今日のメッセージ 『神のものは神へ』 2023年7月2日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト30章1~21節〕

 アロンとその子らの祭司任職式に続き、神は香をたくための祭壇を作るように命じます。アロンはその祭壇で、朝に、夕べに、代々にわたる主の前の常供の香のささげ物、神への祈りの香をたくのです。さらにアロンは年に一度、この祭壇の角の上で宥めを行います。

 次に、神はモーセにイスラエルの子らの人数を調べるように命じ、登録された者は、富む者も貧しい者も決められた額を自分のたましいの償い金、主への奉納物として納めなければならない、と命じます。これは、彼らの登録にあたり、わざわいが起こらないようにするためであり、神は「あなたがたのたましいに宥めがなされたことに対する、主の前での記念となる」と言われました。

 最後に神は洗盤とその台を青銅で作るように命じます。祭司たちが会見の天幕に入るときには、洗盤の水を浴び、主への食物のささげ物を焼いて煙にする務めのために祭壇に近づくときにも、手と足を洗い、死ぬことのないようにするためでした。

 神はモーセに、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならないと告げています(出エジプト25:1)。進んで献げる心とは、神の愛と恵みに感謝し、喜んで献げる心のことです。また神は「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。─万軍の主は言われる─わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。(マラ3:10)」とも語っています。すべては、神のもの(ヨブ41:11)だからです。

 私たちは神のものを頂いて、日々、生かされています。このことを自覚し、心から神への感謝と喜びをもって、神のものは神にお返ししましょう。(マタイ22:21)

今日のメッセージ 『王の王、主の主』 2023年6月25日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト29章35~46節〕

 神はモーセに、アロンとその子らの任職式を七日間行うように命じます。
主が命じたすべてのこととは、毎日、罪のきよめのささげ物として雄牛一頭を献げて、その祭壇から罪を除く。また祭壇に油を注ぎ、七日間祭壇のために宥めを行い、祭壇を最も聖なるものとする。さらに、常供の全焼のささげ物として、祭壇の上で、毎日絶やすことなく、朝と夕暮れに、一匹の雄の子羊を献げ、これに朝の穀物のささげ物や注ぎのささげ物を同じく添える。それは芳ばしい香り、主への食物のささげ物となる。これらによって、神はその場所でイスラエルの子らと会い、モーセと語る。神はイスラエルの子らのただ中に住み、彼らの神となる。

 イスラエルの民をエジプトの地から救い出し、幕屋建設を命じられた神の目的、さらに七日間の祭司任職式を命じられた神の目的は、民が、「わたしは彼らの神、主である」と言われるお方を知り、神の民としての自覚を持つためであったのです。さらに神こそが、イスラエルを治めるお方、すなわち「王」であることを教え諭すためでした。

 そして今、私たちとともに歩まれる神は、罪のただ中から私たちを救い出された神であり、すべての罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったイエス・キリストです。

 「わたし、このわたしが主であり、ほかに救い主はいない」(イザヤ43:11)

 このお方について、聖書は「祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主(Ⅰテモテ6:15)」と語っています。このお方が、私たちの神、主となられ、私たちのただ中に住んでくだるのです。この事実は驚きであり、何と幸いなことでしょうか。

今日のメッセージ 『聖霊による証印』 2023年6月18日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト29章22~34節〕

 神は、アロンとその子らが祭司職に就くための任職を行うように、モーセに命じました。まず、主の前にある種なしパンのかごから、円形パン、油を混ぜた輪形パン、薄焼きパンをそれぞれ一つずつ取り、アロンとその子らの手のひらに載せ、奉献物として主の前で揺り動かし、それらを全焼のささげ物とともに、主の前の芳ばしい香りとして祭壇の上で焼き、煙にする。これは主への食物のささげ物となる。次にアロンの任職のための雄羊の胸肉を奉献物として主に向かって揺り動かす。これはモーセの受ける分となる。次に奉献物として揺り動かされた雄羊の胸肉と、奉納物として献げられたもも肉とを聖別する。これらはアロンとその子らがイスラエルの子らから受け取る永遠の割り当てとなる。またアロンの聖なる装束は彼の跡を継ぐ子らのものとなり、彼らはこれを着けて油注がれ、祭司職に任命される。

