牧師コラム 『自らを差し出すユダ』 2021年8月22日

牧師 高橋勝義

兄弟揃って楽しい食事の時を過ごした後、ヨセフはしもべに、あの者たちの袋を、食糧で満たし、 代金の銀もそれぞれの袋の口に入れ、さらに一番年下の者の袋には私の銀の杯を入れておくようにと命じます。そして何も知らない兄弟たちは帰路につきました。

ところが、彼らを追いかけて来たしもべに「なぜ、主人の杯を盗むのか」と言われ、驚愕します。まったく身に覚えのない兄弟たちでしたが、なんと銀の杯はベニヤミンの袋の中から見つかったのです。彼らは急いで町に引き返し、ヨセフの前で顔を地に伏します。そして、ユダは「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷となります。」と言います。しかし、ヨセフは「その手に杯が見つかった者が私の奴隷となる。おまえたちは安心して父のもとへ帰るがよい。」と返しました。ユダは必死に「あの子がいないのを見たら、父は死んでしまうでしょう。~ あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」とヨセフに訴えます。(創世記44:1~34)

「私が責任を負う」と父に約束したユダは、自分を差し出してベニヤミンを救おうとしたのです。これは神に背を向け自分中心の歩みをし、滅びに向かって突き進んでいる私たちを救おうとされるイエス・キリストの姿に重なります。イエス・キリストは、私たちのために、今日も「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカ23:34)」と、とりなしの祈りをささげてくださっているのです。

牧師コラム 『神のぬくもり』 2021年8月15日

牧師 高橋勝義

父ヤコブが全能の神にすべてを託したことで、兄弟たちはベニヤミンを伴って再びエジプトに行き、ヨセフの前に立ちました。ヨセフは、弟ベニヤミンの姿を見るなり、家の管理者に一行を自宅に連れて行き、昼食の支度をするように命じます。しかし自宅に案内された兄弟たちは、不安を覚えうろたえますが、家の管理者から「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が…」と聞かされます。さらにシメオンも戻されました。ヨセフが家に帰って来ると、彼らは贈り物を彼に差し出し、地に伏して拝しました。ヨセフは年老いた父親の安否を尋ね、なつかしい弟ベニヤミンを祝福しますが、胸が熱くなり奥の部屋に行き泣きました。顔を洗って出て来たヨセフは、自分を制しエジプトの高官として振る舞いますが、兄弟たちの席順は年長から年下の者となっており、またヨセフの食卓から給仕される食事も、ベニヤミンの分は、ほかより五倍も多く、驚きの連続でした。ヨセフは彼らとともに酒を酌み交わし、楽しいひと時を過ごしました。(創世記43:16~34)

兄弟が数十年ぶりにともに食事をする、という長く失われていた「ぬくもり」を、この日味わったヨセフは、神の愛と恵み、そしてあわれみの深さを実感したことでしょう。

同様に、私たちも神とともに歩むとき“神のぬくもり”を味わいながら日々歩むことができるのです。まことの神から離れてしまった私たちのために、キリストは罪からの救い主として来て下さいました。このお方を信じる時、再び私たちには神との親しい交わりが回復するのです。
「主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。(イザヤ40:11)」

牧師コラム 『全能の神にすべてを託す』 2021年8月8日

牧師 高橋勝義

飢饉は厳しく、エジプトから持ち帰った穀物も底をつくと、父は、また食糧を少し買って来るように言います。すると、ユダが「もし弟を私たちと一緒に行かせてくださるなら、私たちは下って行って、お父さんのために食糧を買って来ましょう」と答えますが、ベニヤミンを手放せない父は「なぜ、もう一人の弟がいると言ったのか」と逆に彼らを責めます。

そのような中、ユダは毅然として「あの子を私と一緒に行かせてください。私自身があの子の保証人となります。私が責任を負います。」と父に言ったのです。このユダのことばに、イスラエル(ヤコブ)は覚悟を決め、贈り物としてカナンの名産、二倍の銀、さらに返された銀も持って行くよう指示し、「弟を連れて、さあ、その方のところへ出かけて行きなさい。全能の神が、その方の前でおまえたちをあわれんでくださるように。そして、もう一人の兄弟とベニヤミンをおまえたちに渡してくださるように。私も、息子を失うときには失うのだ。」と、全能の神にすべてを託したのです。(創世記43:1~15)

実はユダはヨセフを売った後、父のもとを離れて生活し、家族を持ちました。しかし、神を軽んじた息子二人を失い、さらに三男と長男の嫁タマルを結婚させなかったことから、神は嫁タマルにユダの子を宿らせ、彼に罪を示されたのです。ユダが父に覚悟の説得をした背景には、この苦い経験があったからです。もちろん、父もこの出来事を知っており、全責任を負おうとしているユダのことばに心動かされ、これまで自分を導いて来られた全能の神にすべてを託す決断をしたのです。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1:21)

