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古稀を迎え、これまでの歩みを振り返っていた私の心に浮かんできたみことばが、「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:3)」でした。待望の救い主が悲しみの人で、病を知っていた、というのです。事実、十字架の上で死なれた姿は、勝者ではなく敗者の姿にしか見えません。誰にも尊ばれず、蔑まれ、惨めな姿をさらしたのです。
イエス・キリストは、十字架で死なれた三日後、よみがえられました。
死を打ち破り、真の勝利者となられたのです。聖書は、主が「すべての点において、私たちと同じように試みにあわれた(へブル4:15)」ゆえに、「試みられている者たちを助けることができる(へブル2:18)」お方であると語っています。ここに、大きな希望があるのです。
ところで、私たちの生きる世界は、常に人の評価にさらされています。人の目を気にし、時には怯え、呻く苦しみさえも起こります。「病は気から」というように、心が病めば、体にもその影響は現れてきます。自分が理解されない孤独に苦悩し、心も体も悲鳴をあげます。しかし、「悲しみの人で、病を知る」お方イエス・キリストが、誰にも理解されない、と感じているあなたのありのままを受け取ってくださるのです。主の前では、飾ることもなく、気を張ることもなく、ありのまま、肩の力を抜いて、大丈夫なのです。
主イエス・キリストはこう言われます。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」