今日のメッセージ 『神のものは神に』 2024年11月3日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記27章30~34節〕

 神は「地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。それは主の聖なるものである。」と告げられました。私たちの意識の中には、このような思いが果たしてあるでしょうか。そして、神は「あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。(マラキ3:8,9)」と語っています。それゆえ「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。─万軍の主は言われる─わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。(マラキ3:10)」と問いかけています。

 さて、パリサイ人は、イエス様を試して「カエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と尋ねました。イエス様は彼らの欺瞞を見抜き、デリカ金貨を持ってこさせ「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と答えたのです (マルコ12:13~17)。その意味するところは、税金は国民の義務として納める、そして神が創造された地の恵みを頂いて生かされていることに感謝し、収入の十分の一を神に献げなさいと語られたのです。生きていくだけでも大変なのに、さらに神に献げる…戸惑うばかりです。

 ところが、神は「わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。わたしを試してみよ。」と私たちにチャレンジを促しておられるのです。あなたは、このチャレンジにどのように応答しますか。

今日のメッセージ 『常に初心を忘れずに』

 牧師 高橋勝義

〔レビ記27章1~29節〕

 神はこれまで、いけにえ(ささげ物)について、細かく規定を定めイスラエルの子らにそれらを守るように命じました。それは、彼らが神の民として歩むためであり、同時に神のきよさを汚さないようにするためでした。神は民が自らの意志で自発的に主のために献げようとする心を尊重し、その思いを表せるように、献げるものの評価額を定められたのです。また、自発的に特別な誓願を立てる思いが与えられた場合には、それぞれ相応しい評価額に従って聖所のシェケルで納めるようにとされました。

 しかしいつしか、神の定められた規定を守ることが重要になり、また、自分たちは神の選ばれた民であると、その使命を忘れ、傲慢になっていったのです。それゆえに、神は「もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙、それはわたしの忌み嫌うもの。新月の祭り、安息日、会合の召集─わたしは、不義と、きよめの集会に耐えられない。(イザヤ1:13)」と言わなければならなかったのです。心の伴わない形式的なささげ物ほど、空しいものはないからです。彼らの心は、神を信じ、信頼して歩む信仰からずれていったのです。

 さて、私たちも主のためにという思いが与えられ、自分にできることを始めるのですが、気が付くと、イエス様への感謝や喜びが薄れ、重荷になり形式的なものになってしまってはいないでしょうか。人の心はいとも簡単に、傲慢に陥ってしまうのです。

 ですから、神は「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)」とあなたに語りかけています。

今日のメッセージ 『主はあなたを招いておられる』 2024年10月20日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記26章34~46節〕

 神は、主の掟とすべての命令を行わないなら、様々な疫病が起こり、種を蒔いても収穫できない、それでも尚、わたしのこの懲らしめを受け入れず、逆らって歩むなら、あなたがたの地は荒れ果て、町々は廃墟となると警告されたのです。神の懲らしめとは、国を失い、捕囚の身となる非常に厳しいものです。しかし、神は、強情で頑なな心、うなじの怖い民を、この懲らしめによって、罪を自覚させ、真の悔い改めへと導こうとされたのです。

 この時、神は「わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こす。またイサクとのわたしの契約を、さらにはアブラハムとのわたしの契約をも思い起こす。わたしはその地を思い起こす。」さらに「わたしは彼らを退けず、彼らを嫌って絶ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしが彼らの神、主だからである。」と語られたのです。

 イエス様は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:31,32)」と語りました。それは、私たちの将来を案じてのことであり、『人間は一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている(ヘブル9:27) 』ことを知っておられたからでした。

 罪とは、神の教え(律法)に聞き従わないことです。(Ⅰヨハネ3:4)イエス様は、私たちを救い出すために、私たちの罪のために十字架の上で死なれ、罪の贖いをされたのです。それは、私たちが罪を告白し、悔い改め、神に立ち返るためです。イエス様は、今日も「わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ。」(イザヤ44:2)とあなたを招いておられます。

今日のメッセージ 『希望~世に打ち勝ったイエス様~』 2024年10月13日

 牧師 高橋勝義

《教会開設10周年記念礼拝》

〔ヨハネ16章29~33節〕

 弟子ユダの裏切りにより捕らえられ、無実の罪で十字架にかけられると分かっていたにもかかわらず、イエス様は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。(ヨハネ16:33)」と語られました。では、なぜ、死を目前に自覚しながら「わたしはすでに世に勝ちました」と語られたのでしょうか。

 それは、「彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。(ルカ18:33)」と語っておられた通り、十字架の上で死なれ、葬られ、しかし三日目によみがえられるからでした。イエス様のよみがえりは、主を信じるすべての人のよみがえりの先がけであり、その保証なのです(Ⅰコリント15:20)。

