牧師コラム 『信仰による神の民の系図』 2022年3月27日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト6章14~27節〕
素性のわからない者に対して「どこの馬の骨わからない」などと言うのは、血筋を重んじるからです。そして、その血筋を明らかにするのが系図です。

神はモーセに「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。(出3:10)」と命じ、さらに彼の弱さを補うために、兄アロンを代弁者とされました。そして二人はエジプト王ファラオの前に出て行ったのです。
モーセがエジプトの地を離れてから40年の歳月が流れ、彼のいのちを狙っていた王は死に、またモーセを知る人々もいなくなっていました。神はモーセが真のイスラエル人であり、レビ族の出であることを、系図によって明らかにし、彼がこれからイスラエルを導いていく指導者として相応しい者であることを、イスラエルの民にはっきりと示したのです。

ところで、イスラエル人ではない私たちが、アブラハムの霊的子孫と言われる根拠はどこにあるのでしょうか。それは聖書ガラテヤ人への手紙3章6,7節に「『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた』とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。」と記されているように、私たちがキリストを罪からの救い主と信じる信仰にあるのです。つまり「この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった(ヨハネ1:12)」とあるとおり、私たちは神の子どもとされているのです。

この素晴らしい救いの恵みは、私たちの行いによるのではなく、神からのプレゼント(賜物)であり、今、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、あなたの神、主なのです。

牧師コラム 『私のあるじは主』 2022年3月20日

 

牧師 高橋勝義

〔出エジプト5章22節~6章13節〕
モーセとアロンのせいでファラオが労役をさらに重くしたと詰め寄られたモーセは、神に「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか」と訴えました。すると主は「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。」さらに「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。~ わたしは主である。」と語られます。しかしイスラエルの民は、失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができませんでした。それでもなお主はモーセとアロンに、「エジプトの王ファラオのところへ行って、イスラエルの子らをその国から去らせるように告げよ。」と命じられました。

「主」は日本語では“あるじ”とも読みますが、神はここではっきりとイスラエルがご自身の民であり、ご自分が彼らの“あるじ”であることを示されました。同様に、キリストを罪からの救い主と信じる信仰によって、アブラハムの霊的子孫となった私たちも神の民であり、神が私たちの“主(あるじ)”なのです。しかし私たちの中には、神に背を向けて生きて来た古い性質、自分を“主(あるじ)”とする自我が根強く残っています。ダビデは、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。(詩篇23:1,6)」と感謝をもって告白しています。

私たちも創造主なる神を“私のあるじ(主)”として、このお方と共に歩んでいきましょう。

ところで、あなたのあるじ(主)は、自分ですか、それとも、神ですか。

牧師コラム 『困難に打ち勝つ秘訣』 2022年3月13日

牧師 高橋勝義

〔出エジプト5章1~21節〕
モーセとアロンはファラオに会い「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」と伝えました。しかし、ファラオの答えは「主とは何者だ。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。」でした。荒野で神を礼拝しなければ、主が疫病か剣でヘブル人を打ち、ファラオの財産である奴隷を失うことになる、と訴えますが、ファラオは聞く耳を持たず、労役をさらに重くするために、れんがの材料の藁も自分たちで調達するように命じます。そのため、民はエジプト全土に散って、藁の代わりの刈り株集めにも奔走しなければならなくなり、民のかしらたちは、この最悪な状況はモーセとアロンのせいだ、と考えました。確かに民は主のことばを聞いた時、神を信じ、ひざまずいて礼拝したのですが、困難に会うと手のひらを返して、「あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」と不満をぶちまける始末でした。

イエス様は「岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。(マタイ13:20,21)」と警告しています。

私たちは日々、様々な困難や問題に出会います。それを乗り越える秘訣は、どんな時にもイエス様を信頼し、神のみことばの約束にとどまり続けることです。私たちが信じている神は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」と語られるお方、そのお方が私たちの味方だからです。

牧師コラム 『みことばに真摯に向き合う』 2022年3月6日

牧師 高橋勝義

〔出エジプト4章27~31節〕
神は人前で語ることが苦手なモーセの助け手として、兄アロンを代弁者とすることを約束し、約束通り兄のアロンに「荒野に行って、モーセに会え」と告げました。神の声を聞いたアロンは直ちに、神の山ホレブの荒野に出かけ、そこでモーセと再会したのです。モーセは自分に語られた主のすべてのことばと、命じられたしるしのすべてをアロンに告げます。

