牧師コラム 『まことの神との交わり』 2019年8月18日

牧師 高橋勝義

私たちにとって、交わり(コミュニケーション)は生きるための必要な手段ですが、そこには様々な誘惑もあります。ですから、昔から「朱に交われば赤くなる」という諺もあるほど、友を選ぶことが大切になってきます。

十二弟子の一人ヨハネは、まことの神と御子イエス・キリストとの交わりを持つことこそが、喜びが満ち溢れる秘訣であると語ります。
なぜなら、イエス・キリストは、死を解決できる唯一のお方だからです。
ここで問題がひとつ出てきます。その問題とは「まことの神」が分からないことです。日本では「八百万(やおよろず)の神々」がいるとされ、あれも神、これも神、これでは天地万物を創造されたまことの神が分からなくなるのも当然です。

ところが、ヨハネは、まことの神であり、いのちのことばであるイエス・キリストを自分の目でじっと見つめ、自分の耳で聞き、自分の手でさわった(Ⅰヨハネ1:1)と証言しています。果たして、私たちにもそんなことが可能なのでしょうか?
ヨハネが証言するお方、神の一人子イエス・キリストは、人となってこの世に来られ、この世に住みました。そして、ご自身を罪からの救い主として信じる者は、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ(ヨハネ3:16)、と約束し、私たちのすべての罪を身代わりに負って十字架で死なれました。
ですから、このお方を知り、信じ、このお方と交わりを持つことこそが、真の希望を見出し、心が喜びで満たされることになるのです。

今日も、あなたのためにいのちを献げられたイエス・キリストは、あなたを友と呼び、招いておられます。

牧師コラム 『天に上げられたイエス様』 2019年8月11日

 牧師 高橋勝義

イエス・キリストがよみがえられた最初の知らせは、日曜日の朝、墓に香料と香油を持って出かけて行った女たちからでした。次に主はエルサレムからエマオの村に向かっていた二人の弟子の前に現れてくださり、彼らはすぐにエルサレムの弟子たちにこのことを知らせました。さらに、弟子たちがこれらのことを話している真ん中にイエス・キリストが立ち「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。
驚き、震える彼らに、主は「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。(ルカ24:39)」とご自分が生きておられることを示されたのです。それから、彼らの心の目を開き『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカ24:46~47)』ことを解き明かされました。
また「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)」と、聖霊を受けることと、それまではエルサレムにとどまるようにと告げ、その後弟子たちを祝福しながら、天に上げられたのです。

聖書は「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒1:11)」と約束しています。更に、このイエス様が再び来られる時には「さばき」が行われます。そのための備えが私たちには必要です。

今は恵みの時、今は救いの日(Ⅱコリント6:2)なのです。

牧師コラム 『みことばの力』 2019年8月4日

牧師 高橋勝義

イスラエルを解放して下さるお方、と期待したイエス様が十字架で死んでしまった。
この悲しみと失望を抱えて、エマオに向かって歩く二人の弟子に、イエス様が近づき、「歩きながら語り合っているその話は何のことですか(ルカ24:15)」と声をかけ、一緒に歩き始められたのです。彼らには、それがイエス様だとは分からず、エルサレムで起こった出来事を話しました。

すると、イエス様は「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」、さらにモーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされたのです。(ルカ24:25~27)
しかし、なお二人の弟子の目はさえぎられており、このお方が、イエス様であると分からなかったのです。夕刻になり、一緒に泊まることにしたイエス様は食卓でパンを取り、神をほめたたえ、裂いて彼らに渡されました。すると彼らの目が開かれ、イエス様だと分かり、同時に、その姿は見えなくなりました。

その時、二人はイエス様が自分たちに聖書を説き明かし、教えてくださる間、自分たちの心が内で燃えていたことに気付かされるのです。

復活されたイエス様と私たちが出会う場所のひとつはみことば(聖書)です。
みことばにふれる時、さえぎられた心の目が開かれ、まことの神が分かるのです。
そして、みことばをただ聞くだけではなく、信じて歩む時、「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です(詩篇119:105)」となっていくのです。

牧師コラム 『どうして生きておられる方を死人の中に捜すのか』 2019年7月28日

牧師 高橋勝義

週の初めの明け方早く、女たちは準備しておいた香油と香料を持って墓に出かけて行きました。問題は、墓を封印している大きな石をどうやって動かすか、でした。

ところが、石は墓からわきに転がされており、中にあるはずのイエス様のからだが見当たらなかったのです。途方に暮れる女たちの前に二人の御使いが現れ、恐れで顔を伏せる彼女たちに「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。~人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう(ルカ24:5~6)」と告げました。

