今日のメッセージ 『神があなたの先を進まれる』 2025年1月1日

 牧師 高橋勝義

〔申命記31章1~8節〕

 「一寸先は闇」というように、先のことは誰にも予測ができません。ですから人は安全を確保するために奔走するのです。誰もが不安の少ない先行きの安全を願っています。

 さて、モーセは、自分の跡を継いでイスラエルの指導者となるヨシュアに「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」と励まします。さらに「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。」(申命記31:8)と語りました。モーセの従者として歩んできた後継者のヨシュアは、偉大な指導者モーセには常に力ある生けるまことの神が共におられたこと、またモーセを通して、神がイスラエルにどんなことをしてくださったのかを誰よりも知っていました。その偉大な神が、これからイスラエルを導く自分とともにいてくださるとの約束を頂き、これ以上確かな保証はないと励まされ、勇気を得て、心から感謝したことでしょう。

 ダビデは、王として、イスラエルを導く立場にありました。彼の決断が、国の行く末を決めることになるわけですから、慎重の上にも慎重を期したことでしょう。ダビデは、その決断の前に「私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。(詩篇16:8)」と告白しています。

 それは、主によって人の歩みは確かにされ、主はその人の道を喜ばれる(詩篇37:23)ことを知っていたからです。

 ところで、私たちは、どうでしょうか。

 今年も、私たちに先立って進まれる神を信じ、信頼し、従って歩んで行きましょう。神が、あなたの道を確かにしてくださるのですから。

今日のメッセージ 『神とともに生きる』 2024年12月29日

 牧師 高橋勝義

〔民数記2章1~34節〕

 イスラエルがエジプトを出てから二年、神はご自身の幕屋が完成すると、モーセに、20歳以上で戦に出ることができる男性の人数調査を命じられ、さらに宿営の真ん中に幕屋を造り、その回りに軍団が十二部族ごとに旗をたてて宿営するように命じられました。軍団の中心には、「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。(出エジプト25:8)」と約束された幕屋があり、神が彼らの歩みのただ中におられ、彼らとともに歩まれることが示されていました。

 かつてイスラエルは、エジプト王が軍勢を引き連れて追いかけて来るのを見たとき、恐れおののき「この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかった」と騒ぎ立てたのです。しかし、モーセは毅然として「主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。(出エジプト14:14)」と語り、主が命じられたとおり、神の杖で紅海を二つに分け、民は海の底を歩いて脱出することができたのです。

 同様に、私たちの日々の戦いも、自分一人で戦っているのでなく、私たちの内に住んでおられる聖霊なる神がともに戦ってくださっているのです。あなたは、この事実を本当に信じ、受け取っておられるでしょうか。それとも、今も自分の力で踏ん張んていないでしょうか。

 ここが、信仰に生きる歩みになるかどうかの大きな分岐点なのです。

 ですから、神は「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)」とあなたに問いかけているのです。

今日のメッセージ 『救い主なる主』 2024年12月22日

 牧師 高橋勝義

〔ルカによる福音書2章8~16節〕

 この時期、テレビでは全世界でクリスマスを祝うニュースが流れます。クリスマスは神の愛する一人子キリストがこの世にお生まれになったお祝いの時ですが、キリストは神であられるのに、神としての偉大な力と栄光を捨てて、しもべの姿をとり、人間と同じ姿になられ、自らを低くして、犯罪人と同じようになって十字架上で死なれました(ピリピ2:6~8)。

 人口調査の旅の途中の父ヨセフと母マリヤは、泊まる宿もなく、家畜小屋で「救い主」をお産みになり、そのみどりごを飼い葉おけに寝かせたのです。この喜ばしい知らせが最初に知らされたのは貧しい羊飼いたちでした。羊飼いたちは急いで町まで出かけて行き、布にくるまれ飼葉桶に寝ている幼子キリストを捜し当てたのです。すべて御使いが語った通りでした(ルカ2:16)。

 神に従わない歩み(罪)を続けている人間には、死後、その罪のためのさばきを受けることが定まっています(ヘブル9:27)。私たちを造られた神(イエス・キリスト)が、しもべの姿をとり、人間と同じようになられたのは、私たちの死後に受ける罪のさばきを身代わりとなって負うためでした。私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つようにするためです(ヨハネ3:16)。キリストは、ご自身のいのちを十字架の上で、私たちの罪のための宥めのささげ物として献げられたのです。神からのプレゼントであるイエス・キリストを罪からの救い主と信じる時、私たちは罪赦され、永遠のいのちをいただくことができるのです。

