牧師コラム 『神を仰ぎ見る信仰』 2021年6月27日

牧師 高橋勝義

主がヨセフとともにおられたので、彼は囚人でありながら監獄の全責任を任されるほどの信頼を得ていました。そのような中、王の献酌官長と料理官長が、ヨセフのいる監獄に入ってきました。ある日、彼らの顔色がすぐれないのを見たヨセフは、ふたりに声を掛けると「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない」と言うのです。ヨセフが「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください。」と促すと、まず献酌官が夢をヨセフに話しました。ヨセフは「三日のうちに、ファラオはあなたを呼び出し、あなたを元の地位に戻すでしょう」と、解き明かし、「あなたが幸せになったときには、どうか私を思い出し、この家から私が出られるように、私に恵みを施してください。私は、投獄されるようなことは何もしていません。」とお願いします。これを聞いた料理官もヨセフに夢を話しますが、「ファラオはあなたを木につるす」と語ります。すべてヨセフが解き明かした通りになったのですが、献酌官はヨセフのことをすっかり忘れてしまいます。(創世記40:1~23)

ヨセフは解き明かしが成就すると堅く信じており、献酌官の取りなしですぐにでも監獄から解放されると期待していましたが、何の音沙汰もなく時は過ぎていきました。しかし、神は手をこまねいていたわけではありません。それどころか聖書に「主はあなたの時を堅く支え、救いと知恵と知識の富となられる。主を恐れることは、その財宝である。」(イザヤ33:6)とあるように、神は最善の計画と時を用意しておられたのです。

それゆえ、私たちも自分の知恵や知識を駆使して問題の解決を探る前に、立ち止まって、神の前に静まり、神を仰ぎ見ることが大切なのです。
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)