投稿者「Katsuyoshi Takahashi」のアーカイブ
今日のメッセージ 『神の前に忠実に歩む』 2025年2月2日
牧師 高橋勝義 |
〔民数記6章1~21節〕
神は、親や自分の誓願によって一定期間、神に仕える特別な誓いをする場合についてのおしえを定められました。その誓願を立てる者は、ナジル人(ささげられた者・聖別された者)と呼ばれます。ナジル人はぶどう酒と濃い強い酒を断つこと(民6:3,4)、聖別の期間中髪の毛を切らないこと(民6:5)、死体に近づいてはならないこと(民6:6~8)が定められ、その誓った誓いのことばどおりにしなければなりません。
預言者サムエルの母ハンナは、主に「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」と誓願を立てます(Ⅰサムエル1:11)。神は、この祈りを聞かれ、ハンナは男の子を産み、その名をサムエルと名づけました(Ⅰサムエル1:20)。このように、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる (ピリピ2:13)」お方なのです。
旧約時代のナジル人の誓願は自分には遠い世界のことだと思われるかもしれません。しかし、イエス様の十字架の贖いによって神の民とされている私たちにも、神は、ご自身の働きを手伝ってほしいと願っておられます。ここで大切なことは、「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です(ルカ16:10)」とあるように、神は忠実さを求めておられるのです。
「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。(イザヤ26:3)」
今日のメッセージ 『相手を尊ぶ』 2025年1月26日
牧師 高橋勝義 |
〔民数記5章11~31節〕
人を一度もねたむことなく生きてきた人は、おそらくいないのではないでしょうか。
ねたみとは、自分より優れている人、恵まれている人をうらやみ、憎らしく思う感情です。神は、このねたみが夫婦関係、ひいては家族全体の関係を損なう原因となるため、ねたみに関する規定を設けられました。夫婦の問題は、イスラエル民族全体の秩序を乱し、混乱を引き起こすのです。この規定は一見すると、夫の側に有利に感じてしまいます。しかし、当時は男性中心の社会ですから、神はそれを踏まえ、ねたみから夫が一方的に妻に危害を加えることがないようにと設けられた規定なのです。つまり、妻を守るためのご配慮なのです。
神は、初めから人間を男と女に造られました。それは、人間は一人では生きていけないことと、お互いの人格を尊重し合うことを学ばせるためです。そのうえで、聖書は、「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。(エペソ5:21,22,25)」と教えているのです。しかし、私たちの愛は、どこまでも自己中心の愛です。では、どうすれば、お互いを尊重し合う愛を持つことができるのでしょうか。イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように(ヨハネ13:34)」と語られました。つまりイエス様は、私たちのありのままを愛されたのです。イエス様が私たちを愛してくださっているように、私たちも、聖霊の助けによるなら、ありのままのお互いを受け入れ、赦し合い、仕え合う者になれるのです。
「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。(ピリピ2:3)」
今日のメッセージ 『日ごと罪の悔い改めをする』 2025年1月19日
牧師 高橋勝義 |
〔民数記5章1~10節〕
神はモーセとアロンに、「あなたがたは、イスラエルの子らをその汚れから離れさせなさい。彼らが、彼らのただ中にあるわたしの幕屋を汚し、自分たちの汚れで死ぬことのないようにするためである。(レビ15:31)」と、汚れている人や不純な者は宿営の外に隔離するように命じられました。これは彼らの存在と人格を否定しているわけではなく、神の聖さを汚さないためです。また、罪はそのままにせず、必ず贖いをするように命じています。罪を放置したままにするならば、神の聖さを汚すことになるからです。
さらに、「あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。 (レビ11:45) 」と命じられていますが、これは神の子どもとされた私たちにも語られているのです。「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となること(Ⅰテサロニケ4:3)」だからです。しかし、生まれながら私たちは罪人であり、聖くはありません。しかし、その罪がイエス・キリストの十字架の贖いで帳消しとなり、さらに神との交わりによって聖なる者とされていくのです。ですから、聖書は「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません(Ⅰヨハネ1:6)」と警告します。私たちは神の御霊が住んでおられる神の宮ですから(Ⅰコリント3:16)、自分の身を汚すことは神の聖さを汚すことになるのです。では、どうすれば聖なる者としての歩みができるのでしょうか。
「御霊によって歩みなさい。~ (ガラテヤ5:16)」と語られているように、御霊の働きを妨げないために、日ごと、罪を主に教えていただき、それを悔い改める(神の前にその罪を認める)ことが大切なのです。(Ⅰヨハネ1:9)
