向かって語っておられます。

牧師コラム 『私の骨からの骨、肉からの肉』 2020年1月19日

牧師 高橋勝義

人間の創造について、聖書は『神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)』さらに『また、神である【主】は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2:18) 』と語ります。
そして神である主は、人(アダム)のところにすべての生き物を連れて行くのですが、ふさわしい助け手は見つからなかったのです。そこで、神は人に深い眠りを下され、彼のあばら骨の一つを取り、そのところを肉でふさぎ、女(エバ)を造られたのです。

アダムは、エバを見て『これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉(創世記2:23) 』と感激するのです。神が女を造られた目的は「ふさわしい助け手」です。
それゆえ、『男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのです(創世記2:24) 』とあるように、夫婦はふたりで一人前です。そこに大切なのは互いの助けと、なくてはならないかけがえのない存在という自覚です。
ふたりの間には、上下関係は存在せず、平等であり、むしろ自分の欠けを自覚し、それを補う助け手を心から喜ぶ信頼関係が重要になってきます。しかし、が入り込んだ結果、互いに愛しあい、尊重しあう夫婦の関係が崩れたのです。

聖書は、このような夫婦二人の真ん中にイエス・キリストをお迎えすることを勧めています。なぜなら『一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(伝道者の書4:12) 』からです。
ふたりの間には、キリストの赦しと愛があり、夫婦は簡単には切れない三つ撚りの糸となるのです。

牧師コラム 『いのちの息』 2020年1月12日

牧師 高橋勝義

天地創造のわざを完成した第七日、神はこの日を祝福し聖なるものとされました。さらに続いて、聖書は私たち人間の創造を詳しく語ります。『神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7)』

ここで語られている「いのちの息」とは、二つのいのちのことです。

一つは、肉体のいのちです。もう一つは、霊のいのちです。神は霊なるお方ですから、人間も霊を持つものでなければ、神と親しい交わりができないからです。

さて、神である【】は、人間に「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:16,17)」と一つの命令を与えます。
「必ず死ぬ」と語られたこのは、二つのを示しています。一つは、肉体の。そして、もう一つは霊的なです。この霊的なは、神との親しい交わりが絶たれることを意味しています。なぜ、神はこのような命令を与えたのか…。
それは人間をロボットのようにではなく、人格を持つ尊い存在、その決断を尊重する存在として造られたからです。

心と心が通う交わりと信頼関係の中で、自らの意志でご自身に従うことを願われたのです。同時に、人間の自由意志を尊重する神は、責任を持ってその歩みを導こうとされた、すなわち人間は神の愛の中に見守られているのです。

神の「いのちの息」が吹き込まれたあなたは、尊い存在とされ、神の愛に絶えず見守られ、育まれているのです。

牧師コラム 『はじめから満ち溢れている神の愛』 2020年1月5日

牧師 高橋勝義

私たちを取りまく宇宙は神秘に満ちています。この宇宙の成り立ちについては、多くの学者が今日も研究を日夜重ねています。

ところが、聖書は、「はじめに神が天と地を創造された」(創世記1:1)と断言しています。また続けて「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」(創世記1:27)と、語ります。
生ける神がどのようにして天と地、すべての生き物、そして人を造られたのか、その順序を詳しく調べてみると、そこに“神の愛”が現わされていることに気づきます。

神は創造の最後に人を造られていますが、それは人が生きていくために必要な物をすべて備えておく必要があったからです。つまり、神は人を愛する大切な存在として創造されたのです。さらに、神はご自分が造られた天と地を人に任せられました。それは人が自分の好きなようにして良いということではなく、神の御心に従って管理する、という意味です。管理を委ねるからには、その能力が必要になってきますが、そこで必要なことは、生ける神とのコミュニケーションです。つまり、神は人を自分と意志の疎通ができる存在として造られたのです。
しかし、それは意のままに動くロボットにするのではなく、意志・理性・感情を持つ、かけがえのない存在としたのです。
そして、「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」(創世記1:31)と語られました。神の創造には何の問題もなかったのです。

