牧師コラム 『エデンの園にて』 2018年2月4日

牧師 栗原延元     

 前回は創世記1章を学びました。今回は2章を学びます。ここには創造の秩序としての人の役割が詩的に述べられています。
 〈神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。〉(創世記2:15)。エデンの園は、この地上のユートピア(理想郷)であると思われますが、人にはこの園を耕やし、それを守る責任が与えられているのです。人は何もしなくてよいのではないのです。創造主の御手のわざである自然をマネイジする使命があります。
 マネイジするとは管理する、運用するの意味ですが、それは造り主の意図に従ってしなければなりません。管理者が自分の好き勝手にしてよいとなるならば、自然の秩序は破られてしまいます。ですから人は造り主の意図に沿って自然を管理しなければなりません。
 神である主は人に命じて仰せられるのです。その命令が21617節に記されています。人がそのみことばを守ることが重要なのです。「人はパンのみにて生きるのではありません。神の口より出るみことばによって生きるのです。」と主イエスが語られました。この神のことばを信じる信仰によって、人は生き、かつ、自然の調和が保たれるのです。

牧師コラム 『わたしについて来なさい』 2018年1月28日

 牧師 高橋勝義     

 作家武者小路実篤は、「この道より、我を生かす道はなし、この道を歩む」と語りました。人は、自分を生かす道を探し求めながら歩んでいるのです。
 しかし、その道を見つけ出せず葛藤しながら、生きているのも、また現実です。
 イエス・キリストは、『誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(ルカ9:23)』と語りました。
 「自分を捨てる」「自分の十字架を負う」とは、どのような意味なのでしょうか…。
 自分を捨てるとは、まことの神に背を向けて自分中心に生きること()を止めることです。自分中心の生き方から、神中心の生き方に方向転換するのです。
 そのために、イエス・キリストが、私たちの罪を身代わりに負い、十字架で死なれたのです。十字架が、自分の力で生きる歩みから、まことの神とともに生きる歩みへと方向転換させてくれるのです。
 神に頼る生き方は、人生の敗北者のように感じますが、そうではありません。
 本来のあなた自身が現わされ、生き生きと生きていくことができるのです。
 そして、まことの神が、あなたに与えている使命を明らかにしてくれるのです。
 日々自分の十字架を負うとは、まことの神が自分に与えている使命を自覚して、その使命をどうすれば果たせるか、日々格闘しながら歩むことを指しています。
 これが、自分の十字架を負うことの意味であり、十字架の道は、あなたを生かす道となるのです。
 ですから、イエス・キリストは、『わたしについて来なさい』と語るのです。

2018年1月18日 バイパス東仮設支援 第173回

日時:2018年1月18日(木)
場所:バイパス東仮設
参加者:12名
奉仕者:8名(仙台教会6名、石巻教会1名、米国福音自由教会1名)

 1月とは思えない暖かで穏やかなお天気の一日となりました。
 参加者の方々は今日も早くから集まって、私たちを待っていてくださいました。
 今日のクラフトは、「ポケットティッシュ付きミニポーチ」です。目薬とティッシュを入れておくのにとても便利なものです。撥水性の生地を使っているので、多少湿ったものを入れても大丈夫です。約2時間かかって、花柄のかわいいミニポーチが仕上がりました。
 チャペル・タイムは、「矢部登代子さんの証し」を紹介させていただきました。子どもの時に、重い障害を負った矢部さんは、絶望の余り何度も自殺を試みました。そんな中で病室に訪ねて来てくれた宣教師から、聖書の言葉を教えられます。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10)。その後、神様を信じ、自分の障害を受け入れることができるようになった矢部さんは自宅を解放して、この福音を伝えて続けて行きました。たくさんの人々が救われて、この家がやがて教会になったのです。「証し」に耳を傾けてくださる方々の心に、神様が続けて語ってくださいますように、神様を信じる心を起こさせてくださいますように。
 また、震災後このクラフト教室をゼロからスタートさせてくださった米国福音自由教会のキャサリン・ロング宣教師が一年ぶりに来てくださいました。皆さんが続けて参加しておられるのを見てとても喜んでくださいました。
 この仮設もこの3月を持って閉じらることになっています。「今後、このクラフト教室を石巻教会で行うとしたら皆さん、来てくださいますか?」と伺ってみました。皆さん、うなずいておられました。神様がこれかもこのクラフト教室を導き続けてくださることを心より感謝致します。
 背後のお祈り、ご支援に心から感謝致します。
                              吉田真知子

         

