牧師コラム 『地にひれ伏すヤコブ』 2021年3月21日

牧師 高橋勝義

兄に対する恐れから神の前に一人出て夜明けまで祈りの格闘をしたヤコブでしたが、執拗に神に祝福を願って食い下がります。ついに神は、彼の強い自我を打つためにももの関節を打ちます。そしてヤコブ(押しのける)に「イスラエル」の名を与えます。

祈り終えたヤコブは、足を引きずっていましたが、神は最善を成してくださると信じ、このお方にすべてをゆだねる信仰へと導かれていました。

当初、ヤコブは陣営を二つに分け「自分の先に行く贈り物で兄をなだめ、その後で兄と顔を合わせよう。もしかすると、私を受け入れてくれるかもしれない」と考え、自分は最後尾にいる計画を立てていました。しかし、神に自我を砕かれ、自分の力で生きる者から神に信頼して歩む者、へりくだった者に変えられ、自ら家族の先頭に立ち、何と、兄エサウに近づくまで七回も地にひれ伏しながら歩んだのです(創世記33:3)。

エサウは走って来て、弟を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣きました。20年という歳月によるエサウの心の変化もさることながら、足を引きずりながら敬意と真心をもって何度も地にひれ伏すヤコブの姿に、兄は迎えに走ったのでしょう。すべては神のあわれみです。そして兄へのなだめの贈り物は、兄の好意に感謝する贈り物となりました。こうしてヤコブは、神に信頼し従う歩みの幸いと神の恵みの深さを知ったのです。

エサウは、その日、セイルに帰りました。そしてヤコブは、ここから新たな一歩を踏み出したのです。

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(Ⅰペテロ5:6)

牧師コラム 『人生の分岐点』 2021年3月14日

牧師 高橋勝義

兄との再会に向けて、ヤコブは贈り物など周到な準備をしますが、不安と恐れは全く解消されず、『わたしはあなたを幸せにする』と言われた神の約束にすがって必死に祈りました。

兄エサウに会う時が近づき、ヤコブは贈り物と一緒に家族を先に行かせます。それは神ご自身からの確かな保証を得るために、の前にひとり出て祈るためでした。ヤコブは神に祈りますが、この祈りの格闘は夜明けまで続きました(創世記32:24)。名が「押しのける」の意味の通り、ヤコブは自我が非常に強く、我を張り続けるために神は彼のももの関節を打ちますが、それでも彼はしぶとく祝福を求め続けました。

ヤコブと戦ったお方は「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエル(神は争われる)だ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」(創世記32:28)」と言われました。

『人と戦って、勝ったからだ』とは、ヤコブの戦いの真の相手は自分自身、すなわち彼は自我と戦い、その自我が打ち砕かれたのです。「どうか、あなたの名を教えてください」と願うヤコブに、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言い、その場で彼を祝福したのです。(創世記32:29)ももの関節を打たれた彼はこの時から、足を引きずるようになり、杖にすがる人生、神に頼る人生に変えられました。すなわち自分の弱さをありのまま受け入れ、自分の力で歩む人生から心から神に聞き従う信仰者の歩みをする者に造り変えられたのです。
それゆえ、ここが彼の人生の分岐点となったのです。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)」

牧師コラム 『ヤコブの策と祈り』 2021年3月7日

牧師 高橋勝義

二十年の時が過ぎたとはいえ、ヤコブには兄エサウの怒る姿が昨日のことのように思い出され、故郷が近づくにつれ恐れは膨らんでいきました。そして彼は兄エサウの怒りをなんとか鎮めるために必死に知恵を絞り、前もって兄に使いを送ることにしたのです。