 このようにして、任職式を経てのち彼らは祭司となる。

 祭司が任職式を経てその務めにつくことができるように、私たちの救いにも、任職式のようなものが必要なのでしょうか。いや、その必要はありません。神が私たちの救いの保証人だからです。私たちが救いの確信を得られるようにと、神はもう一人の助け主(聖霊)をお与えくださり、そのお方がいつまでも、私たちとともにいるようにしてくださいました(ヨハネ4:16)。救いの福音を聞いて信じた私たちは、約束の聖霊によって救いの証印を押され(エペソ1:13)、神はその保証として私たちの心に、御霊を与えてくださったのです(Ⅱコリント1:22)。

 ですから、パウロも「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか(Ⅰコリント3:16)」と私たちに諭すのです。

今日のメッセージ 『日々、心新たに』 2023年6月11日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト29章1~21節〕

 神はアロンとその子らを祭司として聖別し、若い雄牛1頭、傷のない雄羊2頭、種無しパン、油を入れない輪型パンを準備し、彼らに対してなすべきことを次のようにモーセに命じました。水で洗い聖められたアロンとその子らは、罪の身代わりの雄牛の頭に手を置き、それを屠り、その血を指で祭壇の四隅の角に塗り、雄牛がアロンとその子らの身代わりとなったことを示す。そして罪のきよめのささげ物として、その内臓は祭壇の上で、肉と皮と汚物は宿営の外で焼く。また主への全焼のささげ物として、雄羊一匹の頭にアロンとその子らは手を置き、屠り、その血を祭壇の側面に振りかけ、その雄羊をすべて祭壇の上で焼いて煙にする。さらに、もう一匹の雄羊の頭に手を置き、屠り、その血を右の耳たぶと、右手の親指と右足の親指に塗り、その血を祭壇の側面に振りかけ、祭壇の上の血と、注ぎの油をアロンとその子らの装束にかける。こうして彼らはイスラエルの祭司として聖別される。

 しかしイエス様は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。ただ一度、御自身を献げ、そのことを成し遂げられたからです(ヘブル7:27)。そして、このイエス様を罪からの救い主と信じる私たちは、神の民とされただけではなく、祭司としての使命を担う者とされたのです(Ⅰペテロ2:9)。主を信じた私たちには、全焼のささげ物は不要ですが、日々心の点検が求められています。

 「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:2)」

今日のメッセージ 『あわれみ豊かな神』 2023年6月4日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト28章22~43節〕

 祭司アロンの装束作りを命じる神は、イスラエルの息子の名が彫られた十二個の宝石がはめ込まれた胸当てが、エポデから外れないように詳細な指示をされ、アロンが聖所に入るときには、常に十二部族の名がさばきの胸当てにあり、主の前で覚えられるようにしました。

 また青服の裾周りに金の鈴を付けるようにも命じられました。アロンが務めを行うときにこれを着るのです。それは彼が聖所に入り、主の前に出るとき、またそこを去るとき、その鈴の音が聞こえて、彼が死ぬことのないようにするためでした。それは罪に汚れた人間が「聖なる神」にお会いして、いのちを落とすことがないようにとの神の愛のご配慮でした。そして神は、これらを永遠の掟(出エジプト28:43)とされました。

 しかし、今イエス様を信じる私たちは、主が十字架の上で流された血潮によって、邪悪な良心さえもきよめられたゆえに、神にお会いすることができるのです。(ヘブル10:22)ですから、聖書は「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか(ヘブル4:16)」と積極的に語っています。また「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。(エペソ2:4,5)」とある通りです。