はじめから満ち溢れる神の愛によって、すべてのものは造られており、今も神の愛の中で私たち人間は生かされているのです。

牧師コラム 『みことばに生きる』 2020年1月1日

牧師 高橋勝義

明けましておめでとうございます。

今年も主の祝福と守りが皆様の上に豊かにありますようにお祈り申し上げます。
今年もよろしくお願い致します。

 

 

ミルクは、生まれたばかりの赤ちゃんにとって命をつなぐ必要不可欠なものです。
同じように、キリストをからの救い主として信じたすべてのクリスチャンに向かって、聖書は「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(Ⅰペテロ2:2)」と語ります。

神のみことばは赤ちゃんのミルクと同じで、信仰の成長には必要不可欠なものなのです。なぜなら、みことば(聖書)は生ける神の『ことば』であり、それによって、私たちは、過ちを示されたり、慰められたり、励まされたりして、進む道を正しく導かれていくのです。聖書は単に知識を得るための書物ではないのです。

昔、エジプトで奴隷であったイスラエル人は、神の力強い御業によって救い出されました。しかし約束の地を目前にしながら、神の約束を信じないで、自分たちの判断を優先し、ついには荒野で40年間放浪生活することになってしまったのです。
その理由について聖書は「彼ら(イスラエル人)には、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。(ヘブル4:2)」と語ります。つまり『みことばを信じて生きる』ことをしなかったのです。学んだことも単に知っている、というだけではその力は発揮できません。それを日常生活の中に取り込み、生かしてこそ力を発揮するのです。

2020年、新しい年が始まりました。
この年、あなたは何を頼りにして歩むのでしょうか。私たちを愛しておられる生ける神のみことばを土台にする新しい歩みを始めましょう。

牧師コラム 『モーセ物語~その3』 2019年12月29日

牧師 栗原延元

前回(9/29)は、モーセに引き連れられて、エジプトを脱出した故事について学びました。その故事が「過越の祭り」です。その祭りが、「聖餐式」として現代のキリスト教会に引き継がれています。

イスラエルの民は、エジプトを出てから、約束の地に入るまで四十年間、シナイの荒野を旅します。その間の出来事をまとめたものが旧約聖書「民数記」です。
今日は民数記21章4~9節を学びます。それは主イエス様が〈モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません〉(ヨハネ伝3:14)と民数記のこの箇所をとりあげているからです。
人の子が上げられる、とは十字架に磔(はりつけ)られる事です。これを聞いた、ニコデモ(ユダヤ人の指導者)、ペテロやヨハネの弟子たちは、驚いたようです。なぜ、そのようなことが是とされるのか…。そのような弟子たちのひとり、ヨハネの心に染み入るように〈それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。〉と主イエスは語られたのでしょう。
ペテロは、このときの主イエスを思い出しながら、〈そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるためです〉(Ⅰペテロ2:24)と証しするのです。

牧師コラム 『インマヌエル』 2019年12月15日

牧師 高橋勝義

心に悩みを抱え苦しむ時、ありのままを受け入れ、寄り添ってくれる人がいたならば、どんなに慰められ、励まされることでしょう。ましてや、それが神様であるならば、どんなに勇気づけられることでしょうか。

さて、今から約2700年以上も昔、ユダの王アハズは、同胞のイスラエルとシリアから攻撃を受けていました。その時、神の預言者イザヤはアハズ王に、昔エジプトの奴隷であった自分たちを救い出された「生ける神」に信頼するように促しました。さらに「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ7:14)」と、やがて救い主がこの世に来られることを預言したのです。