モーセとアロンは、“神の語られたすべてのことば”と“神のしるし”を胸に刻み、エジプトに向かい、ゴシェンの地に着くとすぐ、イスラエルの長老たちのすべてを集めました。アロンは、主がモーセに語られたことばをみな語り、民の目の前でしるしを行ったのです。そのしるしを見た民は神を信じ、主が自分たちイスラエルを顧み、その苦しみをご覧になったことを聞き、ひざまずいて礼拝したのです。この時、神の愛と真実を知ったイスラエルの民は、すぐにでも解放されることを期待したことでしょう。しかしアロンは、神のことばを伝えた時に、「しかし、わたしが彼(ファラオ)の心を頑なにするので、彼は民を去らせない」と、解放されるまでには様々な困難があることを語っていました。

この箇所から、神のみことばに対する私たちの信仰の姿勢が教えられます。

私たちは、都合の悪いみことばには耳を閉ざし、心地よいみことばに心傾く傾向があります。聖書は「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです(ヤコブ1:23)」と警告します。神はみことばを信じ、それに真摯に向き合い、従おうとする人を喜ばれます。そして、その人を決して見捨てることがありません。

「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです(ルカ11:28)」

牧師コラム 『必ず顧みてくださる神』 2022年2月13日

牧師 高橋勝義

〔聖書箇所:出エジプト3章15~22節〕
ゴシェンの地に住んだイスラエルの民は、神がアブラハムに語られた約束どおり、エジプトの肥沃な土地で増え広がりました。しかしその生活は過酷な奴隷生活であり、苦しむ民は神に助けを叫びました。神はいつも彼らのことを気にかけておられ、民の叫びを聞かれ、ひとりの男児モーセを選んだのです。男児は殺されなければならないという命令をすり抜けるようにして助けられ、宮殿で最高の教育を受けます。しかし彼はエジプトを追われ、シナイ半島の荒野で40年間羊飼いとして過ごすことになったのですが、これこそが自分の力に頼らず神に信頼する訓練であり、指導者としての備えの時だったのです。

神は、モーセに「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」と命じられました。
モーセにとってはエジプトは同胞に否定された場所、行きたくない場所でした。
しかし、神はモーセに「わたしが、あなたとともにいる」と約束し、また「必ず顧みてくださる神」であることを示され、ファラオに『私たちに荒野へ三日の道のりを行かせ、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください』と言えと命じるのです。

私たちは出口の見えない困難にあうと、神は本当に私のことを顧みてくださるのだろうかと思ってしまいます。しかし聖書は「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(Ⅰコリント10:13)」と約束しています。この約束を信じて歩みましょう。

牧師コラム 『豊かに蒔く者の祝福』 2022年1月30日

牧師 栗原延元

キリスト教会がエルサレムの町に生まれ、地中海沿岸の各地に築き上げられていくのです。その発展のひとつの力となったのは各地のクリスチャンたちが、その力に応じて相互に助け合ったからでした。

今日学びますコリント人への手紙(Ⅱ)では、ユダヤ地域の教会をギリシャの(マケドニヤやアカヤ)諸教会が支援する時の心がまえについて書かれています。大切な事は〈一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに〉するという事です。献金はささげる額の多少ではありません。〈神は、喜んで与える人を愛してくださるのです〉(Ⅱコリント9:7) 神は、金もわが物、銀もわが物と言っていますが、これはお金を求めているのではありません。金も物(捧げもの)も、神は欲しているのではありません。神は、人の心、へりくだって、謙虚に、神を求める人の心を喜ばれるのです。

牧師コラム 『神に叫ぶイスラエル人』 2022年1月23日

牧師 高橋勝義

王子として育てられたモーセでしたが、苦役に苦しむ同胞への正義感から怒りにまかせて、エジプト人を殺してしまいます。しかしファラオに知られ、遠くミディアンの地に逃れます。そしてミディアンの井戸の傍らに座るモーセの前で、祭司の娘たちが羊の群れに水を飲ませようとしていると、やってきた羊飼いたちが彼女たちを追い払ったのです。それを見たモーセは、娘たちを助け、羊の群れにも水を飲ませます。娘たちの父である祭司レウエルは、いつもより早く帰宅した娘たちから事の次第を聞き、彼を食事に招きます。そしてモーセはこの祭司レウエルの所に住むと心を決め、レウエルも娘ツィポラを妻として与えました。

それから何年もたち、エジプトの王は死にました。しかしイスラエル人の生活は変わらず、民はその重い労働にうめき、ついに神に泣き叫びます。重い労働による彼らの叫びは神に届き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされたのです。そのアブラハムに語られた約束とは「あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。(創世記15:13~14)」でした。

神はイスラエルの長い苦しみを知らなかったわけではありません。しかし民がご自分に叫び訴えるこの時を待っておられたのです。神の語られた約束とみことばは永遠に変わることがありません。あなたの心に、解決し難い苦しみが沈んではいないでしょうか…。