 あなたも神からのプレゼントを受け取って新しい人生に踏み出しましょう。

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

今日のメッセージ 『耐え忍ばれた主』 2024年12月15日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ書50章4~9節〕

 イエス・キリストは、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15:13)」と語られたとおり、私たちのすべての罪の身代わりとなって十字架の上で死なれました。このことを、聖書は「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」と語っています。

 また、メシヤ(救い主)について「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった(イザヤ50:6)」と預言されているとおり、弟子のペテロもイエス様の歩みについて「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった(Ⅰペテロ2:23)」と証言しています。

 罪を犯したこともなく、その口には欺きもなかったイエス様。また、イエス様は、通りすがりの人たちからも、「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(マタイ27:40)」と侮辱されました。このような辱めを耐え忍ばれてまで、なぜ、イエス様は十字架の上で私たちの罪をその身に負い、死んでくださったのでしょうか。

 天の父の御思いは、私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つことです。さらに、私たちを罪から離れさせ、たましいの牧者であり監督者である方のもとに帰らせるためです。そのために、イエス様はご自分のいのちを私たちのために献げられたのです。

 私たちの救いのために、ここまで耐え忍ばれた主の愛を仰ぎ見、神を信じ、信頼し、神が用意しておられる御国を目指し、忍耐をもって走り続けて行きましょう。

今日のメッセージ 『心の痛みを知る主』 2024年12月8日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ書42章1~4節〕

 モーセは私たちの地上の歩みについて「そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。(詩篇90:10)」と語り、イエス様も「世にあっては苦難があります(ヨハネ16:33)」と語っておられます。この労苦と苦難の人生に、私たちの心が傷つき、疲れ果て、病んでしまうのはしかたがないことと言えるでしょう。

 神は、このような心の痛みを抱える私たちのもとに、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実をもってさばきを執り行うお方」イエス・キリストを救い主として遣わしてくださいました。このお方について、聖書は「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです(ヘブル2:18)」と証言しています。つまり、イエス様は、私たちが人生の荒波にもまれ、苦しみ、傷つき、疲れ果てていることを理解してくださっているのです。

 ですから「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」と私たちを招いておられます。更に、イエス様は、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(ルカ5:31,32)」と語られました。この健康な人とは、神を必要とせず、自分は正しい、大丈夫だと思っている人のことであり、病人とは、自分勝手に歩んできたことが罪であると認めた人のことです。

 私たちの心を知り、招いておられるイエス・キリストは、「わたしのもとに来る者を、わたしは決して外に追い出したりはしません。」(ヨハネ6:37)と語られます。

今日のメッセージ 『道を備えられる主』 2024年12月1日

 牧師 高橋勝義

〔イザヤ書40章3~5節〕アドベント第一週

 高層ビルを建設するときには必ず土地の地盤調査を行い、岩盤まで杭を打ち込み、建物の安全を確保します。一般住宅でも状況によっては地盤調査を行い、対策をしてから建物を建てます。このように、建物の安全を確保するためには、事前調査による備えが重要です。

 神様はご自身の民であるイスラエルが、約束のメシヤ(救い主)が来た時に、そのお方を受け入れ、信じられるように霊的な備えをされました。それがバプテスマのヨハネの使命でした。彼は人々に、悔い改めて神に立ち返るように勧め、多くの人々が心動かされ罪を悔い改め、ヨルダン川でバプテスマを受けたのです。このように、人々の心は備えられていったのですが、メシヤとして来られたイエス様を受け入れなかったのです。それは、彼らの願うメシヤ像からイエス様はあまりにもかけ離れていたからでした。

 私たちの目にはまっすぐに見える道も、その終わりが死となる道があるのです。(箴言14:12) 預言者イザヤが「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを、あなたの耳は聞く。(イザヤ30:21)」と語っているように、神は私たちがそのような道に進んで行かないようにと常に私たちを見守っておられるのです。ところが、私たちは自分の願いばかりを追い求めているため、神の御声が心に届かないのです。そのような私たちの歩みを確かなものにする事の出来るのは、神様だけです(箴言3:6)。

 ですから「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」(詩篇143:8)と、神様に向きを方向転換して、その御声を聞く心備えをしましょう。

