牧師コラム 『あなたはどこにいるのか』 2018年3月4日

牧師 栗原延元   

 今日は創世記の3章を学びます。この章にはエデンの園の禁断の木の実を取って食べた夫妻(アダムとエバ)に、神である主が呼びかけた問いが記されています。
 この問い、「あなたはどこにいるのか」は、人が罪を犯したあと最初に神が語りかけられたことばです。
 神のこの語りかけに、「私達はあなたのみことばを破りました。お赦し下さい。」と素直に答えませんでした。夫のアダムは妻に、妻のエバは蛇(サタン)に責任を転嫁してしまったのです。人間の原罪の姿がここに出ています。
 その結果、出産の苦しみを女は味わい、アダムは苦しんで食を得なければならなくなります。
 詳しくは、礼拝の中で学びますが、私がこの箇所について思いめぐらしていたときに、二人の人物を思い起こしていました。ひとりは、少年サムエルです。この少年は主から「サムエル。サムエル。」と呼ばれたとき、すぐに「お話し下さい。しもべは聞いております。」と答えました(サムエル記Ⅰ、310)
 もうひとりは、ベタニヤ村のマリヤです。主イエスが家に来られたとき「マリヤは、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」(ルカ10:39)のです。
 私達はサムエルやマリヤに倣う者でありたいものです。

2018年2月13日 バイパス東仮設支援 第174回

日時:2018年2月13日(木)
場所:バイパス東仮設
参加者:11名
奉仕者:7名(仙台教会6名、石巻教会1名)

 前日、仙台は大雪でした。翌日のクラフト教室を行うかどうかとても迷いました。結局、時間を遅らせて出発しました。途中雪は止み、少しずつ日が照り始めて来ました。石巻、井内の辺りは雪もほとんどなく、開始時間までには無事着くことができました。
今回のクラフトは「レジ袋ストッカー」です。キッチンに下げて、スーパー袋を入れておく、おしゃれで便利なものです。ピンクの花柄か黄色の花柄のどちらかを選んで頂きました。ミシンも4台使って、時間を短縮できるようにして、2時間半くらい掛かって仕上がりました。
 チャペル・タイムでは、「幸せなら手をたたこう~誕生秘話」をお話ししました。この歌詞を書いた木村利人さんは、第二次世界大戦後、大学院生の時フィリピンでボランテイアを経験されました。その時、日本人に家族を殺された青年たちが、「自分は神様に愛され、赦されている」と敵であった日本人の木村さんを赦し、愛を態度で示してくれたことに感動して、生まれた歌詞だそうです。人は、無条件で、赦され愛されていることを知るとき、始めて人を赦し愛することができるようなります。イエス様が十字架の上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」との祈りは、私たち自身への祈りであることをぜひ知って、神様の愛と赦しを受け取って頂きたいと願って語らせて頂きました。
 この仮設でのクラフト教室は、今回が最後になります。2012年から毎月一回、キャサリン・ロング宣教師とローナ・ギルバート宣教師が始められましたが、諸事情で仙台教会が引き継ぐことになりました。最初はお互いに緊張感がありましたが、約三年半続けさせていただいた今、すっかり打ち解けて、聖書のお話しも心を開いて真剣に聞いてくださるようになりました。今後は、石巻教会に場所を移して続けて行くことになりました。本当に感謝なことです。ここまで導いてくださった神様に、また皆様のお祈りとご支援に心から感謝致します。これから新たに始まる「石巻教会・クラフト教室」のために、ぜひお祈りください。この教室を通して、主を信じ救われる方が起こされますように。
                                吉田真知子

          

牧師コラム 『誰が一番偉いか』 2018年2月25日

牧師 高橋勝義     

 「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」これは「虎が死んで美しい皮を残すように、人は死後に優れた名を残すように心がける」という意味です。
 いつの世でも、高い評価を受けたり一番になることは、嬉しいことです。
 実は弟子たちの関心事も「誰が一番偉いか」にありました。
 そこで、イエス・キリストは、弟子たちに『あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい(マタイ20:26)』『あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい(マタイ20:27)』と教えました。
 ヒントは、『仕える者』『しもべ』にあるのですが、いったいどのような人なのでしょうか。
 その答えは、イエス・キリストご自身の歩みにあります。
 イエス・キリストは、神の一人子でありながら、人となってこの世に来られ、私たちを滅びから救うために、鞭打たれ、ついには神に背を向けて歩んでいる私たちの罪を、ひとつ残らず身代わりに負って十字架で死なれたのです。
 この歩みが、『仕える者』『しもべ』の姿であり、イエス・キリストご自身が身をもって私たちに模範を残されたのです。
 一番偉くなるための秘訣は、『仕える者』『しもべ』の歩みにあり、この世の考え方とは全く違うのです。
たとえ、人があなたを正しく評価しなくても、常に公平でえこひいきのない神が、あなたの歩みをすべて見ておられます。
 ですから、弟子のペテロは『あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(Ⅰペテロ5:6)』と語るのです。
 人からの評価よりも、神からの評価を得る歩みを目指しましょう。