今日のメッセージ 『キリストの愛から引き離すものは何ですか』 2025年1月12日
牧師 高橋勝義 |
〔民数記4章1~49節〕
神は、会見の天幕で神聖な仕事を託されたレビ人について、「三十歳以上五十歳までのすべての者」と定められました。祭司の役目は、神と人との仲介者として、聖所の儀式といけにえ奉献であり、レビ人の役目は聖所の組み立て、またすべての器具の運搬と管理、さらに祭司の働きを補佐する職務を担っていました。神の聖さを汚すことなく、任務を忠実に果たし、すべての働きを全うするには、健康な体と成熟した一定の能力が必要故の年齢制限です。
さて、キリストを信じる信仰により、神の子どもとされ、今や祭司としての働きを託されている私たちも健康には気を配ります。では、たましい(霊)の健康についてはどうでしょうか。聖書は「私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(Ⅱコリント4:16)」と語ります。確かに、肉体は年々衰えますが、内なるたましいは、日々新しくされていくというのです。その鍵は、「キリストのうちにあるなら(Ⅱコリント5:17)」です。しかし、キリストの愛が十分に分からない私たちは「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません(ピリピ2:21)」。様々な困難の中で自分の弱さの中に働いてくださる神の愛を知った使徒パウロは、「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか(ローマ8:35)」と告白しています。確かに、この世には、魅力的なものがたくさんあります。また、私たちの中にもこの世のものを追い求める心があります。しかし、それらは、いずれ消えてなくなります。
キリストは、あなたが苦しみや困難のただ中にあるとき、いつも、あなたのそばにいて、励まし、助け、力を与えてくださる愛のお方です。この愛が分かるように、祈りましょう。
今日のメッセージ 『神の子どもとしての立場と働き』 2025年1月5日
牧師 高橋勝義 |
〔民数記3章1~51節〕
約束の地を前にして、神は戦に備えたイスラエル男子の人口調査を行い、神の幕屋を中心にした各部族の宿営を命じられましたが、レビ人は除外されました。レビ人には神の幕屋の奉仕という役目があったからです。そして、神がそのレビ人の人口調査を行うように命じられたのは、幕屋に仕えるレビ人の立場と働き、および任務を明確にさせるためでした。
聖書は、人間は神に従わない不従順の子らであり、生まれながら御怒りを受けるべき子らである(エペソ2:2)と語っています。しかし「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった(ヨハネ1:12)」とあるように、イエス様を罪からの救い主と信じる者は、神の子どもとされるのです(ガラテヤ3:26)。また「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。(エペソ5:8)」とも語られています。では、どうすれば、神の子ども、光の子どもとしての歩みができるのでしょうか。それは、イエス様が「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(ヨハネ8:12)」と語られたように、日々、イエス様とともに歩むことです。けれども、私たちの生活には、この世の習慣や習わし、価値観などが深く入り込んでいます。ですから、「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:2)」と語られているのです。
さあ、いのちのことばをしっかり握り、世の光として輝きましょう。(ピリピ2:16)
今日のメッセージ 『神があなたの先を進まれる』 2025年1月1日
牧師 高橋勝義 |
〔申命記31章1~8節〕
「一寸先は闇」というように、先のことは誰にも予測ができません。ですから人は安全を確保するために奔走するのです。誰もが不安の少ない先行きの安全を願っています。
さて、モーセは、自分の跡を継いでイスラエルの指導者となるヨシュアに「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」と励まします。さらに「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。」(申命記31:8)と語りました。モーセの従者として歩んできた後継者のヨシュアは、偉大な指導者モーセには常に力ある生けるまことの神が共におられたこと、またモーセを通して、神がイスラエルにどんなことをしてくださったのかを誰よりも知っていました。その偉大な神が、これからイスラエルを導く自分とともにいてくださるとの約束を頂き、これ以上確かな保証はないと励まされ、勇気を得て、心から感謝したことでしょう。
ダビデは、王として、イスラエルを導く立場にありました。彼の決断が、国の行く末を決めることになるわけですから、慎重の上にも慎重を期したことでしょう。ダビデは、その決断の前に「私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。(詩篇16:8)」と告白しています。
それは、主によって人の歩みは確かにされ、主はその人の道を喜ばれる(詩篇37:23)ことを知っていたからです。
ところで、私たちは、どうでしょうか。
今年も、私たちに先立って進まれる神を信じ、信頼し、従って歩んで行きましょう。神が、あなたの道を確かにしてくださるのですから。
今日のメッセージ 『神とともに生きる』 2024年12月29日
