牧師コラム 『父よ、彼らをお赦しください』 2019年7月14日

牧師 高橋勝義

総督ピラトは、イエス様が無実であるにもかかわらず、民衆の声に負け、また、自分の立場を守るために、「十字架刑」にすることを承諾しました。
十字架を背負わされ、刑場に向かったイエス様でしたが、ムチ打たれ、血だらけのからだにもはやその力はなく、代わりにそこに居合わせたクレネ人シモンが十字架を背負い「どくろ」と呼ばれている場所に向かいました。
民の指導者たちのねたみと嫉妬、また期待したメシヤではないことへの民衆の失望と怒りが、無実のイエス様を残酷でむごい「十字架刑」につけてしまいました。

薄れゆく意識の中で、イエス様は自分を十字架につけた民の指導者たちや民衆への恨みごとではなく『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34) 』と天の父にとりなしをされたのです。
また、イエス様と共に、二人の犯罪人も十字架につけられました。
ひとりはイエス様を罵り、もうひとりは自分の犯した罪を告白し、悔い改めました。その人にイエス様は「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と言われました。

聖書は、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネの手紙1:9)と約束しています。自分の罪を認め、告白する者には、すべての罪を赦して下さる、これが、神の約束であり、神の愛なのです。
あなたも、あなたを愛する神に、正直に向きあってみてはいかがでしょうか?

牧師コラム 『イエスかバラバか』 2019年7月7日

牧師 高橋勝義

捕らえられたイエス様は、大祭司の家から総督ピラトの所に連れて行かれました。
イエス様に罪を見いだせないピラトでしたが、食い下がる訴えに負け、ちょうどエルサレム滞在中のヘロデ王のもとに、イエス様を送ったのです。
ヘロデは、噂に聞く奇跡が見られると喜びますが、イエス様はヘロデの質問に何ひとつ答えることがなく、再びピラトの所に送り返されました。
裁判は、このように一晩中続き、再度取り調べをしたピラトは、「この人は死に値することを何もしていない。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」(ルカ23:15,16)と宣言しました。しかし、民衆は、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」(ルカ23:18)、「十字架だ。十字架につけろ。」(ルカ23:21)と叫び続けたのです。
このバラバとは、殺人と暴動を起こした犯罪者です。

ほんの6日前に、自分たちの上着を道に敷き、「祝福あれ、主の御名によって来られる方~(ルカ19:36~38)」と歓喜してイエス様をお迎えした同じ人々が、イエス様ではなく、殺人犯を特赦に選んだのです。ローマの支配から解放してくれる力強いメシヤ(救い主)を待ち望んでいた民衆は、目の前の弱々しく、惨めなイエス様をメシヤとして受け入れることが出来なかったからです。
しかし、イエス様は、父なる神の御旨に従い、私たちを救うために、苦しみと屈辱の十字架の道を黙々と歩まれたのです。
あなたを愛してやまない神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じ、愛と赦しのある新しい人生を選ぶ者になりませんか?

牧師コラム 『モーセ物語~その1』 2019年6月30日

牧師 栗原延元

聖書巻頭の書である「創世記」に続いて、「出エジプト」記に入ります。
この書は、イスラエルの民が、エジプトから出て、神の約束の地カナンを目ざす旅を記しています。
イスラエルの民を、エジプトから救出した指導者が「モーセ」です。今日は、出エジプト記3章を学びます。この章には、モーセが神の召命を受ける場面が詳しく記されています。神とモーセの出合いの様子は、実に臨場感にあふれ、読む者をして、数千年の時空を超えて、私たちをその場へと誘います。その中で神は、「我は有りて在る者なり」(文語訳)と宣言します。
人間が存在するためには、多くの条件が揃っていなければなりません。水も食物も空気もなければ存在することはできません。神は無条件に存在するお方なのです。モーセが詠んだ詩があります。その詩の冒頭に〈主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことにとこしえからとこしえまであなたは神です〉(詩90:1~2)。まことに神は「有りて在る者」なのです。この神を信じていくことが、人生の揺るぎない土台となるのです。