牧師コラム 『不信仰な曲がった今の世だ』 2018年2月18日

 牧師 高橋勝義     

 イエス・キリストは、『ああ、不信仰な、曲がった今の世だ』と嘆かれました。
 曲がった今の世とは、元に戻らないくらい歪んでいる世ということです。
 何が歪んでいるのか。それは、天地万物を造られたまことの神がおられるにもかかわらず、その神を神として認めず、感謝もせず、それどころか、自分たちで作り、信仰している私たちの心の状態のことを言っているのです。
 イエス・キリストは、何に嘆かれたのでしょうか。それは、弟子たちの不信仰と、まことの神を信じようとしない人々の不信仰に対してです。
 歪みの原因は、まことの神から離れ、背を向けて歩む罪にあるのです。
 歪んだ歩みをしている私たちに対して、聖書は『人の心は何よりも陰険で、それは直らない(エレミヤ17:9)』と語っています。

 果たして、元に戻る道があるのでしょうか。

 イエス・キリストは、世(あなた)を救うために、ただ一度、私たちのすべての罪を身代わりに負い、十字架の上で死なれたのです。それは、『わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです(ヨハネ12:47)』。
 イエス・キリストのいのちと引き換えに、罪が処罰されたので、罪から解放されるのです。この事実を信じるすべての人の歪んだ心は元に戻るのです。
 この事実を信じないなら、『ああ、不信仰な、曲がった世』のままであり、あなたの心は陰険なままです。
 それゆえ、イエス・キリストの嘆きには、あなたに歪んだままの歩みを続けて欲しくないという願いが込められているのです。

牧師コラム 『変貌されたイエス』 2018年2月11日

 牧師 高橋勝義     

 イエス・キリストはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登りました。
 そして、祈っておられると御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝き、その姿が変貌されたのです。
 弟子の一人であるペテロは、イエス・キリストの変貌に驚き、訳の分からないことを言い出しました。毎日見ている姿とは、全く違っていたからです。
 神であるのに、真の人となってこの世に来られたイエス・キリストが、まことの神であることを明らかにされたのです。

 「神が人となる。」人間の理性ではとても理解できないことです。

 しかし、聖書は『キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2:68)』と語っています。
 神の愛は、私たちを滅びから救い、永遠のいのちを与えるために、人のすべての罪をイエス・キリストに身代わりとして負わせるほど深い愛なのです。
 ですから、人間の理性を遥かに超えているのは、当然のことなのです。
 十字架は、神に背を向けた私たちの歩みが誤りであることを示し、私たちに、神と共に歩む正しい歩みへと導く、神の愛のしるしなのです。
 そして、『実に十字架の死にまでも従われた』イエス・キリストは、十字架の死から三日目によみがえられました。人として歩まれたイエス・キリストは、私たちの苦しみや悩みをよく御存知です。
 このお方が、いつもあなたのかたわらにいて下さるのです。

牧師コラム 『エデンの園にて』 2018年2月4日

牧師 栗原延元     

 前回は創世記1章を学びました。今回は2章を学びます。ここには創造の秩序としての人の役割が詩的に述べられています。
 〈神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。〉(創世記2:15)。エデンの園は、この地上のユートピア(理想郷)であると思われますが、人にはこの園を耕やし、それを守る責任が与えられているのです。人は何もしなくてよいのではないのです。創造主の御手のわざである自然をマネイジする使命があります。
 マネイジするとは管理する、運用するの意味ですが、それは造り主の意図に従ってしなければなりません。管理者が自分の好き勝手にしてよいとなるならば、自然の秩序は破られてしまいます。ですから人は造り主の意図に沿って自然を管理しなければなりません。
 神である主は人に命じて仰せられるのです。その命令が21617節に記されています。人がそのみことばを守ることが重要なのです。「人はパンのみにて生きるのではありません。神の口より出るみことばによって生きるのです。」と主イエスが語られました。この神のことばを信じる信仰によって、人は生き、かつ、自然の調和が保たれるのです。