しかし、その使者の報告は「あの方も、あなたを迎えにやって来られます。四百人があの方と一緒にいます。」(創世記32:6)というものでした。

この報告を聞き、さらに恐れが増し不安に襲われたヤコブは宿営を二つに分け、「たとえエサウが一つの宿営にやって来て、それを打っても、もう一つの宿営は逃れられるだろう(創世記32:8)」、「自分の先に行く贈り物で彼をなだめ、その後で彼と顔を合わせよう。もしかすると、私を受け入れてくれるかもしれない」と新たな策を練りました。しかしどんな策も不安と恐れを解消することはできず、ついに彼は切なる祈りへと導かれたのです。自分は神の恵みとまことを受けるに値しない者であることを素直に認め告白し、しかし「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。私に『あなたの地、あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする』と言われた【主】よ。」(創世記32:9)と神の約束にすがったのです。

私たちは計画を立てるとき、様々な場面を想定し、考慮しながら計画を進めます。それは不測の事態に対処するためであり、計画を成功させるためです。しかし、どんなに練られた計画であっても想定外という不安や恐れを消すことはできません。
ヤコブも同様でした。それ故、彼はここまで自分を導いてくださった神の約束にすがり必死に祈ったのです。

「あなたのわざを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。」(箴言16:3)

牧師コラム 『神を恐れよ』 2021年2月28日

牧師 高橋勝義

伯父ラバンに仕えたヤコブの20年間は、言葉たくみにだまされ続けた日々でしたが、神がともにおられたので、彼は多くの財産を得ることができました。そして神の促しの中で、生まれ故郷に向かって逃げるように出発したのです。しかしラバンにしてみれば、これは許しがたい行為で、怒り心頭でした。ところが、神はラバンに「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい」(創世記31:24)と夢で忠告されたのです。一発触発の危機はこうして避けられ、ラバンはヤコブと契約を結ぶことを提案します。ヤコブの信じている神によって自分の財産が増えたことを知っている彼は、この神を敵に回すのは賢明ではないと判断したからです。

お互いに石の柱を立て、この石塚を超えない約束を、ラバンは彼らの父祖の神に、ヤコブは父イサクの恐れる方にかけて誓いました。この後、ヤコブは神に感謝の礼拝をささげます。ラバンは孫と娘たちに口づけし、彼らを祝福してから、自分の家へ帰ったのです。

ヤコブはこれらの出来事から「決してあなたを捨てない(創世記28:15)」と語られた神の約束の真実、さらに神の愛と恵みに守られていることをより深く知ることとなったのです。アブラハムが神の約束を堅く信じ、神を恐れて歩む姿は、イサクに、そして、ヤコブへと確実に引き継がれていったのです。その証拠に、ラバンとの契約を結ぶ時、ヤコブは父イサクの恐れる方にかけて誓っています。

聖書は「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。(伝道者の書12章13,14節)」と語っています。

牧師コラム 『すべてを知っておられる神』 2021年2月21日

牧師 高橋勝義

ヤコブは二人の妻や子ども達、そして全財産を持って生まれ故郷へ出発します。しかしそれは義父ラバンには内緒の行動でした。三日目にヤコブが逃げたと知らされたラバンは、身内の者たちを率いて七日の道のりを追い、ギルアデの山地でヤコブに追いきます。

その夜、神は夢でアラム人ラバンに現れ「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい (創世記31:24) 」と忠告したのです。翌日、ヤコブを前にしたラバンは、なぜ自分を欺いて逃げたのかと、ヤコブを責めますが、彼に危害を加えることはしませんでした。それは前夜、ヤコブの神が自分に現れ、警告されたからです。

そこでヤコブは、これまでの自分に対するラバンの理不尽な行為を非難しますが、「もし、私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです。(創世記31:42)」と語ったのです。神は「わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない(創世記28:15)」とヤコブに約束された通り、ヤコブを神が守られたのです。

これは同時に、本当に人をさばくことができるお方は、聖書が語る“神”以外にはおられないことを示しています。それは「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。(ヘブル4:13)」とあるからです。
人の目を気にし、人を恐れるのではなく、すべてを知っておられる神を畏れ、どんな時も自分は神の前に立っているのだと意識して歩むことが大切なのです。

