牧師コラム 『今は恵みの時、今は救いの日』 2021年6月6日

牧師 高橋勝義

弟ヨセフを売ることを先導したユダでしたが、ヨセフを失い嘆き悲しみ続ける父の姿に耐えられず、彼は父や兄弟たちの元から離れて暮らし始めたのです。そしてカナン人の娘を見そめて結婚し、エル、オナン、シェラの三人の男子が生まれます。ユダは長子エルにタマルという妻を迎えます。しかしエルは主の目に悪しき者であったので、主は彼を殺されました。

ユダは次男オナンに「兄嫁のところに入り、兄のために子孫を残すようにしなさい」と語ります。しかしオナンは生まれる子が自分の子ではなく、兄の子孫となるため、弟の義務を果たしませんでした。このことは主の目に悪しきことであり、主はオナンも殺されたのです。ユダは唯一残されたシェラも兄たちのように死ぬといけないと思い、嫁のタマルにシェラが成人するまで自分の父の家で待つように言いました。(創世記38:1~11)

ユダの息子エルとオナンは真の神を畏れず自由奔放に生きていました。「まことに正しい者の道は主が知っておられ悪しき者の道は滅び去る(詩篇1:6)」と聖書が語る通り、神は悪しき行いの二人を取り去られたのです。

本来、私たちも創造主なる神に背を向け、神の教えに聞き従わずに歩む者で、エルとオナンと同様に生まれながら神の御怒りを受けるべき者でした。しかし、神は私たちのすべての背きの罪をイエス・キリストに負わせ、十字架の上でその罪を処罰されました。神はこの事実を自分の事として、私たちが受け取ることを望んでおられます。「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる(Ⅱペテロ3:9)」とあるように、神は忍耐し、待っていてくださるのです。

それゆえ、「今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2) なのです。

牧師コラム 『求めなさい。そうすれば与えられます。』 2021年5月30日

牧師 栗原延元

人には「祈り心」があるようです。ですが、誰に祈るのか、どのように祈るのかが、大切なようです。

まず誰に祈るかというと、天にいます父なる神に祈るのです。「自分の子がパンを下さいと言うのに、だれが石を与えるでしょう。また子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。」とイエスは山上の垂訓の中で教えておられます。
親は誰しも、我が子には良いものを与えようとしているのです。ですから、天におられる父なる神が私たちに「良いもの」を下さらないはずはないのです。

私たちは、祈り続けることを途中で止めてしまいやすいのです。今日の聖書の箇所は「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」と3度も繰り返して、祈り続けるようにと主イエスは、私たちを励ましているのです。それは、天におられる父は、あきらめずに、祈り求めている人の声を必ず聞いて下さる方であるからなのです。

牧師コラム 『新しくされる歩み』 2021年5月23日

牧師 高橋勝義

ヨセフが売られてしまったことを知らない長兄ルベンが、穴の所に戻ってくると、そこにヨセフの姿はなく、ルベンは自分の衣を引き裂き取り乱します。
そして兄弟たちは雄やぎを屠り、ヨセフの長服をその血に浸し、それを父のところに送り届けて、「これを見つけました。あなたの子の長服かどうか、お調べください。」と言ったのです。父ヤコブはヨセフが悪い獣に食い殺されたと思い込み、何日もその子のために嘆き悲しみました。みなが来て父を慰めますが、慰められるのを拒み「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい」と泣くのでした。(創世記37:29~35)

一方エジプトに連れて行かれたヨセフは、ファラオの廷臣、侍従長ポティファルに売られてしまいます。父の弟への偏愛が兄たちの心に嫉妬と憎しみを生み、さらに弟の傲慢が兄たちの悪意を増幅させて起きてしまった悲しい家族の事件です。

しかしこのような出来事は、決して珍しいことではありません。聖書が「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。(エレミヤ17:9)」と語っている通り、生まれながらの罪人である私たちの心は悪意に支配されてしまう危険を常に持っているのです。しかし、イエス・キリストは私たちの悪意の根源である罪を贖うために十字架でいのちを捨ててくださいました。

このお方を罪からの救い主と信じる者は、すべてが新しくされる歩みへと移されるのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)」

牧師コラム 『悪意からの解放』 2021年5月16日

牧師 高橋勝義

父に溺愛されるヨセフに妬みと悪意を抱いていた兄たち。しかもその兄たちが自分を拝むという夢を二度も話すヨセフに、兄たちの怒りと憎悪は増すばかりでした。(創世記37:8)

父ヤコブは、このような兄弟の関係を薄々知りながらも、羊を連れシェケムの地に行った兄たちの無事を見るために、ヨセフを使いに行かせます。シェケムは昔娘ディナのことで虐殺事件を起こした場所でした。遠くから来るヨセフを見た兄たちは彼を殺そうと企むのですが、長子ルベンが阻止し、ヨセフは穴に投げ込まれます。しかしルベンがいない間に、ユダが兄弟たちに「弟を殺し、その血を隠しても、何の得になるだろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが手をかけてはいけない。あいつは、われわれの弟、われわれの肉親なのだから。」と提案し、イシュマエル人の隊商に銀二十枚で売り、ヨセフは遠いエジプトに連れて行かれました。(創世記37:26~28) この時、神の御手が動き、兄たちは悲惨な弟殺しに手を染めることから免れ、ヨセフの命も守られたのです。

