牧師コラム 『光と闇』 2019年9月8日

牧師 高橋勝義

「光と闇」と聞くと、多くの場合、光は善、闇は悪、とイメージするのではないでしょうか。また、成功は光で、失敗は闇と人生を表現することもあります。
では、聖書は「光と闇」について、どのように語っているのでしょうか。
聖書は「光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎んでいる人は、今でもまだ闇の中にいるのです(ヨハネの手紙第一2章9節)」と語っています。
「光」とは、私たちを造られた創造主である「まことの神」のことであり、「光の中にいる」とは、「神の愛」の中に生きることなのです。

なぜなら、神の一人子であるイエス・キリストが十字架の上で死なれたのは、私たちを愛するゆえに、私たちのの身代わりとなられたからで、このお方を人生の主として信じる時、神の子どもとされ、神の愛の中に生きる者とされるからです。
しかしイエス・キリストを信じ、神の子どもとされても、残念なことに私たちの心の中には次々と怒りや憎しみ、競争心、虚栄心、高慢などのが湧き出てきます。
これらのをそのまま放置するなら、その人は闇の中で生きることになります。
ですから、光の中に生きるとは、日々、そのを正直に神の前に認め(告白し)、イエス・キリストの十字架の血潮によってきよめていただく歩みなのです。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます(ヨハネの手紙第一1章9節)」

自分の力では赦すことも、愛することも出来ない私たちですが、信じる者の内におられる聖霊の助けと力により、愛の中に生きる者へと変えられていくのです。

牧師コラム 『キリストにならう』 2019年9月1日

牧師 高橋勝義

私たちの人生は、目標となる人が、いるといないとでは、大きく変わってきます。目指す人を目標に、自分もその人のようになろうと努力し、その人を越えたいと願うならば、さらなる努力することもいとわないでしょう。

ヨハネは、信仰者が目指すお方はイエス・キリストであり、このお方にならって自分も同じ生き方をしようとするはずだ、と語ります。「神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません(Ⅰヨハネ2:6)」
ここでヨハネが「神のうちにとどまっていると言う人は…」という表現をしているのは、「自分はみことばをちゃんと守っている」と、勝手な解釈で主張する人がいたからです。しかし、このような人は自分の知識を誇り、「互いに愛し合いなさい」という神の教えからはほど遠く、ズレた歩みになっているのです。

イエス・キリストは、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5)」と語っています。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」ことを受け止めて、しっかりと心に刻みましょう。イエス・キリストにとどまるということは、毎日みことばを読んでキリストの愛に触れることです。

イエス様の愛をいただき、内におられる聖霊の助けによって、私たちは「愛の人、喜びの人、平安の人、寛容な人、親切な人、善意の人、誠実な人、柔和な人、自制の人(ガラテヤ5:22)」という御霊の実を結ぶ者に変えられていくのです。

牧師コラム 『正直に、真実に神の前に生きる』 2019年8月25日

牧師 高橋勝義

神は光であり、闇が全くありません。その神が、人としてこの世に遣わした御子イエス・キリストを、私たちのすべての罪の身代わりに、十字架上で処罰されました。そして、このイエス・キリストを救い主と信じ、罪をきよめていただいた私たちは、光の神と共に歩む者、交わりをする者(親しく会話する者)とされるのです。

それゆえ、私たちはイエス様の橋渡しで、全能の神に向かってなんでも話すことができます。お祈りは神との会話であり、神の思いは、聖書に記されています。

死に値する罪が赦され、永遠のいのちに移されて、神のこども、光の子になった私たちですが、怒り、ねたみ、競争心、さばきなどの罪を犯してしまいます。
この時、私たちは、なんとかして自分の力で解決しようと頑張ってしまいやすいのです。もし、神と交わりを持ち、光の中を歩んでいるなら、私たちには闇がないはずです。闇がないというのは、偽りがないということなので、弱さも、惨めさも、愚かさも、ありのままの自分で良いのです。むしろ、犯してしまった罪を正直に神に申し上げ、認めることが大切なのです。立派な人になろうとするのではなく、正直な者になれば良いのです。なぜなら、神はそれを求め、待っておられるからです。

『もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。(Ⅰヨハネ1:8~10) 』

牧師コラム 『まことの神との交わり』 2019年8月18日

牧師 高橋勝義

私たちにとって、交わり(コミュニケーション)は生きるための必要な手段ですが、そこには様々な誘惑もあります。ですから、昔から「朱に交われば赤くなる」という諺もあるほど、友を選ぶことが大切になってきます。

十二弟子の一人ヨハネは、まことの神と御子イエス・キリストとの交わりを持つことこそが、喜びが満ち溢れる秘訣であると語ります。
なぜなら、イエス・キリストは、死を解決できる唯一のお方だからです。
ここで問題がひとつ出てきます。その問題とは「まことの神」が分からないことです。日本では「八百万(やおよろず)の神々」がいるとされ、あれも神、これも神、これでは天地万物を創造されたまことの神が分からなくなるのも当然です。

ところが、ヨハネは、まことの神であり、いのちのことばであるイエス・キリストを自分の目でじっと見つめ、自分の耳で聞き、自分の手でさわった(Ⅰヨハネ1:1)と証言しています。果たして、私たちにもそんなことが可能なのでしょうか?
ヨハネが証言するお方、神の一人子イエス・キリストは、人となってこの世に来られ、この世に住みました。そして、ご自身を罪からの救い主として信じる者は、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ(ヨハネ3:16)、と約束し、私たちのすべての罪を身代わりに負って十字架で死なれました。
ですから、このお方を知り、信じ、このお方と交わりを持つことこそが、真の希望を見出し、心が喜びで満たされることになるのです。