私たちも主に叫び訴えましょう。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。(詩篇121:1,2)」

牧師コラム 『気負いすぎた使命感』 2022年1月16日

牧師 高橋勝義

エジプトの地でイスラエルの民は存亡危機にさらされていました。神を恐れる助産婦らによって男児の命は守られたものの、さらに「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込め」との命令が出されます。そのような中、あるレビの家族に男の子が産まれ、可愛さゆえ三か月間内密に育てられますが、隠しきれなくなり、ついにその子はかごに入れられ、ナイル川の葦の茂みの中に置かれたのです。すると、水浴びにきたファラオの娘に助けられ、なんと大きくなるまでは実母に育てられます。やがて名をモーセとつけられ、王女の子として、宮殿で大きくなりました。大人になったモーセはある日、ひとりのヘブル人が苦役の中でエジプト人に打たれる姿を見たのです。彼はだれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺し、砂の中に埋めました。次の日、また外に出てみると、二人のヘブル人が争っており、モーセが悪いほうに「どうして自分の仲間を打つのか」と言うと、「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか。おまえは、あのエジプト人を殺したように、私も殺そうというのか。」と言われてしまいます。彼は恐れ、またファラオが命を狙っているため、ミディアンの地に逃れます。

モーセの失敗は、他人事ではありません。私たちは、自分の正義を盾に行動を起こしやすいものですが、その正義には怒りやさばきのフィルターが掛かっていることが多いのです。 ですから、モーセも「神よ、なぜ同胞の苦しみをそのままにされるのですか。私はあのエジプト人への怒りが抑えられません。私はどうすれば良いのですか…。」と主の名を呼び祈るべきでした。

聖書は「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。(イザヤ30:15)」と語っています。

牧師コラム 『人に従うより神に従うべきです』 2022年1月9日

牧師 高橋勝義

ヨセフの時代から時が過ぎ、イスラエルの民は神がアブラハムに約束したとおり増え広がり、それはエジプトの脅威となっていました。さらに過酷な労働によって生活が苦しめられても、なお民は増え広がったのです。すると、エジプト王はヘブル人の助産婦シフラとプアに「ヘブル人の女の出産を助けるとき、産み台の上を見て、もし男の子なら、殺さなければならない。女の子なら、生かしておけ。」と命じます。しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王の命には従わず、男の子を生かしておいたのです。さらに、命令を出したにもかかわらず男児出産が続くことを王が問いただすと、助産婦たちは「ヘブル人の女はエジプト人の女とは違い、元気で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」と答えるのでした。 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせました。

今から約3500年も昔のヘブル人助産婦シフラとプアの名前がこのようにはっきりと聖書に記され残されているのは、神御自身を恐れて歩むことを、神が何よりも喜ばれるからです。そして王は、「生まれた男の子はみな、ナイル川に投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」と命令を変えたのです。(出エジプト1:15~22)

私たちの日常生活に目を向けるならば、「長い物には巻かれろ」の諺のように、権力には逆らわない生き方が得策であり、この世を生き抜く処世術とされがちです。

聖書は「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」(箴言29:25)と私たちに語ります。まさにこの助産婦たちのように、すべてをご支配しておられる創造主なる神を信じ、従う歩みこそが、人の歩みを確かなものにするのです。

牧師コラム 『神の約束を待ち望む信仰』 2022年1月2日

牧師 高橋勝義

時は流れ、ヨセフもその兄弟たちも、その時代の人々はみな死にました。しかしイスラエルの子らは増えて非常に強くなり、エジプトは彼らで満ちていったのです。やがて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こり、エジプト人は「見よ。イスラエルの民はわれわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くことがないように。」と彼らを重い労役で苦しめますが、イスラエルの民は、苦しめれば苦しめるほどますます増え広がり、人々はこの民を恐れました。そして漆喰やれんが作りの激しい労働、畑のあらゆる労働など、過酷な労働で、彼らの生活をさらに苦しめたのです。(出エジプト1:1~14)

ヨセフが生きていた時代の穏やかな日々は失われ、彼らは苦しみの毎日を送っていました。 これは神がアブラハムに「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。」と語られたとおりであり、「しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。」(創世記15:13,14)との神の約束の始まりでもありました。神はご自分の民、すなわちキリストによって救われ、神の子となった私たちに、意味もなく苦しみを与えるお方ではありません。その苦しみには神の深い意図があるのです。大切なことはどのような時も、神の約束に堅く立ち、主を信じる信仰なのです。

「主はご自分の契約をとこしえに覚えておられる。命じられたみことばを千代までも。(詩篇105:8)」神の約束は決して変わることがありません。