牧師コラム 『心の奥にある闇を見る神』 2021年7月25日

牧師 高橋勝義

カナンにも深刻な飢饉は広がり、ヤコブは穀物を買いに息子たちをエジプトに行かせます。しかし、父はヨセフの弟ベニヤミンだけは同行させず手元に残しました。

エジプトにやって来た兄たちはこの地の権力者となったヨセフを伏し拝みます。それは兄たちにはヨセフだと分からなかったからです。一方のヨセフには兄たちだとすぐに分かりましたが、見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで「この国の隙をうかがいに来たのだろう」と拘留します。ヨセフは兄たちの今の心を知りたいと思い、「もし、おまえたちが正直者なら、一人を残して、穀物を持って行くがよい。そして末の弟を私のところに連れて来るなら、おまえたちのことばが本当だということが分かる。」と告げます。兄弟たちは、こんな苦しみに会うのはヨセフがあわれみを求めたとき、聞き入れなかったゆえだ。われわれは弟のことで罰を受けている、と互いに言います。彼らの会話を聞いたヨセフは、兄たちの心を知り泣きました。そしてシメオンを彼らの目の前で縛り、とどめ置き、彼らの袋には穀物を満たし、銀も戻し、父ヤコブのところに送り帰したのです。(創世記42:1~26)

「主はすべての心を探り、すべての思いの動機を読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。(Ⅰ歴代誌28:9)」

ヨセフの心に当時の苦しみがよみがえり、兄たちを懲らしめたいとの思いが湧いてきても不思議ではありません。そして彼らの心を知りたいと思ったのです。しかし、まことの神は私たちの心の奥にある闇、動機を見られるお方であり、ヨセフも神に心探られたのです。

牧師コラム 『神を恐れる忠実なしもべ』 2021年7月18日

牧師 高橋勝義

エジプト王ファラオの監督官に任命されたヨセフは、さっそく全土を巡りました。これから訪れる七年間の大豊作の間に、その後の飢饉に備え、町々に食糧を蓄えるためです。
ヨセフを通して語られた神の預言どおり、地は大豊作となり、ヨセフは穀物を全土で蓄えましたが、それは海の砂のように多く、量りきれず量るのをやめたほどでした。この間、彼にはマナセとエフライムの二人の男子が与えられ、彼は神の恵みに感謝しました。

その後、ついに七年間の飢饉が始まりましたが、食物が備蓄されているエジプトは何の心配もありませんでした。さらにエジプト全土に飢えは広がり、民がファラオに食物を求めて叫ぶと、ファラオは「ヨセフのもとに行き、ヨセフの言うとおりにせよ」と言います。
ヨセフはすべての穀物倉を開けて、エジプト人に売ります。この7年にも及ぶ飢饉はすべての国々を襲ったため、周辺諸国からも穀物を買うために人々がエジプトのヨセフのところにやって来ました。それほどに飢饉は全地で厳しかったのです。(創世記41:47~57)

そしてこの時、彼の心にはカナンの地にいる父ヤコブを案じる思いが湧いて来たはずです。父を助けたいという思いと同時に、神がなぜ自分をエジプトに送られたのか、今置かれている自らの立場、その目的と使命。神のみこころに改めて心を向け、今自分に求められていることは、神にすべてを委ね、神のみこころを忠実に行なうことであると悟ったのです。

「今、主への恐れがあなたがたにあるように。忠実に行いなさい。(Ⅱ歴代誌19:7)」

『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25:21,23)

牧師コラム 『御霊によって生きる者』 2021年7月11日

牧師 高橋勝義

ヨセフは王の夢を解き明かし、飢饉に備えるために、さとくて知恵のある監督官を任命するようにと、エジプトの王ファラオに進言しました。この進言は、ファラオとすべての家臣たちの心にかない、ヨセフの謙遜で真摯な姿にファラオは「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか」と家臣たちに話し、「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。~ おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」と自分の指輪をヨセフの指にはめ、さらにはツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻として与えたのです。

こうしてヨセフはエジプト全土を監督する者となり、エジプト全土を巡り、飢饉の備えをします。この時、ヨセフは三十歳になっていました。(創世記41:40~46)

ヨセフは兄たちに憎まれエジプトに売られましたが、神はヨセフとともにおられ、彼を祝福します。しかし、濡れ衣による投獄生活、そこに献酌官長の夢の解き明かしと解放への期待、そしてここからさらに二年に及ぶ神の沈黙、と長い年月が過ぎて行きました。

この間、ヨセフの思い描いていた計画のすべては削がれ、神にのみ信頼して生きる者に変えられていったのです。こうしてヨセフは神の霊が宿る者、すなわち、御霊によって生きる者となりました。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。~ キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。(ガラテヤ5:22~24)」