牧師コラム 『あなたの父たちの国に帰りなさい』 2021年2月14日

牧師 高橋勝義

無一文で叔父ラバンの所に来たヤコブでしたが、今や神の恵みと守りにより、多くの財産と男女の奴隷を持つようになりました(創世記30:43)。しかし、ラバンとラバンの子どもたちは、ヤコブが自分たちのものを取って富を得たと思っていました。

かつて「あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る(創世記28:15)」と、ヤコブに約束された神は、「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。(創世記31:3)」とその時が来たことを彼に告げました。

ヤコブは、すぐラケルとレアを呼び寄せ、義父ラバンの態度が以前のようではなく、自分を欺き、報酬を何度も変えたが、神は自分に害を加えることを許さず(創世記31:7)、「ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た(創世記31:12)」と言ってくださり、さらに、神の使いが「さあ立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい(創世記31:13)」と語られたことを話しました。ラケルとレアも「さあ、神があなたにお告げになったことを、すべてなさってください(創世記31:16)」と答えます。

キリストを罪からの救い主と信じるすべての人は、神の民、アブラハムの子孫とされ、ヤコブへの約束はキリストを信じるすべての人に及ぶ約束です(ガラテヤ3:26~29)。さらにその歩みを神がすべて見ておられるというのですから、何も恐れることはないのです。

それゆえ、私たちは、この神に心からの感謝と喜びをもって従うことができます。   「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています(ローマ8:28)」

牧師コラム 『ヤコブの計画』 2021年2月7日

牧師 高橋勝義

ヤコブは14年間伯父ラバンに仕え、この間に男子11人と女子1人が与えられました。そして「私を去らせて、故郷の地へ帰らせてください(創世記30:25)」と、ラバンに訴えます。神がヤコブを祝福し、それゆえ自分の財産が増えていることを知っているラバンはヤコブを引き留めるために報酬を尋ねます。そこでヤコブは、「ぶち毛と斑毛の羊とやぎをすべて、子羊の中では黒毛のものをすべて、それらを私の報酬にしてください(創世記30:32)」と願います。本来やぎは濃い茶色か黒、羊は白が一般的ですから、ヤコブの要求は少数です。

要求に合意はしたものの疑い深いラバンは、ヤコブに与える斑毛の羊とやぎ、黒毛の子羊のすべてを自分で取り分け、自分の息子たちに手渡し、自分の群れとヤコブの群れとの間に三日分の距離をおいたのです。ヤコブはラバンの残りの群れを飼いましたが、彼は弱い羊とやぎはラバンのものに、強いものは自分のものになるように工夫し、その結果「このようにして、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、それにらくだとろばを持つようになった(創世記30:43)」のです。しかし、無一文で転がり込んできたヤコブが多くの財産を持つようになり、ラバンやその息子たちは、ヤコブに不信感を抱くようになったのです。

私たちの立てる計画には、必ず様々な思惑が入っています。しかし、その思惑が外れ、事が思わぬ方向に進み、窮地を招くと、私たちは狼狽してしまいます。

神は、このような窮地の時こそ「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る(イザヤ30:15)」と私たちに語っておられます。真の助けは、まことの神から必ずくるからです。

牧師コラム 『あなたは神の国から遠くない』 2021年1月31日

牧師 栗原延元

このコラムのタイトルは、イエスと律法学者(旧約聖書の専門家)との問答の中で、イエスが語ったフレーズです。この問答は、聖書の教えの核心に私たちを導きます。

聖書は人が「幸せ」に生きるために何が大事なのかについて書かれています。それは、まず「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」ことです。(マルコ12:30) 全身全霊で神を愛することは、高価な物を神に捧げることではありませんね。とこの律法学者はイエスに応答するのです。その応答に対してイエスは「あなたは神の国から遠くない」と語るのです。
遠くないとは、「近い」ということでしょう。そしてあなたの目に見えるところに、神の恵み、神のいつくしみの世界があるということでしょう。
この学者の目の前にイエスが立ち続けていたのです。「信仰」とは、私たちの目の前におられるイエスをみつめていくことです。