イエス様のことばを思い出した彼女たちは、急いで弟子たちのところに戻り、事の次第を話すのですが、たわごとのように思えた使徒たちは、彼女たちを信じませんでした。しかし、ペテロは走って墓に行き、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見え、この出来事に驚きながら帰って行ったのです。

聖書は、イエス様のよみがえりについて「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます(Ⅰコリント15:17)」と語っています。また、「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました(Ⅰコリント15:20)」とも語っています。

イエス様のよみがえりこそが、私たちの罪の贖いを完成し、新しいのちを私たちに与えるのです。そして、イエス様ご自身が「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と語っておられます。

イエス様のこの招きに、あなたは、どう応答しますか?

牧師コラム 『イエス・キリストの死と埋葬』 2019年7月21日

牧師 高橋勝義

十字架につけられたイエス様は、私たちが受けるはずの罪の刑罰で死を味あわれたお方です。九時に十字架につけられ、全地は十二時頃から暗くなり、それは午後三時頃まで続いたのです。神殿の幕が真ん中から裂け、大声で「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます(ルカ23:46)」と叫ばれ、息を引き取られました。

百人隊長はこの出来事に、神をほめたたえ「本当にこの方は正しい人であった」と言い、群衆もみな、悲しみのあまり胸をたたきながら帰りました。
そして、ヨセフという議員のひとりが、ピラトからイエス様のからだを引き取り、まだ誰も葬られていない、岩に掘った自分の墓にそのからだを納めたのです。ガリラヤから主について来ていた女たちは、その様子を見届け、香料と香油を用意して、安息日を守りました。

この埋葬は、私たちの罪の身代わりとなったイエス様の完全な死を意味します。

パウロは、イエス様の十字架の死と私たちの関わりについて「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。」(ローマ6:6~8)と語っています。

キリストを救い主と信じるすべての人は、よみがえられたキリストの新しいいのちを頂いて、「キリストとともに生きる人」になるのです。
肝心なことは、古い人(自分中心に生きる)が死んでいることを受け取ることです。古い人として生き続けるのか、それとも新しい人(神中心に生きる)として生きるのかが、問われているのです。

牧師コラム 『父よ、彼らをお赦しください』 2019年7月14日

牧師 高橋勝義

総督ピラトは、イエス様が無実であるにもかかわらず、民衆の声に負け、また、自分の立場を守るために、「十字架刑」にすることを承諾しました。
十字架を背負わされ、刑場に向かったイエス様でしたが、ムチ打たれ、血だらけのからだにもはやその力はなく、代わりにそこに居合わせたクレネ人シモンが十字架を背負い「どくろ」と呼ばれている場所に向かいました。
民の指導者たちのねたみと嫉妬、また期待したメシヤではないことへの民衆の失望と怒りが、無実のイエス様を残酷でむごい「十字架刑」につけてしまいました。

薄れゆく意識の中で、イエス様は自分を十字架につけた民の指導者たちや民衆への恨みごとではなく『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34) 』と天の父にとりなしをされたのです。
また、イエス様と共に、二人の犯罪人も十字架につけられました。
ひとりはイエス様を罵り、もうひとりは自分の犯した罪を告白し、悔い改めました。その人にイエス様は「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と言われました。

聖書は、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネの手紙1:9)と約束しています。自分の罪を認め、告白する者には、すべての罪を赦して下さる、これが、神の約束であり、神の愛なのです。
あなたも、あなたを愛する神に、正直に向きあってみてはいかがでしょうか?

牧師コラム 『イエスかバラバか』 2019年7月7日

牧師 高橋勝義

捕らえられたイエス様は、大祭司の家から総督ピラトの所に連れて行かれました。
イエス様に罪を見いだせないピラトでしたが、食い下がる訴えに負け、ちょうどエルサレム滞在中のヘロデ王のもとに、イエス様を送ったのです。
ヘロデは、噂に聞く奇跡が見られると喜びますが、イエス様はヘロデの質問に何ひとつ答えることがなく、再びピラトの所に送り返されました。
裁判は、このように一晩中続き、再度取り調べをしたピラトは、「この人は死に値することを何もしていない。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」(ルカ23:15,16)と宣言しました。しかし、民衆は、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」(ルカ23:18)、「十字架だ。十字架につけろ。」(ルカ23:21)と叫び続けたのです。
このバラバとは、殺人と暴動を起こした犯罪者です。

ほんの6日前に、自分たちの上着を道に敷き、「祝福あれ、主の御名によって来られる方~(ルカ19:36~38)」と歓喜してイエス様をお迎えした同じ人々が、イエス様ではなく、殺人犯を特赦に選んだのです。ローマの支配から解放してくれる力強いメシヤ(救い主)を待ち望んでいた民衆は、目の前の弱々しく、惨めなイエス様をメシヤとして受け入れることが出来なかったからです。
しかし、イエス様は、父なる神の御旨に従い、私たちを救うために、苦しみと屈辱の十字架の道を黙々と歩まれたのです。
あなたを愛してやまない神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じ、愛と赦しのある新しい人生を選ぶ者になりませんか?

