牧師コラム 『新しくされる歩み』 2021年5月23日

牧師 高橋勝義

ヨセフが売られてしまったことを知らない長兄ルベンが、穴の所に戻ってくると、そこにヨセフの姿はなく、ルベンは自分の衣を引き裂き取り乱します。
そして兄弟たちは雄やぎを屠り、ヨセフの長服をその血に浸し、それを父のところに送り届けて、「これを見つけました。あなたの子の長服かどうか、お調べください。」と言ったのです。父ヤコブはヨセフが悪い獣に食い殺されたと思い込み、何日もその子のために嘆き悲しみました。みなが来て父を慰めますが、慰められるのを拒み「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい」と泣くのでした。(創世記37:29~35)

一方エジプトに連れて行かれたヨセフは、ファラオの廷臣、侍従長ポティファルに売られてしまいます。父の弟への偏愛が兄たちの心に嫉妬と憎しみを生み、さらに弟の傲慢が兄たちの悪意を増幅させて起きてしまった悲しい家族の事件です。

しかしこのような出来事は、決して珍しいことではありません。聖書が「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。(エレミヤ17:9)」と語っている通り、生まれながらの罪人である私たちの心は悪意に支配されてしまう危険を常に持っているのです。しかし、イエス・キリストは私たちの悪意の根源である罪を贖うために十字架でいのちを捨ててくださいました。

このお方を罪からの救い主と信じる者は、すべてが新しくされる歩みへと移されるのです。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)」

牧師コラム 『悪意からの解放』 2021年5月16日

牧師 高橋勝義

父に溺愛されるヨセフに妬みと悪意を抱いていた兄たち。しかもその兄たちが自分を拝むという夢を二度も話すヨセフに、兄たちの怒りと憎悪は増すばかりでした。(創世記37:8)

父ヤコブは、このような兄弟の関係を薄々知りながらも、羊を連れシェケムの地に行った兄たちの無事を見るために、ヨセフを使いに行かせます。シェケムは昔娘ディナのことで虐殺事件を起こした場所でした。遠くから来るヨセフを見た兄たちは彼を殺そうと企むのですが、長子ルベンが阻止し、ヨセフは穴に投げ込まれます。しかしルベンがいない間に、ユダが兄弟たちに「弟を殺し、その血を隠しても、何の得になるだろう。さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。われわれが手をかけてはいけない。あいつは、われわれの弟、われわれの肉親なのだから。」と提案し、イシュマエル人の隊商に銀二十枚で売り、ヨセフは遠いエジプトに連れて行かれました。(創世記37:26~28) この時、神の御手が動き、兄たちは悲惨な弟殺しに手を染めることから免れ、ヨセフの命も守られたのです。

初めの人アダムとエバの息子の兄カインは「罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない(創世記4:7)」と神から愛の忠告を受けていたのですが、弟アベルへの嫉妬からくる激しい怒りを止められず、弟を殺してしまいました。実はこのカインの姿は、私たちの姿でもあります。心を暗く支配する悪意から解放される秘訣は、正直に心の状態を認めてすべての罪の為に死んでくださったイエス・キリストの十字架を見上げ、その愛の中にとどまることです。その時心の闇に神の光が差し込み、悪意から解放されるのです。

「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう(箴言10:12)」

牧師コラム 『ヨセフの夢』 2021年5月9日

牧師 高橋勝義

兄エサウがセイルに出て行った後もヤコブは父の寄留の地、カナンの地に住み続けます。ヤコブは神の祝福を受け継いだとはいえ、その家族は4人の妻のもとに生まれた12人の子どもたちで構成された複雑な家族でした。とくにヤコブは年老いて生まれた、最愛の妻ラケルの第一子ヨセフを、溺愛していました。そのため「兄たちは、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった(創世記37:4)」ほどです。

しかしヨセフは、穏やかに話すことさえできない家族の雰囲気を推しはかることもなく、自分が見た夢を兄たちに話します。その夢は兄たちが自分を伏し拝むという内容で、これを聞いた兄たちは「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」と、ますます彼を憎むようになったのです。(創世記37:8) さらには「太陽と月と十一の星が私を伏し拝む」という二度目の夢までも話すヨセフを父ヤコブは叱りますが、このことを心にとどめたのです。それは、かつてベテルの地で神が夢に現れ、ご自身のみこころを示してくださったからでした。

「全能の神」は、あらゆる方法を用いて、ご自身のみこころを人に示してくださいますが、今の時代は、すべての人に分かるように、神のみことばである「聖書」に明らかにされておられます。その愛の神のみこころとは「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに世(すべての人々)を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)」にります。

