牧師コラム 『私のあるじは主』 2022年3月20日

 

牧師 高橋勝義

〔出エジプト5章22節~6章13節〕
モーセとアロンのせいでファラオが労役をさらに重くしたと詰め寄られたモーセは、神に「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか」と訴えました。すると主は「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。」さらに「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。~ わたしは主である。」と語られます。しかしイスラエルの民は、失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができませんでした。それでもなお主はモーセとアロンに、「エジプトの王ファラオのところへ行って、イスラエルの子らをその国から去らせるように告げよ。」と命じられました。

「主」は日本語では“あるじ”とも読みますが、神はここではっきりとイスラエルがご自身の民であり、ご自分が彼らの“あるじ”であることを示されました。同様に、キリストを罪からの救い主と信じる信仰によって、アブラハムの霊的子孫となった私たちも神の民であり、神が私たちの“主(あるじ)”なのです。しかし私たちの中には、神に背を向けて生きて来た古い性質、自分を“主(あるじ)”とする自我が根強く残っています。ダビデは、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。(詩篇23:1,6)」と感謝をもって告白しています。

私たちも創造主なる神を“私のあるじ(主)”として、このお方と共に歩んでいきましょう。

ところで、あなたのあるじ(主)は、自分ですか、それとも、神ですか。