牧師 高橋勝義 |
〔レビ記20:1~27〕
神がイスラエルに掟と定めを守ることを命じられたのは、神の民である彼らを守るためでした。しかし、現代でも、法律を破った者には刑罰が課せられるように、神は掟と定めを守らない者にはその罪の責任を問われたのです。これは、神の聖さを保つと同時に、彼らを異教の習慣から守り、かつ、罪の道に歩ませないための防波堤、すなわち、神の愛なのです。
神は、モレク(偶像)に子をささげる者、自分の父や母をののしる者、姦淫した男や女、動物と寝た男や女、また霊媒や口寄せする者など神の掟と定めを破った者は、イスラエルの民から断ち切られるだけではなく、石打ちで必ず殺されなければならないとされました。その血の責任を彼ら自身に問われたのです。
聖書に「あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません(ヘブル12:4)」とありますが、私たちには罪の重大さや深刻さが十分に分かっていないのかもしれません。「律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(ヘブル9:22)」と語られているこのみことばに、私たちは、真摯に向き合う必要があるのではないでしょうか。イエス・キリストは、私たちのすべての罪の身代わりとなって、この重い刑罰をその身に負うためにこの世に来られました。そして「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。(Ⅰペテロ2:24)」と語られているとおり、キリストを信じる者のすべての罪が完全に赦されたのです。
このキリストの愛に応えるべく、罪を離れ、義のために生きる歩みを目指しましょう。