牧師コラム 『神が備えた時』 2021年7月7日

牧師 高橋勝義

王側近の献酌官長と料理官長が、ヨセフのいる監獄に入れられたことに神の御手を覚えたヨセフは、彼らの夢の解き明かしを通して神が動いてくださる、と期待しました。しかし、ファラオへのとりなしを頼んだ献酌官長はヨセフのことを忘れ、時は過ぎて行きます。

聖書は「それから二年後」と記しますが、当のヨセフにはそれが分かるはずはありません。相変わらず牢獄の中で、神の御真実を待ち望む信仰の訓練(ローマ10:11)を受け、神の時を待つ日々を送っていたのです。「私は昔の日々を思い起こしあなたのすべてのみわざに思いを巡らしあなたの御手のわざを静かに考えています。(詩篇143:5)」

その頃、ファラオは同じような夢を二度も見たことに心騒ぎ、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せます。しかし、ファラオの夢を解き明かすことのできる者はいなかったのです。ここでようやく献酌官長は、自分と料理官長の夢を解き明かしたヨセフのことを思い出し、ファラオに告げます。すぐにファラオはヨセフを呼び寄せ、「おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」と尋ねます。しかしヨセフは「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」と答えます。

ヨセフは、ファラオの見た夢は神のなさろうとしていることのお告げだと語り、エジプト全土には七年間の大豊作の後、七年間に及ぶ大飢饉が来る故、さとくて知恵のある人を置き、飢饉に備えて穀物を蓄えるように、と進言したのです。(創世記41:1~36)
「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(Ⅰペテロ5:6)

牧師コラム 『神を仰ぎ見る信仰』 2021年6月27日

牧師 高橋勝義

主がヨセフとともにおられたので、彼は囚人でありながら監獄の全責任を任されるほどの信頼を得ていました。そのような中、王の献酌官長と料理官長が、ヨセフのいる監獄に入ってきました。ある日、彼らの顔色がすぐれないのを見たヨセフは、ふたりに声を掛けると「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない」と言うのです。ヨセフが「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」と促すと、まず献酌官が夢をヨセフに話しました。ヨセフは「三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう」と、解き明かし、「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出し、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。私は、投獄されるようなことは何もしていません。」とお願いします。これを聞いた料理官もヨセフに夢を話しますが、「ファラオはあなたを木につるす」と語ります。すべてヨセフが解き明かした通りになったのですが、献酌官はヨセフのことをすっかり忘れてしまいます。(創世記40:1~23)

ヨセフは解き明かしが成就すると堅く信じており、献酌官の取りなしですぐにでも監獄から解放されると期待していましたが、何の音沙汰もなく時は過ぎていきました。しかし、神は手をこまねいていたわけではありません。それどころか聖書に「主はあなたの時を堅く支え、救いと知恵と知識の富となられる。主を恐れることは、その財宝である。」(イザヤ33:6)とあるように、神は最善の計画と時を用意しておられたのです。

それゆえ、私たちも自分の知恵や知識を駆使して問題の解決を探る前に、立ち止まって、神の前に静まり、神を仰ぎ見ることが大切なのです。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

牧師コラム 『人生の土台』 2021年6月20日

牧師 高橋勝義

兄たちによって売られたヨセフは、エジプト王の侍従長ポティファルに買い取られます。
兄たちの仕打ち、見知らぬ土地での奴隷生活、そのような中で主はヨセフとともにおられ、彼もまた主を見上げ、忠実に奴隷の仕事に励みました。主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た主人は、彼に家と全財産を管理させますが、この時から、主はヨセフのゆえに主人ポティファルの家を祝福されました。ところが、主人の妻が、毎日、ヨセフに言い寄り始めます。なぜなら、彼は体格も良く、顔だちも美しかったからです。

けれども、彼はきっぱりと断り続けますが、ある日、掴まれた上着を彼女の手に残してしまったことで、あらぬ疑いをかけられ、主人の怒りを買い、監獄に入れられてしまいます。
しかし、ここでも主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施されたので、監獄の長はヨセフを信頼し、囚人の管理を彼に委ね、任せたのです。(創世記39:1~23)

私たちは理不尽なことが起こると、その責任を誰かに押し付けたり、恨んだり、嘆いたりしがちです。ヨセフも、自分が置かれている状況について、いろいろなことを考えたことでしょう。しかし彼は、父ヤコブが神を畏れ、神に従って歩んでいる姿を思い起こし、自らも神を畏れ、神の前に誠実に歩む道を選びました。どう考えても理解できない、喜べないことが自分の身に次々と起こってくる時も、神がともにおられることを信じ続けたのです。