 しかし、弟子たちはイエス様にお会いしても、尚そのよみがえりを信じられずにいたため、イエス様は彼らの前で魚を食べ(ルカ24:43)、また、信じようとしないトマスには、手の釘の跡と脇腹の槍の跡を見せて、指を入れるようにと促されたのです。(ヨハネ20:27)。

 イエス様が「わたしはすでに世に勝ちました」と語られたのは、死を打ち破り、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを与えてくださるからです(Ⅰペテロ1:3)。つまり、イエス様の復活にこそ、永遠のいのちへの希望があるのです。この希望は、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる(ローマ10:9)」とあるように、イエス様を信じることから始まります。

 イエス・キリストがよみがえられたのは、私たちが主を罪からの救い主と信じることによって、すべての罪が赦され、神と和解し、私たちを天国に招き入れるためなのです。

今日のメッセージ 『子を思う神の懲らしめ』 2024年10月6日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記26章14~33節〕

 神は、主の掟と命令に従い歩むなら、ご自身との契約を守り、約束の地でイスラエルを安らかに住まわせ、平和を与える。しかし、わたしの掟を拒み、わたしのすべての命令を行わず、わたしの契約を破るなら、様々な疫病が起こり、種を蒔いても収穫できない。さらに、これらのことが起こっても、なおもわたしに聞かないなら、あなたがたの罪に対して、七倍激しくあなたがたを打ちたたく。それでも、わたしのこの懲らしめをあなたがたが受け入れず、わたしに逆らって歩むなら、あなたがたの罪に対してさらに七倍重くあなたがたを打つ。あなたがたの地は荒れ果て、町々は廃墟となる、と厳しい警告をされたのです。

 神は、ご自身に従わない者を「懲らしめる」と語っているのです。この懲らしめについて、聖書は「わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。(箴言3:11,12)」と語っています。なぜなら、懲らしめには、子を思う親の愛(神の愛)が、満ち溢れているのです。事実、「主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない(哀歌3:33)」からです。けれども、すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、それは自分の益となり、すべての面で良かったことがわかるようになるのです。(ヘブル12:11)

 それゆえ、詩篇の作者は「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。(詩篇119:71)」と告白しています。私たちの信じている神は「あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられる(ヨシュア1:9)」と約束してくださっています。ですから、勇気を出して歩んで行きましょう。

今日のメッセージ 『キリストのくびきを負う』 2024年9月29日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記26章1~13節〕

 神は、あなたがたが自分のために偶像を造らず、それを拝まず、そして安息日を守り、主を恐れ、主の掟に従って歩み、主の命令を守り行なうなら、あなたがたとのわたしの契約を確かなものにすると語られました。さらに、わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはせず、あなたがたは満ち足りるまでパンを食べ、安らかに自分たちの地に住み、また、わたしはその地に平和を与えるとイスラエルの民を祝福されたのです。

 ところで、私たちが心の安らぎを得るには、人々との平和が必要不可欠です。どうすれば、争いのない平和な日々を過ごせるのでしょうか。イエス様は「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。(マタイ11:29)」と語られました。くびきとは二頭の牛を一組にするための道具(横木)ですが、イエス様は私たちの隣で、そのくびきを一緒に負って、どこまでも歩んでくださるのです。つまり、あなたは、一人ではないのです。さらに「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い(マタイ11:30)」とも語られました。ですから、私たちが、人生の重荷をともに負ってくださるイエス様を信じ、信頼して、イエス様のくびきを負う(従う)ならば、どんな人生の荒波の中でも、私たちはわざわいを恐れることなく、安らかな日々を過ごすことができるのです。(マタイ8:23~27)

 「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。(ヨハネ14:27)」と今日もイエス・キリストはあなたに語っておられます。

今日のメッセージ 『キリストの愛を受け取る』 2024年9月22日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記25章35~55節〕

 もし同胞のイスラエル人が生活に困ったときには、あなたのもとで生活できるように助け、またお金を貸す場合も無利子で貸しなさい、と神は告げられました。さらに生活困窮ゆえに、同胞があなたに身売りしても、彼を奴隷としてあつかってはならないこと、また雇い人か寄留者としてあなたに仕えるのはヨベルの年までとされました。それは、イスラエルは神がエジプトの地から導き出した民であり、神のしもべである同胞を酷使してはならないからです。

 神はイスラエルの民に、神を恐れ、同胞への思いやりの心を持つことの大切さ、つまり愛のある行動を取ることを教えられたのです。

 ところで私たちは、人をうわべで評価、判断してはいないでしょうか。聖書は「金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来ると、『あなたはこちらの良い席にお座りください』と言い、貧しい人には、『あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい』」(ヤコブ2:3,4)ということのないようと警告しています。このようなうわべによる判断は、たえず私たちの心の中に湧いてきます。イエス様が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(ヨハネ15:12)」と語られたのは、本当の愛を知らない私たちに、ご自身の愛を示すことによって、私たちがその愛に生きる者となるめです。それには、イエス様の愛を受け取ることが大切なのです。