イエス・キリストの十字架にこそ、神のみこころが現わされているのです。

牧師コラム 『真の主権者である神』 2021年5月2日

牧師 高橋勝義

創世記36章はイサクの息子であるエサウの子孫エドムの歴史が記されています。
カナンの地にいた頃のエサウの系図、そしてカナンの地を弟ヤコブ一族に譲り、死海南東のセイルの山地に定住していったエサウの系図です。セイルの山地にはすでに先住の民フリ人セイルの子たちがいましたが、聖書は「エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにし、彼らに代わって住むようになった(申命記2:12)」と記しています。 このように、神は兄のエサウにも慈しみを注ぎ、約束通り(創世記25:23)その子孫をひとつの国民(エドム人)としてくださり繁栄させてくださいました。

神はアブラハムに「わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。(創世記17:6)」と約束され、その約束はイサクに引き継がれ、さらにヤコブにもベテルで「一つの国民が、国民の群れが、あなたから出る。王たちがあなたの腰から生まれ出る。(創世記35:11)」とはっきり語られました。

時が経ち、エドムはイスラエルの王ダビデに打ち負かされ(Ⅱサムエル8:14)、ここに神の語られた「二つの国があなた(イサクの妻リベカ)の胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。(創世記25:23)」が成就したのです。神の約束は時代が変わろうとも、必ず成し遂げられます。

「わたしは後のことを初めから告げ、まだなされていないことを昔から告げ、『わたしの計画は成就し、わたしの望むことをすべて成し遂げる』と言う。(イザヤ46:10)」
全世界の真の主権者・支配者は聖書が語る「全能の神」なのです。

牧師コラム 『二つの道』 2021年4月25日

牧師 高橋勝義

ヤコブは約束の地カナンで妻ラケルがいのちと引きかえに生んだ末息子の名を「ベニヤミン(右手の子)」とつけました(創世記35:18)。それは、ここまで自分を導いてくださった全能の神への信頼と、その子の将来をこのお方に託す信仰からでした。そして彼は父イサクのもとに帰り着きます。父イサクの亡きあともヤコブたちは、兄エサウの一族と一緒に住んでいました。しかし彼らが一緒に住むには所有する物が多すぎ、その地は彼らを支えることが出来なくなり、兄エサウはカナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れ、セイルの山地に移り住んだのです(創世記36:6~8)。その後、エサウの子孫はエドム人と呼ばれるようになりました。ここからエサウとヤコブのふたごの兄弟は、全く別の道を歩み始めたのです。

二人の歩みを大きく変える大事件の始まり、それは長子である兄エサウが野から帰って来たある日のことでした。空腹に耐えかねたエサウは大切な長子の権利を弟ヤコブが煮ていたレンズ豆の煮物とパンと交換してしまったのです。この出来事を聖書は「エサウは長子の権利を侮った(創世記25:34)」と記しています。事実、兄エサウは神を畏れず、神に聞き従う歩みを軽んじ、この世のものを追い求めていたのです。神は二人が生まれるとき「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える。」(創世記25:23)と語られましたが、それが現実となりました。

私たちの前には、神のみことばを信じて生きるのか、この世のものを頼りに生きるのか、の二つの道があります。イエスさまは「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです(ルカ11:28)」と語られましたが、ヤコブは神に聞き従う歩みを選んだのです。

牧師コラム 『全能の神への信頼』 2021年4月18日

牧師 高橋勝義

ヤコブは神の命令に従いベテルで祭壇を築き、神を礼拝した後、エフラテに向かいますが、その途中、妻ラケルが難産の末に息を引き取り、エフラテ、すなわちベツレヘムへの道に葬ります(創世記35:19)。母ラケルは、その子をベン・オニ(私の苦しみの子)と呼びましたが、父ヤコブは「ベニヤミン(右手の子)」と名づけました(創世記35:18)。

最愛の妻の死は、辛く悲しい出来事でしたが、ヤコブは約束の地で生まれた息子の名が将来にわたって「苦悩と絶望」をイメージさせるのではなく、未来への希望を託して「ベニヤミン」と名づけたのです。伯父ラバンに仕えた20年は、ラケルに出会い、ラケルを愛した20年でもありましたが、決して自分の願い通りではありませんでした。しかし父イサクから受けた祝福(創世記28:1~4)と、神がベテルで現れ約束してくださった通りに(創世記28:13~15)、神が自分を祝福して多くの子どもと財産を与えてくださった事実に、神の約束はどんな時も真実であることを実感していました。ですから、末息子の名前を「ベニヤミン」としたのはヤコブの全能の神に対する信頼の表れであり、真っ直ぐな信仰告白なのです。

「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)

そこからイスラエルはさらに旅を続け、ヘブロンのマムレにいる父イサクのところに帰り着きます。イサクは年老いて満ち足り、息絶えて死に、自分の民に加えられ、息子のエサウとヤコブが父を葬ったのです。イサクの生涯は百八十年でした(創世記35:29)。
アブラハムやイサクに記されている「満ち足りた人生」とは、まさに全能の神に信頼し、従い続けて歩んだ者の人生なのです。