牧師コラム 『五つのパンと二匹の魚』 2018年1月21日

 牧師 高橋勝義    

 弟子たちが神の国を宣べ伝え、病をいやしたと聞いた人々は、イエスのもとに集まって来ました。熱心にイエスの話しを聞くうちに、いつのまにか日は暮れ始め、弟子たちは群集を解散させて、それぞれで宿をとり食事を取らせるように主にお願いしました。
 ところが、イエスは弟子たちに「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」と言われました。しかし、彼らは「私たちには五つのパンと二匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。(ルカ9:13)」と答えたのです。
 そう答えるのには、訳がありました。
 そこはへんぴなところであり、男だけでもおおよそ5千人もいたからです。どう考えても群集に何か食べ物を用意することは出来ません。
 これを聞いたイエスは、人々を五十人ぐらいずつ組にしてすわらせるように命じます。さらに、全員が座ったのを確認すると、五つのパンと二匹の魚を手に取り天を見上げ、祝福してパンを裂き、群集に配るように命じました。
 人々はみな食べて満腹し、なおかつ余ったパン切れは十二のカゴいっぱいでした。
 弟子たちは、神の国の福音を宣べ伝えるためにつかわされた時、イエスから「力と権威」を授けられたことを、この時すっかり忘れていたのです。
 弟子たちに「力と権威」を授けることのできたイエス・キリストにとって「五つのパンと二匹の魚のほかには何もない」は、神の祝福の始まりなのです。
 私たちの日常にも、「~しかない」と思うことは、度々あります。
 しかし、イエス・キリストに信頼して歩むならば、「~しかない」のではなく「~がある」に変わるのです。
 それはイエス・キリストが窮地を祝福に変えて下さる、力あるまことの神だからです。

牧師コラム 『神が下さる平安』 2018年1月14日

 牧師 高橋勝義     

 主イエス・キリストは、『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)』と人々に福音(良きおとずれ・Good News)を語りました。
 この福音を伝えるために、十二弟子たちをつかわす時、主は彼らにあらゆる悪霊を追い出し、病気を直す力と権威をお授けになりました。
 そして、旅のためには何も持って行かないこと、また人々が福音を受け入れない場合、その町を出て行く時には足のちりを払い落とすこと、更に町や村に入り、誰かの家に入る時には「平安を祈るあいさつ」をするようにと弟子たちに命じられました。
 すべての必要はまことの神が備えて下さる、人々の反応に一喜一憂しないことを弟子たちに前もって教えられたのです。
 人は、様々な人生の重荷を負って歩み、大なり小なり不安と恐れを常に抱いているものです。更に人間関係の葛藤も重なり、平安な日々を送りたいと願い求めているのに、苦しみもがいています。

 ですから、イエス・キリストは、行く先々で「平安を祈るあいさつ」をするように弟子たちに命じたのです。イエス・キリストの平安とは、天地万物を造られたまことの神が与えるもので、それはすべての必要を知っておられる愛の神が、私たちの人生を導き、常に私たちのかたわらに寄り添い、歩んで下さるという平安です。
 この平安は、福音を受け入れた者に与えられるのです。
 本当の平安を持つ秘訣は、あなたを愛してやまない神を信じ、神に頼る生き方をすることです。
 あなたもこの神を信じる一歩を踏み出してみませんか?

牧師コラム 『初めに神が天と地を創造した』 2018年1月7日

牧師 栗原延元     

 聖書は〈初めに、神が天と地を創造した〉と書き始めます。まさに神は森羅万象の創造主です。この聖書の宣言は幕末の一人の青年武士の人生を一変します。彼は日本国の存在と己の人生の目的を、この聖書を学ぶことに賭けるのです。
 その青年とは、同志社大学の創立者、新島襄です。彼がここから学んだ真理の第一は、人間が造ったものは神ではないという事です。神棚も仏壇も神ではない。自然そのものも神ではない。人間も神ではない。私どもの目に見えるものは神ではなく、神によって造られた、被造物である。それが聖書が冒頭から語っていることです。まさに詩人が〈天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる〉(詩篇191)と賛歌しているとおりです。
 次に被造物には創造者の意志とそれらを造った目的があるという真理です。人はいろいろなものを作ります。ボールペン、鉛筆などの書きもの、衣類などの着るもの、時計などそれぞれの機能を持ったものを作りますが、その目的は人間の役に立つためです。人間が神に造られたのは、人の生きる目的が「神の栄光」のためなのです。

牧師コラム 『友なるイエス』 2018年1月1日

牧師 高橋勝義     

 聖書(箴言2717)には、『鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。』と語られています。友を選ぶことは、人生の要なのかもしれません。
 中国のことわざに「朱に交われば赤くなる」とあるのもうなずけます。
 イエス・キリストは『わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら、父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。』(ヨハネ15:15)と語っています。あなたは、イエス・キリストの友なのです。
 イエス・キリストは、友であるあなたに天の父の思いを知らせるのです。
 天の父の思いとは、何でしょうか。
 それは、失われたあなたを捜して救うこと、そのために、神のひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされたということです。
 創造の初めでは、まことの神と人とは親しい間柄でした。
 ところが、人は、まことの神から離れ、背を向けて歩むようになったのです。
 ですから、神の側からすれば、私たちは神のところから飛び出して行き、失われた人になったのですが、私たちにはその自覚がありません。
 そこで、神と人とを隔てる壁()を打ち壊し、再びもとの親しい間柄になるために、イエス・キリストは、神に対するそむきの罪を身代わりに負って、十字架で死なれたのです。
 この十字架こそが、私たちを罪から救うための神の愛の証しであるのです。
 あなたが友だから、イエス・キリストは、あなたに天の父の思いを知らせ、あなたの今の姿を自覚させ、新しい歩みへと導こうとしているのです。