聖書に「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる(箴言3:6)」とあるように、イエス・キリストを罪からの救い主と信じることが“創造主なるまことの神”を知ることになり、それが人生の土台となるのです。

牧師コラム 『神の愛の不思議』 2021年6月13日

牧師 高橋勝義

長男エルと次男オナンを主に取り去られたユダは、長男の嫁タマルに、三男シェラが成人するまで実家で待つように言います。かなりの日が経ち、ユダの妻が亡くなり、その喪が明けた頃、タマルは「あなたのしゅうとが羊の群れの毛を刈るために、ティムナに上って来ます」という知らせを聞き、やもめの服を脱ぎベールをかぶり、道端でユダを待ち受けました。

それはユダが成人した三男の妻に彼女を迎えず、遠ざけたからでした。タマルを遊女だと思いこんでいたユダは「印章とひもと杖」を手渡します。その後、ユダは「子やぎ」を送り、渡したしるしの品を取り戻そうとしますが、遊女は見つからず果たせませんでした。三か月後「あなたの嫁のタマルが姦淫によって身ごもっています」と告げる者があり、ユダは激怒しますが、タマルは「この品々の持ち主によって、私は身ごもったのです」と伝えたのです。ユダはようやく「あの女は私よりも正しい。私が彼女をわが子シェラに与えなかったせいだ」と気づかされます。そしてタマルはペレツとゼラフの双子を産みます。(創世記38:12~30)

父の家を自ら出ていったユダでしたが、神様はお見捨てではありませんでした。彼の不誠実にもかかわらず、タマルがユダに生んだペレツの子孫からイスラエルの王ダビデが起こされ、やがて救い主イエス・キリストが誕生するのです。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。(イザヤ55:8)」と語られている通り、主は不思議なお方(士師記13:18)です。 同様にイエス様はあなたのすべてを知った上で、ありのままのあなたを招いておられます。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです(マルコ2:17)」

牧師コラム 『今は恵みの時、今は救いの日』 2021年6月6日

牧師 高橋勝義

弟ヨセフを売ることを先導したユダでしたが、ヨセフを失い嘆き悲しみ続ける父の姿に耐えられず、彼は父や兄弟たちの元から離れて暮らし始めたのです。そしてカナン人の娘を見そめて結婚し、エル、オナン、シェラの三人の男子が生まれます。ユダは長子エルにタマルという妻を迎えます。しかしエルは主の目に悪しき者であったので、主は彼を殺されました。

ユダは次男オナンに「兄嫁のところに入り、兄のために子孫を残すようにしなさい」と語ります。しかしオナンは生まれる子が自分の子ではなく、兄の子孫となるため、弟の義務を果たしませんでした。このことは主の目に悪しきことであり、主はオナンも殺されたのです。ユダは唯一残されたシェラも兄たちのように死ぬといけないと思い、嫁のタマルにシェラが成人するまで自分の父の家で待つように言いました。(創世記38:1~11)

ユダの息子エルとオナンは真の神を畏れず自由奔放に生きていました。「まことに正しい者の道は主が知っておられ悪しき者の道は滅び去る(詩篇1:6)」と聖書が語る通り、神は悪しき行いの二人を取り去られたのです。

本来、私たちも創造主なる神に背を向け、神の教えに聞き従わずに歩む者で、エルとオナンと同様に生まれながら神の御怒りを受けるべき者でした。しかし、神は私たちのすべての背きの罪をイエス・キリストに負わせ、十字架の上でその罪を処罰されました。神はこの事実を自分の事として、私たちが受け取ることを望んでおられます。「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる(Ⅱペテロ3:9)」とあるように、神は忍耐し、待っていてくださるのです。

それゆえ、「今は恵みの時、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2) なのです。

牧師コラム 『求めなさい。そうすれば与えられます。』 2021年5月30日

牧師 栗原延元

人には「祈り心」があるようです。ですが、誰に祈るのか、どのように祈るのかが、大切なようです。

まず誰に祈るかというと、天にいます父なる神に祈るのです。「自分の子がパンを下さいと言うのに、だれが石を与えるでしょう。また子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。」とイエスは山上の垂訓の中で教えておられます。
親は誰しも、我が子には良いものを与えようとしているのです。ですから、天におられる父なる神が私たちに「良いもの」を下さらないはずはないのです。

私たちは、祈り続けることを途中で止めてしまいやすいのです。今日の聖書の箇所は「求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。」と3度も繰り返して、祈り続けるようにと主イエスは、私たちを励ましているのです。それは、天におられる父は、あきらめずに、祈り求めている人の声を必ず聞いて下さる方であるからなのです。