初めの人アダムとエバの息子の兄カインは「罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない(創世記4:7)」と神から愛の忠告を受けていたのですが、弟アベルへの嫉妬からくる激しい怒りを止められず、弟を殺してしまいました。実はこのカインの姿は、私たちの姿でもあります。心を暗く支配する悪意から解放される秘訣は、正直に心の状態を認めてすべての罪の為に死んでくださったイエス・キリストの十字架を見上げ、その愛の中にとどまることです。その時心の闇に神の光が差し込み、悪意から解放されるのです。

「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう(箴言10:12)」

牧師コラム 『ヨセフの夢』 2021年5月9日

牧師 高橋勝義

兄エサウがセイルに出て行った後もヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住み続けます。ヤコブは神の祝福を受け継いだとはいえ、その家族は4人の妻のもとに生まれた12人の子どもたちで構成された複雑な家族でした。とくにヤコブは年老いて生まれた、最愛の妻ラケルの第一子ヨセフを、溺愛していました。そのため「兄たちは、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった(創世記37:4)」ほどです。

しかしヨセフは、穏やかに話すことさえできない家族の雰囲気を推しはかることもなく、自分が見た夢を兄たちに話します。その夢は兄たちが自分を伏し拝むという内容で、これを聞いた兄たちは「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」と、ますます彼を憎むようになったのです。(創世記37:8) さらには「太陽と月と十一の星が私を伏し拝む」という二度目の夢までも話すヨセフを父ヤコブは叱りますが、このことを心にとどめたのです。それは、かつてベテルの地で神が夢に現れ、ご自身のみこころを示してくださったからでした。

「全能の神」は、あらゆる方法を用いて、ご自身のみこころを人に示してくださいますが、今の時代は、すべての人に分かるように、神のみことばである「聖書」に明らかにされておられます。その愛の神のみこころとは「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに世(すべての人々)を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」にります。

イエス・キリストの十字架にこそ、神のみこころが現わされているのです。

牧師コラム 『真の主権者である神』 2021年5月2日

牧師 高橋勝義

創世記36章はイサクの息子であるエサウの子孫エドムの歴史が記されています。
カナンの地にいた頃のエサウの系図、そしてカナンの地を弟ヤコブ一族に譲り、死海南東のセイルの山地に定住していったエサウの系図です。セイルの山地にはすでに先住の民フリ人セイルの子たちがいましたが、聖書は「エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにし、彼らに代わって住むようになった(申命記2:12)」と記しています。 このように、神は兄のエサウにも慈しみを注ぎ、約束通り(創世記25:23)その子孫をひとつの国民(エドム人)としてくださり繁栄させてくださいました。

神はアブラハムに「わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。(創世記17:6)」と約束され、その約束はイサクに引き継がれ、さらにヤコブにもベテルで「一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。(創世記35:11)」とはっきり語られました。

時が経ち、エドムはイスラエルの王ダビデに打ち負かされ(Ⅱサムエル8:14)、ここに神の語られた「二つの国があなた(イサクの妻リベカ)の胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。(創世記25:23)」が成就したのです。神の約束は時代が変わろうとも、必ず成し遂げられます。

「わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。(イザヤ46:10)」
全世界の真の主権者・支配者は聖書が語る「全能の神」なのです。

牧師コラム 『二つの道』 2021年4月25日

牧師 高橋勝義

ヤコブは約束の地カナンで妻ラケルがいのちと引きかえに生んだ末息子の名を「ベニヤミン(右手の子)」とつけました(創世記35:18)。それは、ここまで自分を導いてくださった全能の神への信頼と、その子の将来をこのお方に託す信仰からでした。そして彼は父イサクのもとに帰り着きます。父イサクの亡きあともヤコブたちは、兄エサウの一族と一緒に住んでいました。しかし彼らが一緒に住むには所有する物が多すぎ、その地は彼らを支えることが出来なくなり、兄エサウはカナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れ、セイルの山地に移り住んだのです(創世記36:6~8)。その後、エサウの子孫はエドム人と呼ばれるようになりました。ここからエサウとヤコブのふたごの兄弟は、全く別の道を歩み始めたのです。

二人の歩みを大きく変える大事件の始まり、それは長子である兄エサウが野から帰って来たある日のことでした。空腹に耐えかねたエサウは大切な長子の権利を弟ヤコブが煮ていたレンズ豆の煮物とパンと交換してしまったのです。この出来事を聖書は「エサウは長子の権利を侮った(創世記25:34)」と記しています。事実、兄エサウは神を畏れず、神に聞き従う歩みを軽んじ、この世のものを追い求めていたのです。神は二人が生まれるとき「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」(創世記25:23)と語られましたが、それが現実となりました。

私たちの前には、神のみことばを信じて生きるのか、この世のものを頼りに生きるのか、の二つの道があります。イエスさまは「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです(ルカ11:28)」と語られましたが、ヤコブは神に聞き従う歩みを選んだのです。

