牧師コラム 『キリストについての神の証し』 2019年11月24日

牧師 高橋勝義

裁判では証拠の有無が重要です。それが真偽を判断する根拠になるからです。そして、その証拠には物的証拠と証言による人的証拠とがあります。

ところで、聖書は「私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです(Ⅰヨハネ5:9)」と語っていますが、神は一体何について証ししているのでしょうか…。それは、愛する一人子イエス・キリストをこの世に遣わされたこと、つまり神の私たち人間への愛です。
このお方は約2000年前、ユダヤのベツレヘムで生まれました。
そして、ご自分がこの世に来た目的について「人の子(イエス・キリスト)は、失われた者を捜して救うために来た(ルカ19:10)」と語っています。

本来、まことの神によって造られた人は、神とともに歩むはずでした。

ところが、神の命令を破り、神から離れ、背を向け、自分中心に生きるようになったのです。この歩みがであり、それゆえ人は「失われた者」になったのです。失われた私たちを再び神とともに歩む者にするために、キリストは十字架上で、私たちの身代わりとなっての刑罰を受けられたのです。
これこそ、私たちへの神の愛の証しです。また、キリストをからの救い主として信じる時、神との関係が修復され、神とともに歩むことが可能になるのです。
聖書では証人について、公平を期するために二人以上の証人による証言が求められています。ですから、神は物的証拠としてのイエス・キリストの誕生と十字架の贖い、さらに歴史上の証人という確かな証拠を私たちに示されたのです。

あなたも神のこの証しを受け入れてみては如何でしょうか?

牧師コラム 『信仰による勝利』 2019年11月17日

牧師 高橋勝義

ヨハネは、「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です(Ⅰヨハネ5:4)」と語りました。では「世に打ち勝つ信仰」とは、何でしょうか?
サタンの力の支配下にあるこの世には、罪と悪の楽しみが満ちています。
陰口や悪口、弱い者いじめ、ポルノ…良くないと分かっていてもコントロールができないのです。それは、まことの神から離れたすべての人間の姿、罪人の姿です。更に、さけては通れないも待ち受けています。

しかし、神は私たちのすべてのを愛するひとり子イエス・キリストに身代わりとして負わせ、十字架上で処罰されました。
信仰とは、この事実を自分のことと受け取り、を認め、告白し、キリストをからの救い主として信じること。更にキリストは、死んで墓に葬られ三日目によみがえられた、この事実を信じることです。
この信仰こそが、世に打ち勝つ勝利をもたらすのです。
心の中にある「憎しみ・恨み・嫉妬・妬み」などが、私たちの人生を狂わすのですが、これらを自分の力ではどうすることも出来ないのが私たち人間です。
ところが、キリストを信じる者の内には、聖霊がおられるので、聖霊の助けと励ましによって、に打ち勝つ力が与えられるのです。更にキリストを信じる者には、「永遠のいのち」が与えられるので、「」に対しても勝利できるのです。

人は、誰でも必ずを迎えます。このは、まことの神に背を向けたの結果ですが、十字架上でこのの刑罰を受けてくださったキリストを信じる者は、キリストが再びこの地上に来られる時、キリストを信じるすべての者とともによみがえるのです。
ですから、聖書は「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(Ⅰヨハネ5:5)」と語るのです。

牧師コラム 『神が私たちを愛された』 2019年11月10日

牧師 高橋勝義

愛には、色々な種類の愛があります。恋愛の愛、それは相手に求める愛です。さらに家族や親友への愛、そこにはいとおしむ心が溢れ、犠牲をもいとわない…。
しかし、一方的で押し付けの愛になってしまうこともあります。恋愛も、親子の愛も、友情も、私たち人間の愛には限界があり、見返りを求めてしまう愛なのです。

けれども、ここにもう一つの愛があります。
それは愛するに値しない者をも愛し、ひたすら相手の利益のために一方的に与え尽くして下さる“神の愛”です。
聖書は、あなたに「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちののために、宥めのささげ物としての御子(イエス・キリスト)を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」と語っています。
「宥め(なだめ)のささげ物」とはを犯した者が、ささげ物によってゆるしを請うものです。神に造られ愛されていながら、その命令を破り、神から離れ、に支配されている私たちを、神は見捨てず、愛してやまないお方です。

しかし、神はきよく正しいお方でもありますから、私たちのは罰します。

それ故、神ご自身が、愛する一人子であるイエス・キリストを私たちののための「宥めのささげ物」として、十字架の上で処罰されたのです。これが、神の愛です。
神の愛は、罪人である私たちに対して、神が、自己を犠牲にして注ぐ「無償の愛・見返りを求めない愛」なのです。
「私は神を無視して生きてきた」と思うなら「神様、私を赦してください」と心の中で祈りましょう。そして、あなたのために惜しみなく愛を注がれる神と共に人生を歩んでみませんか。

