牧師 高橋勝義 |
私たちの人生は、目標となる人が、いるといないとでは、大きく変わってきます。目指す人を目標に、自分もその人のようになろうと努力し、その人を越えたいと願うならば、さらなる努力することもいとわないでしょう。
ヨハネは、信仰者が目指すお方はイエス・キリストであり、このお方にならって自分も同じ生き方をしようとするはずだ、と語ります。「神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません(Ⅰヨハネ2:6)」
ここでヨハネが「神のうちにとどまっていると言う人は…」という表現をしているのは、「自分はみことばをちゃんと守っている」と、勝手な解釈で主張する人がいたからです。しかし、このような人は自分の知識を誇り、「互いに愛し合いなさい」という神の教えからはほど遠く、ズレた歩みになっているのです。
イエス・キリストは、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5)」と語っています。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」ことを受け止めて、しっかりと心に刻みましょう。イエス・キリストにとどまるということは、毎日みことばを読んでキリストの愛に触れることです。
イエス様の愛をいただき、内におられる聖霊の助けによって、私たちは「愛の人、喜びの人、平安の人、寛容な人、親切な人、善意の人、誠実な人、柔和な人、自制の人(ガラテヤ5:22)」という御霊の実を結ぶ者に変えられていくのです。