牧師コラム 『イエス・キリストの死と埋葬』 2019年7月21日

牧師 高橋勝義

十字架につけられたイエス様は、私たちが受けるはずの罪の刑罰で死を味あわれたお方です。九時に十字架につけられ、全地は十二時頃から暗くなり、それは午後三時頃まで続いたのです。神殿の幕が真ん中から裂け、大声で「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます(ルカ23:46)」と叫ばれ、息を引き取られました。

百人隊長はこの出来事に、神をほめたたえ「本当にこの方は正しい人であった」と言い、群衆もみな、悲しみのあまり胸をたたきながら帰りました。
そして、ヨセフという議員のひとりが、ピラトからイエス様のからだを引き取り、まだ誰も葬られていない、岩に掘った自分の墓にそのからだを納めたのです。ガリラヤから主について来ていた女たちは、その様子を見届け、香料と香油を用意して、安息日を守りました。

この埋葬は、私たちの罪の身代わりとなったイエス様の完全な死を意味します。

パウロは、イエス様の十字架の死と私たちの関わりについて「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。」(ローマ6:6~8)と語っています。

キリストを救い主と信じるすべての人は、よみがえられたキリストの新しいいのちを頂いて、「キリストとともに生きる人」になるのです。
肝心なことは、古い人(自分中心に生きる)が死んでいることを受け取ることです。古い人として生き続けるのか、それとも新しい人(神中心に生きる)として生きるのかが、問われているのです。