牧師コラム 『罪を放置したルベン』 2021年8月1日

牧師 高橋勝義

今やエジプトの権力者となったヨセフは、弟ベニヤミンを連れてこさせる策として、兄たちにスパイの容疑をかけ、シメオンを人質として捕らえ、兄弟をカナンに戻します。

兄たちは父ヤコブに、自分たちはエジプトを探る回し者と疑われ、「おまえたちの兄弟を一人残し、飢えている家族に穀物を持って行け。そして、末の弟を私のところに連れて来い。そうすれば、おまえたちが正直者だと分かり、おまえたちはこの地に出入りができるようになる」と言われた、と報告します。さらに、持ち帰った穀物袋のすべてに支払ったはずの銀の包みが入れてあるのを見つけると、父をはじめ彼らはひどく恐れました。
身に降りかかる不幸を嘆く父ヤコブに、長男ルベンは「もし私がベニヤミンをあなたのもとに連れ帰らなかったら、私の二人の子を殺してもかまいません。弟を私に任せてください。この私が彼をあなたのもとに連れ戻します。」と説得しますが、父は「この子は、おまえたちと一緒には行かせない」と拒みます。(創世記42:27~38)

父ヤコブは、かつてルベンが自分の側女と不品行の罪を犯したことや、今回も「自分の子どもを殺してもかまわない」と軽率なことを口にする姿に不信を募らせたのです。
ルベンは罪に向き合わずに過ごしてきました。その罪の根は彼の言動を支配し、子どもの命をも軽んじる発言を招いたのです。罪を放置することは神を侮ることであり、ルベンの心は曇らされていったのです。このルベンの姿は、私たちの姿でもあります。

「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリント7:10)

牧師コラム 『心の奥にある闇を見る神』 2021年7月25日

牧師 高橋勝義

カナンにも深刻な飢饉は広がり、ヤコブは穀物を買いに息子たちをエジプトに行かせます。しかし、父はヨセフの弟ベニヤミンだけは同行させず手元に残しました。

エジプトにやって来た兄たちはこの地の権力者となったヨセフを伏し拝みます。それは兄たちにはヨセフだと分からなかったからです。一方のヨセフには兄たちだとすぐに分かりましたが、見知らぬ者のようにふるまい、荒々しいことばで「この国の隙をうかがいに来たのだろう」と拘留します。ヨセフは兄たちの今の心を知りたいと思い、「もし、おまえたちが正直者なら、一人を残して、穀物を持って行くがよい。そして末の弟を私のところに連れて来るなら、おまえたちのことばが本当だということが分かる。」と告げます。兄弟たちは、こんな苦しみに会うのはヨセフがあわれみを求めたとき、聞き入れなかったゆえだ。われわれは弟のことで罰を受けている、と互いに言います。彼らの会話を聞いたヨセフは、兄たちの心を知り泣きました。そしてシメオンを彼らの目の前で縛り、とどめ置き、彼らの袋には穀物を満たし、銀も戻し、父ヤコブのところに送り帰したのです。(創世記42:1~26)

「主はすべての心を探り、すべての思いの動機を読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。(Ⅰ歴代誌28:9)」

ヨセフの心に当時の苦しみがよみがえり、兄たちを懲らしめたいとの思いが湧いてきても不思議ではありません。そして彼らの心を知りたいと思ったのです。しかし、まことの神は私たちの心の奥にある闇、動機を見られるお方であり、ヨセフも神に心探られたのです。

牧師コラム 『神を恐れる忠実なしもべ』 2021年7月18日

牧師 高橋勝義

エジプト王ファラオの監督官に任命されたヨセフは、さっそく全土を巡りました。これから訪れる七年間の大豊作の間に、その後の飢饉に備え、町々に食糧を蓄えるためです。
ヨセフを通して語られた神の預言どおり、地は大豊作となり、ヨセフは穀物を全土で蓄えましたが、それは海の砂のように多く、量りきれず量るのをやめたほどでした。この間、彼にはマナセとエフライムの二人の男子が与えられ、彼は神の恵みに感謝しました。

その後、ついに七年間の飢饉が始まりましたが、食物が備蓄されているエジプトは何の心配もありませんでした。さらにエジプト全土に飢えは広がり、民がファラオに食物を求めて叫ぶと、ファラオは「ヨセフのもとに行き、ヨセフの言うとおりにせよ」と言います。
ヨセフはすべての穀物倉を開けて、エジプト人に売ります。この7年にも及ぶ飢饉はすべての国々を襲ったため、周辺諸国からも穀物を買うために人々がエジプトのヨセフのところにやって来ました。それほどに飢饉は全地で厳しかったのです。(創世記41:47~57)

そしてこの時、彼の心にはカナンの地にいる父ヤコブを案じる思いが湧いて来たはずです。父を助けたいという思いと同時に、神がなぜ自分をエジプトに送られたのか、今置かれている自らの立場、その目的と使命。神のみこころに改めて心を向け、今自分に求められていることは、神にすべてを委ね、神のみこころを忠実に行なうことであると悟ったのです。