牧師コラム 『全能の神への信頼』 2021年4月18日

牧師 高橋勝義

ヤコブは神の命令に従いベテルで祭壇を築き、神を礼拝した後、エフラテに向かいますが、その途中、妻ラケルが難産の末に息を引き取り、エフラテ、すなわちベツレヘムへの道に葬ります(創世記35:19)。母ラケルは、その子をベン・オニ(私の苦しみの子)と呼びましたが、父ヤコブは「ベニヤミン(右手の子)」と名づけました(創世記35:18)。

最愛の妻の死は、辛く悲しい出来事でしたが、ヤコブは約束の地で生まれた息子の名が将来にわたって「苦悩と絶望」をイメージさせるのではなく、未来への希望を託して「ベニヤミン」と名づけたのです。伯父ラバンに仕えた20年は、ラケルに出会い、ラケルを愛した20年でもありましたが、決して自分の願い通りではありませんでした。しかし父イサクから受けた祝福(創世記28:1~4)と、神がベテルで現れ約束してくださった通りに(創世記28:13~15)、神が自分を祝福して多くの子どもと財産を与えてくださった事実に、神の約束はどんな時も真実であることを実感していました。ですから、末息子の名前を「ベニヤミン」としたのはヤコブの全能の神に対する信頼の表れであり、真っ直ぐな信仰告白なのです。

「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)

そこからイスラエルはさらに旅を続け、ヘブロンのマムレにいる父イサクのところに帰り着きます。イサクは年老いて満ち足り、息絶えて死に、自分の民に加えられ、息子のエサウとヤコブが父を葬ったのです。イサクの生涯は百八十年でした(創世記35:29)。
アブラハムやイサクに記されている「満ち足りた人生」とは、まさに全能の神に信頼し、従い続けて歩んだ者の人生なのです。

牧師コラム 『地にひれ伏すヤコブ』 2021年3月21日

牧師 高橋勝義

兄に対する恐れから神の前に一人出て夜明けまで祈りの格闘をしたヤコブでしたが、執拗に神に祝福を願って食い下がります。ついに神は、彼の強い自我を打つためにももの関節を打ちます。そしてヤコブ(押しのける)に「イスラエル」の名を与えます。

祈り終えたヤコブは、足を引きずっていましたが、神は最善を成してくださると信じ、このお方にすべてをゆだねる信仰へと導かれていました。

当初、ヤコブは陣営を二つに分け「自分の先に行く贈り物で兄をなだめ、その後で兄と顔を合わせよう。もしかすると、私を受け入れてくれるかもしれない」と考え、自分は最後尾にいる計画を立てていました。しかし、神に自我を砕かれ、自分の力で生きる者から神に信頼して歩む者、へりくだった者に変えられ、自ら家族の先頭に立ち、何と、兄エサウに近づくまで七回も地にひれ伏しながら歩んだのです(創世記33:3)。

エサウは走って来て、弟を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣きました。20年という歳月によるエサウの心の変化もさることながら、足を引きずりながら敬意と真心をもって何度も地にひれ伏すヤコブの姿に、兄は迎えに走ったのでしょう。すべては神のあわれみです。そして兄へのなだめの贈り物は、兄の好意に感謝する贈り物となりました。こうしてヤコブは、神に信頼し従う歩みの幸いと神の恵みの深さを知ったのです。

エサウは、その日、セイルに帰りました。そしてヤコブは、ここから新たな一歩を踏み出したのです。

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(Ⅰペテロ5:6)

牧師コラム 『人生の分岐点』 2021年3月14日

牧師 高橋勝義

兄との再会に向けて、ヤコブは贈り物など周到な準備をしますが、不安と恐れは全く解消されず、『わたしはあなたを幸せにする』と言われた神の約束にすがって必死に祈りました。

兄エサウに会う時が近づき、ヤコブは贈り物と一緒に家族を先に行かせます。それは神ご自身からの確かな保証を得るために、の前にひとり出て祈るためでした。ヤコブは神に祈りますが、この祈りの格闘は夜明けまで続きました(創世記32:24)。名が「押しのける」の意味の通り、ヤコブは自我が非常に強く、我を張り続けるために神は彼のももの関節を打ちますが、それでも彼はしぶとく祝福を求め続けました。

ヤコブと戦ったお方は「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエル(神は争われる)だ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)」と言われました。

『人と戦って、勝ったからだ』とは、ヤコブの戦いの真の相手は自分自身、すなわち彼は自我と戦い、その自我が打ち砕かれたのです。「どうか、あなたの名を教えてください」と願うヤコブに、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言い、その場で彼を祝福したのです。(創世記32:29)ももの関節を打たれた彼はこの時から、足を引きずるようになり、杖にすがる人生、神に頼る人生に変えられました。すなわち自分の弱さをありのまま受け入れ、自分の力で歩む人生から心から神に聞き従う信仰者の歩みをする者に造り変えられたのです。
それゆえ、ここが彼の人生の分岐点となったのです。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)」