今日も、あなたのためにいのちを献げられたイエス・キリストは、あなたを友と呼び、招いておられます。

牧師コラム 『天に上げられたイエス様』 2019年8月11日

 牧師 高橋勝義

イエス・キリストがよみがえられた最初の知らせは、日曜日の朝、墓に香料と香油を持って出かけて行った女たちからでした。次に主はエルサレムからエマオの村に向かっていた二人の弟子の前に現れてくださり、彼らはすぐにエルサレムの弟子たちにこのことを知らせました。さらに、弟子たちがこれらのことを話している真ん中にイエス・キリストが立ち「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。
驚き、震える彼らに、主は「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。(ルカ24:39)」とご自分が生きておられることを示されたのです。それから、彼らの心の目を開き『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。(ルカ24:46~47)』ことを解き明かされました。
また「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。(ルカ24:49)」と、聖霊を受けることと、それまではエルサレムにとどまるようにと告げ、その後弟子たちを祝福しながら、天に上げられたのです。

聖書は「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。(使徒1:11)」と約束しています。更に、このイエス様が再び来られる時には「さばき」が行われます。そのための備えが私たちには必要です。

今は恵みの時、今は救いの日(Ⅱコリント6:2)なのです。

牧師コラム 『みことばの力』 2019年8月4日

牧師 高橋勝義

イスラエルを解放して下さるお方、と期待したイエス様が十字架で死んでしまった。
この悲しみと失望を抱えて、エマオに向かって歩く二人の弟子に、イエス様が近づき、「歩きながら語り合っているその話は何のことですか(ルカ24:15)」と声をかけ、一緒に歩き始められたのです。彼らには、それがイエス様だとは分からず、エルサレムで起こった出来事を話しました。

すると、イエス様は「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」、さらにモーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされたのです。(ルカ24:25~27)
しかし、なお二人の弟子の目はさえぎられており、このお方が、イエス様であると分からなかったのです。夕刻になり、一緒に泊まることにしたイエス様は食卓でパンを取り、神をほめたたえ、裂いて彼らに渡されました。すると彼らの目が開かれ、イエス様だと分かり、同時に、その姿は見えなくなりました。

その時、二人はイエス様が自分たちに聖書を説き明かし、教えてくださる間、自分たちの心が内で燃えていたことに気付かされるのです。

復活されたイエス様と私たちが出会う場所のひとつはみことば(聖書)です。
みことばにふれる時、さえぎられた心の目が開かれ、まことの神が分かるのです。
そして、みことばをただ聞くだけではなく、信じて歩む時、「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です(詩篇119:105)」となっていくのです。

牧師コラム 『どうして生きておられる方を死人の中に捜すのか』 2019年7月28日

牧師 高橋勝義

週の初めの明け方早く、女たちは準備しておいた香油と香料を持って墓に出かけて行きました。問題は、墓を封印している大きな石をどうやって動かすか、でした。

ところが、石は墓からわきに転がされており、中にあるはずのイエス様のからだが見当たらなかったのです。途方に暮れる女たちの前に二人の御使いが現れ、恐れで顔を伏せる彼女たちに「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。~人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう(ルカ24:5~6)」と告げました。

イエス様のことばを思い出した彼女たちは、急いで弟子たちのところに戻り、事の次第を話すのですが、たわごとのように思えた使徒たちは、彼女たちを信じませんでした。しかし、ペテロは走って墓に行き、かがんでのぞき込むと、亜麻布だけが見え、この出来事に驚きながら帰って行ったのです。

聖書は、イエス様のよみがえりについて「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます(Ⅰコリント15:17)」と語っています。また、「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました(Ⅰコリント15:20)」とも語っています。

イエス様のよみがえりこそが、私たちの罪の贖いを完成し、新しいのちを私たちに与えるのです。そして、イエス様ご自身が「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:25)」と語っておられます。

イエス様のこの招きに、あなたは、どう応答しますか?

牧師コラム 『イエス・キリストの死と埋葬』 2019年7月21日

牧師 高橋勝義

十字架につけられたイエス様は、私たちが受けるはずの罪の刑罰で死を味あわれたお方です。九時に十字架につけられ、全地は十二時頃から暗くなり、それは午後三時頃まで続いたのです。神殿の幕が真ん中から裂け、大声で「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます(ルカ23:46)」と叫ばれ、息を引き取られました。

百人隊長はこの出来事に、神をほめたたえ「本当にこの方は正しい人であった」と言い、群衆もみな、悲しみのあまり胸をたたきながら帰りました。
そして、ヨセフという議員のひとりが、ピラトからイエス様のからだを引き取り、まだ誰も葬られていない、岩に掘った自分の墓にそのからだを納めたのです。ガリラヤから主について来ていた女たちは、その様子を見届け、香料と香油を用意して、安息日を守りました。

この埋葬は、私たちの罪の身代わりとなったイエス様の完全な死を意味します。

パウロは、イエス様の十字架の死と私たちの関わりについて「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです。私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。」(ローマ6:6~8)と語っています。

キリストを救い主と信じるすべての人は、よみがえられたキリストの新しいいのちを頂いて、「キリストとともに生きる人」になるのです。
肝心なことは、古い人(自分中心に生きる)が死んでいることを受け取ることです。古い人として生き続けるのか、それとも新しい人(神中心に生きる)として生きるのかが、問われているのです。