牧師コラム 『わたしについて来なさい』 2018年1月28日

 牧師 高橋勝義     

 作家武者小路実篤は、「この道より、我を生かす道はなし、この道を歩む」と語りました。人は、自分を生かす道を探し求めながら歩んでいるのです。
 しかし、その道を見つけ出せず葛藤しながら、生きているのも、また現実です。
 イエス・キリストは、『誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカ9:23)』と語りました。
 「自分を捨てる」「自分の十字架を負う」とは、どのような意味なのでしょうか…。
 自分を捨てるとは、まことの神に背を向けて自分中心に生きること()を止めることです。自分中心の生き方から、神中心の生き方に方向転換するのです。
 そのために、イエス・キリストが、私たちの罪を身代わりに負い、十字架で死なれたのです。十字架が、自分の力で生きる歩みから、まことの神とともに生きる歩みへと方向転換させてくれるのです。
 神に頼る生き方は、人生の敗北者のように感じますが、そうではありません。
 本来のあなた自身が現わされ、生き生きと生きていくことができるのです。
 そして、まことの神が、あなたに与えている使命を明らかにしてくれるのです。
 日々自分の十字架を負うとは、まことの神が自分に与えている使命を自覚して、その使命をどうすれば果たせるか、日々格闘しながら歩むことを指しています。
 これが、自分の十字架を負うことの意味であり、十字架の道は、あなたを生かす道となるのです。
 ですから、イエス・キリストは、『わたしについて来なさい』と語るのです。

2018年1月18日 バイパス東仮設支援 第173回

日時:2018年1月18日(木)
場所:バイパス東仮設
参加者:12名
奉仕者:8名(仙台教会6名、石巻教会1名、米国福音自由教会1名)

 1月とは思えない暖かで穏やかなお天気の一日となりました。
 参加者の方々は今日も早くから集まって、私たちを待っていてくださいました。
 今日のクラフトは、「ポケットティッシュ付きミニポーチ」です。目薬とティッシュを入れておくのにとても便利なものです。撥水性の生地を使っているので、多少湿ったものを入れても大丈夫です。約2時間かかって、花柄のかわいいミニポーチが仕上がりました。
 チャペル・タイムは、「矢部登代子さんの証し」を紹介させていただきました。子どもの時に、重い障害を負った矢部さんは、絶望の余り何度も自殺を試みました。そんな中で病室に訪ねて来てくれた宣教師から、聖書の言葉を教えられます。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10)。その後、神様を信じ、自分の障害を受け入れることができるようになった矢部さんは自宅を解放して、この福音を伝えて続けて行きました。たくさんの人々が救われて、この家がやがて教会になったのです。「証し」に耳を傾けてくださる方々の心に、神様が続けて語ってくださいますように、神様を信じる心を起こさせてくださいますように。
 また、震災後このクラフト教室をゼロからスタートさせてくださった米国福音自由教会のキャサリン・ロング宣教師が一年ぶりに来てくださいました。皆さんが続けて参加しておられるのを見てとても喜んでくださいました。
 この仮設もこの3月を持って閉じらることになっています。「今後、このクラフト教室を石巻教会で行うとしたら皆さん、来てくださいますか?」と伺ってみました。皆さん、うなずいておられました。神様がこれかもこのクラフト教室を導き続けてくださることを心より感謝致します。
 背後のお祈り、ご支援に心から感謝致します。
                              吉田真知子

         

牧師コラム 『五つのパンと二匹の魚』 2018年1月21日

 牧師 高橋勝義    

 弟子たちが神の国を宣べ伝え、病をいやしたと聞いた人々は、イエスのもとに集まって来ました。熱心にイエスの話しを聞くうちに、いつのまにか日は暮れ始め、弟子たちは群集を解散させて、それぞれで宿をとり食事を取らせるように主にお願いしました。
 ところが、イエスは弟子たちに「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」と言われました。しかし、彼らは「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。(ルカ9:13)」と答えたのです。
 そう答えるのには、訳がありました。
 そこはへんぴなところであり、男だけでもおおよそ5千人もいたからです。どう考えても群集に何か食べ物を用意することは出来ません。
 これを聞いたイエスは、人々を五十人ぐらいずつ組にしてすわらせるように命じます。さらに、全員が座ったのを確認すると、五つのパンと二匹の魚を手に取り天を見上げ、祝福してパンを裂き、群集に配るように命じました。
 人々はみな食べて満腹し、なおかつ余ったパン切れは十二のカゴいっぱいでした。
 弟子たちは、神の国の福音を宣べ伝えるためにつかわされた時、イエスから「力と権威」を授けられたことを、この時すっかり忘れていたのです。
 弟子たちに「力と権威」を授けることのできたイエス・キリストにとって「五つのパンと二匹の魚のほかには何もない」は、神の祝福の始まりなのです。
 私たちの日常にも、「~しかない」と思うことは、度々あります。
 しかし、イエス・キリストに信頼して歩むならば、「~しかない」のではなく「~がある」に変わるのです。
 それはイエス・キリストが窮地を祝福に変えて下さる、力あるまことの神だからです。