今日のメッセージ 『十字架は新しい契約のしるし』 2024年8月25日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記24章1~9節〕

 神は、聖所の中の燭台のともしびを絶えずともすように命じました。ともしびは、「主の栄光と神の臨在」を表し、神がともにおられることを常に覚えるための代々守るべき永遠の掟とされたのです。また安息日ごとに、輪形パン十二個を、主の前のきよい机の上に一列に六つずつ並べ、それを二列に置き、それぞれの列に純粋な乳香を添えるようにも命じました。これはイスラエルの子らによるささげ物であり、パン十二個は十二部族を表し、これによって神とイスラエルの民との契約を思い起こすためでした。

 イエス様は十字架を前にした過越しの食事のあと、弟子たちに「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」(ルカ22:19,20)と語られました。教会では、この主の命令を守り、聖餐式を行います。それは聖餐が、「イエス様の十字架は私の罪のためである」と再確認し、同時に神の愛を覚える大切な時だからです。

 神は、「新しい契約を結ぶ(エレミヤ31:31)」と約束されたことを、キリストの十字架によって成就されたのです。キリストは新しい契約の仲介者(ヘブル9:15)なのです。では、神との契約の何が新しく変わったのでしょうか。それは、神の律法を守る行いによる義からキリストを救い主と信じる信仰による義(新しい契約)へと変わったのです。

 すなわち、神は、私たちを自分の力による歩みから聖霊による歩みへと移し、御国に国籍を持つ恵みを私たちにくださったのです。それゆえ、イエス様は「わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです(ヨハネ12:47)」と語られたのです。

今日のメッセージ 『主の御腕に抱かれた人生』 2024年8月18日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記23章4~44節〕

 神は主の例祭を定められました。主の安息日から始まり、エジプト脱出を記念する過越しと種を入れないパンの祭り、約束の地に入り最初の収穫を祝う初穂の祭り、最初の収穫を献げてから50日目にその後の収穫物を献げる七週の祭り、神とともに歩む決意を新たにする新年の祭り、年に一度大祭司が至聖所に入って行われる大贖罪の日、荒野で仮小屋に住んだことを忘れないための仮庵の祭り、と続きます。神は毎年これらの例祭を行うことを代々守るべき永遠の掟として定められたのです。それは、例祭を通して、エジプトから救い出された神こそがまことの神であることを覚え、神への感謝と信仰を新たにさせるためでした。

 私たちは困難や試練に会うと、恐れや不安、そして思い煩いに苦しめられます。それゆえ詩篇の作者は「わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)」と語っています。アブラムは、神から「星を数えられるなら、あなたの子孫はこのようになる」と語られたとき、主を信じました(創世記15:6)。おそらく、彼は信仰によって神の恵みが子孫に注がれている様を見ていたのでしょう。そして今、アブラハムの信仰の子孫とされた私たちにも、同様に変わらぬ神の愛と恵みが豊に注がれているのです。ところで、神はあなたの人生にどのようにふれられたでしょうか。それはあなたにとってどんな意味があり、その後のあなたの人生にどんな変化を与えたでしょうか。

 あなたは、神とともに歩む人生へと移され、「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。(イザヤ46:4)」と神は約束してくださっています。

今日のメッセージ 『すべての中心は礼拝にある』 2024年8月11日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記23章1~3節〕

 レビ記23章は、神が定めた例祭について記されています。神はその例祭について教える前に、「六日間は仕事をする。しかし、七日目は全き休みのための安息日、聖なる会合の日である。あなたがたは、いかなる仕事もしてはならない。この日は、あなたがたがどこに住んでいても主の安息日である。」と、七日目は主を礼拝する安息日であることを民に告げるように、モーセに言われました。それは創世記2章3節で「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである」と語られているからであり、私たちの生活の中心に、神を礼拝することを据えることを教えるためでした。

 聖なる神を礼拝することは、神のきよさと愛を知ることであり、それはあらゆる悪から私たちを守り、私たちの歩みをまっすぐにするものだからです。

 さて、あなたにとって、神を礼拝することは喜びの時でしょうか。もし、そうでなければ、その原因は何なのでしょうか…。もしかすると、日々の歩みの中で、イエス様がともにおられることを実感できないからかもしれません。そうであるならば「イエス様、あなたが遠くに感じます。その原因となっているあなたと私の間にある仕切りの壁を教えてください。」と祈ることが大切です。聖霊なる神は必ずその原因を教えてくださいます。分かったならば、さっそく、あなたは、それを主に告白し、十字架の血潮によって、その罪の赦しとすべての不義からのきよめをいただきましょう(Ⅰヨハネ1:9)。神はあなたにご自身を見つけ出して欲しいのです(エレミヤ29:13,14)。

