今日のメッセージ 『みことばに根ざした歩み』 2025年3月23日

 牧師 高橋勝義

〔民数記10章1~10節〕

 約束の地に出発する準備の最後に、神はモーセに銀のラッパを二本作らせ、それを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりするように命じられました。ラッパが長く吹き鳴らされると、全会衆は会見の天幕の入り口の主のところに集まり、その一つが吹き鳴らされると、イスラエルの分団のかしらである族長たちが集まる。また、侵略者との戦い、神が定められた例祭と新月の日、全焼のささげ物と交わりのいけにえの上にラッパを吹き鳴らすとき、イスラエルは神がともにおられることを覚えたのでした。ラッパは、神のみこころを知り、神のご臨在の中にあることを覚えるとても重要な役割を担ったのです。

 では今を生きる私たちに、神はどのようにしてみこころを知らせてくださるのでしょうか。それは、「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます(詩篇119:130)」とあるように、私たちはみことばによって神のみこころを知るのです。ですから、聖書は神のみこころを知る人生の羅針盤であり、当時のラッパの役割をしているのです。

 ところが、イエス様を救い主と信じ、人生の主として心の王座に迎えたにもかかわらず、「彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。(ヘブル4:2)」と語られています。この世の思い煩いや、富の惑わしや欲望が入り込み、みことばに堅く立つことができなかったからです。

 これは、信仰者ならば誰もが経験する切実な問題です。イエス様は、神のみことばはすべて実現する(マタイ5:18)と語っています。ですから、神のみことばの約束に堅く立ち、聖霊の助けによって、様々な問題に勝利する歩みを目指しましょう。(⇒ヘブル11:6)

今日のメッセージ 『神の導きの中を歩む』 2025年3月16日

 牧師 高橋勝義

〔民数記9章15~23節〕

 いよいよ、イスラエルは、神がアブラハムに与えると約束された地に、いつでも、出発できる用意が整いました。そして、「いつでも雲が天幕から上るときには、その後でイスラエルの子らは旅立った。また、雲がとどまるその場所で、イスラエルの子らは宿営した。雲が長い間、幕屋の上にとどまるときには、イスラエルの子らは主への務めを守って、旅立たなかった。二日でも、一月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上にとどまって、去らなければ、イスラエルの子らは宿営を続けて旅立たなかった。しかし、雲が上ったときは旅立った。(民数記9:17,19,22)」とあるように、イスラエルはすべて神の命令に従って行動したのです。

 私たちは、今、ありとあらゆる情報を瞬時に手に入れることのできる社会の中で生き、また、いろいろなものを手に入れることができます。それゆえ、神の仰せに従って生きる歩みは、科学の進んでいない時代のことで、今の私たちには無関係だと思われがちです。

 しかし、本当にそうでしょうか。たくさんの情報は、逆に、私たちを混乱させます。ですから、聖書は「どのようにして若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。(詩篇119:9)」と語っています。また、私たちの人生は、いろいろな労苦とわざわいの連続ですから、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。(伝道者の書7:14)」とあるように、私たちはすべて神の御支配の中に生きているのです。

 生けるまことの神は、私たちにこのように語りかけています。「わたしに聞き従う者は、安全に住み、わざわいを恐れることなく、安らかである(箴言1:33)」

今日のメッセージ 『十字架を仰ぎ見よ』 2025年3月9日

 牧師 高橋勝義

〔民数記9章1~14節〕

 神は、エジプトからイスラエルを救い出すために、エジプトの地の長子は家畜もすべて打ち、門柱と鴨居に羊の血を塗ったイスラエルの家だけを過ぎ越されたのです。神は、これを過越の祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟とし(出エジプト12:14)、また「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ(出エジプト12:2」と命じられました。過越の祭りは、エジプトからの脱出を記念するとても重要な祭りなのです。

 エジプト脱出から2年の月日が流れるなか、神は一か月遅れとなる過越の祭りを行うように、イスラエルに告げられました。過越の祭りは、神の愛と恵み、そしてあわれみを覚え、自分たちがどのようにして救い出されたのか、常に立ち返るべき大事な原点なのです。同様にキリストを救い主と信じる私たちにも、大事な原点があります。それはパウロが語る「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと(Ⅰコリント15:3,4)」です。それは「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ4:10)」と語られている通りです。

 ところが、パウロが宣べ伝えた福音とは違う異なる福音が語られていたのです。それゆえ、ペテロは「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒4:12)」と宣言したのです。