牧師コラム 『わたしは全能の神』 2021年4月11日

牧師 高橋勝義

ヤコブは息子たちの起こした虐殺と略奪事件によって、窮地に立たされました。しかし神は、この根絶やしにされる危機のさなかに、「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」(創世記35:1)とヤコブに仰せられたのです。神はヤコブが曖昧にしてきた偶像礼拝と不品行の地から「立って」、ベテルに上るように命じられたのです。ヤコブは家族に異教の神々を取り除くように命じ、ベテルに上って行きます。神からの恐怖が周りの町々に下り、彼らの後を追う者は誰一人いませんでした。

「ベテル」は昔、ヤコブが兄から逃れ故郷を出たときに、神が現れてくださった場所です。

彼は家族とともにベテルで、再び祭壇を築いて神を礼拝したのです。また、ヤボクの渡しで神はヤコブに現れ、彼の名を「イスラエル」としましたが、神はその名を呼び、さらに「わたしは全能の神である。~あなたの後の子孫にも、その地を与えよう。」(創世記35:10~12)との約束を加え、ヤコブを祝福してくださったのです。

神はヤコブの不信仰からくる優柔不断を責めるどころか、むしろ、ご自身の約束が全く変らないことを彼にはっきりと示されたのです。このことによって、ヤコブは、全能の神があわれみ深く情け深く、怒るのに遅く恵み豊かなお方(詩篇103:8)であることを知ったのです。私たちの信じる神、そして私たちとともに歩んでくださる神は、まさにこのヤコブが見上げる神なのです。

「私は主に申し上げよう。『私の避け所私の砦私が信頼する私の神』と。」(詩篇91:2)

牧師コラム 『聖 さ』 2021年4月4日

牧師 高橋勝義

ヤコブは神様が戻りなさいと言った場所であるベテルではなく、その手前のシェケムにとどまり、その土地を買いました。そこからヤコブの家族とその地の人々との交流が深まり、娘ディナが、ハモルの子シェケムに辱められるという悲惨な出来事が起きてしまったのです。

ディナを慕い「どうか、あの人を私の妻に下さい」と懇願するシェケムに、激しく憤るヤコブの息子たちは、シェケムとその父をだまそうと考え、神の民のしるしである割礼を受けなければ、私たちの妹を嫁がせることはできないと告げます(創世記34:12,13)。ハモルと息子シェケムは、この提案に同意し、さらに町の人々を説得し、町の男たちはみな割礼を受けたのです。ところが、男たちの傷が痛む三日目、ディナの兄シメオンとレビは剣を取ってその町を襲い、すべての男たちを殺し、その町を略奪してしまいます(創世記34:25~29)。

 割礼がアブラハムと結んだ契約のしるし(創世記17:4~10)であり、イスラエル民族への神の民のしるしです。それをヤコブの息子たちは復讐の手段にしてしまったのです。

ヤコブは、ハモルの提案や息子たちが割礼を持ち出したことに対して、何も言っていません。恐らく、一族が根絶やしにされることを恐れたからでしょう。(創世記34:30)しかし、このあいまいな態度が、“神の聖さ”をないがしろにしてしまったのです。

聖書は「あなたがたは、わたしにとって聖でなければならない。主であるわたしが聖だからである。(レビ記20:26)」と教えています。ですから「自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださる(Ⅰヨハネ1:9)」この約束を信じ、“神の聖さ”を汚す罪をそのままにせずに歩み続けましょう。

牧師コラム 『心のゆるみ』 2021年3月28日

牧師 高橋勝義

兄エサウと和解したヤコブは兄のいるセイルへは行かず、スコテへ移動し、自分のための家を建て、家畜小屋を作ります。さらに彼はそこからカナンの地にあるシェケムの町に無事たどり着き、その町の手前で宿営し、天幕を張った野の一画を、シェケムの父ハモルの息子たちの手から「百ケシタ」で買い取ったのです(創世記33:19)。

アブラハムは、「あなたの子孫にこの地を与える(創世記12:7)」との神の約束を堅く信じて、妻を埋葬するための墓以外、土地を買い求めてはいません。イサクも同じでした。

長年の寄留生活と心の重荷(兄との和解)からの解放がヤコブの心のゆるみとなり、「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい(創世記31:3)」と言われた神の命令に従わず、この世の安定を求める思いから土地を買い求めることとなったのです。

この地に定住したヤコブの家族や子どもたちは、当然シェケムの町の人々と行き来することとなり、このことが、後に大事件を引き起こすことになりました。ある日、若く無防備な娘のディナは、その土地の娘たちを訪ねようと出かけて行き、その土地の族長であるヒビ人ハモルの子シェケムに捕らえられ、辱められたのです(創世記34:2)。ディナを慕うシェケムは、「どんなに高い花嫁料や贈り物であっても、おっしゃる通りにしますから、どうか、あの人を私の妻に下さい」と懇願するのです(創世記34:12)。

私たちも日々イエス様に照準を合わせていないと、信仰の歩みから外れてしまいます。「愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」(Ⅰペテロ2:11)