牧師コラム 『真理の霊と偽りの霊』 2019年11月3日

牧師 高橋勝義

人間は、からだ(肉体)と霊(たましい)とを持つ存在です。
ではなぜ、人は霊(たましい)を持っているのでしょうか?
それは、神が《いのちの息》を人の鼻に吹き込まれたからです。
ご自身が“霊”なるお方である神は、ご自分と親しく交わることができるように、私たち人間に“霊”を与えてくださったのです。

ところで、ヨハネはこの世には「真理の霊と偽りの霊」があると語っています。

真理の霊は、イエス・キリストをからの救い主であることを明らかにし、キリストを信じる信仰へと導きます。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません(Ⅰコリント12:3)」。
ですから、イエス・キリストを告白する霊がまことの神からのものである、と見分けられるのです(Ⅰヨハネ4:2)。これに反し、キリストを否定する霊は、反キリストの霊であり、偽りの霊です(Ⅰヨハネ4:3)。
この世には様々な霊があるので、その霊がまことの神からのものかどうか、吟味し、真理の霊なのか、それとも偽りの霊なのかを、よく見分けるように、とヨハネは促すのです。それは、まことの神との親しい交わりが失われないようにするためです。さらに、この世にあまた溢れる偽りの霊はキリストの十字架によって、すでに打ち破られているので、何も恐れる必要はありません。

私たちを愛し、大切なご自分のひとり子イエス・キリストのいのちをプレゼントして下さった、まことの神に心からの感謝を捧げ、賛美し、礼拝しましょう。

牧師コラム 『死からいのちに移された』 2019年10月27日

牧師 高橋勝義

ヨハネは、「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています(Ⅰヨハネ3:14)」と語っています。では、死からいのちに移ったとは、どのような意味なのでしょうか。

天地万物を創造されたまことの神は、ご自身と親しい交わりを持つ存在として、人間を造られました。そして、神は人に一つの命令を与えます。その命令とは「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:16,2:17)」でした。

ところが人はこの命令を破ってしまったために、二つのが入り込んできたのです。一つは肉体の死です。もう一つは神のとの交わりが絶たれた霊的な死です。
けれども、神は私たちを愛する故に、神の一人子イエス・キリストをこの世に遣わし、私たちのすべてのをその身に負わせ、十字架の上での刑罰を行ったのです。

この神の愛を受け取り、キリストを信じる者には、復活したキリストから新しいいのちが与えられ、神との交わりが回復し、肉体の死霊的な死から解放されるのです。これが、「死からいのちに移された」の意味するところです。

キリストを信じる者はその愛の中に生きる者に変えられ、更には「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい(ヨハネ15:12)」と命じられるのです。
そこで、ヨハネは「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。(Ⅰヨハネ3:18)」と愛の実践を行うよう勧めるのです。

憎しみから愛する者に変わることを可能にするのは、御子イエス・キリストの名を信じる信仰によって、死からいのちへ移されること以外にはないのです。

牧師コラム 『神の種』 2019年10月20日

牧師 高橋勝義

花の種を購入する時には、袋に印刷された花の写真が参考になります。写真を見れば、どんな花が咲くのかが分かるからです。
しかし、種を蒔き、楽しみに、大切に育てたのに、写真とは全く違う花が咲いたとしたら、がっかりしてしまうことでしょう。

ところで、愛は何によって測ることができるのでしょうか。

イエス・キリストは、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15:13)」と語りました。
あなたのために、キリストは、ご自分のいのちを十字架の上で献げられたのです。その動機は、あなたを“愛”しているからでした。
私たちは、神に背を向け、神から離れた自分中心の歩みの結果、憎しみと恨みと妬みの渦巻くに支配されています。この歩みの行きつく先は、滅びです。

キリストは、この滅びの歩みからあなたを救うために、あなたのを身代わりに負い、ご自分のいのちを献げられたのです。
同時に、あなたに“愛”を届けたのです。この愛を受け取って、キリストを信じるとき、あなたの内に「神の種」即ち、神の愛が宿るのです。
ですから、ヨハネは「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です(Ⅰヨハネ3:11)」と語ります。
キリストを信じた者の内には、神の種が宿っているので、“愛の花”が咲き始めるのです。神の子どもの特徴は、“愛”を咲かせることなのです。

牧師コラム 『変わらない神の愛』 2019年10月13日

牧師 高橋勝義

震災から9年、町の風景は一変し、人々の生活も変わりました。新しい道路が次々と造られ、今も新たな道路が建設中です。そのような中でも、私のカーナビの地図は震災前のままで、そこだけは、まるでタイムスリップしているかのようです。

しかし、世界がどんなに変わろうとも“神の愛”だけは変わることがありません。

イエス・キリストは、『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと…(ヨハネ15:12)』と語られました。『わたしがあなたがたを愛したように』とは、ご自分のいのちを私たちのために献げてくださった十字架の“愛”のことです。ではなぜ、神は大切なひとり子イエス・キリストのいのちを、私たちにくださったのか、それは神が私たちを愛してやまないお方であり、さらにある私たちの行きつく先が滅びであることをご存知だからなのです。