牧師コラム 『神のいつくしみと恵み』 2021年1月24日

牧師 高橋勝義

聖書は夫ヤコブを巡るレアとラケル姉妹の確執、家族の問題を赤裸々に記しています。

四人の男子を産んだ姉に嫉妬する妹ラケルはヤコブに「私に子どもを下さい。でなけ れば、私は死にます。(創世記30:2)」と訴えますが、ヤコブはラケルの気持ちを受け止めるどころか、怒って「胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ」と言います。確かに子どもは神の賜物です(詩127:3)。
そしてラケルは自分の女奴隷ビルハによって子を得ようとし、ビルハは、二人の男子「ダン」「ナフタリ」を産みます。競うように、姉レアも自分の女奴隷ジルパをヤコブに妻として与え、二人の男子「ガド」「アシェル」が産まれます。さらに神は姉の願いを聞かれ、レアに二人の男子「イッサカル」「ゼブルン」が産まれます。
しかし神は妹ラケルを忘れていたわけではありません。神はラケルに心を留められ、彼女は男の子を生みます。その子を「ヨセフ」と名付け、さらに弟ベニヤミンも産まれます。

このようにレアとラケルは神を信じていながらも嫉妬心に振り回され、ヤコブの家族は混乱していました。しかし神はその混乱の中にもおられ、神のあわれみと祝福はヤコブの家族に注がれ続けました。やがてヨセフの子「マナセ」と「エフライム」がヤコブの子となり、ここにイスラエルの十二部族が誕生します。そして神がアブラハムに語られた「わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とする。(創世記12:1,2)」との約束が成就していくのです。

私たちの日常も問題だらけですが、神はそのただ中に共におられるお方です。
「まことに私のいのちの日の限りいつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」(詩篇23:6)

牧師コラム 『私は主をほめたたえます』 2021年1月17日

牧師 高橋勝義

伯父ラバンのもとに身を寄せていたヤコブは、「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもないだろう。どういう報酬が欲しいのか、言ってもらいたい。」と告げられ「あなたの下の娘ラケルのために、七年間あなたにお仕えします」と答えます。そして愛するラケルのために夢中で働いたヤコブでしたが、七年後の婚礼で与えられた花嫁は姉のレアでした。「この地では姉よりも先に妹を嫁がせることはしないのだ、ただ一週間の婚礼を終えたら妹ラケルもあげよう、しかし、さらに七年間私に仕えなければならない」との伯父ラバンの提案を受け入れたヤコブは、こうして姉と妹を同時に妻に迎えたのです。

主はレアが嫌われているのを見て、彼女の胎を開かれましたが、ラケルは不妊の女でした(創世記29:31)。レアは夫が自分を愛することを願い、期待していましたが、ルベン・シメオン・レビの三人の男子を産んでも、ヤコブの心は相変わらずラケルに向いていました。
しかし、四人目の男子を産んだとき、「今度は、私は主をほめたたえます」と言って、その子を“ユダ(ほめたたえる)”と名づけるのです。(創世記29:35) レアはここに至って、ようやく子どもが与えられるのは、神の恵みであることに気づかされ、夫ではなく主を見上げ、そのお方の名をほめたたえたのです。

このレアの姿は私たちの姿でもあります。私たちは、自分の願う通りを相手に期待します。しかし、レアは自分の内にある惨めな思いと嫉妬心に気づき、そんな自分であるにもかかわらず神の深いあわれみと真実な愛が注がれていることを知ったのです。

「主は情け深くあわれみ深く怒るのに遅く恵みに富んでおられます。(詩篇145:8)」