 「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です(Ⅰコリント1:18)」

今日のメッセージ 『正直な祈り』 2025年3月2日

 牧師 高橋勝義

〔民数記8章5~26節〕

 神は主の会見の天幕奉仕のためにレビ人をとりわけ、彼らをきよめるようにモーセに命じ、祭司アロンは彼らを奉献物として主の前に献げ、彼らのための宥めを行い、きよめました。こうして、レビ人は主の会見の天幕奉仕の任務に就き、民はレビ人の上に手を置き、彼らに神に仕える働きを託したのです。神はレビ人以外のイスラエルの子らは聖所に近づいてはならないと命じましたが、それは民にわざわいが及ぶことのないようにするためでした。

 聖書は、イエス様を罪からの救い主と信じる私たちは祭司としての務めを担う者として召されている(Ⅰペテロ2:9)と語ります。祭司の役目とは、人々の罪の贖いをすることですから、神は私たちにイエス・キリストによる罪の赦しを人々に伝えてほしいと願っておられるのです。また、神に仕える祭司がきよさを求められたように、祭司とされた私たちにもきよくあることを求めておられます。パウロは「あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。(ローマ6:13)」と語ります。

 ですから、私たちは「だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか隠れた罪から私を解き放ってください。」(詩篇19:12)とあるように、日ごと神の前に出て正直に祈ることが大切なのです。そうすれば聖霊が罪を示し、悔い改めへと導き、私たちは主の十字架の血潮により、すべての罪からきよめられて(Ⅰヨハネ1:9)、祭司としての務めを果たせる者にさせていただけるのです。

 「神よ私にきよい心を造り揺るがない霊を私のうちに新しくしてください(詩篇51:10)」

今日のメッセージ 『闇の中に輝く光』 2025年2月23日

 牧師 高橋勝義

〔民数記8章1~4〕

 神は幕屋建設の中で、モーセに純金の燭台を作るように告げ(出エジプト25:31)、民に燭台のともしび皿に質の良い純粋なオリーブ油を持って来させるように命じ、祭司アロンとその子らは、会見の天幕の至聖所の外側で、夕方から朝まで主の前にそのともしびを整える。これがイスラエルの子らが代々守るべき永遠の掟である、とされたのです(出エジプト27:20,21)。

 祭司アロンが燭台にある七つのともしび皿に火をともすと、真っ暗な聖所の中は、それによって光り輝きました。その聖所の輝きは、「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた(ヨハネ1:9)」とあるように、神の時が満ちて、神のひとり子イエス・キリストが、この世に来てくださったことをさし示しています。イエス・キリストは、罪に支配され暗闇の中を歩んでいる私たちのすべての罪を身代わりに負ってくださり、十字架の上で死なれ、さらに三日後によみがえり、私たちを暗闇から光の歩みへと導いてくださるのです。

 この事実を受け取り、キリストを罪からの救い主と信じるとき、私たちは神の子ども(ヨハネ1:12)とされ、さらに、光の子どもとしての歩みへと導かれるのです。(エペソ5:8)イエス様が「あなたがたは世の光です(マタイ5:14)」と語られているとおりです。

 ですが、私たちはすぐ誘惑に負けてしまう者でもあります。どうすれば、光の子どもとしての歩みができるのでしょうか。私たちの弱さをすべてご存知の主が「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(ヨハネ8:12)」と語っておられるように、信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から、目を離さず(ヘブル12:2)、日々、神との交わりを続けることがその鍵なのです。

今日のメッセージ 『神を愛する心』 2025年2月16日

 牧師 高橋勝義

〔民数記7章1~89節〕

 神がモーセに幕屋建設を命じたとき、その建設に必要なものを、民は喜んで献げました。こうして幕屋建設は無事終わり、幕屋が設営され、さらに幕屋に関するすべての器具、祭壇およびそのすべての用具に、モーセは油を注ぎ、聖別しました。こうして、神がおられる幕屋を中心にしたイスラエルの歩みが始まったのです。各十二部族の長たちは、一日ごとに、まったく同じものを自ら進んで主の前に、ささげ物として持って来ました。

 使徒パウロは、エルサレム教会を助けようと、コリントの教会で献金を募ったとき「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(Ⅱコリント9:7)」と語りました。献金は、強制されるものではなく、主を愛する愛の現れからくるものだからです。

 イエス様は、多くの金持ちが気前よく大金を投げ入れているところへ、貧しいやもめがやって来て、レプタ銅貨二枚をそっと投げ入れたのを見て、弟子たちを呼び「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(マルコ12:41~44)と言われたのです。イエス様は、ささげた金額ではなく、神を愛する心を喜ばれたのです。