「インマヌエル」とは、「神は私たちとともにおられる」という意味です。

イザヤの預言通り、今から約2000年前に神であるお方、即ちイエス・キリストは人となってこの世にお生まれになられたのです。聖書は、このキリストの歩みについて「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(ヘブル2:18)」と記しています。
私たちと同じ人間となってこの世に生まれたキリストは、私たちの悩みや苦しみをすべて御存知の神の御子です。決して、遠くから傍観しておられる神ではなく、私たちと積極的に関りを持たれる神であり、あなたの傍らに寄り添われる神なのです。

クリスマスは、神が私たちとともにいてくださることを御子イエス・キリストの誕生を通して、あなたに明らかにされた喜びの時なのです。

牧師コラム 『偶像から自分を守りなさい』 2019年12月8日

牧師 高橋勝義

日本はすべてのものに神が宿ると考える多神教の国ですから、その信仰の対象は自然界から人間まで無限です。そして、その神々を「やおよろずの神」と表現し、「八百万の神」と書きます。これは数えきれないくらいの神々がいるという意味です。

聖書は、これら偶像について「見ることも聞くこともできず、食べることも嗅ぐこともできない、人の手のわざである木や石の神々[偶像] (申命記4:28)」である、そして人はこれらの偶像に仕え支配されている、と語ります。
ですから、ヨハネは「子どもたち、偶像から自分を守りなさい(Ⅰヨハネ5:21)」と命じます。なぜなら、偶像は、天と地と海、そして人間を造られた生けるまことの神から私たちを引き離し、さらには祟りなど恐怖心を植えつけて、私たちの心を縛るからです。しかし、それは人の手で作られた偶像にそのような力があるわけではなく、そこにサタンの力が働いているからなのです。

生ける神は、私たちを縛るサタンの支配から私たちを解放するために、御子イエス・キリストをこの世に送られました。キリストは、滅びに向かう私たちのすべてのと呪いの縄目を十字架で流された血潮によって断ち切ったのです。さらに十字架で死なれた後、墓に葬られましたが、三日目によみがえり、死に勝利されたのです。
このお方、イエス・キリストをからの救い主として信じる者は神の子とされ、サタンの支配から解放され、呪いや祟りから完全に自由にされた者となるのです。
偶像から離れ、イエス・キリストを信じることは、サタンに打ち勝つ秘訣なのです。

サタンに打ち勝つ力を与えるイエス・キリストの誕生を喜びお祝いしましょう。

牧師コラム 『死に至る罪』 2019年12月1日

牧師 高橋勝義

結核が「死の病」として恐れられていた時代が過去にはありましたが、今では薬で完治する病となりました。一方で人は、必ず死を迎えるのも事実です。
では体の機能がすべて停止した時、すなわち死を迎えた時に私たちの霊(魂)はどうなるのでしょうか。多くの人は、体は朽ちても霊(魂)は永遠に存在すると思っています。ですから死んだ後、霊(魂)はどこに行くのだろうかと不安を抱くのです。

神によって造られた初めの人には、まだ「」は存在しませんでした。

しかし、神の命令を破るを犯したために、肉体のと神との交わりが断たれる「霊的な死」の二つが入り込んできたのです。この二つの死を解決するために、神はイエス・キリストをこの世に遣わされ、私たちが犯したすべての罪をイエス・キリストに負わせ、十字架の上での処罰をされたのです。そして、この事実を受け取り、を認め、イエス・キリストを救い主として信じるすべての者に、「永遠のいのち」を与えると神は約束されたのです。

さてヨハネは「霊(魂)を死に至らせるについては、願うようにとは言わない(Ⅰヨハネ5:16)」と警告しています。これは、どういう意味なのでしょうか。

死に至るとは、「聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠のに定められます(マルコ3:29)」とあるように聖霊を否定するです。なぜなら、私たちを救いに導くのは、聖霊の働きによるもので、決して行いによるのではないからです。
すべて神の恵みです。今この時にも聖霊はイエス・キリストが救い主であることをあなたに語りかけています。この聖霊の声に耳を傾けてみませんか?