 さあ、準備は整いました。あなたは、御霊と真理によって父を礼拝するまことの礼拝者に整えられたのです。(ヨハネ4:23,24)

今日のメッセージ 『神からのチャレンジ』 2024年8月4日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記22章17~33節〕

 神は誓願のささげ物、また進んで献げる全焼のささげ物は、牛、羊、あるいはやぎのうち、傷のない雄でなければならない、と命じられました。神に誓願を立てるということは、どうしても叶えて欲しいことがあるからですが、それなのに、神へのささげ物を惜しんで、傷のあるものを献げるというのは矛盾です。神に最上のものを用意するのが、当然なのではないでしょうか。ささげ物は、あなた自身の心の表れだからです。

 サウル王は敵のすべてを聖絶するようにと、神に命じられていたにもかかわらず、惜しむ心から最も良いものを残し、つまらない値打ちのないものだけを聖絶しました (Ⅰサムエル15:9) 。これに対しアブラハムが、やっと与えられた最愛の息子イサクを神のことばに聞き従って、全焼のいけにえとして献げようとした行動とはまるで対照的です(創世記22:12)。

 「私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)」とあるように、神は私たちを罪から救い出すために、愛するひとり子であるイエス・キリストを十字架の死に渡されたのです。これほどまでに私たちを愛しておられる神が、私たちに恵みを注いでくださらないはずはありません。イエス様は「あなたがたは、信じて祈り求めるものは何でも受けることになります(マタイ21:22)」と語っています。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7,8)」さあ、神を信じ、チャレンジを始めましょう。

今日のメッセージ 『主よ、あの人はどうですか』 2024年7月28日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記22章1~16節〕

 レビ記22章も前回に引き続き祭司について語られています。神はモーセに「宥めに用いるささげ物は聖なるものゆえに慎重に扱い、神の聖なる名を汚してはならない」とアロンとその子らに教えるように命じました。神の聖なる名を汚す行為は、神ご自身を侮ることであると教えるためでした。汚れとは、ねたみや高慢などの罪であり、これらは主を救い主と信じ、祭司とされた私たちクリスチャン(Ⅰペテロ2:9)に語られているのです。

 私たちは様々な問題に追われ、周りの評価を気にする悪戦苦闘の日々を送っていますが、ペテロも復活のイエス様から三度「あなたはわたしを愛していますか」と聞かれたあと、「わたしの羊を飼いなさい。~ しかし年をとると~ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」と告げられたその時、後ろにいた弟子について「主よ、この人はどうなのですか」とイエス様に尋ねたのでした。すると、イエス様はペテロに「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われたのです(ヨハネ21:22)。つまり、イエス様は「人のことは気にしないで、ただわたしについて来なさい」と言われたのです。

 周りが気になるペテロの姿は、私たちの姿ではないでしょうか。そのペテロは「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」(Ⅰペテロ5:6)と告白しています。

 神の目にはすべてが裸であり、神は私たちを公平にさばかれるお方、「神は、人の行いに応じて報いをし、それぞれをその道にしたがって取り扱われる (ヨブ34:11)」お方なのです。

今日のメッセージ 『日々造り変えられる歩み』 2024年7月21日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記21章1~24節〕

 神は「わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせる。(出29:44)」と言われました。神はアロンとその子らを聖別して、神の祝福を注ぐ仲介者として祭司に任命されたのです。それゆえに、祭司は聖なる者であること、また神の名を汚さないことが求められるのです。レビ記21章は、祭司職に聖別されたアロンの子孫に求められていることが記されています。

 さてそれでは、これらのことは今の私たちにどう関わるのでしょうか。キリストを罪からの救い主と信じた私たちは、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(Ⅰペテロ2:9)」と語られているように、私たちは神から祭司に任命されているのです。また、「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。(エペソ5:8)」とも語られています。イエス様は、光の子どもである私たちは「地の塩、世の光」(マタイ5:13,14)であると語られました。塩は食品の腐敗を防ぎ、光は暗闇を照らし周囲を明るくします。同様に神は、私たちの日々の歩みを通して、人々に罪を知らせ、その罪が広がるのを抑制してほしいと願っておられるのです。しかし生まれながらの私たちには、その力はありません。ただ御霊によって歩むとき、御霊の実(ガラテヤ5:22,23)が与えられ、一歩一歩前進できるのです。