「今、主への恐れがあなたがたにあるように。忠実に行いなさい。(Ⅱ歴代誌19:7)」

『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25:21,23)

牧師コラム 『御霊によって生きる者』 2021年7月11日

牧師 高橋勝義

ヨセフは王の夢を解き明かし、飢饉に備えるために、さとくて知恵のある監督官を任命するようにと、エジプトの王ファラオに進言しました。この進言は、ファラオとすべての家臣たちの心にかない、ヨセフの謙遜で真摯な姿にファラオは「神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか」と家臣たちに話し、「神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。~ おまえが私の家を治めるがよい。私の民はみな、おまえの命令に従うであろう。私がまさっているのは王位だけだ。」と自分の指輪をヨセフの指にはめ、さらにはツァフェナテ・パネアハという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナテを彼の妻として与えたのです。

こうしてヨセフはエジプト全土を監督する者となり、エジプト全土を巡り、飢饉の備えをします。この時、ヨセフは三十歳になっていました。(創世記41:40~46)

ヨセフは兄たちに憎まれエジプトに売られましたが、神はヨセフとともにおられ、彼を祝福します。しかし、濡れ衣による投獄生活、そこに献酌官長の夢の解き明かしと解放への期待、そしてここからさらに二年に及ぶ神の沈黙、と長い年月が過ぎて行きました。

この間、ヨセフの思い描いていた計画のすべては削がれ、神にのみ信頼して生きる者に変えられていったのです。こうしてヨセフは神の霊が宿る者、すなわち、御霊によって生きる者となりました。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。~ キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。(ガラテヤ5:22~24)」

牧師コラム 『神が備えた時』 2021年7月7日

牧師 高橋勝義

王側近の献酌官長と料理官長が、ヨセフのいる監獄に入れられたことに神の御手を覚えたヨセフは、彼らの夢の解き明かしを通して神が動いてくださる、と期待しました。しかし、ファラオへのとりなしを頼んだ献酌官長はヨセフのことを忘れ、時は過ぎて行きます。

聖書は「それから二年後」と記しますが、当のヨセフにはそれが分かるはずはありません。相変わらず牢獄の中で、神の御真実を待ち望む信仰の訓練(ローマ10:11)を受け、神の時を待つ日々を送っていたのです。「私は昔の日々を思い起こしあなたのすべてのみわざに思いを巡らしあなたの御手のわざを静かに考えています。(詩篇143:5)」

その頃、ファラオは同じような夢を二度も見たことに心騒ぎ、エジプトのすべての呪法師とすべての知恵のある者たちを呼び寄せます。しかし、ファラオの夢を解き明かすことのできる者はいなかったのです。ここでようやく献酌官長は、自分と料理官長の夢を解き明かしたヨセフのことを思い出し、ファラオに告げます。すぐにファラオはヨセフを呼び寄せ、「おまえは夢を聞いて、それを解き明かすと聞いたのだが。」と尋ねます。しかしヨセフは「私ではありません。神がファラオの繁栄を知らせてくださるのです。」と答えます。

ヨセフは、ファラオの見た夢は神のなさろうとしていることのお告げだと語り、エジプト全土には七年間の大豊作の後、七年間に及ぶ大飢饉が来る故、さとくて知恵のある人を置き、飢饉に備えて穀物を蓄えるように、と進言したのです。(創世記41:1~36)
「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(Ⅰペテロ5:6)

牧師コラム 『神を仰ぎ見る信仰』 2021年6月27日

牧師 高橋勝義

主がヨセフとともにおられたので、彼は囚人でありながら監獄の全責任を任されるほどの信頼を得ていました。そのような中、王の献酌官長と料理官長が、ヨセフのいる監獄に入ってきました。ある日、彼らの顔色がすぐれないのを見たヨセフは、ふたりに声を掛けると「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない」と言うのです。ヨセフが「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」と促すと、まず献酌官が夢をヨセフに話しました。ヨセフは「三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう」と、解き明かし、「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出し、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。私は、投獄されるようなことは何もしていません。」とお願いします。これを聞いた料理官もヨセフに夢を話しますが、「ファラオはあなたを木につるす」と語ります。すべてヨセフが解き明かした通りになったのですが、献酌官はヨセフのことをすっかり忘れてしまいます。(創世記40:1~23)

ヨセフは解き明かしが成就すると堅く信じており、献酌官の取りなしですぐにでも監獄から解放されると期待していましたが、何の音沙汰もなく時は過ぎていきました。しかし、神は手をこまねいていたわけではありません。それどころか聖書に「主はあなたの時を堅く支え、救いと知恵と知識の富となられる。主を恐れることは、その財宝である。」(イザヤ33:6)とあるように、神は最善の計画と時を用意しておられたのです。

それゆえ、私たちも自分の知恵や知識を駆使して問題の解決を探る前に、立ち止まって、神の前に静まり、神を仰ぎ見ることが大切なのです。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)