牧師コラム 『モーセ物語~その1』 2019年6月30日

牧師 栗原延元

聖書巻頭の書である「創世記」に続いて、「出エジプト」記に入ります。
この書は、イスラエルの民が、エジプトから出て、神の約束の地カナンを目ざす旅を記しています。
イスラエルの民を、エジプトから救出した指導者が「モーセ」です。今日は、出エジプト記3章を学びます。この章には、モーセが神の召命を受ける場面が詳しく記されています。神とモーセの出合いの様子は、実に臨場感にあふれ、読む者をして、数千年の時空を超えて、私たちをその場へと誘います。その中で神は、「我は有りて在る者なり」(文語訳)と宣言します。
人間が存在するためには、多くの条件が揃っていなければなりません。水も食物も空気もなければ存在することはできません。神は無条件に存在するお方なのです。モーセが詠んだ詩があります。その詩の冒頭に〈主よ。あなたは代々にわたって私たちの住まいです。山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことにとこしえからとこしえまであなたは神です〉(詩90:1~2)。まことに神は「有りて在る者」なのです。この神を信じていくことが、人生の揺るぎない土台となるのです。

2019年6月6日 クラフト教室・支援報告 第189回

・日時:2019年6月6日
・参加者:11名
・奉仕者:仙台教会5名、石巻教会1名

「お薬手帳カバ- (2)」製作

チャペルタイム
「6000人の命を救った外交官」
賛美:「主イエスの愛は」

今月も先月に引き続き、製作は「お薬手帳カバ-」です。

いよいよ、内ポケットを作り、おしゃれなレ-スのファスナ-を付けて、仕上げのパイピングです。そして、可愛いお花の飾りボタンをつけたタブを取り付けると完成です。
診察カ-ドも収納できる素敵なカバ-は,きっと病院通いのお供になることでしょう。
今日のチャペルタイムは、皆さんに鉛筆が配られ、何やら「中間テスト💦」という声も。
毎回、賛美曲と、みことば( すてきな季節の花のイラスト入り )が印刷された紙が配られるのですが、今月は先月と同じみことばで、第Ⅱコリント13章13節。「こういうわけで、いつまでも残るのは〇〇と〇〇と〇、これら三つです。その中で一番すぐれているのは〇です。」でした。この〇の中に「信仰」「希望」「愛」をそれぞれが鉛筆で記入しました。
読む、耳で聞く、だけでなく実際に書いてみることは、心に残るのだな…と思いました。

お話しは、第二次世界大戦下のリトアニア日本領事館員杉原千畝氏についてでした。
彼は、ポ-ランドからナチスのユダヤ人大虐殺を逃れてきたユダヤ人難民たちの最後の脱出ル-ト( シベリアから日本経由の米国入国 ) に必要な日本通過ビザを、本国の意向に反して発給し続けた外交官です。ハリストス正教会のクリスチャンでもあった彼が、苦しみ悩んだ末に出した結論は「ビザを出さなかったら、神に背くことだ。私は自分の責任において明日から発行する」でした。そして、たった一人の領事館員だった彼は、朝から夜遅くまで一日に百枚以上ものビザを、ひたすらキリストにある人道愛に燃えて書き続けたのです。
ソ連軍のリトアニア併合にともない、ベルリン退去命令が出された後も、汽車が走り出すギリギリまで、窓から身を乗り出して書き続けました。この時、杉原一人が書いたビザは2139通で、家族兼用の旅券所持者も含めると、約6000人に上ると言われています。
杉原がビザを書いてから28年後の1968年、イスラエル大使館の参事官ニシュリから面会を求められ、出向いた彼にニシュリが見せたのは、ボロボロになった一枚のビザでした。そして、翌年、彼はイスラエルに招かれ、イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞」を日本人として初めて授与されました。
このことが報道された時、彼はただ一言「当然のことをしただけです。」と謙遜に語りました。神の愛に裏打ちされた勇気と犠牲の行動に、クラフト教室の皆さんも、うなずきながら耳を傾けておられました。