 私たちは、イエス様を罪からの救い主と信じる信仰によって、この神の大きな愛とあわれみ、そして恵みの中で日々生かされているのです。

 「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です(Ⅰコリント1:18)」

今日のメッセージ 『天に国籍が与えられている恵み』 2023年5月28日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト28章1~21節〕

 神はモーセに、兄アロンとその息子たちナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルを聖別し、祭司として神に仕えさせるように命じました。そして大祭司アロンの装束として、神の栄光と美を表す聖なる胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯を作るように命じます。胸当てには、十二部族を表すイスラエルの息子たちの名が彫られた十二個の宝石がはめ込まれ、エポデの両肩には二つの肩当てが付けられ、そこに載せられた縞めのうの石にもイスラエルの息子の名を刻むように示されました。

 大祭司アロンが主の前に出るときには、胸当てに刻まれた十二個の宝石、すなわち十二部族の名が常に主の前に覚えられたように、イエス様を罪からの救い主と信じる信仰によって、いのちの書にはっきりと記されたあなたの名は、神の前に覚えられているのです。

 永遠に存在され、変わることのない祭司職を持つイエス様が、私たちのためにとりなしをしてくださっているので、神に近づく私たちを完全に救うことができます(へブル7:24,25)。また、神は「勝利を得る者(イエス様を信じる者)は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。(黙示録3:5)」とまで約束してくださっているのです。私たちは、まことの神から離れ、自分勝手に歩んでいたにもかかわらず、イエス様の十字架を信じる信仰により、すべての罪が赦され、天国に国籍が与えられているのです。このような素晴らしい恵みをいただいているのですから、感謝と喜びをもって、このお方とともに御国を目指して歩んでいきましょう。

 「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヨシュア1:5)

コラム 『ありのままで』 2023年5月21日

 牧師 高橋勝義

 

 古稀を迎え、これまでの歩みを振り返っていた私の心に浮かんできたみことばが、「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:3)」でした。待望の救い主が悲しみの人で、病を知っていた、というのです。事実、十字架の上で死なれた姿は、勝者ではなく敗者の姿にしか見えません。誰にも尊ばれず、蔑まれ、惨めな姿をさらしたのです。

 イエス・キリストは、十字架で死なれた三日後、よみがえられました。
死を打ち破り、真の勝利者となられたのです。聖書は、主が「すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた(へブル4:15)」ゆえに、「試みられている者たちを助けることができる(へブル2:18)」お方であると語っています。ここに、大きな希望があるのです。

 ところで、私たちの生きる世界は、常に人の評価にさらされています。人の目を気にし、時には怯え、呻く苦しみさえも起こります。「は気から」というように、心が病めば、体にもその影響は現れてきます。自分が理解されない孤独に苦悩し、心も体も悲鳴をあげます。しかし、「悲しみの人で、病を知る」お方イエス・キリストが、誰にも理解されない、と感じているあなたのありのままを受け取ってくださるのです。主の前では、飾ることもなく、気を張ることもなく、ありのまま、肩の力を抜いて、大丈夫なのです。

 主イエス・キリストはこう言われます。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」

今日のメッセージ 『永遠のともしび』 2023年5月14日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト27章9~21節〕

 神は、モーセに、幕屋全体を囲う掛け幕と板や柱、台座などを作るように命じます。それは、全体の大きさが、南側百キュビト(約44.5m)、北側も百キュビト、西側が五十キュビト(約22.25m)、正面になる東側が五十キュビト、そして掛け幕の高さを五キュビト(約2.2m)とし、それぞれに撚り糸で織った亜麻布の掛け幕をかけて張り、幕屋に用いるすべての備品、すべての杭、庭のすべての杭は青銅で作る、でした。

 聖所の中は、真っ暗ですから明かりが必要です。その明かりとなる燭台のともしびを絶えずともしておくために質の良い純粋なオリーブ油を用意し、アロンとその子らは燭台のともしびを、夕方から朝まで主の前に整えるようにと、命じられました。