2019年6月6日 クラフト教室・支援報告 第189回

・日時:2019年6月6日
・参加者:11名
・奉仕者:仙台教会5名、石巻教会1名

「お薬手帳カバ- (2)」製作

チャペルタイム
「6000人の命を救った外交官」
賛美:「主イエスの愛は」

今月も先月に引き続き、製作は「お薬手帳カバ-」です。

いよいよ、内ポケットを作り、おしゃれなレ-スのファスナ-を付けて、仕上げのパイピングです。そして、可愛いお花の飾りボタンをつけたタブを取り付けると完成です。
診察カ-ドも収納できる素敵なカバ-は,きっと病院通いのお供になることでしょう。
今日のチャペルタイムは、皆さんに鉛筆が配られ、何やら「中間テスト💦」という声も。
毎回、賛美曲と、みことば( すてきな季節の花のイラスト入り )が印刷された紙が配られるのですが、今月は先月と同じみことばで、第Ⅱコリント13章13節。「こういうわけで、いつまでも残るのは〇〇と〇〇と〇、これら三つです。その中で一番すぐれているのは〇です。」でした。この〇の中に「信仰」「希望」「愛」をそれぞれが鉛筆で記入しました。
読む、耳で聞く、だけでなく実際に書いてみることは、心に残るのだな…と思いました。

お話しは、第二次世界大戦下のリトアニア日本領事館員杉原千畝氏についてでした。
彼は、ポ-ランドからナチスのユダヤ人大虐殺を逃れてきたユダヤ人難民たちの最後の脱出ル-ト( シベリアから日本経由の米国入国 ) に必要な日本通過ビザを、本国の意向に反して発給し続けた外交官です。ハリストス正教会のクリスチャンでもあった彼が、苦しみ悩んだ末に出した結論は「ビザを出さなかったら、神に背くことだ。私は自分の責任において明日から発行する」でした。そして、たった一人の領事館員だった彼は、朝から夜遅くまで一日に百枚以上ものビザを、ひたすらキリストにある人道愛に燃えて書き続けたのです。
ソ連軍のリトアニア併合にともない、ベルリン退去命令が出された後も、汽車が走り出すギリギリまで、窓から身を乗り出して書き続けました。この時、杉原一人が書いたビザは2139通で、家族兼用の旅券所持者も含めると、約6000人に上ると言われています。
杉原がビザを書いてから28年後の1968年、イスラエル大使館の参事官ニシュリから面会を求められ、出向いた彼にニシュリが見せたのは、ボロボロになった一枚のビザでした。そして、翌年、彼はイスラエルに招かれ、イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞」を日本人として初めて授与されました。
このことが報道された時、彼はただ一言「当然のことをしただけです。」と謙遜に語りました。神の愛に裏打ちされた勇気と犠牲の行動に、クラフト教室の皆さんも、うなずきながら耳を傾けておられました。

 

 

 

 

牧師コラム 『あなたは神の子か』 2019年6月23日

牧師 高橋勝義

イスラエルの宗教指導者たちにとって、メシヤ(救い主)は、神の選びの民である自分達を、他国の支配から解放してくれる、力強い栄光に輝くお方であるはずでした。
しかし、イエス様の言動は、先祖の教えの誤りを指摘するものでした。それ故、彼らには神を冒瀆している者と映ったのです。そして策を練り、イエス様を捕らえることに成功しました。しかし、十字架刑にするだけの証拠がありません。

そこで、彼らは、イエス様に直接こう問いただすのです。
『「おまえがキリストなら、そうだと言え。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」彼らはみな言った。「では、おまえは神の子なのか。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」そこで彼らは「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と言った。(ルカ:67~71)』

彼らの質問の意図は、イエス様の口から神を冒瀆することばを引き出すためでした。
しかし、「あなたは神の子なのか」という問いは、イエス様に出会うすべての人が持つ問いかけでもあります。
聖書は、神のひとり子が人となってこの世に来られたと記しています。
それはイエス様が、私たちの苦しみや悲しみ、痛みを知っておられ、人が神から離れ、自分中心の歩みをすることの悲惨さも目にされたことを意味します。
神の御子がこの世に来られたということは、このお方が『どこかで私たちを見ておられる神』ではなく、私たちのそばに共におられる神であることを現しているのです。

牧師コラム 『みこころの通りに』 2019年6月16日

牧師 高橋勝義

イエス様は弟子たちを連れて、いつものように祈るためにオリーブ山に行かれました。しかし、この時の祈りはいつもとは違っていました。
イエス様の額からは、汗が血のしずくとなって地に落ちる程に、「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。(ルカ22:42)」と苦しみ悶えながら祈られたのです。「この杯」とは、十字架刑のことです。

それは当時のローマ帝国の刑の中で、最も残忍でむごい刑罰でした。
囚人は両手首と両足首を釘で十字架に打ち付けられ、長時間放置され、やがて呼吸困難に陥り、死に至るのです。