コラム 『十字架を仰ぐ』 2024年11月24日

 牧師 高橋勝義

 11月初旬のある日の昼食時、私と家内の目は窓越しの、赤とんぼの大群(まさに大群)にくぎ付けになっていました。秋に赤とんぼが飛んでいるのは、当たり前の光景なのですが、この時は、かつて見たこともない大群で、「えー!」「なに、これ!」「どこからきたんだ~」「どこに飛んでいくの~、まるで出エジプトのいなごみたい~」と大興奮してしまいました。そして家内が、震災後の秋、仮設支援活動で「赤とんぼ」を仮設の皆さんと歌ったときに聞いたエピソードを話してくれました。

 作詞の三木露風は幼い頃、ご両親が離婚され、祖父母に育てられ、経済的には豊な中でも、寂しい幼少期をすごしたのだそうです。そして大学卒業後、函館トラピスト修道院の講師となり、そこで洗礼をうけた彼は、修道院の庭に飛ぶ赤とんぼの群れを見てこの歌を作りました。特に四番の歌詞「夕焼小焼の 赤とんぼ とまっているよ 竿の先」は竿と、その先にとまった赤とんぼがイエス・キリストの十字架を表している、との説明を聞き、家内は感動した、と言っていました。その話を聞いた私は、たとえ、私たちの心が「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。(エレミヤ17:9)」心であっても、イエス様が十字架の上で流された血潮によって、その邪悪な良心はきよめられるのだ、と思わされました。イエス様が「わたしの心だ。きよくなれ」と語られたように、日々、イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩んでいきたいものです。

 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(Ⅰヨハネ1:9)」

今日のメッセージ 『互いに仕え合いなさい』 2024年11月17日

 牧師 高橋勝義

〔民数記1章47~54節〕

 神は、レビ人を除いて戦に出ることができるイスラエルの20歳以上の男子の登録を命じられ、その総数は603,550人でした。では、神はなぜレビ人だけを登録されなかったのでしょうか。それは、レビ人に神の幕屋とそのすべての用具を管理させるためでした。彼らには、幕屋とそのすべての用具を運び、これに仕え、幕屋の周りに宿営して、これらを守る使命があるからでした。この務めは、レビ人にのみ与えられたものであり、レビ人以外の者でこの働きに近づく者は殺されなければならないとまで神は厳しく戒めています。

 パウロは、「この方(イエス・キリスト)によって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。御名のために、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためです。(ローマ1:5)」と語りました。パウロは、自分はイスラエル人だけではなく、世界中の人々がキリストを信じて救われるために召された者であると自覚していたからです。それは、神がアナニアを通して「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。(使徒9:15)」と語っていたからです。

 この使命は、特別にパウロに与えられたものではありますが、私たち一人ひとりにもキリストのからだの一部分(Ⅰコリント12:27)として、キリストのからだなる教会を建て上げるために、賜物を分け与えてくださっています(Ⅰコリント12:11)。ですから、宣教の働きに用いていただくために、自分に与えている賜物を知ることはとても重要です。

 神は「それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい(Ⅰペテロ4:10)」と勧めています。

今日のメッセージ 『神のすべて武具を身につけよ』 2024年11月10日

 牧師 高橋勝義

〔民数記1章1~46節〕

 イスラエルはエジプトでの過酷な奴隷生活から、神の恵みとあわれみによってモーセに導かれ救い出されました。そしてシナイ山の麓で、神の幕屋を完成させ、神の民としての掟と定めを与えられたのです。この時、エジプトを出てからすでに2年の月日が流れていました。

 エジプトを出る時のイスラエルは、女、子どもを除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人でした(出エジプト12:37)が、この時、神がモーセに二十歳以上の戦に出られる人数を調べさせると、六十万三千五百五十人でした。このようにして約束の地に向かう民を整えられたのです。

 さて、聖書は私たちが戦う相手について「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(Ⅰペテロ5:8)」と語り、警告しています。では、私たちは戦うための武器を何も持たずに「悪魔」と戦うのでしょうか。そんなことはありません。神は悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けることを命じています(エペソ6:11)。

 それは、腰に真理の帯を締め、胸には神の承認という胸当てを着け、足には平和の福音を伝えに行くための靴をはき、手にはサタンの誘惑の火矢を防ぐ信仰の盾を、頭には主の十字架による救いのかぶとを、そして御霊の剣である神のことば(聖書)を握るのです。

 自分の力に頼らず取り、どんなときにも御霊によって、すべての聖徒のために、ひたすら祈り、信仰の戦いを戦うのです(エペソ6:14~18)。

 同時に、この時、主があなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合う愛を身に着けることを忘れてはなりません。愛は結びの帯として完全だからです。(コロサイ3:12~14)