 御霊によって歩むとは、日々の罪の悔い改めとイエス様に頼る歩みです。その時、私たちの内なる人は日々新たにされていくのです。(Ⅱコリント4:16)

今日のメッセージ 『刑罰に隠されている神の愛』 2024年7月14日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記20:1~27〕

 神がイスラエルに掟と定めを守ることを命じられたのは、神の民である彼らを守るためでした。しかし、現代でも、法律を破った者には刑罰が課せられるように、神は掟と定めを守らない者にはその罪の責任を問われたのです。これは、神の聖さを保つと同時に、彼らを異教の習慣から守り、かつ、罪の道に歩ませないための防波堤、すなわち、神の愛なのです。

 神は、モレク(偶像)に子をささげる者、自分の父や母をののしる者、姦淫した男や女、動物と寝た男や女、また霊媒や口寄せする者など神の掟と定めを破った者は、イスラエルの民から断ち切られるだけではなく、石打ちで必ず殺されなければならないとされました。その血の責任を彼ら自身に問われたのです。

 聖書に「あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません(ヘブル12:4)」とありますが、私たちには罪の重大さや深刻さが十分に分かっていないのかもしれません。「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(ヘブル9:22)」と語られているこのみことばに、私たちは、真摯に向き合う必要があるのではないでしょうか。イエス・キリストは、私たちのすべての罪の身代わりとなって、この重い刑罰をその身に負うためにこの世に来られました。そして「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。(Ⅰペテロ2:24)」と語られているとおり、キリストを信じる者のすべての罪が完全に赦されたのです。

 このキリストの愛に応えるべく、罪を離れ、義のために生きる歩みを目指しましょう。

今日のメッセージ 『神を恐れかしこむ信仰』 2024年7月7日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記19章1~39節〕

 神はレビ記19章でも「あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである」と語られ、神の民イスラエルに、聖なる者としての歩みを求められました。具体的には、自分の父と母を敬い、偶像礼拝を避け、まことの神だけを礼拝すること。また人への配慮を怠らず、不正やえこひいきなどをしないこと。さらに大地の実りを正しく管理し、異教的な行為を排除し、老人や在留異邦人への配慮を忘れず、公平な取引を行うことでした。しかし時が経つにつれて、自分たちの都合に合う解釈をするようになり、神の御思いからずれていったのです。イエス様も、彼らがあなたの父と母を敬え(出20:12)という戒めを知りながら、『差し上げるはずのものは神に献げてしまいました(コルバン)』と両親に言って、父と母を敬う神の戒めを無力化していることを問題視されました。

 この神の掟と定めを守る心構えは、「ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました(へブル11:7)」と記されているみことばに、見いだすことができます。その心構えとは、神を信頼して「恐れかしこむ」信仰です。

 神は私たちの内にある「(神を)恐れかしこむ」ことが出来ない心をよくご存知です。それゆえに、イエス・キリストを私たちの罪の宥めのために遣わされ、十字架の上でそのいのちを献げるという罪の贖いを成し遂げてくださり、私たちに神の愛を示してくださいました。このキリストの愛を受け取る者が、喜んで神の戒めを守る者なのです。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。(Ⅰヨハネ5:3)」

今日のメッセージ 『わが足のともしび、わが道の光』 2024年6月30日

 牧師 高橋勝義

〔レビ記18章1~30節〕

 神は、創造のはじめから私たちを男と女に創造され(創世記1:27)、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるようにされました(創世記2:24)。しかし、人が神の命令に従わなかった罪のために、この夫婦の関係にはひびがはいってしまい、神は、夫婦が本来のあるべき姿になるように、イスラエルの中に深く入り込んでいるエジプトの風習やカナンの風習をまねてはならないと命じたのです。罪の力は、大きいからです。具体的には近親相姦や不純な性行為、動物との性行為、また火の中に自分の子どもを通す、など異教的習慣をまねてはならないということでした。それは、彼らが主の掟と定めを守り行うことによって、彼ら自身の歩みが守られ、神の名を汚さないためでした。

 この世の道徳観や常識は時代とともに変化します。私たちは、その影響を受け、いつのまにか、その風潮に流されてしまいます。私たちの信仰生活にも、同じようなことが起こってはいないでしょうか。聖書は「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:2)」と語っています。神のみこころは、神のことばである聖書に表されており、神のことばに心開く者の内に、神は「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与える」(詩篇119:130)と約束しているのです。あなたはこの世の道徳観や常識、自分の知恵や知識で歩んではいませんか、それとも、日々神のことばに従って歩んでいますか。

 「あなたのみことばは私の足のともしび私の道の光です」(詩篇119:105)