では、なぜ、罪なきお方イエス様が十字架刑を受けなければならなかったのか。それは、父なる神のみこころだったからです。
私たちが神から離れ、神を捨て、自分中心に生きてきた「」をイエス様が身代わりに負い、私たちを滅びから、永遠のいのちへと移してくださるためでした。
イエス様は「ご自身が罪の身代わりとなって十字架で死ぬ」という父なる神のみこころに対して、苦しみ悶えて祈られました。
そして、ついに十字架を前にして、ご自分の正直なお気持ちを神に明け渡され、父なる神のみこころに従おうと、そのすべてをゆだねられたのです。
血の汗を流しながら祈られたイエス様の十字架は、あなたを滅びから救おうとされるあなたへの愛の現れです。
イエス様はあなたを愛し、みもとに招いておられます。

牧師コラム 『聖 霊』 2019年6月9日

牧師 高橋勝義

十字架で死なれたイエス・キリストは墓に葬られ、三日目によみがえられた後、四十日のあいだ弟子たちの前に現れました。そして神の国について語られたのです。
その後、天に戻られる時「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。(使徒1:8)」と約束してくださいました。
また、「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主(聖霊)はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。(ヨハネ16:7,8)」とも語られました。
事実、イエス様が復活されてから50日目に、集まった人々の上に聖霊が天から下りました。その聖霊に満たされた弟子たちは、他国のいろいろなことばを話し始め、力強く、大胆に福音を語ったのです。(使徒2:3,4)
それはイエス様がローマ兵に捕らわれた時、その主を見捨てて逃げ去った同じ弟子たちでした。
その場にいた人々は、自分の国のことばで福音を聞き、心刺され、キリストの十字架は自分の罪の身代わりであると認め、悔い改め、そしてイエス様を罪からの救い主として信じたのです。

今、2000年前の十字架の出来事が自分の罪のためであることを認め、このお方を信じることが出来るのは聖霊の働きによるのです。また信じた全ての者が、新しいいのちを頂いて、この世を生き生きと歩めるのも、聖霊の力によるのです。

 十字架はあなたのためであると、聖霊はあなたの心に語りかけておられます。

牧師コラム 『イエス様のまなざし』 2019年6月1日

牧師 高橋勝義

私たちの人生に失敗はつきものです。しかし、大切なのはその後の歩みです。

イエス様は、『シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかける(試練)ことを願って、聞き届けられました。わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈ったので、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:32)」と、シモン・ペテロに語りました。
驚いたペテロは、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」と答えるのですが、それに対して、イエス様は「今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います(ルカ22:34)」と言われたのです。
イエス様がサタンからの試練を許したのは、ペテロが本当の自分の姿を知ることによって、人の弱さをそのまま受け入れる者となるためだったのです。ですから、ふるいにかけられるのは、とても辛いことですが、とても貴重な経験でもあるのです。
事実、ペテロは大祭司の庭で捕らわれのイエス様を見つめていた時、3人もの人に「イエスと一緒にいた」と言われ、三度とも「知らない」と否定してしまいました。

その時、鶏が鳴き、イエス様が振り向いてペテロを見つめたのです。

ペテロは、外に出て激しく泣きました。それは自分のふがいなさと同時に、そのまなざしに「愛」を感じたからです。それは、ご自身を否定してしまったことを責めるものではなく、赦し、受け入れ、支える愛のまなざしだったからです。
その同じイエス様のまなざしが、あなたにも注がれているのです。
あなたの弱さも失敗も、ありのままを受け入れ、あなたのために祈って下さるイエス様を信じ、その愛に生きる歩みをしませんか?

牧師コラム 『誰が一番偉いか』 2019年5月26日

牧師 高橋勝義

イエス様は、十字架を前にした弟子たちとの過ぎ越しの食事の中で、ご自身を裏切る者がいることを告げられました。
驚いた弟子たちは、だれがそんなことをしようとしているのか、議論し始めるのですが、同時に「誰が一番偉いか」という議論も起こりました。(ルカ22:23,24)
いつの時代も、人々の間では、このような議論が起こるものです。
しかし、イエス様は、「あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。(ルカ22:26)」と、『神様の目から見た偉い人』について語ります。
そして、身をもってそれを教えるために、本来ならば『食卓で給仕をされる人』である神の御子イエス様ご自身が、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、泥にまみれた弟子の足を洗い、腰の手ぬぐいでふかれたのです。これには、弟子たちもさすがに驚きました。師であるイエス様みずからが、弟子の足を洗うことによって、互いに仕え合うようにと模範を示されたのです。(ヨハネ13:4~15)

人は、仕えるより、仕えられることを求めるものです。

イエス様のような『仕える心』は、イエス様を救い主と信じ、その愛と赦しを味わった時に生まれます。生まれながらの私たちには、残念ながらその力がないのです。
「~して欲しい」と人に要求する者ではなく、私たちの内に住んでおられる聖霊なる神の力によって、人々を愛し、赦し、喜んで仕える者にならせて頂きましょう。

誰でも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(マタイ23:12)