牧師 高橋勝義 |
〔民数記2章1~34節〕
イスラエルがエジプトを出てから二年、神はご自身の幕屋が完成すると、モーセに、20歳以上で戦に出ることができる男性の人数調査を命じられ、さらに宿営の真ん中に幕屋を造り、その回りに軍団が十二部族ごとに旗をたてて宿営するように命じられました。軍団の中心には、「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。(出エジプト25:8)」と約束された幕屋があり、神が彼らの歩みのただ中におられ、彼らとともに歩まれることが示されていました。
かつてイスラエルは、エジプト王が軍勢を引き連れて追いかけて来るのを見たとき、恐れおののき「この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかった」と騒ぎ立てたのです。しかし、モーセは毅然として「主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。(出エジプト14:14)」と語り、主が命じられたとおり、神の杖で紅海を二つに分け、民は海の底を歩いて脱出することができたのです。
同様に、私たちの日々の戦いも、自分一人で戦っているのでなく、私たちの内に住んでおられる聖霊なる神がともに戦ってくださっているのです。あなたは、この事実を本当に信じ、受け取っておられるでしょうか。それとも、今も自分の力で踏ん張んていないでしょうか。
ここが、信仰に生きる歩みになるかどうかの大きな分岐点なのです。
ですから、神は「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6:8)」とあなたに問いかけているのです。
今日のメッセージ 『救い主なる主』 2024年12月22日
牧師 高橋勝義 |
〔ルカによる福音書2章8~16節〕
この時期、テレビでは全世界でクリスマスを祝うニュースが流れます。クリスマスは神の愛する一人子キリストがこの世にお生まれになったお祝いの時ですが、キリストは神であられるのに、神としての偉大な力と栄光を捨てて、しもべの姿をとり、人間と同じ姿になられ、自らを低くして、犯罪人と同じようになって十字架上で死なれました(ピリピ2:6~8)。
人口調査の旅の途中の父ヨセフと母マリヤは、泊まる宿もなく、家畜小屋で「救い主」をお産みになり、そのみどりごを飼い葉おけに寝かせたのです。この喜ばしい知らせが最初に知らされたのは貧しい羊飼いたちでした。羊飼いたちは急いで町まで出かけて行き、布にくるまれ飼葉桶に寝ている幼子キリストを捜し当てたのです。すべて御使いが語った通りでした(ルカ2:16)。
神に従わない歩み(罪)を続けている人間には、死後、その罪のためのさばきを受けることが定まっています(ヘブル9:27)。私たちを造られた神(イエス・キリスト)が、しもべの姿をとり、人間と同じようになられたのは、私たちの死後に受ける罪のさばきを身代わりとなって負うためでした。私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つようにするためです(ヨハネ3:16)。キリストは、ご自身のいのちを十字架の上で、私たちの罪のための宥めのささげ物として献げられたのです。神からのプレゼントであるイエス・キリストを罪からの救い主と信じる時、私たちは罪赦され、永遠のいのちをいただくことができるのです。
あなたも神からのプレゼントを受け取って新しい人生に踏み出しましょう。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
今日のメッセージ 『耐え忍ばれた主』 2024年12月15日
牧師 高橋勝義 |
〔イザヤ書50章4~9節〕
イエス・キリストは、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません(ヨハネ15:13)」と語られたとおり、私たちのすべての罪の身代わりとなって十字架の上で死なれました。このことを、聖書は「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」と語っています。
また、メシヤ(救い主)について「打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった(イザヤ50:6)」と預言されているとおり、弟子のペテロもイエス様の歩みについて「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった(Ⅰペテロ2:23)」と証言しています。
罪を犯したこともなく、その口には欺きもなかったイエス様。また、イエス様は、通りすがりの人たちからも、「もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。(マタイ27:40)」と侮辱されました。このような辱めを耐え忍ばれてまで、なぜ、イエス様は十字架の上で私たちの罪をその身に負い、死んでくださったのでしょうか。
天の父の御思いは、私たちが一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つことです。さらに、私たちを罪から離れさせ、たましいの牧者であり監督者である方のもとに帰らせるためです。そのために、イエス様はご自分のいのちを私たちのために献げられたのです。
私たちの救いのために、ここまで耐え忍ばれた主の愛を仰ぎ見、神を信じ、信頼し、神が用意しておられる御国を目指し、忍耐をもって走り続けて行きましょう。
牧師 高橋勝義