牧師コラム 『絶望から希望へ』 2017年12月31日

牧師 高橋勝義     

 十二年の間長血をわずらっていた女は、医者の所に行き、あらゆる方法を試みましたが、病は直るどころか、悪くなってしまいました。それだけではありません。信頼していた医者からひどい目に遭い、財産をすっかり使い果たしてしまったのです。
 しかし、絶望のどん底にいた時、かすかな希望の光があることを知ったのです。その光とは、イエス・キリストです。
 女は、「イエス様の着物に触ることでもできれば、きっと直る(マタイ9:21)」と信じ、人ごみの中に分け入って、こっそりと、イエスの着物のふさに触ったのです。すると、あんなに苦しんでいた出血が、たちどころに止まったのです。
 ところが、イエスは、ご自身から力が出ていくのを感じ、あたりを見渡して「わたしに触ったのは、誰ですか」と言われました。ペテロは、「先生。この大勢の人が、ひしめき合って押しているので分かりません。」と答えました。
 隠しきれないと分かった、女は、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスに触ったわけと、たちどころにいやされた次第とを話したのです。
 話しを聞いたイエスは、女に「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。(ルカ8:48)」と言われたのです。
 光りであるイエス・キリストのところに一歩踏み出す勇気(信仰)が、絶望の中から希望を見出し、女はからだと心の癒しを同時に得ることが出来たのです。
 『期待が長びくと心は病む。望みがかなうことは、いのちの木である。』箴言13:12
 あなたもこの女性のようにイエス・キリストのふところに飛び込んでみませんか。

牧師コラム 『救い主の誕生』 2017年12月24日

 牧師 高橋勝義     

 あなたは、家族の誕生日を覚えていますか。
 11月になると、街では、クリスマスソングが、あちこちから聞こえてきます。
 子どもの頃の私にとって、クリスマスは、ケーキが食べられる日でした。
 クリスマスとは今から約2000年前の夜、イエス・キリストが誕生した日なのです。
 その夜、野宿で夜番をしている羊飼いたちの前に御使いが現れ「きょうダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。(ルカ2:11,12)」と告げました。
 そこで、羊飼いたちは、ベツレヘムの町に出かけ、御使いが告げた通り飼い葉おけに寝ているみどりごを見つけたのです。
 それから、30年後、バプテスマのヨハネという人は、イエス・キリストを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)」と語りました。
 私たちは、まことの神を知らず、神に背を向けて歩んでいるので、憎しみや怒り、妬みや恨みに心が支配され、様々な争い事を引き起こしてしまうのです。
 この心の根本にあるのが罪なのです。この罪を取り除くために、イエス・キリストは、人となってこの世(あなたのところ)に来られ、十字架で死んで下さいました。
 そのイエス・キリストは、『わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです(ルカ5:32)』とあなたに語っています。
 クリスマスは、神の子イエス・キリストが私たちの所に来て下さった喜びの時、だから世界中でお祝いするのです。

牧師コラム 『新たなる旅たち』 2017年12月17日

 牧師 高橋勝義

 マリヤは、聖霊によって男の子を宿します。しかし、人々はそれを受け入れることが出来ませんでした。婚約者のヨセフも同様に、悩み苦しんでいました。
 ヨセフは、主の使いが夢に現れて「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。(マタイ1:20,21)」と語られたので、マリヤを受け入れます。
 そこに、ローマ帝国の皇帝アウグストから世界中に住民登録をせよという勅令が出ます。住民登録をする場所は、今住んでいるところではなく、出身地で行います。
 ヨセフの出身地は、ベツレヘムなので、ナザレから直線距離で110㎞の旅となります。普通の旅でも、多くの困難が待ち受けているところに、身重のマリヤを連れての旅ですから、二人にとって、とても厳しい旅です。
 一見するよ、無慈悲な神のように感じてしまいます。
 ところが、この旅は、夫婦としての絆を深めるのにとても重要であり、彼らを守る旅でもあったのです。なぜなら、ナザレでイエス・キリストが生まれていたならば、人々から厳しい目で見られることとなり、二人には、居場所がなかったからです。
 この旅は、まことの神の御配慮に満ちた愛なのです。
 この愛に守られ、二人は、新たなる旅立ちをすることが出来たのです。
 『神を愛する人々、即ち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。       (ローマ8:28)