 イエス様の十字架は、あなたの罪のために、宥めのささげ物となってくださるほどにあなたを愛しているあかしです(Ⅰヨハネ4:10)。私たちも、イエス様のこの愛をいただいて、互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いましょう。(ローマ12:10)

今日のメッセージ 『天の故郷を仰ぎ見よう』 2024年9月15日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記25章23~34節〕

 神は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると約束された地(出エジプト6:8)、すなわち十二部族に割り当てられた所有地について、このように語られました。何らかの理由で土地を手放さなくてはならない場合であっても、買い戻しの権利を放棄してはならず、土地を買い戻すための努力を怠らないようにとされたのです。そしてヨベルの年には、その土地は元の持ち主に返されます。また、城壁を巡らした町の住居に関しては、買い戻しの権利は売却後一年以内と定め、ヨベルの年にも返却されないと定めました。神御自身が「土地はわたしのものである。あなたがたは、わたしのもとに在住している寄留者だからである。」と語っているように、神の民は所有地として与えられた神の土地に住む寄留者だからです。

 人は「母の胎から出て来たときのように、裸で、来たときの姿で戻って行き(伝道者の書5:15)」また、「人は死ぬとき何一つ持って行くことはできずその栄誉もその人を追って下ることはない(詩篇49:17)」のです。

 では、私たちの希望はどこにあるのでしょうか。

 聖書は、神を信じる者は「信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。(へブル11:13)」と語っています。約束のものとは、神が与えると言われたカナンの地です。まだ約束の地にはたどり着いていない彼らは、自分たちの国籍は天にある(ピリピ3:20)ことを喜び、寄留者として歩むことをよしとしたのです。

 これこそが、本当の希望なのです。そしてこの希望は、イエス様を救い主と信じるとき、すべての人に神から与えられる素晴らしいプレゼントでもあるのです。(ルカ23:42,43)

今日のメッセージ 『神を信じるとは』 2024年9月8日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記25章1~22節〕

 神はイスラエルの子らに、約束の地に入ったなら七年目ごとに土地を休ませるための安息の年を設け、また五十年目の年(ヨベルの年)を聖別して国中の住民にあらゆる負債が帳消しとなる解放を宣言するようにと命じられました。このヨベルの年には、民はそれぞれ自分の元の所有地に帰ることができるのです。ですからイスラエルでは、土地を売買するときには互いに損失を与えないように、つまりヨベルの年があることを覚えて売買しなさい、と神は告げられたのです。不平等・不公平をなくすための神の愛のご配慮なのです。

 さらに神は、安息の年の収穫がないことで民が不安にならないようにと、「わたしは六年目に、あなたがたのためにわたしの祝福を命じ、三年分の収穫を生じさせる。あなたがたが八年目に種を蒔くときにも、前の収穫をなお食べている。九年目まで、その収穫があるまで、なお前のものを食べることができる。」と約束されました。

 ところで、あなたは、約束のみことばを信じ神を信頼して、7年目の収穫を休んだり、苦労して手に入れた土地を元の所有者に返したりすることができるでしょうか。神は、「全世界は神のもの(出エジプ19:5)」、また「見よ。わたしはすべての肉なる者の神、主である。わたしにとって不可能なことが一つでもあろうか。(エレミ32:27)」と語っています。

 イエス様が「見ないで信じる人たちは幸いです(ヨハネ20:29)」と語られたように同様のことが、私たちにも求められているのです。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6)」

今日のメッセージ 『さあ、神に立ち返ろう』 2024年9月1日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記24章10~23節〕

 父がエジプト人であるイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争いを起こした。そのとき、イスラエルの女の息子が神の御名を汚し、ののしったので、人々はこの者をモーセのところに連れて行った。そのことについて、神はモーセに「あなたはイスラエルの子らに告げよ。自分の神をののしる者はだれでも罪責を負う。主の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその人に石を投げて殺さなければならない。寄留者でも、この国に生まれた者でも、御名を汚すなら殺される。」と告げられました。

 また、人間を打ち殺す者、 動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。人がその同胞に傷を負わせるなら、その人は自分がしたのと同じようにされなければならない、しかし受けたこと以上のことをしてはならないとされたのです。これは、私たちの心の内にある復讐心があおられ、過剰な罪を犯さないための神の愛の御配慮です。

 ところで、私たちにも神をののしりたくなる思いが起こります。それは、神への期待や願いの裏返しから起こるのですが、しかし神は、私たちを造られた創造主であり、私たちは被造物であって、神はあなたの願いを聞いてくれるあなたの「しもべ」ではないのです。ののしる行為は神を否定し、神の存在を抹殺する殺人と同じです。それでも、神は「わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す(エレミヤ33:8)」と語っておられます。それは、キリストが私たちの罪のために死んでくだったからです(Ⅰコリント15:3)。 さあ、神に立ち返りましょう。