神は私たちを救うために、私たちのすべてのをキリストに負わせ、十字架の上でそのを処罰されたのです。この事実を受け入れ、罪を認め、キリストを救い主として信じる時、私たちは救われるのです。さらに復活されたイエス・キリストから、私たちは新しいいのちを頂き、新しい歩みへと踏み出します。
しかし、そこには不安と恐れも出てきます。ですから、神は、キリストを救い主として信じたすべての人に対して『ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。(申命記31:8)』と約束してくださっているのです。

キリストを信じる者は、変わらない神の愛と、この約束に守られているのです。

牧師コラム 『イエスはキリストか』 2019年9月22日

牧師 高橋勝義

私たちの名前は親の思いや期待が込められて名付けられているものです。
ところで、「イエス・キリスト」というお方の名前はどうなのでしょうか…。

今から約2000年前、イエス様の父となったヨセフは、御使いから「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救って下さる方です(マタイ1:21)」と、告げられます。そして両親はその通りに「イエス」という名を付けました。この神のひとり子の名前「イエス」は、ヘブル語の「ヨシュア」をギリシャ語読みにした名前で、「主は救い」という意味です。
では、「キリスト」の意味は何でしょうか。これはヘブル語の「メシヤ」をギリシャ語読みにしたのが「キリスト」で、「油注がれた者、救い主」という意味です。

イエス・キリストの弟子ペテロは、「あなたは生ける神の子キリストです(マタイ16:16)」と告白しています。これは、ペテロの信仰告白なのです。
しかし、キリストを否定する者たちが現れたために、ヨハネは「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。(Ⅰヨハネ2:22)」と注意を促す手紙を書いたのです。

イエス・キリストは、「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。(ヨハネ5:24)」と約束されました。

キリストを否定するということは、この素晴らしい約束を失うことになるのです。

このお方は、確かに罪からの救い主、人生の主である「キリスト」なのです。

牧師コラム 『世に打ち勝つ者とはだれか』 2019年9月15日

牧師 高橋勝義

「勝ち組」とか「負け組」と言った言葉をよく耳にします。「勝ち組」とは、富や地位、名誉を得て、人生の成功者となった人。それに対して、「負け組」とは、人生がうまくいかず、敗北したようにみえる人のことでしょうか。

聖書では、本当の勝ち負けについて、どのように言っているのでしょうか?

ヨハネの手紙第一2章13節と14節で、ヨハネは、二度も繰り返して、「あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」と語っています。
また、悪い者に打ち勝った理由については、第一に「初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです」。第二には「あなたがたのうちに神のことばがとどまった」からであると語っています。

「初めからおられた方」とは、天地万物の創造の時、父なる神とともにおられたイエス・キリストのことです。このお方は、私たちを罪から解放するために、私たちの罪を身代わりに負い、十字架で死んで下さいました。私たちは、このキリストを罪からの救い主として信じる時、罪赦され、新しいのちによる歩みへと導かれたのです。それは、悪しき者の支配から解放され、罪に打ち勝つ者になったことを意味します。

 罪に対して、私たちの生まれながらの力は、太刀打ちできません。

しかし、「神のことばがとどまるなら」とあるように、神が与えて下さったみことば(聖書)に聞き従って歩もうと、舵を神の力に頼る生き方に変える時、私たちの内におられる聖霊が力を与えて下さり、悪い者、即ち、サタンからの誘惑や力に打ち勝たせて頂けるのです。
ヨハネは、私たちには素晴らしい味方がいることを思い起こさせ、真の勝利者はキリストを信じる者にあることを示してくれたのです。

牧師コラム 『光と闇』 2019年9月8日

牧師 高橋勝義

「光と闇」と聞くと、多くの場合、光は善、闇は悪、とイメージするのではないでしょうか。また、成功は光で、失敗は闇と人生を表現することもあります。
では、聖書は「光と闇」について、どのように語っているのでしょうか。
聖書は「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです(ヨハネの手紙第一2章9節)」と語っています。
「光」とは、私たちを造られた創造主である「まことの神」のことであり、「光の中にいる」とは、「神の愛」の中に生きることなのです。

なぜなら、神の一人子であるイエス・キリストが十字架の上で死なれたのは、私たちを愛するゆえに、私たちのの身代わりとなられたからで、このお方を人生の主として信じる時、神の子どもとされ、神の愛の中に生きる者とされるからです。
しかしイエス・キリストを信じ、神の子どもとされても、残念なことに私たちの心の中には次々と怒りや憎しみ、競争心、虚栄心、高慢などのが湧き出てきます。
これらのをそのまま放置するなら、その人は闇の中で生きることになります。
ですから、光の中に生きるとは、日々、そのを正直に神の前に認め(告白し)、イエス・キリストの十字架の血潮によってきよめていただく歩みなのです。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます(ヨハネの手紙第一1章9節)」

自分の力では赦すことも、愛することも出来ない私たちですが、信じる者の内におられる聖霊の助けと力により、愛の中に生きる者へと変えられていくのです。