 イエス様は、サマリヤに行く途中、疲れて井戸のかたわらに腰をおろしていた時、水を汲みにきたサマリヤの女に「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます(ヨハネ4:14)」と語られました。それは、なくならない水についてではなく、私たちの心の中には決して消えることのないともしびが必要であることを語られたのです。

 そのともしびとは助け主(聖霊)のことです。イエス様は、ご自分が天に帰られたあと、聖霊が私たちとともにいて、助けてくださる、と約束してくださいました(ヨハネ14:16)。その約束通り、聖霊は私たちの内に住み、罪に死んでいた私たちの歩みを罪に打ち勝つ歩みへと変えてくださるのです(ローマ8:11)。なぜならイエス様を信じる者の内には、どんなときにも聖霊がおられ、このお方の力によって歩むことができるからです。

今日のメッセージ 『私の主、私の神』 2023年5月7日

 牧師 高橋勝義

〔出エジプト27章1~8節〕

 ノア、アブラハム、イサク、ヤコブは、神の愛と慈しみを覚えるたびに祭壇を築いて、神に感謝し礼拝をささげました。そして、神はアブラハムとの個人的な関係から、約束通りイスラエルの神となられたのです。さらに、モーセを通して、神の民として歩むために「十戒」を与え、さらに、ご自分を礼拝するための幕屋と、その中に祭壇を作るように命じられたのです。祭壇は、「罪のきよめのささげ物」と「全焼のささげ物」をささげる場所ですから、火で燃えないように、アカシヤ材に青銅をかぶせ、そのほかの灰壺、十能、鉢、肉刺し、火皿もみな青銅で作ります。罪ある人間が聖い神にお会いするには「罪のきよめのささげ物」「全焼のいけにえ」を献げる祭壇が必要不可欠であったからです。

 しかし私たちは今、イエス・キリストが十字架で「罪のきよめのささげ物」となってくださったゆえに、ささげ物なしに、神と自由にお会いできる恵みを頂いています。

 弟子のトマスは、イエス様がよみがえられたと聞いても、疑り深く慎重な性格から信じることが出来ませんでした。そのトマスに、よみがえられたイエス様が現れてくださり、復活の主に直接お会いした瞬間、彼は「私の主、私の神よ。(ヨハネ20:28)」と告白しました。

 私たちの日常には様々な問題や困難が起こりますが、こここそが神の愛と恵みを知る時なのです。トマスに復活の主が現れてくださったように、主はあなたにもふれてくださいます。この時「私の主、私の神」になるのです。

 「まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」(詩篇23:6)

今日のメッセージ 『仕切りは取り除かれた』 2023年4月30日

 牧師 高橋勝義

 

〔出エジプト26章15~37節〕

 つづいて幕屋(聖所)の壁について、神は次のように命じられました。

 それはアカシヤ材で作り、その横木にも、すべてに金をかぶせる。壁板が金で覆われた聖所の内部は、燭台の灯で照らされ、まばゆいばかりに輝き、神の栄光が表されました。また、青、紫、緋色の撚り糸で織った亜麻布にケルビムを織り出した垂れ幕を作り、金をかぶせた四本の柱に、金の鉤で取り付けられました。その垂れ幕で仕切られた奥は至聖所(しせいじょ)で、そこに「あかしの箱」と、その上に「宥めの蓋」を置くように命じられました。ケルビムの垂れ幕で仕切られた至聖所は罪の贖いを行う聖なる場所であり、そこには年に一度だけ、罪の贖いをする大祭司だけしか入ることが許されていませんでした。

 神と私たちの関係について、聖書は「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:2)」と語ります。しかし、キリストが、十字架の上で息を引き取られたとき「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた(マルコ15:38)」のです。神殿の幕とは、至聖所を遮る垂れ幕のことであり、キリストが、神との仕切りとなっている“罪”を、十字架の上で、ご自分のいのちと引き換えに解決してくださったゆえに、仕切りの幕は裂けたのです。神は「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)」と、罪からの解放をあなたに語りかけておられます。

 あなたの罪はイエス・キリストを信じる告白によって解決されるのです。