 それゆえ、イエス様が「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです(マタイ6:21)」と語られているように、自分の心の中を点検しなければならないのです。 「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい(エペソ5:10)」

今日のメッセージ 『神が与える祝福』 2025年2月9日

 牧師 高橋勝義

〔民数記6章22~27節〕

 年の始めに日本では多くの人々が神社や寺に行き、家内安全・商売繁盛・五穀豊穣などを願います。創造主なる生けるまことの神は、モーセに、祭司アロンとその子らにイスラエルの民を祝福させなさい、と告げられました。その祝福のことばは、『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』でした。このように祭司アロンとその子らが祈るなら、神は神の民を祝福すると約束されたのです。

 家内安全・商売繁盛・五穀豊穣などは世界中の人々が願う祈りですが、初詣の祈りと聖書に記されている真の神の祝福には、大きな相違があります。それは、人間が作った神々に求める祈りと、生けるまことの神が私たちに祝福を与えてくださるという違いです。

 人が祝福を願って初詣に出かけて行く神社やお寺に祀られている神は、人間の手で作られた神々です。神は、「それは、林から切り出された木、木工が、なたで作った物にすぎない。それは銀と金で飾られ~かかしのようで、ものも言えず、歩けないので、運んでやらなければならない。そんなものを恐れるな。害になることも益になることもしないからだ。」(エレミヤ10:3~5)と私たちに語ります。

 私たちを祝福してくださる生けるまことの神は、私たちを造られたお方であり、私たちとともに歩まれ、積極的に、私たちと関りを持ってくださるお方なのです。それゆえに、神は「主を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。(イザヤ55:6)」と私たちに語りかけています。神は、私たちを祝福しようとしてくださっているのです。

今日のメッセージ 『神の前に忠実に歩む』 2025年2月2日

 牧師 高橋勝義

〔民数記6章1~21節〕

 神は、親や自分の誓願によって一定期間、神に仕える特別な誓いをする場合についてのおしえを定められました。その誓願を立てる者は、ナジル人(ささげられた者・聖別された者)と呼ばれます。ナジル人はぶどう酒と濃い強い酒を断つこと(民6:3,4)、聖別の期間中髪の毛を切らないこと(民6:5)、死体に近づいてはならないこと(民6:6~8)が定められ、その誓った誓いのことばどおりにしなければなりません。

 預言者サムエルの母ハンナは、主に「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」と誓願を立てます(Ⅰサムエル1:11)。神は、この祈りを聞かれ、ハンナは男の子を産み、その名をサムエルと名づけました(Ⅰサムエル1:20)。このように、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる (ピリピ2:13)」お方なのです。

 旧約時代のナジル人の誓願は自分には遠い世界のことだと思われるかもしれません。しかし、イエス様の十字架の贖いによって神の民とされている私たちにも、神は、ご自身の働きを手伝ってほしいと願っておられます。ここで大切なことは、「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です(ルカ16:10)」とあるように、神は忠実さを求めておられるのです。

 「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。(イザヤ26:3)」

今日のメッセージ 『相手を尊ぶ』 2025年1月26日

 牧師 高橋勝義

〔民数記5章11~31節〕

 人を一度もねたむことなく生きてきた人は、おそらくいないのではないでしょうか。

 ねたみとは、自分より優れている人、恵まれている人をうらやみ、憎らしく思う感情です。神は、このねたみが夫婦関係、ひいては家族全体の関係を損なう原因となるため、ねたみに関する規定を設けられました。夫婦の問題は、イスラエル民族全体の秩序を乱し、混乱を引き起こすのです。この規定は一見すると、夫の側に有利に感じてしまいます。しかし、当時は男性中心の社会ですから、神はそれを踏まえ、ねたみから夫が一方的に妻に危害を加えることがないようにと設けられた規定なのです。つまり、妻を守るためのご配慮なのです。

 神は、初めから人間を男と女に造られました。それは、人間は一人では生きていけないことと、お互いの人格を尊重し合うことを学ばせるためです。そのうえで、聖書は、「キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。(エペソ5:21,22,25)」と教えているのです。しかし、私たちの愛は、どこまでも自己中心の愛です。では、どうすれば、お互いを尊重し合う愛を持つことができるのでしょうか。イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように(ヨハネ13:34)」と語られました。つまりイエス様は、私たちのありのままを愛されたのです。イエス様が私たちを愛してくださっているように、私たちも、聖霊の助けによるなら、ありのままのお互いを受け入れ、赦し合い、仕え合う者になれるのです。

 「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。(ピリピ2:3)」